友達とトラウマ
第10話
その日、私は志田さんからもらったウサギのぬいぐるみをカバンに付けて登校した。
教室に入ると、先に登校して席にいた志田さんと、ぱたりと目が合う。
「あっ」
志田さんの目が、私からカバンに付いているぬいぐるみに流れた。
「榛名さん! それ、付けてくれたの!?」
志田さんは目を輝かせて私に駆け寄ってくる。
「……うん。可愛かったから」
ちょっとキモいけど、と心の中で付け足して。
「嬉しい!」
きゃらきゃらと風鈴が鳴ったような声で志田さんは笑う。
風が吹いたかと錯覚するような、涼やかさだ。彼女の声は澄んでいて、優しく空気を震わせる。
「……あの、志田さん」
「うん、なになに?」
くっきりとした大きな瞳が私を映し出している。
「えっと……」
目が合って、慣れない私は頭が真っ白になった。
こんなふうに、まっすぐ見つめられるのはいつぶりだろう。事故のあと、みんな私から目を逸らすようになったのに。
まっすぐに澄んだ瞳。でも、この瞳……。私はこの瞳を、最近どこかで……。
ふと、脳裏に夕焼けと男の子の優しい笑顔が浮かんだ。
そうだ。綺瀬くんだ。綺瀬くんも、まっすぐに私を見つめてきてくれた。
今度こそ、私も……。
「……あの、……水波でいいよ、呼び方」
志田さんは大きな瞳をさらに大きくして、瞬きをした。次の瞬間、ばっと私の手を取ると、私のほうへ身を乗り出して言う。
「水波っ!」
「わっ、な、なに?」
「嬉しい、水波! 私のことも朝香って呼んで!」
「……あ、う、うん」
勢いに押されながら頷いた。
にこにことして私を見る朝香を横目に、私は自分の机にカバンを置いて、椅子に座る。すると朝香は当たり前のように前の席に座って、私のほうを向き、きゃらきゃらと弾けた声で、話しかけてくる。
「私、ずっと水波と話してみたかったんだよね! 水波ってなんか不思議な雰囲気してたからさ!」
「そ、そう?」
「そうだよ! なんていうか、妖精みたいっていうか……。あ、変な意味じゃなくてね。そうだ、今日の放課後、駅前のドーナツ食べていかない? 私、あそこのドーナツまだ食べたことなくてー。それから駅ナカのアイスクリーム屋さんにも行ってみたい! 今度新しく開店するんだって!」
その日から、私の日常には朝香がいる。
しばらく彼女と一緒に過ごして、思った。朝香はおしゃべりだ。けれど、決してだれかの悪口を言うようなことはない。
いつも明るい話――たとえば好きなアイドルの話だとか、今ハマってるアニメやコスメの話だとか、あそこのアイスが美味しいとか、何組のだれがイケメンだとか――をした。
私はほとんど黙って朝香の話を聞いているだけだったけれど、それでも朝香は楽しそうにいろんな話題を振ってくれた。
私は、その笑顔にとても救われた。
ずっと、息をひそめるようにしていた学校生活。
つまらなかった毎日が、朝香の「おはよう」というセリフひとつでまるっと変わった。
寂しくて死にそうだったのに、彼女の声を聴いていると、まるで世界の中心に立ったような気分になる。
「ねぇ、朝香」
「なに? 水波」
名前を呼ぶだけで、心の垢が剥がれていくようだった。
まるで、来未と出会ったあの日のようだと思った。
***
九月の半ば。
遠く、空のずっと向こうにあったと思っていた雲は、落ちてくるんじゃないかと思うほどに低く、近くに浮かんでいる。
窓から入ってくる風はからりとして、ついこの間まで空気の中に混じっていた水気はいつの間にやらどこかにいってしまったようだ。
「えーそれでは、今年の二年四組の文化祭は巫女カフェをやるということで決定しました」
一限目のロングホームルーム。
今日の議題は、今月末にやる文化祭について。文化祭実行委員が主体となって、出し物を決めている最中だ。
クラス全員で大いに盛り上がっているが、私にはあまり関係のない話である。南高の文化祭は、基本自由参加だから、私は昨年同様今年も出るつもりはない。
「異議はありますか?」
「さんせーい」
「えー待て待て。女子はいいけどさぁ、俺たちなにやるんだよ」
「巫女だよ」
「女装すんの!?」
「ほかになにやんのよ。お決まりでしょー」
「えー俺やだよ」
「はーい、静かに。異論は手を挙げてからお願いしまーす」
ガヤガヤと浮き足立つ教室の隅で、私は窓の向こうの空を見上げ、息をついた。
秋の背中が見え始めている。
夕立が傘を鳴らす日が一日、また一日と減り、夏の暑さが弱まってくると学校はすぐに節電をうたい、冷房を切る。そうなると学生たちは窓を開けて暑さに対抗するわけだが、それが私は苦手だった。
暑いのが、ではなく、窓から吹き込む少しひんやりした秋風が苦手なのである。
午前中の授業が終わって昼休みになり、私と朝香はいつものように教室の机を向かい合わせて、お弁当を広げた。
私はお母さんが作ってくれたお弁当。朝香は購買のパンだ。焼きそばパンと、プリンあんまん。これが彼女の毎日のお昼ご飯。
ちなみに前者はいいとして、プリンあんまんはなかなか攻めたパンである。
朝香があまりに美味しそうに食べるものだから、じっと見ていたら、この前ひとくち食べる? と聞かれた。
食べたらまぁ、想像通りの味だった。不味くはないけど……うん。もういらないかも。
朝香いわく、革命的な味でしょ! やみつきになるでしょ! ……とのことだ。
私はやみつきになる前に断念した。
「プリンあんまん、食べる?」
今日も今日とて熱心にプリンあんまんを推してくる朝香をやんわり断りながら、私もじぶんのご飯を食べ始めた。
しばらく昨日のドラマの話で盛り上がったあと、ふと朝香が思い出したように言った。
「夏もそろそろ終わりだねぇ。やっと涼しくなるよ」
朝香の視線につられるように、私も窓のほうへ視線を向ける。
窓の向こうには、燦々とした太陽がある。あらためて、夏が終わり秋が近付いていると実感する。
少しひんやりとした風が、頬を撫でる。秋色が滲む風に、知らずと冷や汗が出た。
二年前、私はあの事故のあとしばらく沖縄の病院に入院していた。
フェリーから助け出された私は、額を数針縫う怪我をしたけれど、それ以外に目立った外傷はなかった。しかし、念の為ということで、脳波とか心臓とか、とにかくいろいろと検査を受けた。
警察や病院の先生にも、事故のことをいろいろと聞かれた。あの頃の私はまだ、事故について思い出すのは辛くて、その人たちのことがあまり好きではなかった。
病室を出ると事故について調べている記者や、私が事故の被害者であることを知っている人たちの視線をいつも感じて、トイレに行くことすら怖くなった。
『あの子が助かった子?』
『運のいい子ね』
『あのフェリー、今も引きあげられてないんでしょ?』
『あんな事故で助かるなんて、奇跡だわ』
あちこちで、いろいろな声が囁かれた。
テレビは見れなかった。というより、お母さんとお父さんが見させてくれなかったのだ。
たぶん、事故に関してのニュースがいたるところで報道されていて、お母さんもお父さんも、私の心を心配してくれていたのだと思う。
そのときはまだ、私は私以外の人が助からなかったということを知らなかったから。
『水波ちゃん……水波ちゃんっ』
あるとき、知らないおばさんが私に会いに来た。
そのおばさんは、私を見るなりぎゅっと抱きついてきた。最初は優しかったその腕は、次第に強くなって、ぎりぎりと私を締め上げ始めた。
その人は、泣きながら私を強く強く抱き締めて、耳元で囁いた。
『どうして? どうしてあなたは生きているの? どうしてあの子はいないの? ねぇ、一緒にいたはずよね? あの子はどこ? ねぇ、答えなさいよ。ねぇ!』
腕が千切れるかと思うほど、強い力だった。剥き出しの歯が、血走った目が、恐ろしかった。
『落ち着いてください、この子はなにも悪くない。まだ話をできるような状態じゃないんですよ』
『お気持ちは分かりますが、お引き取りください』
『待って! まだ話は終わってないのよ! 離して! 離しなさい!』
その人は医師や看護師の言うことも聞かず、ただまっすぐに私を睨みつけて、呪詛のように『あの子を返せ』と呟いていた。
あれは、だれだったんだろう。
分からない。いくら考えても、思いだせない。
けれど、ひとつだけ分かっていることがある。
彼女は、私をすごく恨んでいた。生き残った私を、憎んでいた。
医師たちが慌てて私から引き剥がそうとすると、女性は泣き叫びながら暴れた。まるで、子供のように。
『放して! 放しなさい! この子があの子を殺したのよ! この子が私の子を奪ったの! この鬼! 悪魔!』
『お願いやめて!』
『この子はまだ目覚めたばかりなんですよ! お願いします! これ以上この子を怖がらせないでっ!』
お母さんとお父さんが、慌てて私を庇うように抱き締める。私は怖くて声も出せなかった。全身が震えて、息を忘れた。
あのときの彼女は化粧もしていない顔をぐしゃぐしゃにして、泣き叫んでいた。その姿がとても痛々しくて、当時の私は、それがすごくショックだった。
なにかが割れる音。叫び声。すすり泣く声。
秋風は、あの日の曖昧な記憶を乗せてやってくる。
事故のあと、たった一度だけ会ったあの人は……。
あの人は、だれ?
窓の外を眺めながら呆然と考えていると、
「水波? ぼーっとして、大丈夫?」
「え? あ……」
心配そうな顔をした朝香と目が合って、ハッとする。
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