第3話
「……一昨年の沖縄の
「……フェリーが岩場に座礁して、沈没したやつだよね?」
少し黙り込んでから、綺瀬くんが答えた。
私は静かに頷き、続ける。
「私ね、あれの被害者なの。一昨年の夏休みにね、親友とふたりで沖縄に旅行に行ってた。……それで、あのフェリーに乗って、事故に遭った。結果、私だけ助かって親友は死んだ。……まぁ、簡単に言ったらそういうこと」
「…………」
綺瀬くんは黙り込んだ。
当たり前だ。
こんなの、他人からみたらあまりにも重過ぎる内容だし、私だって、本当に助けてほしくて話したわけじゃない。ただ、軽く説明すればいくら綺瀬くんでもそれ以上ツッコんではこないだろうと思ったから話した。
沖縄のフェリー海難事故は、二年前の今日、八月九日に起こった。
二○二五年、沖縄の沖合でフェリーが岩場に座礁し転覆、沈没する事故があった。
その日は濃霧により視界が悪かったため、一時は欠航になるかと思われた。しかし、フェリーは一時間遅れで出航してしまった。
……もしあの日、あのまま欠航になっていれば、と何度思っただろう。
出航してまもなく、視界不良による操縦ミスでフェリーは岩場に座礁。船体は横倒し状態のまましばらく海上を流れた。
その後、損傷部から海水が船内に流入し、フェリーは乗客と乗員を乗せたままゆっくりと沈没を始めた。
結果、フェリーに乗っていた二十二人の乗員乗客のうち二十人が死亡、うちひとりが今も行方不明のまま。多くの犠牲者を出し、ニュースにも大きく取り上げられた事故だった。
あの事故で助かったのは、フェリーに取り残されて沈没直前に助け出された私だけ。
海上保安庁の潜水士が私を助け出した直後、フェリーはひとりの乗員を取り残したまま、渦を巻いて海の中に消えていった。
事故発生から、約一時間半後のことだった。
「あの日、私は来未と一緒に乗ってたんだ。でも、来未だけ海に落ちちゃって……ライフジャケットを着ていなかった来未は遠くまで流されて、発見されたときにはもう……。……結局、私だけ助かっちゃった」
目を閉じると、今でも来未の声が聞こえてくるような気がする。涼やかな、夏の風鈴のような彼女の声が。
もちろんそれはただ気がするだけで、実際には聞こえない。目を開いても、来未はどこにもいない。この世の、どこにも。
指先が白くなるほど、手を握り込む。
「……今日、来未のお墓に行ったの」
綺瀬くんが、柵の向こうに落ちている仏花をちらりと見る。
「そうしたら、来未のママと会っちゃって……あなたが死ねばよかったのにって言われたんだ。あの子を返してって、泣きながら私に詰め寄ってきた」
足が竦んだ。怖くて怖くて、たまらなかった。
視界が滲む。俯き、一度瞬きをすると、雫が膝の上にぽっと落ちる。
「私……怖くて……だって、来未のママのあんな顔初めて見たの。事故の前まではすごく優しい人で、声を荒らげるところなんて、一度も見たことなかったのに……」
あそこまでだれかに恨まれるのははじめてだった。
血走った目。わなわなと震える拳。
穏やかでいつもニコニコしていた来未のママが、あんな顔をするだなんて、あんなふうに怒鳴るだなんて信じられなかった。
「来未のママにあそこまで憎まれているだなんて、今日までぜんぜん知らなかった。でも、考えたら来未のママの態度は当然のことだよね」
だって、なにより大切な娘を失ったのだ。
来未のママにとって、私は娘を奪った人間。娘を殺した人間。私は、殺したいほど憎まれて当然の人間なのだ。
「……だから、死のうとしたの?」
目を伏せ、頷く。また雫がぽろっと落ちた。
こんなに苦しいのなら、助からなきゃよかった。あのとき、来未と一緒に死んでしまえばよかったんだ。
そうしたら、こんな苦しまずに済んだのに。
「……もう、終わりにしたかった。死んだら、楽になれると思ったの」
逃げたかった。でも、生きている限りこの現実は変わらない。
……ならば。
どこに行ったって、逃げ場所がないのなら、もう死ぬしかないではないか。
「……まったくバカだなぁ」
空に向かって、あの子の真似をして大きな声で言う。
「え……?」
綺瀬くんが、戸惑いがちに私を見た。
「……来未の口癖だったの。私が落ち込むと、いつもとなりでバカだなぁって言って笑ってた。笑って、気にするなって言ってくれたんだ。そうしたら私も笑って、うん、そうだねって笑い飛ばすことができたの」
でも……ここにはもう、そう言ってくれる親友はいない。来未は私のせいで、死んだ。
「私、なんで生きてるんだろ……」
再び目の奥がじんわりと熱くなる。
生きることがこんなに辛いだなんて思いもしなかった。
あの事故がなければ、こんな感情は知らずに生きられたのに。
幸せに笑っていられたのに。
……あの事故をなかったことにできたら、どれだけよかっただろう。
そんなことはできない。分かっている。だから、私は。
「……死にたい」
荒波のように迫り来る孤独に耐えるようにぎゅっと目を瞑る。すべてを遮断しようとしたとき、頭上から、ふと光の雨のような声が降ってきた。
「それは違うよ」
顔を上げると、綺瀬くんが私の手をそっと握った。
「君は死にたいんじゃなくて、この苦しみから逃れたいだけだよ」
この……苦しみから。
「……でも、生きてる限りそんなの無理だよ……っ!」
「そうかな? そんなこと、ないんじゃないかな」
「どういうこと……?」
首を傾げると、綺瀬くんは私をまっすぐに見つめて言った。
「だって君は、助けられたから生きてるんだよ」
「助けられたから……生きてる……?」
優しい顔で私を見る綺瀬くんがいる。吸い込まれそうなほど、澄んだ瞳をしていた。まるで、水の惑星そのものを閉じ込めてしまったかのような。
「……せっかく助けられた命なんだから、無駄にしちゃダメじゃん」
ドラマやなんかでよく聞くような、ありきたりなセリフだと思う。けれど、その言葉はなによりもあたたかく、私の胸にじわじわと沁みていく。
「でも、やっぱり話を聞いてよかったよ」
「……え?」
「君はただ、苦しみから逃げたかっただけ。君にとって、苦しみから逃れるための選択肢のひとつに、死ぬことがあって、君は間違ってそれを選んでしまっただけなんだ」
「選択肢……?」
「そうだよ。でも、死なずに君の苦しみが消える方法だってきっとあるはず。それを一緒に探そう」
爽やかな微笑みをたたえて、綺瀬くんが告げる。
その笑顔に、思わず言葉を失って見惚れる。
返す言葉も忘れて呆然としていると、綺瀬くんはかき氷のカップを傾け、溶けたそれを喉に流し込んだ。
「ひゃ〜っこいっ!! 頭がぁっ!」
かき氷を食べたとき特有の頭痛に叫ぶ綺瀬くんを、呆れて見つめる。
「一気に飲むからだよ」
「んーっ、でもうまい!」
痛みが落ち着いたのか、綺瀬くんはからりと笑った。
「……まったく、子供みたい」
「ははっ。ねぇ、俺の舌どうなってる? 赤くなったでしょ?」
と、綺瀬くんは私に顔を近付け、舌を出した。
「ちょ、なに。いきなり近っ……」
咄嗟に身を後方へ避けると、バランスを崩した。
「わっ……!」
バランスを崩し、ベンチから落ちそうになる私を、綺瀬くんが掴み、抱き寄せる。
「……大丈夫?」
すぐ耳元で声がして、うわ、と思う。
私は、綺瀬くんに抱き締められていた。
「……だ、大丈夫。ありがと」
身体を離しながら、熱くなった頬を押さえた。
そんな私を見て、綺瀬くんはにっこりと微笑んでいる。
……不思議な人だ。
初対面なのに、私が死ぬのを力づくで止めて。
無理やり私の心に土足で踏み込んできて。励ましてくれて、食べ物まで与えてきて。
……でも、嫌じゃない。というか、初対面なのにこんなにも安心感があるのはなんでだろう……。
涼し気な藍色の浴衣と、赤いきつねのお面。いまどきの高校生らしくない、落ち着いた言動。話せば話すほど、不思議な人だと思う。
綺瀬くんは、しばらく日が暮れて落ち着いた色の街並みを眺めていた。
「……さっき、君に触れて、君が生きていることが実感できて、よかった」
綺瀬くんはそう、しみじみとした口調で言った。見ると、綺瀬くんは静かに涙を流していた。
「綺瀬くん……?」
驚き、私は息を詰める。
どうしてあなたが泣くの。どうしてそんなに、私のことを心配してくれるの。あなたは、なんなの。
綺瀬くんの涙は、私の心まで揺り動かした。
「……あのね、水波。心が死んでいくのは、目では見えないんだよ」
「え……?」
「だから、手遅れになる前にだれかに助けを求めなきゃダメなんだ」
助けを、求める。
まっすぐな視線から、目を逸らす。
「自殺というのは、心が死んだ人がする行為だから」
低い声にどきりとしてもう一度綺瀬くんを見ると、彼は少し責めるような眼差しで私を見ていた。
私は綺瀬くんから視線を外し、手元を見る。
「……自殺はいけないって言う綺瀬くんの気持ちは分かるよ。でも、私には、そんなことを考えてる余裕なんてなかった。とにかくこの状況から逃げたかったの。私だけまだ生きているのが辛かったから」
綺瀬くんが、寂しげな眼差しを私に向ける。
「でも、もし俺が来未ちゃんだったら、水波だけでも助かってよかったって思ってると……」
「やめてよ」
静かに綺瀬くんの言葉を遮る。
「そういうの、いらないから」
綺瀬くんが息を詰めるのが分かった。見ず知らずの私にこんなによくして、話まで聞いてくれている人に、私はなんてひどい言葉を投げているのだろう。
頭では分かっているのに、でも、止められない。
「なにを根拠にそんなこと言えるの? 死んだ人の気持ちなんてだれにも分からないじゃない! 勝手なことを言わないで」
心臓がどくどくと騒ぎ出す。一瞬にして全身から酸素が消失したように息苦しくなった。
「ごめん、水波……」
違う。謝ってほしいわけじゃない。
「私は……」
身体を折り曲げ、両手で自分を抱き締める。
私は、だれかにそんなことを言ってもらえるような人間じゃない。
「私は……私は」
苦しい。息ができない。まるで、水の中にいるみたいだ。
過呼吸のようになって、背中を丸めた。
「はぁっ……」
「水波、ごめん。大丈夫だから落ち着いて」
綺瀬くんが優しく私の背中をさすってくれる。
「大丈夫だから、ゆっくり息を吸って」
苦しい。息が、できない。
あのときの来未も、こんな感じだったのだろうか。こんなふうに、苦しんだのだろうか……。
どれくらいそうしていただろう。過呼吸が治まる頃には、空はすっかり藍色になっていた。
こめかみを汗がつたい落ちた。
「……毎日、あの日のことを夢に見るんだ」
「……うん」
綺瀬くんは控えめに相槌を打ってくれる。
「来未が流されていく夢。来未が必死に助けを求めてくるのに、私は一度だってその手を取れないんだ」
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