第7話


 その日の放課後、私は綺瀬くんに会いに行った。

 帰り道に駅前に新しくできたドーナツ屋さんで買ってきたドーナツを食べながら、私は学校でのできごとを綺瀬くんに話した。


 今朝、突然とあるクラスメイトに話しかけられたこと。それからその子にぬいぐるみをもらったこと。あまりに突然のことで、彼女の意図が分からない、といった相談だった。


 ドーナツをもぐもぐしながら話を聞いていた綺瀬くんは、ごくんと喉を鳴らしてドーナツを飲み込むと、小さく笑った。


「それはもちろん、水波と仲良くしたいからじゃない?」

「でも私、同じクラスっていっても志田さんとぜんぜん話したことないし、友達になりたいなんて思ってもらえるようななにかをした記憶もないよ」

「そんなこと関係ないよ。その子はただ、この子可愛いな、友達になりたいなって思っただけじゃない?」

「か、可愛い?」

「え、うん。可愛いよ、水波は」


 ぼぼっと顔が熱くなるのを感じた。綺瀬くんはときどき、唐突にそういう言葉を吐くので反応に困る。


「そ、そんなことないから……」


 ない。まず有り得ない。学校での私はぜんぜん愛想なんてよくないし、話しかけるなオーラ全開だし。


 ……でも。


「友達……か」

 ちらりと綺瀬くんを見る。


 もし、友達を作るのなら、まずは綺瀬くんとそういう関係になりたいと思う。というか、今の私たちの関係ってなんなのだろう。


 友達じゃないし、恋人でもない。ということは、お互いの傷を癒すためのただの手繋ぎ要員、といったところだろうか。


 私たちはお互い孤独で、それぞれ胸にぽっかりと空いた穴を埋めるためだけに一緒にいる。


「ん?」


 私の視線に気付いた綺瀬くんがこちらを見る。カチッと目が合って、私は思わずばっと顔ごと逸らした。


「……どうしたの?」

「……ううん。なんでもない」


 訝しげに訊ねてくる綺瀬くんに笑みを返すと、綺瀬くんはなぜだかムッとした顔をした。


「まったく。水波はいつもそうやって言葉を飲み込む。それ、あんまりよくないよ。飲み込んだ言葉は消えない。埃みたいにどんどん積もっていく」


 そしていつか、じぶんで溜め込んだ言葉に窒息するんだ、と綺瀬くんは言った。


「俺には我慢しなくていいんだよ」


 ……我慢。


 私はなにを我慢しているのだろう。それすら今はよく分からないけれど……。


 でも、疑問はある。


「……綺瀬くんは、どうして私のそばにいてくれるの?」


 見ず知らずの私に、なんの関係もない私に、どうしてここまでしてくれるの? ただ優しいだけ? ううん、そんなはずはない。きっと、なにかあるのだ。


 たとえばそう……私が、綺瀬くんの大切だった人に似ているとか。


 少し早口で訊ねると、綺瀬くんは茜色の空を見上げた。

「なんで、かぁ。うーん…… なんていうか、放っておけないから? 放っておきたくないっていうか、気になるっていうか」

「気になる?」

「簡単に言うと、よく思われたいから?」


 綺瀬くんは燃え盛る夕焼けから視線を流し、私を見た。赤い陽が、その横顔を神聖な彫刻のように浮かび上がらせている。


「それって……私のこと、好きってこと?」

「直球だな」と綺瀬くんは苦笑する。

「でもまぁ、そういうこと……かな?」


 珍しく私から視線を逸らす綺瀬くんをまじまじと見つめる。さっきより、顔が赤い気がするのは気のせいだろうか。


「……もしかして綺瀬くん、照れてる?」

「ちょっと黙んなさいって」

「わっ」


 頭を掴まれ、ぐりんと無理やり回されてしまった。少し雑な触れ方のあと、すぐに優しく頭に手が置かれて、顔が熱くなる。


「だって、そうじゃなきゃふつう手なんて握らないでしょ。ましてや一緒に眠るなんて絶対しないから」

「……でも初対面だったし、しかも私死のうとしてたんだよ?」


 そもそも綺瀬くんには好きな人がいるはずだ。ずっと忘れられなくて、心にぽっかりと穴が空いてしまうくらい愛している人が。


 いつの間にか、綺瀬くんは私を見つめていた。澄んだ瞳と目が合う。


「……面影が、重なったから」


 綺瀬くんの大切な人と、ということだろうか。


「今の俺は、どうやったって彼女に手は届かない。いや、手を伸ばしちゃいけないんだ」

「……じゃあ、私はその人の代わりってこと?」


 聞いてから後悔した。そうだよ、と言われたらどうしよう。答えを聞きたくなくて、思わず俯いた。


「違うよ。君は君だ。だれの代わりでもない」


 しんとした声で、綺瀬くんが否定した。顔を上げ、綺瀬くんを見る。


「……いつも思うんだ。思い出だけで、生きていければいいのになって」


 少しだけ、綺瀬くんの声が潤んでいるような気がした。


「いや、生きていけるって思ってた。ずっと、あの子との思い出があれば、もうなにもいらないと思ってた。でも、いつの間にか、君との思い出をほしがってるじぶんがいる。勝手だよな、心って」

「綺瀬くん……」

「どうしようもなく、君に会いたくなる夜がある。寂しくて、怖くて泣き叫びたい夜でも、君の声を聞くと心が凪ぐ。すごく、ホッとするんだ」


 ひどく切ない声に、ぎゅっと胸が締め付けられた。

 綺瀬くんが自嘲気味に笑う。


 その気持ちは、私にも分かる。


 だって、私だって今日までは友達なんていらないと思っていた。

 それなのに、ただの一度クラスメイトに話しかけられただけで、来未との学生生活を思い出してしまった。どうしようもなく懐かしくて、またあの頃のような毎日を、と焦がれてしまった。


「……私もそうだよ。私も、綺瀬くんと同じ」


 私たちはきっと、死んだ人を思い続けて、それだけで生きていけるほど強くない。弱くて脆くて、不完全な人間だから、どうしたって目先のぬくもりに手を伸ばしてしまう。


 綺瀬くんの気持ちは、痛いほどよく分かる。


「……私も、綺瀬くんを来未の代わりだなんて思ってない。でも、そばにいたい」


 きっと、そういうことだ。


 呟くように言って綺瀬くんを見ると、綺瀬くんは一瞬驚いたように私を見て、あの日私が越えた転落防止用の柵へ視線を流した。


「……あの日、あの柵の向こう側に立つ水波を見たとき、怖くて怖くてたまらなかった。どうにかして繋ぎ止めたいって思ったんだ」


 綺瀬くんは顔を上に向けて空を見上げた。

 その面差しは、大切な人を思っているときのそれだった。助けられなかったその人を思い出しているのかもしれない。

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