第8話
「ねぇ水波。俺はね、君に今日そのぬいぐるみをくれた子の気持ちがすごくよく分かるんだ。その子はただ、君と仲良くなりたいんだ。君をもっと知りたいんだ。そのきっかけが、このウサギのぬいぐるみだったんだと思う」
綺瀬くんは私の膝の上にちょんと座るぬいぐるみを見て、優しく微笑んだ。
「思いっていうのは、共鳴するのかもしれないね。俺も、水波ともっと仲良くなりたい」
「綺瀬くん……」
まっすぐな思いに、胸がじんわりとあたたまっていく。
こんな感情は知らない。
……いや、知っている。
久しくなかったけれど、来未が話しかけてきたとき、私はたしかにこのあたたかさを知った。そして今日、彼女の笑みにも同じ感情を抱いた。
「水波は?」
綺瀬くんは優しい眼差しで、ゆっくりと瞬きをする。
「……私も、綺瀬くんともっと仲良くなりたい」
すると、綺瀬くんは嬉しそうに表情を綻ばせた。私も思いを受け止めてもらえて嬉しいはずなのに、うまく笑えない。泣き笑いのようになってしまう。
綺瀬くんはそんな私の頭をよしよしと撫でてくれる。おかげで私は少しづつ落ち着いていく。
「まったく、水波は泣き虫だな」
まるで、ずっと前から知っているみたいにそばにいるのが当たり前のような気がする。
「ふだんは我慢してるもん」
「俺の前だけ?」
涙を拭いながら頷く。すると、綺瀬くんは嬉しそうにはにかんだ。
「じゃあ、その子はどうかな?」
「え?」
「その子と向き合える気はする?」
黙り込んで考えて、首を横に振る。
「……分からない。学校の子は、みんな私があの事故の被害者だって知ってるから、どこか気を遣って遠ざけてる気がするし、そうすると私も身構えちゃう。不幸な子でいなきゃいけないんだって思っちゃう」
私は可哀想だから、人殺しだから、笑っちゃいけない。みんなのように楽しそうにしてはいけないのだとみんなの視線に言われている気がして、息が苦しくなる。
「本当にそうなのかな?」
「え?」
「たしかに、中には水波に話しかけづらいなって思ってる人もいるかもしれない。けど、みんながみんなそうじゃないんじゃないかな」
「そんなことない! だって、お母さんですら私を見ようとしてくれない」
言ってから、私はハッと口を噤む。
「……ごめん」
綺瀬くんは優しく微笑んで、私を促した。
「いいよ。我慢しないで、言ってみて」
「…………っ」
綺瀬くんの優し過ぎる声が、トリガーだった。
心の器にこびりついたようにたまっていたものが、ぽろぽろととめどなく零れ出す。
「……事故のあとから、家族すら私に遠慮するようになった」
「うん」
「お母さん、今までみたいな小言を一切言わなくなったんだ。まるで親戚の子を相手するみたいに遠慮するようになった」
泣くとすぐに病院に行こうと言われるようになった。うなされていると、病人扱いされるようになった。
「事故の後、私はきっともうあの人の子供じゃなくなったんだよ。娘と同じ顔をしただけの事故の被害者っていう赤の他人になったんだ」
だから、どこかよそよそしい。
私は、お母さんが私の見えないところで、大きなため息をついていることを知っている。泣いていることを知っている。
きっと私は、死んでいたほうがお母さんもお父さんも楽だった。
仏壇の前で嘆くだけなら、きっと今より心の負担はなかっただろう。
言い終わって黙り込んだ私を、綺瀬くんが優しく抱き締めた。
「……バカだなぁ。そんなこと思うわけないって、分かってるくせに」
「でも……っ」
綺瀬くんは優しく私の背中を撫でながら、
「前に言ったでしょ。俺たちはエスパーじゃないから、心の中までは見えないんだよ。たとえ家族でも」
綺瀬くんは少し身体を離し、私と視線を合わせて「大丈夫」と優しく微笑んだ。
「ふたりはきっと、どうしたら水波が笑ってくれるかを考えてるんだ。ただただずっと、可愛い水波のことを考えてるんだよ」
「……そんなことない。お母さんもお父さんも、きっともう私を面倒としか思ってない」
あれから私は、ずっと嫌な子供のまま。この前だって、酷い言葉を言ってしまった。
「そんなの、思春期の子供を持つ親ならちゃんと分かってるよ」
綺瀬くんは私をまっすぐに見つめて微笑んだ。
「あのね、水波。親だって、人間なんだ。分からないことだってあるよ。娘のことをいくら思ってても、空回りして間違えることだってあるんだ」
俺の親もそうだった、と綺瀬くんは言う。
「綺瀬くんの?」
「俺のお母さんもふだんは優しい人なんだけどね……」
そう言って、綺瀬くんは目を伏せた。目を開け、私を見る。
「親は、子供のためならなんだってするんだ。……時には、間違ったことだって」
綺瀬くんがするりと私の手をとった。そのぬくもりにハッとする。
「俺たちは大切な人を失って、恐ろしい孤独を味わってる。命の儚さを人よりずっとよく分かっているだろ?」
綺瀬くんに優しく問われ、頷く。すると、綺瀬くんがにこりと微笑む。
「たらればを考えたってなんにもならない。そんな暇があるなら、今生きてる人たちと向き合うんだ。言葉は、生きているうちしか伝えられないんだから」
あの日、もしあのフェリーに乗っていなければ。
あの日、もし旅行になんて行っていなければ。
……喧嘩なんてしていなかったら。
あの日からずっと、もしものことばかり想像した。祈った。
でも、どれだけ悔やんでも、過去が変わることはない。死んだ人は戻ってこない。今さら来未の気持ちを聞くことはできないのだ。
……だけど、今は変えられる。
「俺たちは、未来に後悔を持ち込まないようにできるだけじぶんで努力するしかないんだ」
涙ぐみながら、綺瀬くんを見上げる。唇から、声とも言えない吐息が漏れる。
「大丈夫。水波はひとりぼっちなんかじゃないよ」
綺瀬くんが優しい言葉をくれるたび、私の心は灯火が灯るようにあたたかくなっていく。
「……お母さんと、話してみる。それから、志田さんとも」
すると、綺瀬くんはなにやら考え込む仕草をした。
「……あ、でもね、ひとつだけ忠告」
「ん?」
「友達については、最大限努力してダメだったなら、仲良くしなくていいと思う」
「えっ?」
なんだそれ、と綺瀬くんを見る。せっかく頑張る気になったのに。
「世の中にはたくさん人がいる。その中で、合わない人がいるのは当然だよ。一回親しくなったからって、ずっと友達でいなきゃいけないわけじゃない。無理に自分を殺して合わせる必要なんてないんだ。合わない人たちとは、無理に付き合わなくていい。いつかきっと、相手の全部を好きになれなくても、どこか一部でも好きになれるところがあって、喧嘩してもまた会いたいって思える運命の子に出会えるから。だからさ、それまで、どうか諦めないで。……大丈夫。俺はいつだって、水波の味方だよ」
「……うん」
どうして、この人はこんなにも私が欲しい言葉をくれるのだろう。
まるで、会ったばかりのはずなのに、ずっと前から知っているみたいだ。
綺瀬くんの言う運命の子というのが、今目の前にいる彼自身だったらいいのに、と思う。
だって、綺瀬くんがとなりにいてくれるだけで、私はこんなにも心が安らぐ。飾らないじぶんでいられる。
私は綺瀬くんのとなりで、安心して目を閉じた。
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