第9話


 その日、家に着いたのは、夜の九時過ぎだった。


 そっと玄関の扉を開けると、物音に気付いたお母さんがリビングから駆けてくる。


「水波!」

「……ただいま」


 お母さんは私を見ると、一瞬泣きそうに顔を歪ませて口を開いた。けれどすぐ口を閉じ、なにかを飲み込むように黙り込む。

 そして、小さく「おかえり」と言った。


 その顔を見て、やっぱりお母さんは私に気を遣っているのだと実感する。


「……今、ご飯用意するからね」


 ぱたぱたとスリッパを鳴らしてキッチンのほうへ入っていくお母さんの背中を見つめ、唇を引き結ぶ。


 意を決して「お母さん」と口を開いた。


「なに?」とお母さんが振り返る。お母さんはすっかり穏やかな笑みを張り付けていた。それは、事故のあと見るようになった作った笑顔だった。


「……あの……」


 首が締められたように言葉が喉で絞られて、声が出なくなる。

 黙り込んで俯くと、お母さんが心配そうにそばへ寄ってくる。


「水波? どうしたの? 頭痛い?」

 首を振る。


「そうじゃなくて……」


 言葉に詰まり、俯いた。その瞬間、綺瀬くんの言葉が脳裏を掠める。


『俺たちはエスパーじゃないから、心の中までは見えないんだよ。たとえ家族でも』


 そうだ。心は見えない。だから、ちゃんと言葉にして伝えなくちゃ。


 顔を上げて、お母さんを見る。


「あの……あのね、お母さん。私、苦しいの。ずっとずっと、苦しい。事故のあと、お母さんもお父さんも私を本気で怒らなくなって、すごく、私に気を遣っているのが分かって……家にいるのに、ずっと他所の……だれかの家にいるみたいで、苦しいの」


「水波……」


 お母さんがハッとしたように私を見る。私は震える声で続ける。


「でも、泣くとお母さんとお父さんが心配するから、病院に連れていかなくちゃって言われるから、ずっと我慢してた。私は病院に連れて行ってほしいわけじゃないから……。……夜も、本当はぜんぜん眠れない。毎日あの事故の悪夢を見て、うなされて目が覚めるの」


 本当は、夜、ベッドに入って目を瞑るのがすごく怖い。

 目が覚めたら、だれもいなくなっちゃったんじゃないかって思うと、怖くてたまらない。

 ようやく寝付けたと思っても、すぐに悪夢でうなされて目が覚める。


 それの繰り返し。


「でも、そんなこと言ったらお母さんは余計に心配しちゃうから、ずっと言えなかった……本当は、ぜんぶ聞いてほしかった。大丈夫って言ってほしかった。なにも変わらなくてもいいから、ただ言いたかった……!」


 顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら、私はずっと喉の奥に詰まらせていた言葉を吐き出す。


「だけど、私のせいで悲しむふたりを見るのが辛くて……ずっと言えなかった。思ってないことばかり、言ってた。今まで、いやなことたくさん言ってごめんなさい。ずっと心配かけてごめんなさい。今までずっと謝れなくてごめんなさい。……あの日からずっと、じぶんでじぶんの心もよく分からなくなってて、それで……ずっと考えてた。こんなことなら私、生き残らないほうがよかったのかなって……」


 お母さんが私を抱き締めた。


「そんなわけないでしょう!」

 そう叫んだお母さんの声は潤んでいた。


「バカなこと言わないで! 生き残らないほうがよかったなんて……そんな悲しいこと言わないで。……ごめんなさい……私こそ、あなたを苦しめてるなんてぜんぜん思ってなくて……傷ついた水波を見てどうしたらいいのか、どうしたら元気になってくれるのか分からなくて……ごめんね。水波。お母さん、水波のこと追い詰めてたんだね。気付いてあげられなくて、ごめんね……」


 震えるお母さんの声と指先に、涙が溢れて止まらない。私はお母さんにぎゅっと抱きついた。


 綺瀬くんの言う通りだ。ただ心で思っているだけじゃ、なにも伝わらない。


「話してくれてありがとうね……」

「……うん」


 お母さんに抱き締められて、お母さんの心の内を聞いて、少しだけ心が軽くなった気がした。

 お母さんも、迷っていたんだ。恐ろしい事故に遭って、親友を亡くした娘にかける言葉を探して探して、でも分からなくて、悩んでいた。


「……お母さん、ありがとう。話、聞いてくれて」

 お母さんはぶんぶんと首を振って、私の両頬に手を添える。


「水波にはお母さんもお父さんもいるから大丈夫。絶対ひとりになんてしないから。だからね、水波……お願いだからもう、ひとりで抱え込もうとしないで。一緒に乗り越えていこう」


 力強く言うお母さんを、私は口をぎざぎざにして見上げ、こくこくと頷く。


「うん……っ!」

 お互いに気を遣い過ぎていたんだ。


 玄関で泣きじゃくる私を、お母さんはなにも言わずに抱き締めてくれていた。


 その日の夜は、久しぶりにお母さんとお父さんと三人で並んで眠った。


 それでもやっぱり悪夢は見てしまって、ほとんど眠れなかったけれど、私がうなされているとお母さんがすぐに起こしてくれて、そっと手を握ってくれた。


 私は浅い眠りを繰り返しながらも、以前より少しだけ、眠るのが怖くはなくなった。


 三人で並んで眠った翌日の朝、私は朝食を食べながら、キッチンに立つお母さんへ訊ねた。

「お母さん。聞きたいことがあるの」

「なに?」


 お母さんは忙しなくお弁当用の唐揚げを揚げながら、ちらりと私を見る。


「私って、どこかおかしいのかな?」

「……え?」


 お母さんは火を止めて、戸惑いがちに私を見る。それまで新聞を読んでいたお父さんも顔を上げ、私を見た。


「どうしたんだ、急に」

「……そのよく分からないけど、事故からしばらく経つのに、未だに病院に連れていかれるし……検査とかもあるし……私、もしかしたら後遺症とかがあって、どこか悪いのかなって」


 身体はなんともない。自覚症状なんてものもない。でも、自分では分からないこともある。自覚してないだけで、身体の中でなにかが起こっていてもおかしくはない。


「私、病気なの?」


 恐る恐る訊ねると、お母さんとお父さんは戸惑いがちに顔を見合わせた。意味深な目配せが、さらに私の心を乱した。


 どくどくと心臓の音が大きくなったように感じた。


「……隠すのは、水波のためじゃないんだよな」

「そうね……辛いかもしれないけど、水波のためにも黙っておくべきじゃないのよね」


 やっぱり、と思う。やっぱり私はなにかあるんだ。

 お母さんはエプロンで手を拭って、お父さんのとなりに座った。なんとなく姿勢を正してお母さんを見る。


「水波はね、身体はなんともないの。これは本当。でもね、ちょっと記憶に障害があるのよ」

「……え?」


 記憶?


「事故のとき、浸水したフェリーの中であなたは意識を失った状態で発見されてね。幸いにもかすかに空気が残った空間に取り残されていたから水はほとんど飲まずに救助された。……ただ、目が覚めたあと当時の記憶を訊ねたら、記憶が曖昧であることが分かったの。それで、要通院と判断されたのよ。心当たりあるかしら?」


 お母さんが優しく言う。私は少し考えて、首を横に振った。


「もちろん、当時のことを思い出してほしいなんて私もお父さんも思ってないわ。でも、もしなにかの拍子で当時の記憶を思い出してしまったとき、あなたがまた苦しむんじゃないかって怖くて……だから、今でも定期的に脳の検査と心療内科に行ってもらってるのよ」

「……そっ……か」


 記憶がない。

 ないものは、いくら考えたところでなにも分からない。私はなにを忘れているのだろう。覚えていない自覚すらないのに、お母さんもお父さんも、どうして私に記憶障害があると分かるのだろう。


 私が覚えているものはなに? あの夢はなに?

 ハッとした。


「それじゃあ、来未が死んじゃったのは……?」


 かすかな願いを込めて、訊ねる。お母さんが目を伏せた。


「……それは本当よ。残念だけど」

「……だよね」


 頷く。


 知ってる。今年、命日に来未のお墓に行ったし、墓石には来未の名前がちゃんと書かれていた。それに、来未のお母さんに投げつけられた言葉もちゃんと覚えている。


「……じゃあ私は、なにを忘れているの?」


 思い切って訊ねると、お母さんもお父さんも優しく微笑んだ。


「病院の先生はね、無理に思い出すのはダメって言ってたわ。心に負担がかかっちゃうから」

「そうだ、水波。それにな、こういうことは思い出そうとして思い出せるものじゃない。水波はいつもどおりにしていればいいんだよ」


 そんなこと言われても、気になるものは気になる。必死に思い出そうとしたら、ずきんと脳が痺れた。額を押さえる。


「水波! お願いだから無理しないで」


 ……私は、失くしたものを取り戻す術すら持たないのか。


「水波。なにか思うことがあったら、すぐに言ってね?」

 お母さんの言葉に、私は小さく頷いた。

「……分かった。教えてくれてありがとう」

「大丈夫か? 今日は学校まで送っていこうか?」


 お父さんの言葉に、私は「大丈夫」と首を横に振る。


「……あとね、水波」

 控えめに口を開いたお母さんを振り返る。

「なに?」

「最近、帰りが遅いようだけど、あなたどこに行ってるの?」


 お母さんは心配そうな顔をして私を見つめてくる。


「えっと……友達……のところだけど」

「友達って?」

「学校の子じゃないんだけど……夏祭りのときに知り合って、それからたまに放課後に会ってる」


 綺瀬くんのことを言いたくないわけではないけれど、男の子と会っていると言ったらいらぬ誤解をされそうだ。


「……そう」


 それ以上なにも言わない私に、お母さんは言った。

「友達と会うこと自体はなにも言わないけれど、最低でも夜の八時には帰ってきなさい。あなたはまだ高校生なんだからね」

 ずっと私に気を遣っていたお母さんが少し強い口調で言った。

「……分かった」

 私は素直に頷き、「八時までには帰るようにする」と返して家を出た。

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