第2話


 風が動いた。

 心が揺れないように、必死に感情を凍らせて、風が消えるのをじっと待つ。

 と、頭の上にぬくもりを感じた。目を開くと、なぜだか男の子の手が、私に向かって伸びていた。


 頭にはあたたかくて、優しい感触。

 これは、なに……?


 目を瞬かせて男の子を見る。

 男の子は私の頭に手を置いたまま、視線を合わせてきた。


「……助けるよ。目の前で死のうとしてたら、何回だって助ける」

 目の奥や胸の辺りが燃えるように熱くなった。

「……どうして?」

 震える声で訊ねると、男の子は柔らかく微笑んだ。

「だって、手が届くから」


 男の子はどこか遠くを見つめ、しんみりとした声で言った。


「俺さ、大好きな人がいるんだ。すごく優しくて、素直で、可愛い子でさ……」


 その顔はどこか、私が来未を想うときに似ているような気がした。

 男の子は寂しげに笑い、私を見る。


「だけど、その人とはもう、一緒にはいられなくなっちゃったんだ」

「え……?」

 不意のやるせなさげなその顔に、どきりとする。

「どうして……?」

 訊ねても、男の子は私の問いには答えなかった。


「俺が君を助けた理由はね、君が俺の手が届くところにいたからだよ、――水波みなみ

 目を瞠る。

「……なんで私の名前……」


 きぃん、と頭の奥でなにかが響く。

 脳の中心に、瞬間的に長い光の針を差し込まれたような、鋭い痛みだ。

 突然目眩がして、私は咄嗟に頭を押さえた。


「大丈夫?」

「……うん、大丈夫」


 額を押さえたまま顔を上げ、男の子を見る。目が合うと、男の子はやはり私を見て優しく微笑んだ。


 あどけないその笑顔に、心臓が大きく弾んだ。


「……とにかく、水波が生きててよかったよ」

「……あなた、何者? なんで私の名前を知ってるの?」

 男の子はにこりと笑うと、私の手を取った。


「こっちきて!」


 ぐっと手を引かれた勢いで立ち上がり、柵のすぐそばにあったベンチに座らせられる。

 そして男の子は仮面を被り直すと、「ここでちょっと待ってて」と言って去っていく。


「え? えっ、ちょっ……!」

 取り残された私は、困惑してその背中を見つめた。


 男の子は振り返りながら、「ちゃんと待ってろよ! どこにも行くなよ!」と何度も言って、軽やかに石段を降りていった。


「……なんなの」


 ひとり取り残された私はベンチに座ったまま、ぼんやりと夕暮れの街並みを眺めた。


 赤紫色に滲んだ空には、まるで絵に描いたような入道雲。家屋もビルも学校も、街全体が燃えるような赤に染まっている。


 あまりの眩しさに目を細める。


 蝉の声がジリジリと暑さを誇張こちょうする。髪が頬に張り付いて煩わしい。


 ……暑い。肌が焼かれるようだ。

 カラスの鳴き声や人々の生活音がする。ついさっきまで、まるで耳に入ってこなかった雑音たちが、今さらになって迫ってくるようだった。


 急に現実に引き戻されたような心地になる。


 ……まったく、なんだったのだろう。


 まるで台風のような男の子だった。

 初対面なのに、土足で私の心に踏み込んできて。あっという間に私を死の淵から連れ戻してしまった。

 一瞬のできごとだったように思う。

 柵を越えたことも、腕を掴まれたことも、あの、男の子のぬくもりも……。


 蝉の声が聞こえてくる。


 もしかして、暑さが見せた白昼夢だったのではと思い始めた頃、例の男の子が戻ってきた。


 男の子は手に、りんご飴とかき氷を持っていた。かき氷の山のてっぺんには可愛らしいピンク色が乗っている。イチゴ味だろう。

「はい!」

 男の子は私に両方差し出してくる。


「……え? 私に?」

 私は目を瞬かせた。


 戸惑いがちに、男の子と食べ物を交互に見る私を見て、

「ほかにだれがいるの?」

 と、男の子は笑う。


「……いらない。私、今お金持ってないし」

 なにせ死ぬ気だったから食欲だってない。


「いらないよ、そんなの。ほら、食べな」

 と、ぐいっと手を突き出してくる男の子。


 目の前に差し出されたふたつを見て、迷いながらも「ありがとう」と言ってりんご飴を受け取った。

 男の子は私のとなりに座って、私が受け取らなかったほうのかき氷を、プラスチックのスプーンでしゃくしゃくと突き刺して食べ始めた。


 そんな彼の様子を見て、なんというか、やっぱり不思議な人だな、と思った。


 りんご飴の舌に絡む独特の甘さに、こんなに甘かったっけと思う。


 表面に歯を立てると、飴がパキッと割れた。砕けた飴をかじりながら、そういえば、幼い頃はりんご飴をかじった瞬間が好きだったな、なんてしょうもないことを思い出した。


 りんご飴の味自体は特に好きでもなんでもなかったのだけれど、透き通った硝子にひびが入っていくような感じがなんとなく好きだったのだ。


 ……なんて、一度死を覚悟したからだろうか。

 とりわけ好きでもなかったはずのりんご飴なのに、「おいしい」と思うだなんて。


 なにかをおいしいと思うのは、どれくらいぶりだろう。そういえば、事故後、味を感じたことがあっただろうか。たぶん、ない。そんな余裕はなかった。


 甘くてぬるくて、重い味が舌に絡まる。しばらく無心で舐め続けた。


「……ねぇ、なんで死のうとしてたのか、聞いてもいい?」

 りんご飴を食べ終わって、ぼんやり街の景色を眺めていると、不意に静かな声で、男の子が訊ねてきた。


 言いたくないわけじゃないけれど、すんなり答えるのもどうかと思い、私は咄嗟に「名前、教えてくれたらね」と返す。


 すると、

「俺は綺瀬あやせ

 男の子が名乗った。


「アヤセ? それって苗字? 名前?」

「名前。苗字は紫咲しざき。紫咲綺瀬だよ」

「ふぅん……」

 珍しい、きれいな名前だと思った。


 男の子改め、綺瀬くんが、私を「君は?」という視線で見つめる。


「……私は榛名はるな水波。ねぇ、紫咲くんはなんで私の名前知ってたの?」

「えー、そこは綺瀬って呼んでよ。だから苗字言わなかったのに」


 ……ため息を漏らす。

 と同時に、この人案外めんどくさい性格だな、と思った。


「……ハイハイ、じゃあ綺瀬くん。綺瀬くんは、なんで私の名前を知ってたんですか」

「図書館で何度か見かけたことがあったんだ。君のこと。それで、君と同じ南高みなみこうの人がキミの噂話をしてて、名前を知ったの。南高の水波ちゃんって覚えやすくない?」

「え……綺瀬くんってもしかして」


 思わずげんなりして綺瀬くんを見る。


「いや、冗談だよ!? 冗談だからね!?」

「ここ、地元の人でもなかなか知らない穴場だよね。私も初めて来たし。そんな場所で偶然会うとかふつうじゃ……」

「いや、待って待って! 俺、べつに君のストーカーとかそういうわけじゃないから! 断じて!」


 冗談のつもりでまだ怪しむ視線を送ると、綺瀬くんはさらに慌てた様子で否定した。


「だから違うって! たまたま名前が耳に入ったから覚えてただけで……。それでなくたって君、いつもひとりで図書室にいるんだもん。目立つ容姿してるし、だれだって気になるでしょ!」


 綺瀬くんはわざとらしく『ひとり』の部分を強調した。

「…………」

 ムッとする。


「悪かったですね、変わり者で。いつもひとりで」

「……あ、もしかして怒った? ごめんごめん。ほら、このかき氷あげるから機嫌直してよ。ね?」

「もう溶けてるじゃん!」

「ジュースだと思って!」


 ため息をつく。

「……いらない。それから、べつに怒ってないし」

「怒ってるじゃん。ほら、もう。可愛い顔が台無しだよ? スマイルスマイル!」

 さらりとドン引くようなことを言う綺瀬くんに、げんなりする。


「水波は笑ってたほうが可愛いよ」

 綺瀬くんは膝に頬杖をつき、私を見上げている。

 目が合う。逸らしたら負けな気がするけれど、無理。逸らした。


 ……ふつう、初対面の異性にこういうこと言う?

 もしやこの人、タラシなのだろうか。……うん、きっとそうに違いない。となると、私としてはあんまり関わりたくないタイプかもしれない。


 黙り込んでいると、綺瀬くんは私が照れていると思ったのか、

「え、これも冗談だよ?」

 と、ケロリとした声で言った。

「はぁ!? 冗談!?」

「うん ……あれ? なんか水波、顔赤い?」

 自分でも顔が熱くなるのが分かった。

 伸びてきた綺瀬くんの手を振り払う。

「最低! 信じらんない! ふつうこういうこと冗談で言わないから!!」

「ごめんよ、そんな本気にすると思わなくて」

「ほ、本気になんてしてないってば!」

「ははっ! そっかそっか」

「もう帰る!」

 勢いよく立ち上がると、綺瀬くんが慌てて私の手をとった。


「ごめん、謝るから行かないでよ」

「…………じゃあ、離して」

 パッと綺瀬くんの手が離れる。

 服の皺を伸ばしてから座り直すと、綺瀬くんはホッとしたように表情をゆるめた。


 再び沈黙が落ちた。

 葉と葉が擦れる音が耳を支配する。


「……どうしてこんなことしたの?」


 もう一度、綺瀬くんが訊いた。

 心臓が、どくんと跳ねる。


「どうしてって……」

 それは。

 言葉に詰まり、ぎゅっと拳を握る。

「……言ったでしょ。私は人殺しだって」

「うん。だからそれ、どういうこと? 当たり前だけどさ、直接殺したとかそういうんじゃないんだろ?」

「…………」


 目を逸らし、不機嫌さを隠さずに告げる。


「……綺瀬くんは、なんでそんなこと知りたいの? べつに私のことなんて関係ない。どうだっていいじゃない」

「まぁ、たしかにさっきまではそうだったかもしれないけど。でも、今は君の恩人なんだから、聞く権利があると思わない?」

 にこやかに言われてしまった。


「……ちっ」

 ……めんどくさい人だ、やっぱり。

「……君って、舌打ちするのクセなの? それやめたほうがいいよ。キレイな顔で舌打ちって結構効くから」


 いや、ふだんはしないし。綺瀬くん限定だし。


「……まぁいいや。とにかくね、俺が君にかまうのは、君のことが気になるからだよ。とはいってももちろん興味本位じゃない。ただ理由が分かれば、君をちゃんと助けられるかもしれないから。だから聞きたい」


「助ける……? どうして?」


 私には、助けられる資格なんてない。

 私には、助けを求める権利なんてない。


 それだけじゃない。

 だって私たちは、ついさっき会ったばかりなのだ。

 それなのに、綺瀬くんがここまでしてくれる理由はいったい……。


「……理由なんてないよ。あるとすれば、君ともっと仲良くなりたいから、今ここに繋ぎ止めておきたい。それだけだよ」


 綺瀬くんの言葉は、乾き切った私の胸に深く染み込んでいった。


「だからお願い。話して」

 あまりにもまっすぐな眼差しが、私を射抜いた。

「私は……」


 小さく息を吸ってから、口を開いた。

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