死に際の出会い

第1話


 八月九日、夕方。

 夏の盛りを過ぎた陽射しの下。


 私は、ふらふらと街の中を彷徨さまよっていた。手から垂れた仏花は暑さのせいか、色を失ったようにくすんでいる。


 まるで私の心みたいだと、視線を仏花に落として、ぼんやりと思った。


 歩く私のすぐ真横を通り過ぎていく車が、けたたましくクラクションを鳴らす。

 耳をつんざくような不快なその音に、ふとさっきのできごとがフラッシュバックした。


 親友が眠るお墓の前だった。

『なんであなたは生きてるの』

 この数年で、見違えるほど老け込んだ親友の母親に浴びせられた言葉。


 頭を殴られたような衝撃を受け、我に返る。


 本当だ。私は、なんで生きているんだろう……。


『あなたが死ねばよかったのに』

 うん、そうだよね。私も、そう思う。


『あの子を返して』

 あの子が帰ってきてくれるなら、私はなんだってするよ。だって……私だって会いたいんだから。


 頭の中を、ぶつけられた言葉がぐるぐる巡っている。

 それらの言葉は、私を殴るだけ殴ったあとも、そのまま背後霊のようにくっついてきていた。


『この悪魔』

 ……あぁ、そうだ。私は悪魔だったんだ。あの子の命を奪った悪魔だったんだ。

 だからきっと、あの子は私をひとり置き去りにしてってしまったのだ。


 突然、どん、と太鼓の音がして顔を上げる。


 街の中央にある小高い山の上に、小さな神社が見えた。

 神社へ続く長い石段の両脇には、赤色の提灯ちょうちんが整然と並んでいる。


 それはまるで鬼火のように、淡く、怪しくゆらゆらと揺れていた。


 どん、どん。


 お囃子はやしの音色に誘われるように、私はその場所へ足を向ける。


 金魚のひれのような鮮やかな袖や帯飾りが、視界のあちこちで優雅にひるがえる。

 私はそれら揺らめく影の波を、縫うように歩いた。


 つーっと、汗が首筋をつたう。


 石段が途切れると、目の前に大きな朱色しゅいろ鳥居とりいが現れた。

 くぐり抜けると、広場の中央にやぐらが建っている。その櫓を取り囲み、浴衣を着た人たちが楽しげに盆踊りを踊っていた。


 戦隊もののキャラクターのお面を付けて踊る子供。

 ゆったりと優雅に舞う老人。

 親子で、友達同士で、カップルで。それぞれ楽しそうに笑いながら櫓の周りを回る人たち。


 ……楽しそう。

 そう思うけれど、その中に入ろうという気にはならない。


 屋台のりんご飴も、かき氷も、お好み焼きも、食べたいと思わない。

 今、私の中にある欲求はただひとつ。


 死にたい。


 それだけだった。


 お祭りが催されている広場を抜け、神社の後ろ側へ行くと、またさらに石段が現れた。


 こんな場所あったんだ……。


 地元だけれど、初めて来る場所だ。いったいこの石段はどこまで続いているのだろう。


 両脇の木が、石段を覆うように青々と繁っている。

 木々がざわめくその石段を、私はなにかに誘われるように、ただひたすら昇った。


 どれくらい昇っただろう。いつの間にか、お囃子の音はほとんど聞こえなくなっていた。


 石段を昇り切ると、突然視界が明るくなった。

 それまで生い茂っていた木々はすべて切り倒されていて、そこだけぽっかりと開けた空間が現れる。


 進むと、燃えるような夕焼けと喧騒けんそうにまみれた見慣れた街の景色が広がっていた。

 街の向こうにある大きな山と、さらにその向こうにあるオレンジ色の大きな太陽、分厚い入道雲にゅうどうぐも


 車のクラクション。信号機の音。だれかの笑い声。

 ぜんぶが、遠い。街も、人も、未来も……過去すら――。


 かさりと音がした。

 音のしたほうへ目を向けると、少し先に転落防止用の柵があった。錆びて色が変わり、傾いている様子は心もとない。


 そっと足を踏み出して、そこへ向かう。下を覗くと、その高さに目眩めまいがした。


 ふと、思う。


 ここから落ちたら、死ねるだろうか。死んだら、あの子に会えるだろうか。私が死んだら、あの子の心は、あの人は救われるだろうか……。


 私も……楽に、なれるだろうか。


 足が動く。さっきまでと違って、足取りは驚くほど軽い。

 柵を越える。


 そっか。私は、ずっとこうしたかったんだ。


 この先には、きっと私にしか行けない道があるんだ。

 そこはきっと私が楽になれる場所。あの子に会える場所。あの視線から、ため息から開放される安らかな場所。


 足を前に踏み出した。


 足場のない空間に浮いた足は、重力に沿って落ちていく。目を瞑って、すべてを遮断する。


 風が私の体を包み込もうとした、次の瞬間。

「なにしてるの!」

 突然、腕に痛みが走った。

 驚いて目を開く。振り返る間もなく、ぐっと乱暴に腕を引かれ、息を詰める。


 キィ、と錆びた柵が音を立てた。


 その場に倒れ込んだ私は、呆然と顔を上げた。そこには藍色の浴衣を着た男の子がいた。赤色の狐のお面を被っているため、顔は分からない。


「……だれ?」


 訊ねると、男の子の喉仏がわずかに上下して、掴んだ腕の力をゆるめた。けれど、ここが柵の外側であることを思い出したのか、すぐに力がこもる。


 男の子は私の腕を掴んだまま、仮面を少し横にずらした。


 目が合う。


 仮面の下から半分だけ覗いた素顔は、ハッとするほど整っていた。切れ長の瞳に、すっと通った鼻筋。上品な唇はきつくきゅっと引き結ばれていた。

 さらさらとした黒髪が夏風に揺れている。


 同い年くらいだろうか。たぶん知らない子だ。私は眉を寄せて、睨むようにその子を見返した。


「なに? 手、痛いんだけど」

 強く抗議するが、しかし、男の子の手の力が緩まる気配はない。

「とにかく、こっちきて」

「あっ……ちょっと!」


 さらに強い力で、半ば引きずるように柵の内側へ引っ張られた。そのまま地べたに落ちると、男の子はようやく私から手を離した。


 掴まれていたところがじんじんとして、私は思わず、男の子をキッと睨んだ。

「ちょっと、なにするのよ!」

「なにじゃない! 危ないだろ!」


 容赦のない怒鳴り声が私の耳を貫き、無性に涙が込み上げてくる。けれど、知らない人の前で泣くのが嫌で、懸命に唇を噛み締めてこらえた。


「あなたには関係ないでしょ!」

 震える声を誤魔化すように強く言い返すと、

「じぶんがなにしようとしたか分かってるの!? 落ちてたら、死んでたんだよ!」と、さらに怒鳴りつけられた。


 耳がきぃんとして、思わず耳を押さえた。


 なにも知らないくせに。

 下腹のほうから、苛立ちがふつふつと湧き上がってきた。


「あなたこそ、いきなりなんなのよ!? 分かってるよ! 見れば分かるでしょ! 死のうとしてたの! 死にたいからここにいたの! 放っておいてよ!」


 強い口調で言い返しながら、なんで他人にこんなことを言わなきゃならないのだと、余計に腹が立ってくる。

 その意思を込めてぎゅっと唇を引き結んだままでいると、男の子が呆れたようなため息をついた。


「放っておけるわけないだろ。目の前で死のうとしてる奴がいたら、だれだって助けるよ」


 当たり前のように言われ、じぶんの顔がこわばるのが分かった。


「……助けるってなによ。もしかして、自殺を止めることが私を助けることだとか思ってるの? だったら間違い。そんなの、あなたの勝手な自己満足でしかない。私を助けたいなら、素直に死なせて」

「……いやだ」


 男の子は、迷いのない瞳で私を見下ろしている。


 ……違う。

 彼の言うとおりだ。目の前でだれかが苦しんでいたら、助けるのが当たり前。


 その当たり前ができないのは、私だ。私は、来未を……。

 青白い手を見下ろす。手首には、男の子に掴まれた跡がくっきりと残っていた。こんなに跡が残るなんて、ずいぶん強く握られていたらしい。


 ……助けるなら私じゃなくて、あの子を助けてほしかった。あのときだって、あの子は必死に助けてって叫んでいたのに。


 助けるだなんて簡単に言ってしまえるこの人が羨ましい。私を柵の内側へあっさり引き戻してしまうその手が羨ましい。


 ぎゅっと拳を握り、男の子の大きな手を見つめる。


 大きくて、骨張った、男らしい手。なんでも守れそうな力強い手だった。この手があれば、私にもあの子を助けることができたのだろうか。


「……あなたは、いいなぁ」

「え?」


 あの子はもういないのだから、今さら後悔したって遅いのだ。それでも思わずにはいられない。


「……とにかく、あなたには悪いけど、私には救われる資格なんてないの。だからもう、どこかへ行って。お願いだから、ひとりにして」


 そう呟いて、私は男の子を拒むように顔を背けた。


「……よく分かんないけどさ、そばにいるよ」


 その場で座り込んだまま項垂れる私に、男の子がしっとりとした声で言った。


「……なんで?」

「……だって、俺がいなくなったら君、また自殺しようとするでしょ」

「だったらなによ。私の命なんだから、どうしようが私の勝手でしょ」


 それこそ、赤の他人のあなたには関係のないことだ。


「うわ、なにその言い草、可愛くない。それに、それこそ無責任だと思うけど」

「あぁ、もううるさいな……なにも知らないくせに」

 力なく言い返すと、男の子は静かに、でも強い口調で続けた。

「知らないよ。けど、それでもいやなんだよ」


 ……変わった人。


 いなくなる気配のない男の子に、私は諦めのため息を漏らす。完全に死ぬタイミングを逃してしまった気がするけれど、私の正体を知れば、さすがに消えてくれるだろうか。


「……じゃあ、私が人殺しだって言っても助けてくれるの?」

「……は? 人、殺し……?」


 男の子があからさまに動揺する。


「そうよ。私が人殺しだって知っても、あなたはまた助けてくれるの?」


 男の子は私を見つめたまま、黙り込んだ。


 当たり前の反応だ。私に、悲しむ資格なんてない。


 その反応に、ほんの少しだけショックを受けているじぶんがいることに気付いて、呆れた。

 こんな状況でも、私はまだ救われようとしているのか、と。


 ダメだよ、現実を、目の前の表情を見て。

 私の正体を知った人はみんな、こういう顔をするんだ。

 こういう目で、私を見るんだから。


 やっぱり私は、存在するべきじゃないんだ。


 男の子の表情に、私は再び覚悟を決めた。


 ……ただ。

 ただ、ひとつだけ言いたいことがあるとすれば、後悔するなら最初から関わらなければいいのにとだけ思った。


 勝手に助けて、勝手に後悔して、バカみたい。


「……もう迷惑だから、あっち行って」


 目を伏せる。

 次に目を開けたときには、きっと男の子はいなくなっているだろう。

 それでいい。

 そうしたら、またあの柵を乗り越えてしまおう。今度こそそれで、すべてが終わるのだ――。

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