爆滅聖女エリィ・ノアの婚約

quiet

本編



「我が娘、エリィ・ノアよ。良い報せと悪い報せがある。どちらから聞きたい?」

「悪い報せからで」

「残念ながら縁談は全て断られ、この国の全ての男に見る目がないことが明らかになった」

「良い報せは?」

「この素敵なお父様とこれからも一緒に暮らせるということだ……」

「お母様ー。お父様がまた意味不明な妄言をー」

「エリィ。やめないか? そのあまりにもスムーズなお母様への通報は――あっ、待って、出来心! お茶目なジョークのつもりだったんです!」


 それは、ノア伯爵家の書斎で行われた会話だった。


 はいはい、と母が父の襟首を引っ掴んで物陰に消えていくのを見送っているのが、エリィ・ノア。

 金髪に碧眼で、少し華奢な佇まいの、一見すれば『美しい』と『可愛らしい』の狭間に立っているような、そんな少女。


 春の光の、たっぷりと窓から注ぎ込む日だ。


 他に誰もいなくなった部屋で、ゆっくりとエリィは机に向かっていく。いくつもある真っ白な便箋のうちの、その一枚を手に取る。恐る恐る、薄目を開けてそれを見る。


 読む。



 なんか怖いから、と。

 ざっくり言って、そんな感じのお断りの言葉が書いてある。




゜+.――



 エリィ・ノアがいわゆる『爆滅聖女』の二つ名を得たのは、つい三年前のことだ。


 その年は、眩暈のするような夏だった。

 王都平原の外れに、大規模な魔力嵐が吹き荒れたのだ。


 魔物は出るわ、草が枯れるわ、地面が割れるわ、空に罅が入るわ。

 挙句の果てには空間も時間も入り乱れ、触れてしまえば二度とこの場所に戻って来られなくなるような大騒ぎ。


 幸いにして最初の発生地は人のいない地帯だったものの、自分の住んでいる場所に嵐が寄ってこようものなら、もうひとたまりもない。


 どうかこっちに来ませんように。

 かと言って他の人のところにも行きませんように。


 不幸なことなんて、何も起こりませんように。

 何事もなく、この夏が過ぎ去ってくれますように。


 そんな人々の願いもむなしく魔力嵐は動き出し、あらゆる生活者が膝から崩れ落ち、あらゆる責任者が覚悟を決めた。


 そんなとき――


「私が何とかしましょう」


 立ち上がったのがその人、エリィ・ノアなのである。


 誰もが止めた。

 いやいやちょっとお嬢さん。あたら若い命を散らすことはあるまいよ。ここは老い先短い我々お年寄りに任せて、あなたはちょっと遠くの国にバカンスにでも行ってきたらいい。それだけ可愛らしいなら素晴らしい婚約者だっていることだろうし、少し気の早い新婚旅行だと思って。


 ほら、ね?


 エリィはそんな忠告、全然聞かなかった。


 それから起こった出来事は、恐らくこれから百年は歴史の教科書に載るだろう。

 そしてその百年が過ぎれば、次は美術の教科書に載るはずだ――あの最近ひっきりなしに「どうかこの壮大な一幕の人物画にリアリティを与えてください」と頭を下げに来る画家たちが、誰かひとりでも大成したならば。


 すごく単純で、強力な魔法だった。

 嵐が吹き荒れているのと反対方向に、全く同じ力で、エリィは炎をぶつけたのだ。


 爆滅の日、と呼ばれている。

 それなりに近隣に住んでいたお爺さんは、事件後こう語った――「魔力嵐を見たときは『こいつぁ俺の命もここまでか』と思ったが、あの炎を見たときは『こいつぁこの世界もここまでか』と思った」と。ついでに王都から馬で二ヶ月かかる遠くの国の大臣も、大体同じ感想を口にした。


 ものすごい嵐。

 ものすごい炎。


 光と音のパレードが終われば、ついにその魔力嵐は夏の悪夢のように、ほんの少しの熱と、美しい星空だけを残して去って行った。


 人々は喝采した。

 嵐を爆破し、滅した、聖なる少女――『爆滅聖女』エリィ・ノアと、彼女を称えた。



 そしてエリィ・ノアは、全然結婚できなくなった。

 新婚旅行も、当然行っていない。




゜+.――



「ごきげんよう、こんばんは――おっと、エリィ・ノア? 久しぶりだな」


 そういうわけで、エリィ・ノアは今日も今日とて夜会……すなわち婚活パーティに訪れていた。


 主催者は、今目の前で受付をこなしているジョージ・フルレット。

 ごきげんよう、とエリィが挨拶を返せば、学生時代から変わらない柔和な顔立ちで、彼は笑った。


「血色は相変わらず良いし、変わりはなさそうだな。同級生が元気だと、俺も嬉しくなるよ」

「ええ。変わりなく、全然結婚できていないの」

「…………」

「変わりなく、全然結婚できていないの」

「…………あの、別に聞こえてなかったわけじゃなくてですね……」


 ジョージは眼鏡の奥で目を泳がせる。

 そして彼の視線は捉えてしまった――会場入り口のテーブルの上、『独身者限定! お友達から交流の輪を広げてみませんか?』と印字されたパーティの招待状を。


 フルレット伯爵家は中央にそれなりの影響力も持つ、とても社交的な家柄である。

 だからその跡取りである彼も、こうしたパーティを主催している。


「そう。私は全然変わりなくて、だからこうして我が家からの婚約の打診を断った素敵な同級生ジョージ・フルレットくんが今や立派な既婚者となって周りの独身者のお世話を焼いてくれているこの婚活パーティにのこのこと出席しに来たの」

「……いやでも。君、別にそんなに俺のこと好きじゃなかったでしょ」

「いや、別に」

「恋愛的に好きだったら『いや、別に』って反応にはならないと思うんだよなあ……」


 ジョージは困ったように笑う。


「にしても、結局決まらなかったのか。一時期、ノア伯爵が色んなところに婚約の打診を出してるって聞いたから、そろそろ決まるものかと思ったんだけど」

「ええ。それが全然」

「ま、エリィは元々飛び級で入ってきたんだし、俺たちよりは年下なんだ。そんなに焦ることはない――と言いたいところだが」


 しかし不思議だな、と彼は本気の様子で首を傾げる。


「俺の場合はもう別の婚約が進んでたからだったけど、他でもそんなに、相手に困るほど断られてるのか? 君が?」

「怖いんですって。私が」

「それは俺も否定しないけどさ」

「は?」

「まあ待て、聞いてくれ。そりゃ、君の魔法は隔絶してるからな。魔力嵐を爆滅できるなんて前代未聞も未聞。ポストが空いたら即座に我らが母校の講師に……どころか、学園長にだってなれるかもしれない。そんな子と結婚したらどんな気苦労を抱えることになるかわかったもんじゃないし、怖いってのはわからないでもないよ」


 気にしていることを、ずばずば言われる。

 うっ、とエリィが居心地を悪くしていると、追い打ちのように、


「しかし、ひとりくらいはいてもよさそうなものじゃないか。たとえばそれが野心でも――」

「そ、そこにいらっしゃるのは聖女エリィ・ノア様では!?」


 ジョージの言葉を遮ったのは、年若い貴族の青年だった。


 いかにも自信ありげな、好ましい傲慢の滲む整った顔立ち――なのだろうな、と目鼻の形を見れば思わなくもない。


 が、しかし今、その青年は床に膝を突いて、


「失礼しました。私はダリスカン侯爵家のヴィッツ・ダリスカンと申します。あの爆滅の日、あなたの魔法によって救われた者のひとりで――」


 ぺらぺらと、エリィにとってはとても聞き慣れたことを話し始める。


 エリィはしかし、「もう結構です」とは決して言わなかった。

 誰も彼もみな、こういうことを言う人は真剣なのだ。そういうことが経験上わかっているから、とても真摯に、親しみ深く、うんうん、と時には相槌を打って、このヴィッツ青年の感謝の言葉を真正面から受け止めた。


 やがて瞳に涙すら浮かべ始めたヴィッツ青年に、エリィは訊ねる。


「よければ、お会いできた記念にこれからダンスでも?」

「いえそんな、恐れ多い! こうしてお会いできただけで光栄の極みです! どうかその美しいお手はそのまま――しかし、何かお困りごとがあればどうか当家にご相談ください。何を措いても力になると、家名にかけてここに誓いましょう!」


 そうして、ヴィッツ青年は去って行く。

 エリィは、ジョージを見た。


「野心が、何?」

「……なるほど」


 わたくしの考えが甘うございました、とジョージは素直に頭を下げた。


「彼、結構な自信家だって聞いてたんだが……まあ、あれを見ればそうもなるか。しかしとりあえず、君は結婚しなくても何とかやっていけそうではあるな。はは」

「失言ポイント、五」

「それ、何点溜まるとマズいんだ?」


 六、とエリィが告げる。

 追い詰められたな……とジョージが顔色を悪くする。


「ま、まあでも、君ならそう焦ることもないさ。魔法の腕は世界一、佇む姿は星か花。今に引く手数多だよ。ここだけの話、君から婚約の話が来たときはおったまげたものだったんだぜ。何せ、平々凡々の僕とじゃ全然釣り合わない。当時別口の話が進んでなくたって、それが理由で断ったかもしれないくらいで――」

「そういう言い方は、良くないと思うけど」


 すっぱりと、エリィは言った。


「その言い方だと、まるで『僕は自分と釣り合いそうな人を選んで結婚する価値観の持ち主です』って聞こえてしまわない? ジョージは相手が自分に釣り合うかどうかじゃなくて、素敵な人だと思ったから結婚したんでしょ。あなたのいつもの優しいお世辞だってことはわかってるけど、人にお世辞を言うために、自分の行動の価値を下げなくてもいいと思う」

「……エリィ」


 ジョージは、眼鏡をくい、と上げた。

 真剣そのものの、あの学生時代、クラスのまとめ役としてよくやっていた真面目なお兄さんの顔になって、


「……その。これは俺の個人的な価値観であって、一般的なものではないのかもしれないんだが」

「何?」

「そこまで何もかも揃ってて、徳まで高いとちょっと……近寄りがたいかもな」




゜+.――



 傷付き、疲れ果て、うちひしがれ、エリィはパーティ会場を抜け出てフルレット家の中庭、噴水前のベンチに腰掛けていた。


 こういう風に、ふらふらと途中で抜け出す癖が良くないのかもしれない、とうっすら自分で気付いている。

 しかし、もう元気がないというのも事実だった。


 ジョージから謎の攻撃を受けてその後、勢いよく人々に取り囲まれた。

 いつもの感謝感激雨あられが始まり、そしてエリィは恐ろしいことに気付いてしまった。


 あんまり見ない人たちだし、何だかやけにはしゃいでいるなと思ったら。

 ほとんどが、自分より年下だった。


 自分が結婚相手を決められないうちに時は移ろい――やがて、婚活パーティに自分よりも年下の人たちが参加するようになっていたのだ。


「……諦めようかな」


 年齢的には、エリィはそれほど問題があるわけではない。

 というか結婚適齢期なんて、下限こそあれ上限などない。七十になっても八十になっても、好きに結婚して愛を誓い合えばいいのだ。理論上は。


 しかし飛び級して始めた学生時代からそこそこの数のパーティに顔を出して――もっともその頃は賑やかしのお子様でしかなかったけれど――人より長い時間を費やしたのに、結果が出ていない。


 そうなると、自然と。

 向いていないことにだらだらと時間を費やすのもいかがなものか、という気持ちも湧いてきて。



「――――いたた……」


 そのとき、不意に声が聞こえてきた。



 エリィは、声のした方を見る。

 薄暗闇の中に、人がうずくまっているのが見えた。


 近付いて行くと、それが自分より年若い、黒髪の少女だということがわかる。


「どうかしましたか?」

「あっ、」


 声を掛けると、驚いたのか少女は体勢を崩す。

 咄嗟にエリィが彼女の身体を支えれば、


「す、すみません」

「いいえ。それより、どうしたんですか。どこかお怪我を?」


 少女は、少し迷う。

 しかし結局、観念したようにドレスの裾をほんの少しだけ引き上げた。


「その、お恥ずかしい話なんですが。慣れない靴を履いて、踵から血が……」


 エリィはそれを見る。

 痛そう、と思った。


「肩を貸しますから、そこのベンチまで行きましょう」

「すみません……」

「替えの靴は持っていますか?」

「……いえ。その。実は夜会は初めてで。こういうことを想定していなかったもので」


 ベンチの近く、魔力燈の明かりの下に出ると、少女は少しアンバランスに映った。


 長い黒髪は美しく、目鼻立ちは清廉な印象でよく整っている。

 ドレスも靴も、安物ということもあるまい。


 しかしどこか服に着られているような――有体に言って、下位貴族が無理をして一世一代のお洒落をしてきたような、そんな印象を受けた。


 エリィの頭の中で、色々な想像が駆け巡る。

 家では苦しい立場にあるこの少女が、母の遺したドレスと靴を手に、呼ばれてもいない夜会に勇気をもって繰り出す姿に思考が差し掛かったとき、エリィはやることを決めた。


「足、触らせてもらっても?」

「え、あ、はい。――あ、でも!」


 血が、というのを、エリィは聞かない。

 さらりと一撫でして、その血を傷跡ごと消してしまったから。


「どうですか。どこかまだ違和感があるようなら、教えてもらえれば」


 返事はない。

 エリィは顔を上げる。


 黒髪の少女は、絶句している。


 違和感はないということだろうな、とエリィは視線を戻す。


「靴も、もし弄って構わないようならこの場であなたの足に合わせて調整してしまいますけど」

「あ、あの」

「はい」

「もし、あの、人違いだったら、その、大変恐縮なんですが」


 もう一度、顔を上げる。

 黒髪の少女が、目をまん丸にしてこっちを見ていた。


「エリィ・ノア様ですか?」

「ええ」

「……ご本人?」

「ええ。そうです」


 三秒後。

 黒髪の少女は、静かに感情を爆発させた。


「あ、ああああああ、あの、わた、わわわわわたわ、わたし、あの、魔法学園で、後輩で、先輩で、」

「落ち着いて。逃げないから」

「あの――あ、憧れなんです!」


 ああそんな私の靴なんてとんでもない、足なんて触らせてしまって、と地べたに少女が転がろうとするのを押しとどめたり。


 つい、と一撫でして靴の形を何度も変える姿を見せて、子どもを手品であやすみたいに、少女の混乱を抑え込んでみたり。


 そういうことを、一通りしてから。

 ようやく落ち着いて、エリィは黒髪の――とクロエ・イルシエーラと隣り合って座っていた。


「すみません、本当に。……あ、あの。靴。一生宝物にします。一生履いたまま過ごします」

「流石にときどきは脱いだ方がいいと思うけど。不衛生だし」

「そうですよね! 不衛生なのはよくありませんもんね! どんどん靴を脱ぎます! 私、毎日靴を脱ぎます!」

「うん。そうしてね」


 可愛らしい顔をしながら激しい情緒の波を見せているクロエは、どうも聞いたところ、エリィがかつて通っていた魔法学園の学生らしかった。


 そしてその現役学生たちから自分がどう思われているか……当然、エリィはそれを把握している。ついさっきまで、まさにその渦中に放り込まれて、婚活とは一切関係なくチヤホヤされてきたのだから。


「それで、あの――あ、お時間今、大丈夫ですか? ご迷惑なようでしたら……」

「いえ。大丈夫、暇だから。気にしないで」


 婚活パーティに来ておいて、暇を持て余す。

 今の自分が置かれた状況についてうっかり言葉にして確認してしまいながら、エリィは答えた。


 ぱあっ、とエリィの心とは対照的に、クロエの顔は明るくなる。


「私たち、クラスでいつも話してるんです。いつかエリィ様のようなかっこいい魔法使いになりたいねって」

「そう。光栄ね」

「どうすればそうなれますか?」

「真面目に勉強するのが大事なんじゃないかな。後は色々。人によって違うけど。とりあえず自分が苦しくない範囲で努力してみるのが大事だと思う」

「深い……!」


 深いだろうか。

 ときどきエリィは――そんなわけはないのだが――自分のことを過剰に好んでいる人間と喋っていると、「ひょっとして今、自分はおちょくられているんじゃないだろうか」と心に疑念を宿すことがある。今がそのときだった。


 しかしそのとき。

 同時に、ジョージの言葉も心に浮かんできた。


 ついさっきのことだ。



「……近寄りがたいって。じゃあ、どうすればいいの」


 ものすごい攻撃を受けた後、傷を押してエリィは訊ねた。

 すると、ジョージはこう答えたのだ。


「もう少し、こう……。親しみを持てる、欠点みたいなのを見せてもいいかもな。俺たち同級生はみんな小さいころの君を見てるからわかるけど、傍から見ると君って、完全無欠の氷みたいに見えないこともないし」

「さっきは花とか星とか言ってた」

「氷で出来た花もあり、氷で出来た星もある……あ、小さいころで思い出した。今日、君以外にも懐かしい顔が――」



 そうだ。

 親しみを持てる、欠点みたいなものを見せる。


 これなのではないだろうか。


 いかにもこのクロエ・イルシエーラは自分を完全無欠だと思っていそうだし。

 これは上手く弱みを見せて親しみを持たせる練習をする、チャンスなのではないだろうか。


「……憧れてもらうのは、嬉しいけど」


 さらり、と髪を掻き上げて、エリィは言う。


「私にだって、弱いところはあるの」

「たとえばどんなところですか?」

「…………」


 恐ろしいことに、エリィはそれを咄嗟には思い付けなかった。

 魔法、大得意。勉強、得意。運動、得意。社交、まあ得意と言えば得意。経理経営その他諸々、大体やってやれないことはない。


「……あの、エリィ様?」


 恐るべきはこのクロエ・イルシエーラだ、とエリィは思っている。

 普通、そんな急に「どんなところですか?」とか訊き返すだろうか。ノータイムで。いやでも話題を振られたと思ったら反応するのは当然か。真に恐るべきはクロエ・イルシエーラではなく、無計画でよくわからない方向に進んでしまった自分だった。


 そのとき天啓のように、エリィの脳裏に閃くひとつの言葉があった。


「こ、」


 婚活とか、失敗しまくってるし。


「この間、魔法の実験に没頭していたら」


 言えなかった。

 色々な心の動きが、その言葉をエリィの肺の中に押し込めた。


「うっかりその日一日、お風呂に入らないままベッドで眠ってしまって。風邪を引いたとき以外にそんなことしたことがなかったものだから、自分でびっくりしちゃった」

「へえ……! でも、それはそれですごいことですよね! お風呂に入るのも忘れちゃうくらい魔法に没頭するなんて……私も見習います!」


 ひょっとして今、自分はおちょくられているんじゃないだろうか?

 そんなわけはないと知りつつも、一応釘を刺しておこうとエリィは、


「クロエさん。そういう悪いところは見習わないで――」

「クロエ」


 声がした。


 見れば、それは背の高い男のものだった。

 クロエよりは一段落ちるだろうかという質の服を着込んで、そこに立っている。年は自分と同じか、ちょっと上。


 何となく。

 うっすらとエリィは、その青年に見覚えがあるような気がした。


「お兄様」


 クロエが呼びかける。

 へえ、とエリィは心の中だけで頷く。確かに、どことなく似ているかもしれない。黒髪で、整った清潔な顔立ちで、手足のよく伸びた瑞々しい印象。兄妹ということは姓はイルシエーラ……あれ。


 やっぱり、どこかで覚えがあるような気がする。


「会場にいないから探したぞ。こんなところで何をしてたんだ」

「靴擦れで、足から血が出てしまって」


 青年は一瞬、顔を歪める。

 それからクロエの足元に屈み込んで、


「傷はどうした。歩けないなら、背負っていくが」

「こ、子どもじゃないんだから。あのね、こちらの方が傷も靴も直してくれたの。こちら、なんとあの『爆滅聖女』エリィ・ノア様……って、」


 いたずらめかして、クロエが笑う。

 それで、あ、とようやくエリィは記憶に当たった。



「知ってるよね。ふたり、同級生だったんだもん」

「――テオドア・イルシエーラ?」



 テオドアが、驚いたように眉を上げた。


「覚えていたのか。たったの二年の付き合いだったが」

「ね。お兄様。どうせならこれから三人でどこか――」

「ダメだ。帰りの馬車がもう着いてるから迎えに来たんだよ」


 えー、と不平を洩らすクロエを窘めて、テオドアは、


「すまなかったな。エリィ・ノア。妹が世話になった。この礼は必ず」

「いいえ。大したことじゃないから、気にしないで」

「……ま。君ならそう言うだろうな」


 どこか懐かしむような顔で、そう言った。


 クロエが立ち上がる。

 エリィは彼女とともに、靴の具合を二、三、確かめる。問題ないとわかればクロエが深々と頭を下げるから、エリィはそれを軽く躱して、


「それより、夜も遅いから帰り道は気を付けてね」


 はい、とクロエは笑って、元気よく返事をした。


 ふたりが歩き去っていく。

 小さく手を振って、エリィはそれを見送る。


 テオドアだけが、振り向いた。


「そういえば、エリィ・ノア」

「……? 何?」

「風呂には毎日入った方がいい」




゜+.――



「お母様。私は結婚を諦め、これからは魔法と家業に専念することといたしました」

「ああ、そう……。とうとうそのときが……」

「男が憎い」

「こらこらこらこら。何があった」


 結婚を諦めても、人生が激変するわけでもなかった。

 そうしてエリィは気付く――そもそも別に、自分はそんなに結婚したかったわけでもないらしいな、と。


 ノア家は、伯爵家の中でも結構こじんまりした方の家だ。

 たまたま、王都近隣に領地を持っているだけ。昔々は子爵家だったけれど、そのうち近くの伯爵家で跡取りがいなくなって、何やかんや流れでそこの土地や何やらが流れ着いた先。ジョージ・フルレットのあの代々宮廷官僚やら大臣やらを輩出する家柄と違って、特に中央王政とは関係のない、何となく日々を過ごしているだけの、牧歌的と呼んですら差支えのない、そんな家である。


 だから、まあ、仕事もそんなに忙しくはない。


 朝起きて、エリィ・ノアはのんびりと朝食を摂る。

 午前中は、魔法の実験だの理論構築だの趣味の時間に当てる。


 午後になったら、午前中の間の文官たちの仕事の成果をひととおり見て回る。

 ベテランの作った書類にはさらりと目を通し、新人の作った書類には「こうしたらもっと良くなる」と書き込みをしたり、その上司に「たぶんこのあたりがわかっていないから教えてあげた方がいい」とアドバイスをしたりする。


 それが終われば、今度は騎士団の方に顔を出す。

 最近の貴族は私兵軍を持たなくなって久しいが、それでもまだ治安維持のため、こうした騎士を抱えている。


 訓練場に顔を出せば、勢いよく挨拶をされる。

 魔法学園を卒業して帰ってきた今になっても、ここの騎士たちはエリィのことを「お嬢様」と呼んで慕うし、午前中ではなく午後に来てほしい疲れた身体と心にやる気がみなぎるから、みたいな要望を平気で言う。そんなに私が好きなら結婚してやろうか、と一度エリィは口にしたことがあるが、どの騎士も揃って答えは同じだった。


「いやいやまさか。恐れ多い」


 何が恐ろしいんだ言ってみろ、と訓練に乗じていびり倒せば、もうすっかり夕暮れだった。


 一日の仕事を終えて、父母とともに夕食を摂りながら、エリィは考える。


 一生、こういう生活が続くわけか。

 まあ、悪くはないな。


 食卓では、いつも父がお喋りだった。

 それにうんうん、と相槌を打って、不用意な発言に母が突っ込んで、急に空気が緊張するのに素知らぬ顔をしながらスープを飲んで、エリィは考えている。


 時間なんて、どうせ勝手に過ぎていくわけだ。

 別に結婚なんかしなくたって、死ぬわけじゃない。焦ったり悩んだりする必要なんて、どこにもない。


 今日もノア伯爵領は平和であり、明日もまた、こうして平和になることだろう。

 それが自分の人生だというなら、悪くはないというか、結構良いと、そう思う。


「で、そっちのひきこもり娘」


 思っていたら、急に母の矛先がこっちに向いた。

 む、とエリィは答える。


「今日は訓練場にも顔を出しましたし、午前中も魔法実験のついでに町の視察に行きました」

「領内は全部家みたいなものだし、外出とは言わないの」

「暴論すぎる」

「たまには外に出てきなさい」


 ほらこれ、と。

 食器の片付いたテーブルの上に、一枚の便箋を滑らせる。


 エリィはそれを手に取る。

 裏返して、差出人を確認する。


 クロエ・イルシエーラ。




゜+.――



「か、感激です……! エリィ様、本日は当家のお茶会にようこそおいでくださいました!」

「ええ。こちらこそ、お招きどうもありがとう」


 イルシエーラか……とちょっと躊躇う気持ちもないではなかったけれど、後輩からの誘いとあっては断ることも忍びない。


 結局こうして真昼のお茶会に足を運んだエリィは、しかし満面の笑みで、尻尾があればぶんぶん振っていただろうクロエの喜びようを見れば、まあ来てよかった、と思う気持ちがないではない。


 人生は、まあいっか、の連続で出来ている。

 卓に着いて、主にクロエの同級生らしい令嬢たちにチヤホヤされながら、その気持ち良さと疲労を半分ずつ蓄積して、エリィは紅茶に口を付けていた。


 うろ覚えだったけれど、イルシエーラ家は侯爵家だったらしい。

 と言ってもかなり昔の侯爵家で、かつては国境を守る大貴族として広い領地を持っていたのが、二百年ほど前の国家結合や中央集権化を機に徐々に弱体化。今では王都平原の外れに、その名残としてやや大きめの土地を残すのみ。


 しかしこうして招かれた夏の庭園は、流石は名家と溜息の出るような美しさに彩られていて。

 だからこそ、エリィは思う。


 こんなんだっけ、イルシエーラ家って。


「そういえば、うちの婚約者がこの間――」

「…………」


 そんなことを考えているうちに、テーブルの話題があまり自分にとって都合の良くない方向に転がり始めていた。


 いや、別に気にしているわけではない。

 別に自分より年下らしい令嬢たちが、「当然婚約者はいるものですが……」という調子で喋り始めたことについて、何か心に傷を負っているわけではない。


 わけではないが。

 うっかり自分の方に話が振られて、「エリィ様の婚約者はいかがですか?」「いません」「あっ……」という流れになると、場の空気が悪くなる。


 エリィは、そういうところはちゃんと気が遣える。

 だから適当に建前を作って、そのテーブルから離脱することにした。


 中庭の隅にいた執事に、声を掛けてみる。少し日に当たって疲れてしまって。よければ中を見て回らせていただいても? 一も二もなく頷いて、エリィは館の中、客が見ても構わないらしい範囲の廊下を、ひとり静かに歩くことにする。


 こっちは、イメージの通りだった。


 館自体は、昔に建てられたものなのだろう。いかにも侯爵邸らしく、白を基調として格調高い内装が施されている。


 一方で調度品や、壁に掛けられた絵については――、


「む」

「あ」


 すると、廊下の向こうから知った顔が現れた。

 うわ、と残念ながら一瞬、エリィは思った。


「エリィ・ノア。どうした、こんなところで。迷子になったか」


 テオドア・イルシエーラだ。


「いえ。ただ、少し日差しが熱くなってきたから。中で休ませてもらおうかと」

「それは……大丈夫か? そっちの椅子に遠慮なく座るといい。水か、氷か。何か欲しいものがあれば持ってくるが。吐き気はないか?」

「大丈夫。少し疲れただけだから」


 言った手前、とりあえずエリィは椅子に座ることには座った。

 するとなぜか、テオドアもその隣に座った。


「……何?」

「いや、体調が悪いんだろう。だったら誰かが傍にいた方がいい」

「…………」


 ごもっともだった。

 もっと別の言い訳を使うんだった、とエリィはちょっと後悔して、


「――あ、すまん。配慮が足りなかったな。結婚……の噂は聞かないが、婚約者くらいはいるだろうし、男とふたりというのも外聞が悪いか」

「…………」


 追い打ちを掛けられて、さらにすごく後悔した。


「平気。婚約者、いないから」

「あっ…………そ、そうか」


 留まっても逃げても、結局同じ結果が生まれる。

 人生は無意味な二択で出来ているのだ。


「絵」


 空気を変えるべく、エリィから話題を出した。


「何となく、あなたのイメージにぴったりね」

「……俺のイメージ?」


 目の前の絵を見て、素朴な感想をエリィは口にする。


「これ、新しく買ったものでしょう。高い技術と大胆な構図の割に、美術名鑑なんかで目にしたことがないから。どこかの新進気鋭?」

「……まあ、そうだ。意外だな。絵にも詳しかったのか」


 共通の話題があればあるほど有利!

 そんなことを言っている婚活指南書もかつてはあった。今は呪いの書としてノア家の書庫の奥深くに封印されている。


「その、」


 戸惑うようにテオドアが、


「この絵のどこが、俺のイメージに似ているんだ」

「そのままだけど。歴史的な部分には興味が薄くて、応用魔法の分野には人一倍熱心。常に新しいものを求めていて、それで教授だって驚かせることもあれば、拙い失敗に終わることもある……この絵は成功みたいだけど」


 ところで、とエリィは、


「こんなに日の当たるところに置いていていいの。色が抜けてしまうと思うけど」

「……抜けていいんだ。これを手掛けた画家曰く、色が抜けていけばより強く青が出る。長く飾っておけばそれだけ様々な顔を見せる、そういう絵に仕上げたと」

「好かれてるのね。その作家に」

「そんなに大したものじゃない。由緒正しい絵のほとんどを売り払ってしまって、買い戻す金もなかったから、大成しそうな若手の画家に投資して見栄えを取り繕ってもらったんだ。出来が良いのは個人的な好悪な問題じゃなく、その画家の実力の問題だよ」

「へえ。他のものも?」

「ああ」


 そうなのね、と頷けば会話は途切れ、後は夏の音ばかりが流れていた。


 遠くで夏虫が鳴いている。近くでは、茶会に訪れたクロエの友人たちのはしゃいだ声が。窓へと向けた背中はじりじりと熱を帯び始め、しかしこの廊下の静謐さを思えば、それは不快なものでもない。壁掛けの絵画たちは、その巧みで若々しい技術に反して、これからの百年を待つように穏やかに佇んでいる。


 目を閉じれば、館のどこかで大時計の秒針が立てる音だって聞こえてきそうで。

 その前に、足音が聞こえてきた。


「あ、エリィ様。こちらに」


 クロエ・イルシエーラだった。

 少し慌てた様子で、こっちに歩み寄ってくる。


「お姿が見えなくなったと思いまして。すみません。こちらからお呼びしたのに、十分にお気遣いできず」

「気にしないで。パーティ会場からふらふら抜け出すのは、私の癖みたいなものだから。それに、大変でしょう。お茶会のホストって。私も昔に一度やって、あまりにも忙しいし気も遣うから二度とやらないって心に決めたもの」


 ええっと、とクロエは戸惑いつつ、しかし同時に安堵したように微笑みもした。

 よし、とエリィは思った。ジョージ・フルレットから教わった技法。弱みを見せて、親しみやすさを得る。……もっとも、今や大して習得する意味もなくなったものではあるが。


「あまりこういうのにも慣れなくて、あたふたしてしまって……でも、そう言っていただけると助かります。何だかエリィ様には助けていただいてばかりですね」

「いいんじゃない? 私も学生時代は周りに助けてもらってばかりだったし」

「そうなんですか? 意外……っと。申し訳ありません。まだちょっと庭園の方が立て込んでいて、すぐに戻らなくちゃいけなくて」

「気にしないで、行ってきて」


 微笑んで言えば、クロエも微笑み返してきて、それから彼女は兄を見る。


「お兄様。私の代わりにエリィ様のこと、しっかりよろしくね」

「……ああ」


 クロエが慌ただしく去って行く。

 その背中にエリィは小さく手を振る。振り終える。


 またふたり。


「悪いな」


 テオドアが言った。


「何が?」

「妹の我がままに付き合ってもらってだ。あまり、君はこういうところが得意ではないイメージがある」

「へえ」

「……何の『へえ』だ。それは」

「私ってそういうイメージなんだと思って」


 しばらくテオドアは沈黙して、


「……悪い意味ではない」

「じゃあ良い意味?」

「良い意味だ」

「良い意味で『こういうところが得意ではない』ってどういうこと? 説明してくれる?」

「……もしかして今、激怒してるか」

「いえ、別に。ただどういうことなのかなって気になっただけ」


 じっ、とふたりは見つめ合う。

 テオドアの若干怯えているような瞳を見ながら、エリィは考える。今この同級生の中で、自分は『毎日風呂に入ることもせず』『婚約者もおらず』『パーティとか苦手そうだねと言われて激怒する』人間として認識されているのだろうな、と改めて認識する。


 評価も底を突いたことだろうし。

 もういいか、と思うから、訊いてしまうことにした。


「今でも、魔法はやっているの?」


 テオドアが目を見開く。

 それから彼は、落ち着いた口調で、


「いや。もうやってない。当主代行の仕事だけで、精一杯だ」


 予想していた答えではあった。

 突然テオドアが学園を去ってから。その事情を噂の中で聞いてから。自分が首まで浸かっている魔法の業界に、あの前衛的な魔法器の情報が流れてくることがなかったから。


 だからエリィはさして驚くでもなく、そう、と頷いた。


「ちょっと、残念ね」




゜+.――



「あら、エリィさん。もう学園は卒業したでしょ。また寝ぼけちゃった?」


 秋が来て、エリィ・ノアは久しぶりに母校の職員室を訪れていた。

 そしてかつての担任フラウラに、昔懐かしのいじり方をされていた。


「……フラウラ先生。いくらなんでも数年単位で寝ぼけたりはしません」

「ふふ、そうね。でもエリィさんは何だか昔のままみたいだから、懐かしくなっちゃって。ごめんなさいね、からかって」


 魔法学園は王都の一等地に座し、周りに遊ぶところもたくさんあれば校舎もお洒落、制服はあまりの可愛さにこの国の魔法学習人口の増加に一役買っているとすら噂されている、そんな学校だ。


 門の前で入校証を見せようとしたエリィは、守衛から「あらら、久しぶりだねえ」「大活躍なんだって?」とのどかな口調で迎え入れられ、講堂前の落ち葉を踏み踏み、さして誰に止められることもなくこの懐かしい場所に足を踏み入れた。


 フラウラは、かつてと変わらない柔らかい笑みを浮かべて、机の前に座っていた。

 彼女は立ち上がると、「座って座って」と上等そうな椅子を差し出してきて、それから「砂糖は相変わらず二杯?」と訊ねながら、茶棚に向かっていく。


「はい。先生も、変わりなくお元気そうで」

「あら。エリィさんが挨拶を覚えちゃった」

「そのくらい覚えます。卒業してもう、三年経っているんですから」

「ねえ。私からすると全部が昨日のことで、生徒たちっていつまでも子どもでいるような気がしちゃうんだけど」


 年を取るわけだわ、とフラウラが机の上に紅茶を置いてくれる。

 エリィはカップを手に取って、それを口に運ぶ。舌を出す。まだ熱かった。


「ありがとうね。忙しいのに、講演のお願いを受けてくれて」


 フラウラが言った。


「いえ。どうせ、大して忙しくはしていませんから。家のみんなにも、たまには外に出てきなさいと背中を押されました」

「そう? じゃあ、私の次の教員採用枠にエリィさんを推薦しちゃったりしてもいい?」

「構いませんけど、教室担任ではなく教科担当がいいです。フラウラ先生のように、子どもたちを教え導くなんてことはできそうにありませんから」

「あら。謙遜なんて珍しい」


 ふふ、とフラウラは笑う。


「でも、随分後輩たちには人気があるみたいだけど。生徒会の子たちから、講演の依頼をされちゃうくらいには」

「……そのあたりが、不可解で。自己認識と他者評価が乖離しているというか」

「ねえ。エリィさんといえば教室で囲まれて可愛がられてるイメージだから、『聖女のお姉様!』なんて扱いされてるのを聞いてると、私の方も不思議な気持ちになっちゃって。後にも先にも、クラスメイトから『ご飯はちゃんと食べなさい』とか『考えごとをしてるときもちゃんと息をして』なんてお世話を焼かれてた子、エリィさん以外に見たことないもの」

「あれはナルエッタの勘違いで、息はちゃんとしてました」

「胸を張られても……」


 そういえばそんなこともあったな、とエリィも少しだけ、懐かしい気持ちになる。

 同級生たちと比べて、エリィは年齢が低かった。入学試験で優秀生として飛び級が認められ、上の学年のクラスにすぐに編入されることになったのだ。その分少し学園に滞在した期間は短かったけれど、随分周りに世話を焼かれて、必要なことは学び切れたはず――と、自分では思っている。


 そういえば、と。

 そのことを思い出せば、ついでに。


「私以外にも、いましたよね。飛び級生」


 話題に出せば、すぐにフラウラも頷いた。


「テオドア・イルシエーラさんね。そうそう、気付いてる? 今回エリィさんに依頼を出した生徒会の副会長って――」

「テオドアの妹ですよね。クロエ・イルシエーラ。何度か面識があります。パーティに呼ばれたりして」

「ああ、なるほどね。そういう繋がりで……。もしかして、エリィさんは今でもテオドアさんと連絡を取ってるの?」

「いえ。この間、たまたま会っただけで。退学以来は全く」


 そう、とフラウラはもう一度頷いた。


「テオドアさんも、今のクロエさんに負けず劣らず優秀な子だったんだけどね。お家の事情では、どうしても難しいものがあるから」


 そして、ちょっとしんみりした雰囲気。

 それにも負けず、エリィは言った。


「侯爵が倒れたんでしたっけ」

「ええ……あら。エリィさん、そのあたりのことは聞いてなかったの?」

「多分聞いたと思うんですが、ほとんど忘れました」


 フラウラは、何とも言えない顔をした。


「あんなに仲が良かったのに……」

「そうだったんですか?」

「自分のことでしょう」

「自己認識と他者評価に乖離があります」


 あれえ、とフラウラは首を傾げる。


「私には、そう見えたんだけどな。エリィさんは純飛び級、テオドアさんは遅れての入学と飛び級の合わせ技で、あの教室に編入してきた形になったでしょう。ふたりとも特に実用魔法が得意なのは一緒だったし、よく話している印象だったんだけど」

「そうだったんですね」

「もしかしてエリィさん、実はいま記憶喪失になっていて、昔の友人知人に思い出を聞くことで自分がどんな人間だったかを知ろうとしてる?」

「先生、小説の読みすぎです」


 真面目な顔で問い掛けてきたフラウラに、真面目な顔でエリィは答える。


「昔のことって、あまり覚えていられなくて。何となく教室にいたことと、ある日教室からいなくなったことは覚えているんですが」

「そう……。ひょっとしたらそれ、教室の鉢植えさんとかも覚えてるかもね」

「そうですか。じゃあ、私も鉢植えと同じくらい教室に馴染んでいたんでしょうね」

「胸を張られても……」


 ちなみに、とエリィは訊こうとした。

 が。


「――エリィ・ノア様! よくぞおいでくださいました!」


 がらら、と職員室の扉が開いて、生徒たちが入ってくるものだから。


「では、先生。このくらいで」


 まあいっか、と話を打ち切ってしまう。

 フラウラもまた、わいわいと群がり始めた生徒たちを微笑ましく見守りながら、


「ええ。今日の講演はよろしくね。私もステージの下で楽しみに……ところで、原稿はちゃんと考えてきた?」

「先生は、私が原稿をちゃんと考えているところを見たことがありますか?」


 それからエリィはステージで、やたらに迫力のある魔法の話と、「この学校で過ごす時間を大切にして、たくさんの思い出を作りましょう」というような、ありきたりな話のふたつをした。




゜+.――



 結構好評だった。


 というわけでエリィは、フラウラからの「心臓に悪いから、次に来るときは適切な成長を見せるか、成長していない部分を隠しておいてね」という挨拶もそこそこに、学園を後にすることになった。もう少しフラウラと馴染みの話をしてもいいかと思ったけれど、学園のカリキュラムは何だかんだで忙しなく、講演の後にも普通に授業があり、誰も彼も自分のように暇なわけではない。


 けれど、その忙しい合間を縫ってひとり、校舎の外まで見送りについて来てくれた生徒もいる。


「本日はお忙しいところ、当学園に足を運んでご講演いただき、ありがとうございました。エリィさん!」


 クロエ・イルシエーラだ。

 深々と礼をする彼女の仕草の美しさに感心しながら、エリィは、


「どういたしまして。私も、久しぶりに学園に来られて楽しかったよ」


 クロエが頭を上げる。

 胸を撫で下ろすようにして彼女は、


「そう言っていただけると……。実は、生徒会の入れ替わりがついこの間で、私が直接こういう講演のお願いをするのは初めてだったんです」

「そう。それならあなたの緊張に見合うくらい、後輩たちにとって有意義な話ができていたらいいんだけど」

「それはもう! 私も今日のお話、胸に刻みました! 毎日寝る前にベッドの中で暗唱する勢いです!」

「やめなね」


 あはは、とクロエは笑った。


「流石にそこまでは冗談ですけど……でも、胸に刻んだのは本当です。魔法に関するお話もそうでしたけど、学園にいられる時間はそれほど長くないっていうのも……」


 それから。

 少しだけ彼女は瞼を伏せて、


「――本当に、そうですよね。貰った時間は、大切にしなくちゃ」


 その言葉が、時間の限りだった。

 校舎の方から、授業準備を告げる鐘の音が聞こえてくる。


「それじゃあ、私はここで。あまり長居しても、遅刻させちゃうだろうから」

「いえ、そんな! でも、早速エリィさんの教えを実践して、まずは私も真面目に授業を受けたいと思います!」


 それでは本当にありがとうございました、とクロエがもう一度、頭を下げる。

 自分がいる限りクロエもなかなか立ち去り難いだろうからと、エリィもさっさと校門に向かっていく。


 クロエの姿が見えなくなって。

 校門をくぐって、来るときにも挨拶した守衛に、軽く頭を下げて、


「あ、ちょっとお待ちを」

「はい?」


 呼び止められる。

 なんでしょう、と訊くと、まあまあまあ、何も言わずに、と言ってもう一度校内に案内される。


 割とすぐに、その理由はわかった。


「お呼び立てしまして、大変恐縮です。エリィ・ノア様――いえ、『爆滅聖女』様」


 そこには、数人の生徒たちが立っていた。

 見覚えがある――特に銀髪で長身の、精悍さと麗しさが共存した顔立ちの青少年。ついさっき見たからというのもそうだけれど、流石に領地からほとんど出ないエリィですら、その顔は知らずにはいられない。


「改めまして、学園生徒会長のリオン・アークリッジです」


 第三王子、リオン・アークリッジ。

 彼が、おそらく生徒会員だろう数名を連れて、校門近くの木陰に立っていた。


「実は、このたびはエリィ様に頼みがありまして――」

「授業はどうしたんですか?」

「……ええ。そうですね。ついさっき予鈴が鳴ってしまいましたが、何しろ内密に、彼女に知られずに秘密裏に物事を進めたいものですから――」

「さっきの講演で『学校で過ごす時間を大切に』という話をしたと思うんですが、あまり心に響きませんでしたか?」

「…………」


 だらだらと、リオン・アークリッジが冷や汗をかき始める。

 会長しっかり、王子お気を確かに、と周囲から肩を叩かれて、彼は、


「……あの、」


 恐る恐る、という口調で、


「もしかして……激怒されてますか、今」

「いえ、純粋に講演の成果を測りたかっただけですが」


 エリィは、自分で自分の頬を少しつまむ。

 そんなに怒りっぽく見えるかな。



゜+.――



「……なぜ君がここにいる。エリィ・ノア」

「流れで」


 誕生日パーティでクロエ・イルシエーラを喜ばせてやりたい、という話だった。


 第三王子にして学園生徒会長リオン・アークリッジは語った。我ら生徒会は魔法学園の伝統を引き継ぎ、しっかり者とお調子者で構成されています。それゆえしっかり者の副会長には日々のご苦労を労って盛大に楽しい誕生日を迎えていただきたい。彼女の誕生日は冬休みにあることもあり、すでにイルシエーラ家で誕生日パーティが予定されているが、その際に友人一同で何か催し物をしてあげたい。


 ついては、ぜひクロエの憧れの人であるところのエリィ・ノア様にもご助力願えませんか。

 絶対に、クロエも喜ぶと思います!


 いいよ。


 というわけでエリィは子どもたちの授業が終わった頃、その足で王都内の喫茶店に足を運び。

 その後からテオドア・イルシエーラが店内に入ってきて、こっちを見てぎょっとした。


 リオンが立ち上がる。


「イルシエーラ侯爵代行! わざわざこちらまでご足労いただいて恐縮です」

「恐れ入ります、リオン王子。大した手間ではありませんよ。わざわざこの相談会のために学園を休んで我が領まで……というのも、皆さんの貴重な学びの時間を奪ってしまいますからね」


 リオンが、ちらっとこっちを見た。

 見られたので、とりあえずエリィは頷いておいた。おほん、とリオンは咳払いをして、


「お心遣い、大変痛み入ります。さ、侯爵代行はこちらへ」

「テオドアで構いませんよ。呼びにくいでしょう、長くて」

「では、どうかテオドアさんもお気遣いなく。ぜひ我らが学園流でお願いできれば」


 では、とテオドアが微笑んで頷く。

 こちらへどうぞ、とリオンが彼の席を手で指し示し、生徒会役員のひとりが椅子を引く。


 エリィの隣。

 何らかの逡巡を、テオドアは見せた。


「……隣。失礼するぞ」

「どうぞ」


 そこからは、リオン・アークリッジの仕切りだった。


 まずは現状の確認。テオドアには、エリィに協力を頼んだその経緯を話し、一方でエリィはテオドアがこの場にいる理由を――さっきも一度、軽く聞いてはいたけれど――改めて説明される。


「クロエの誕生会はイルシエーラ家の邸宅で行われます。ホストはテオドアさんが務めてくれるということで――」

「ああ。少し気が早いが、行程表だけは作っておいた。よければ参考にしてくれ」

「助かります。それじゃあ……このあたりに入れてもらおうかな。サプライズということで」


 ねえ、とエリィはテオドアに小さな声で呼びかけた。

 テオドアがこっちを見る。エリィは口に手を寄せる。あまり他の人には聞かせない方がいいかも、の合図。


 テオドアが少し頭を傾けるから、囁くように。


「大丈夫? サプライズって、苦手な人は苦手みたいだけど」

「……まあ。ただ、妹はそれほど苦手なタイプでもないし、気心が知れた相手同士だから、この場合は問題ないだろう。良識的な子たちだし、事前に内容を聞いておけばこちらで軌道修正もできる」


 そう、とエリィは納得してテオドアの方から頭を戻す。

 戻すと、じっ、とリオンがこっちを見ていた。


「どうかした?」

「あ、いや……」

「会長、代表して訊いてくださいよ」「リーダーシップを見せてっ」

「いや……うーん……あの、答えにくかったら無視してくれていいんですが」


 恐る恐る、という声色で、


「お二方はその、そういう仲で……?」

「違う」


 テオドアが答えた。


「ただ、お互いに婚約者もいない身だから、学生時代の延長で気安い距離にあるだけだ。気にしないで続けてくれ」

「あ、そういう……ごめんなさい。うっかり忘れちゃってて、全然意識してなかった。全く違うから、気にしないで」

「……続けてくれ」

「あ、はい……」


 リオンがこっちとそっちを交互に窺い見る。

 けれど隣の少年につつかれて、すぐにまた別の紙を机上に出してきた。


「屋内展示の疑似星空――プラネタリウムをやろうと思っています」


 それは、魔法の設計図だった。


「…………ほう」

「へえ。面白いものを考えたのね」

「はは……その言葉、真正面から受け止められたらいいんですが。でも実は、これは俺たちが一から考え出したものじゃないんです」


 リオンは、少し不安げに言った。


「星が好きだっていうのは、前からクロエに聞いていたので。何かヒントになるものがないかと学園を探していたら、このプラネタリウムの設計図を見つけたんです。書きかけだったんですが素晴らしいアイディアだと思って、これを自分たちで完成させられたらと……あの、こういうのは法的に問題ないですよね?」

「法的にどうか知らないけど、内輪に見せるものなら問題ないんじゃないかな。学園に残されたものって、そういう扱いだし」

「……そうだな。外部に大々的に発表するとなれば色々とクリアすべき点も出てくるだろうが、友人の誕生祝いに使う分には、問題ないだろう。大方、製図室に残されたものを拾ってきたのだと思うが、本当に大事で誰にも使われたくないものなら、その魔法使いだってちゃんと回収していくだろうしな」


 ほっ、とリオンは胸を撫で下ろす。

 そして大体、エリィもなぜ自分がこの場に呼ばれたのかがわかってきた。


「魔法を見てほしいっていう話?」

「はい。何でもかんでも寄りかかって……というつもりではないんですが。クロエに贈るものなので、失敗したくないんです。エリィさんには、ぜひ俺たちの魔法を見ていただいて、アドバイスを貰えたらと」

「いいよ。手紙? それとも私が直接、何度かこっちに来る?」

「いや、それは悪いですから俺たちの方から――」

「…………」

「――行きたいんですが、授業があるからなあ。できる限り手紙でお願いします。それでダメなら、恐縮ですがこちらにお呼びさせていただいても?」

「ええ。気軽に呼んで。そんなに遠くないし、私もたまには、こっちに出てくる口実が欲しいから」


 ありがとうございます、と生徒会役員たちが口を揃えれば、後は簡単な作戦会議だけで解散だった。


 いやいや俺たちが呼んだんですから俺たちが払いますよ、と生意気なことを言い出したリオンを押しのけて、エリィはテオドアとふたりで会計を済ませる。別れの挨拶もそこそこに、学生たちが学園へと帰っていく背中を、ぼんやりと見送る。


 すっかりと夕暮れ。


「……それにしても、驚いたな」


 テオドアが、隣で言った。


「何が?」

「さっき、『こっちに出てくる口実が欲しい』なんて言っていただろう。昔の君だったら、こんな気遣いは口にしなかっただろうと思ってな――と。その前に、」


 それから彼は頭を――往来でやっていてもさして目に留まらない程度の優雅さと、誠実さを共存させつつ――下げた。


「何から何まで、妹が世話になっている。すまないな。エリィ・ノア」


 どこから何を言おうか、とエリィは思った。


 最初にテオドアが言ったところ――昔だったらこんなこと言わなかっただろう、というところに対して、今日の昼間にフラウラ先生としたようなやり取りを、もう一度目の前の彼ともするべきか。


 それとも妹が世話になっているから礼を、なんて言葉に対して、いや別に、好きでやってるだけだから、なんて当たり前のことを言って返してみるべきか。


 そういえば婚約者いないんだってねお揃いだ、なんて関係のないことを話してみるか。


 関係ないことついでに、あの日お風呂に入るのを忘れたっていうのは長い長い人生の一瞬を切り取ったものであって、と話を戻しに戻してみるか。


 あるいは――


「今日、学園であなたの話をしていて気になったんだけど」


 思い浮かんだ中で、


「あなたって、学園を辞めてからどうしてたの?」


 一番関係がなくて、一番話を戻さなきゃならないものを、エリィは選んだ。


 その問いかけに対して、テオドアは複雑な顔をした。

 複雑なので、エリィにはその意味がよくわからない。驚いているような、悲しんでいるような、喜んでいるような――読み取るのを諦めて、言葉を待つ。


 すると、こんな風に返ってきた。


「これから少し、時間はあるか」




゜+.――



 イルシエーラ侯爵が倒れた。

 だから当主代行として領地を治めるべく、テオドアは魔法学園を辞し、イルシエーラ領に戻ることになった。


 元々それほど財政の良くなく、衰退しつつある土地だった。

 それに侯爵がどうにか歯止めを掛けながら、ゆるやかに着地させようとしている領だった。


 戻ったときは、とにかく忙しくてたまらなかったそうだ。

 何せ当時はまだ十代の半ば――魔法学園でも魔法に没頭するばかりで、まさかこれほど早く経営の手腕を試されることになるとは思っていなかった。


 昨日まであったものが、明日には失われてしまうような土地で。

 しかしそれでも生来の才覚とこれまで受けた教育を頼りに、テオドアは侯爵家当主代行としてその仕事を捌き続け、ついには領地の再建まで成し遂げることができた。


 大胆不敵の改革者と呼ばれたこともある。

 新進気鋭の名領主と称えられたこともある。


 しかし――、



「実態は、そんなに大したものじゃなかった。目の前にあるものを取りこぼさないように必死で――本当に、ただそれだけがこの数年だった」


 出たはずの喫茶店にまた戻り、今度は軽食なんかを摘まみ始める。

 テーブルを挟んでエリィとテオドアは、今度は向かい合っていた。


 皿の上には、アイスクリームが載った甘いパンケーキ。

 切り分けて、口に運んで、飲み込んで、エリィは、


「侯爵は、今は?」

「手術に成功して、今は別荘で母とともに静養している。……忙しく生きてきた人だからな。今の暮らしも、それはそれで落ち着いて気に入っているようだ」

「そう。じゃあ、よかったね」

 

 次はこれだ、とパンケーキの隣の小皿に手を伸ばしてみる。

 自分でトッピングする用の、色とりどりのチョコスプレー。


 この喫茶店はよく学園生が使う場所で、現役時代もエリィは、友人のナルエッタと何度も来たことがある。


 あの頃は「かけすぎ」「パンケーキの味をしっかり味わいなさい」とナルエッタに呆れられていたけれど、さて、学園から卒業した今、自分はどの程度この欲望を抑え込み、どの程度受け入れてみるのがいいか――


「え、何?」

「……エリィ・ノア」


 長考に入ってみようか、と顔を上げて、それで気が付いた。

 じっ、とテオドアが自分を見ていたことに。


 そしてエリィは、さっきの表情の意味はよくわからなかったけれど、今の表情の意味は――よくされるから――かなりの確度でわかっている。


「話、聞いてたか?」


 絶句だ。


「聞いてたけど。何かおかしな反応だった?」

「いや、その……一応、」


 自分で言うのもなんだが、と本当に困ったような顔をして、


「苦労話をしたつもりだったんだが……」

「でも、終わったんでしょ?」


 決めた。

 ここは慎ましく、パンケーキの上部表面積の半分程度を埋めるくらいで済ませてみよう。


「あなたの語り方は過去形だったし、今は色々と落ち着いたんだと思ったんだけど。侯爵も生きていて、今は元気になってきてるみたいだし」


 しかし半分を埋めると、不意にエリィの心に好奇心が差した。

 試しにこの小皿を傾けている手を止めずにいたらどうなるだろう――ざらざら、ざらざら。みるみるうちにパンケーキはチョコスプレーに埋め尽くされ、今日もこの世界における因果関係は主観的な観測の限りでは正しく働いているらしいことがわかる。小皿を傾けると、中身が零れ落ち、その下にある別の皿に注がれるのだ。きっとこうしたひとつひとつの些細な発見と確認が、世界全体の確かさを作り上げているのだろう。


「一般的に、領地経営も落ち着いてきたら人に任せられることが増えて、時間や心に余裕ができてくるでしょ? 実際、あなたは今こうして、妹の誕生日パーティの打ち合わせのために王都に来るだけの時間が作れているわけだし。苦労話だとは思ったけど、苦労が終わったことが話の主眼なら、『よかった』って相槌が適切だと思って。気に障った?」

「……いや」


 それから再び、テオドアは複雑な表情に移行した。

 エリィはパンケーキにフォークを刺す。ぱきぱきぱき。巻き込まれたチョコスプレーが折れる。持ち上げる。からからから。上手くアイスクリームと接着しなかった分のチョコスプレーが皿の上に降っていって、ちょっとした高い音を立てる。そうだ。そういえばこんなことになって、ナルエッタに「だから言ったでしょ」「もう」とたしなめられた記憶がある。


 次は忘れないようにしよう。


「――終わった、か。確かに、そんな風に思えたらよかったのかもな」


 今度の表情も、エリィにはわかる。

 何となく――寂しいような、そんな顔。


「何か、まだ領地に問題があるの?」

「いや。領地は問題ない。君の言うとおりだ。たとえ俺が今日姿を消したとしても、今の軌道に乗っているだけでこれから五十年は安泰だろう。……エリィ・ノア」

「何?」

「かけすぎだ。いくらなんでも身体に悪そうだぞ」


 エリィは、自分の分のパンケーキの皿を見る。

 それからテオドアに視線を戻して、


「お風呂には毎日入ってる」

「は? ……あ、すまん。気にしていたのか。だがあれは別に、からかったわけじゃなく心配、いやお節介で――」

「別にあなたの発言意図の問題じゃなくて、単に事実を伝えておこうと思っただけなんだけど」

「激怒してないか?」

「そんなに怒りっぽく見える? どこが? 参考にしたいから教えてほしいんだけど」

「その異様に単刀直入な口調と、話をしているときに相手の目を凝視する癖と――なあ、」

「何」

「少し、相談したいことがある。そちらの領に俺が行くか、そちらからうちに来てもらうか、どちらでもいいから時間を作ってもらえないか」


 近いうちにどこか、そっちの都合優先で、とテオドアは言う。

 明日でもいいけど、とエリィは答える。


 どうせ暇だから。



゜+.――



「すまんな。あちこちに呼び出して」


 エリィの方から、イルシエーラ領に赴くことにした。

 理由は単純。ノア伯爵家がイルシエーラ侯爵代行を迎え入れるよりも、イルシエーラ侯爵家がノア伯爵令嬢を迎える方が、断然楽だから。比較的この国での貴族間の関係はゆるやかなものだし、それが学園の同級生ともなればもっと気安い……けれど、ノア伯爵家はエリィ・ノアがひとりで運営している家ではない。テオドアが来るとなれば父母がてんやわんやになること請け合いで、だから、エリィの方から足を運ぶことにした。


 執事に案内されるがままに書斎まで通されると、早速テオドアが立ち上がって挨拶をしてくる。


「気にしないで。それより、用件は? わざわざ呼び出したっていうことは、他の人に聞かせられない話か、私に見せたいものでもあるの?」

「……相変わらず、話が早いな」


 テオドアは苦笑すると、机の引き出しから一本、銀色の鍵を取り出した。


「後者だ。ついてきてくれ」


 連れて行かれたのは、邸宅の奥だった。

 長い廊下を歩く。暇だから、エリィは周りを観察している。この間の、あの立ち入りが許可された空間とは違って、こっちはもっと素っ気ない。元々人を入れるつもりがないからだろうか、調度品らしきものも必要最低限で、どこか寂しくすら感じるような内装だった。


 ふと、思い出す。


「あの庭って、やっぱりお茶会のために整えたの?」

「ああ。どうしても庭だけは手入れの手間が省きにくいからな。ある程度金をかけて、定期的に整えている。君の家もそうだろう」

「うちの庭はときどき密林になるけど」

「……そういえば、学生時代にそんなこともしてたな」

「あっちは失敗だけど、こっちは成功」

「わざとやってるのか」

「ひとつくらい名産品があった方がいいかなと思って、開発してるの」


 扉の前で、テオドアが立ち止まる。

 何の変哲もない、これまで通り過ぎたのと変わらないような扉に見えた。


「この中に……っと。今更だが、大丈夫か。未婚の男女がふたりきりで部屋に入ることになるが」

「今更だし、いいんじゃない。でも、そっちこそいいの?」

「何がだ」

「私の方が強いけど」

「……………………」


 何も言わずに、テオドアは鍵を差し込んだ。


 ノブを回すと、暗い部屋。

 けれどエリィには、すぐにそれが何の部屋なのかわかった。


「魔法器の保管庫?」

「ああ」


 ぱちん、とテオドアが指を弾けば、窓のない部屋に灯りが点いて、その全容を照らし出す。


 魔法器――魔法の込められた、あるいは魔力とともに編まれた数々の品々。

 流石は侯爵家と言うべきか、いかにも貴重であろう高品質なそれらが、いくつもその部屋には並べられている。


「よくこんなに残ってるね。昔の絵は売ったって言ってたのに」

「高質の魔法器の売買は難しいだろう。何せ、絵や宝飾品と違って『使えて』しまう。もちろん、いくらか売り払いはしたんだが、王家から直々に『国家秩序の安定に配慮すべし』と釘刺しが来てな。ほとんどがここに売れ残ってしまった」

「そう。『使いどころ』に上手く合わせて売った方が財産的価値も上がるし、こうして貯蔵しておくのも悪い判断ではないと思うけど。それで、どれを見せたいの?」

「これだ」


 テオドアは歩く。

 少し奥まった方。綺麗な白い布の覆いを、彼は取り払って、


「靴?」


 目の前に、それは現れた。


 美しい靴だ、とエリィは思った。

 女性用。サイズは自分のものより少し大きいくらいか。特定の魔法が込められているのではなく、魔力を丁寧に編み込んだもの。


 そしてその横に、魔法器ではない、けれどこちらも相当に高価だろう普通の靴も、比べるように置いてある。


「クロエのプレゼントについて、悩んでいる。……君が、クロエに初めて会った日のことを覚えているか」


 言われて、流石にまだ半年くらい前のことだから、エリィは覚えている。

 頷けば、


「実は、あの子はあれが初めての夜会だった。侯爵家の娘として恥ずかしくない程度の恰好を用意したつもりだったんだが、どうしても靴だけは足の形に合わなかったようで……その節は、世話になったな。クロエも君に会えて、随分喜んでいた」

「気にしないで。でも、オーダーメイドにしなかったの? あれくらいの格なら、全然それだっておかしくなかったと思うけど」

「……まあ、その。恥ずかしい話だが、妹とは互いに掛ける金に関して押し合い圧し合いがある。何とかドレスの格に関してはこっちの主張を通せたんだが、レディメイドで済ませるという点は向こうの主張を通された」


 ふうん、と頷いて、


「確かに経営苦を経験した後だと、侯爵家でもそういう判断になるかもね。それで? 誕生日を機会に靴のプレゼントをしたいってことはわかったけど」

「ああ。君にはこの魔法器の靴と、こちらのオーダーメイドの靴、どちらが贈り物として優れているか、意見を聞かせてもらいたい」


 エリィは。

 思わず、テオドアの顔をじっと見た。


「…………」

「……なんだ」

「すごく疑問なんだけど。私が『服飾に疎そう』ってイメージはないの?」

「……ある、が」

「が?」

「……魔法には強いだろう。服飾に強い人間はいくらでも相談のあてがあるが、魔法に強い人間で君より適した相談のあてはない。それに服飾だって、ナルエッタの友人だったんだ。全くの素人ということもないだろう」


 全くの素人ということも、ないではない。

 エリィは学生時代はだいたいナルエッタに相談してプライベートの服を購入していたし、ナルエッタが結婚して隣国に行ってしまってからは、何となく周囲をきょろきょろ見回しながら、それっぽい無難なもので更新し続けていた。


 そういえば、と思い出す。

 最近、こっちからはあんまりナルエッタに手紙を出していないな、と。そんなこと。


「じゃあ、詳細な魔法の知識と疎い服飾の知識を元にして意見させてもらうけど」


 かつてナルエッタに言われたことを思い出しながら、精一杯誠実に、エリィは答えることにした。


「魔法器の靴は、とても素晴らしいものだと思う。ひとつひとつの作りがすごく丁寧で、ずっと長く使えるし、お守りにもなるから。王家への献上品にしたって、他のものに見劣りしないくらい。でも……」

「…………」

「この靴にドレスを合わせるのって、難しいかもね」


 え、と。

 昔みたいな声を、テオドアが上げた。


「何を着ても……とは言わないけど、ここまで魔法器としての格が高いと、相当お金をかけない限り、全身のうちで靴だけがものすごく目立っちゃうと思う。オーダーメイドのこっちの靴よりも、こっちの魔法器の方が合わせるのは難しいと個人的には思うかな。もちろん、質を考えればこっちの魔法器の方が遥かに嬉しいだろうし、他のものも揃えて大きな場に出ていくにはこれ以上ない品だと思うけど――あなたはどういう場面を想定してクロエにプレゼントを贈りたいの? どちらが良いというより、その目的次第だと思う」


 複雑な顔。

 が、エリィはその中に紛れた感情のうち、ひとつだけを読み取れた。驚き。思わぬことを言われた、という顔。


「……そうか。そうだな。靴が主役になりすぎるのか」


 それから、今度はわかりやすくなる。

 腕を組んで、苦悶の表情。


「なるほど。わかった。確かに君の言うとおりだ」

「参考になった? 何だか、誰でも言えるような意見になっちゃったけど」

「いや、そうでもない。相談させてもらえてよかった。……もう少し、クロエへのプレゼントについては考えてみることにする。今日は、来てくれてありがとう」


 よければ昼食でもどうだ、とテオドアが言う。

 いただきます、とエリィは遠慮なく答える。


 食堂へと案内される彼女の足取りは、少し軽い。

 今日は、良いことがあったから。




゜+.――



「よ。元気かい、我らが出世頭」

「ああ。そちらこそ、元気そうで何よりだ」


 イルシエーラ邸にジョージ・フルレットが訪れたのは、それからしばらく経って、冬の入り口のことだった。


 出迎えには、わざわざテオドアが自ら出た。

 何せ、頼みごとをしたのは彼の方からなのだから。


「さて、それじゃあぜひお茶を交えながら、しばらくぶりに会う同級生として仲良くお話を……と。その前に、まずは頼まれごとをしっかり終わらせてからでいいか? 後にやることが詰まってると、落ち着かないタイプでね」

「もちろん。悪かったな、急な頼みで。どうも王都の方の商会とは縁遠い。将来的にはもう少し俺も、その方面の人脈を伸ばしていきたいんだが」

「いやいや。むしろこうして頼ってもらったんだと思えば、かつてのクラス委員長としては感無量だ。その将来が来るまでは、存分に俺に相談してくれよ」


 応接間。

 そう言ってジョージが広げたのは、数足の靴だった。


「リクエスト通り、流行のが三足に、流行に左右されがたいのが二足だ。サイズや色なんかは妻にも確認してもらったから問題ないはずだが、間違いがあるといけないからな。一応、テオドアの方でも確かめておいてくれ。包装なんかはそっちでできるだろうし、問題ないだろ?」

「ああ。問題ない。流石はフルレット伯爵家……というより、ジョージ。君自身の顔の広さのおかげか」

「はは、嬉しいこと言ってくれるな――っと、そうだ。こっちの流行のは、どうしても国内ルートじゃ手に入らなくてな。ナルエッタに頼んで仕入れてもらったんだ」

「そうか。では、後で彼女にも礼をしないとな。それに、フルレット夫人にも」

「喜ぶよ。ほら、あの画家に描いてもらった肖像画。あんまりにも気に入ったから一生これを玄関に飾っておくって言い張ってててね。紹介してくれたテオドアのことも、随分好ましく思ってるみたいだ。時間ができたら、またうちに来てくれよ。妻が喜ぶ。もちろん俺も」


 そうして話が一段落すれば、後は歓談の時間だった。

 机の上が片付いて、使用人が茶を運んできて、それからふたりはカップを口に運ぶ。


 広い館に、冬の静けさ。


「……寒いか? それなら、暖炉に火を入れるが」

「いや、俺の方はまだ大丈夫。それより、テオドアにしちゃあ随分駆け込みでのプレゼント調達だったな。ま、服飾はどうしても流行り廃りがあるから、ぎりぎりまで待つってのも戦略としちゃあ間違ってないだろうが……忙しかったのか?」

「いや、」


 テオドアは、カップをゆっくりと置く。

 少しだけ、窓の外に目を向ける。薄い水色の空。一羽の渡り鳥が横切っていく。


「手違いがあってな。予定が狂ったんだ」

「ほー。テオドアにもそういうことがあるのか」

「そんなことばかりだ。いつでも、予定通りに上手くは行かない」


 ジョージは一瞬、気遣わしげに目を細める。

 しかしすぐに、からっと笑って、


「ま、それはそうか。あの爆滅聖女エリィ・ノア様だって、上手く行かないことがあるってこのあいだ嘆いてたしな」


 テオドアはわずかに目を見開いた。


「へえ。そうなのか?」

「ああ。何でも縁談を申し込む相手にことごとく怖がられて、全く結婚できてないらしい」

「…………そうか」

「実際のところはノア伯爵家の大きさと本人の能力のアンバランスが悪さしてるんだと思うが、まあ、相手の気持ちもわからないでもないよな」

「激怒されるぞ」


 ジョージはさらに笑って、


「あれ、やっぱり激怒してるように見えるよなあ。全然顔も、声の調子も変わってないんだけど」

「少なくとも俺にはそう見えるな」

「でも、ナルエッタに訊くと『あの子が本気で怒ったところなんて見たことない』『あんなに穏やかで一緒にいて楽な子はいない』って言うんだよ。何なんだろうな」

「単にナルエッタがエリィと特別仲が良いだけじゃないのか?」

「その線もありうる。だから俺は最初にナルエッタが国外に出てデザイナーになるって聞いたとき、てっきりエリィも一緒に行くもんだと勘違いしてたよ。『寂しくなるな……』とか言って『何が?』ってあの真顔で訊き返された」


 はは、とテオドアは破顔する。

 するとジョージもそれに調子を良くしたのか、前のめりになって、


「ところで、我らが出世頭の侯爵代行様」

「何だ。次期伯爵様」

「そろそろ妹の誕生日プレゼントで右往左往するくらいには、領地も落ち着いてきたんだろ? これからの予定はどうだい。エリィじゃないが、君もそろそろ結婚相手を探す余裕くらいはできてきたんじゃないのか?」

「……いや」


 そして、そのテオドアの笑顔に。

 一瞬の、寂しさや諦めのようなものが差す。


「しばらくは、するつもりがない」

「……そうなのか。踏み込んだついでに、理由を訊いても?」

「大したことじゃない。ただ、怖いんだ」


 ジョージが眉をひそめる。


「怖い?」

「別に、女性が怖いとか、他人が信用できないとか、そういう話じゃない。ただ……すまん。聞いていてあまり楽しい話にもならないと思うが」

「いいよ。俺から訊いたんだ」

「……これ以上、何かを抱えられる力が自分にあるとは思えない」


 少しずつ、テーブルの上に置かれたカップは冷めていく。

 視線を落としながら、テオドアは、


「当主代行を始めたばかりの頃と比べれば能力は伸びたし、環境も改善された。だから客観的に見て、結婚だとか、そういう新しい何かを受け入れる余裕もあるとわかってはいるんだが……ときどき、あの頃のことが頭にちらつく。突然、この先に続いていると思っていた道が閉ざされるような――と言って、これもまた、今の自分の立ち位置を考えれば随分と贅沢な悩みだとは思うが」


 紅茶の表面に映る、自分と目が合う。

 瞳を逸らすように、瞼を閉じた。


「もう少し、自分で自分を立て直す準備が要ると感じているところだ。新しい何かを増やして、それもまた取りこぼしてしまうかと思うと、怖い」

「……何か、こういうときに気の利いたことが言えたらいいんだろうけどさ」


 ジョージは、口に手を当てる。

 んん、と唇のあたりに言葉をさまよわせて、


「ダメだな。俺じゃ上手く思いつかないし、背中を押して責任も取れやしない。悪いな、友達甲斐がないやつで」

「いや。聞いてもらえただけで楽になったよ」

「本当かよ」

「本当だ。こういうことを、率直に言える相手は少ない」


 そうか、とジョージが言えば、一瞬の沈黙。


「すっかり冷めてしまったな。淹れ直そう」


 テオドアが立ち上がる。


「お、侯爵代行様が自ら入れてくれるのか」

「ああ。昔は君に何度もコーヒーを淹れてもらったからな。随分長いことかかったが、そのお返しだ」

「親切はしとくもんだな」


 湯を沸かすのも温度の調整をするのも、彼にとってはそれほど手間のかかることではない。

 軽く指を弾けば、いつものように準備は始まるから、その間にテオドアは新しいカップを用意する。


「魔法、」


 それを見て、ジョージが言った。


「相変わらず、上手いもんだな」


 探るような、あるいは労わるような、恐る恐る触れるような――けれどそれを感じさせないような、自然な言葉。


「ありがとう」


 だから、テオドアも素直に受け取った。 



「この間も、人に褒められた。


 ……本当は、それだけでよかったのかもな」




゜+.――



 親愛なる友人 ナルエッタへ



 そんな書き出しから始まる手紙を、ある冬の日にエリィはしたためていた。


 思い出したからだ。最近、向こうから連絡を取ってもらうばかりで、こっちはそれに返すばかりで何もしていないこと。大して変わり映えのない日々を送っているから、わざわざ彼女に知らせる必要のある情報が増えないだけなのだけど――しかし、散々「何でもいいから書きなさい」「今日は寒かったですとかその程度のことでもいいから、あなたからもたまには手紙を送りなさい」と言われていたものだから、思い出したら書いておくのがいいだろうと、そう思ったのだ。


 書き出し、一行目。

 少し迷ってからエリィは、



 今日は寒かったです。すっかり冬です。



 整った字で書いて、一旦休憩。

 窓辺を歩く小鳥の白い羽をじっと見つめながら、次の言葉を考えて、



 最近、後輩からの頼みで久しぶりに学園に講演に行きました。フラウラ先生にも会いました。ナルエッタは元気かと訊かれたので、「はい」と答えてしまったのですが、元気でしょうか。もしも元気がなかったら、言ってください。お見舞いに行きます。



 また顔を上げると、今度は小鳥がこっちを見ていた。

 じっ、と見つめ合う。黒い瞳の中に自分の姿が映っているのを、エリィは見つける。


 あ、と思い出して、次の行。



 最近、服飾に関する相談を受けました。



 あの日のことは、特に口止めもされなかった。

 もちろんクロエに直接言ってしまうのは論外だけれど、相手はこの国の外にいるナルエッタだ。そこから洩れてしまうということもないだろうし、ところどころをぼやかしておけば、一般的な話の範囲に収められるだろう。



 素晴らしい魔法器の服と、オーダーメイドの服。どちらを選ぶのが適切かという話でした。

 服飾には明るくないので困ってしまったんですが、前にナルエッタに「プレゼントは何を贈りたいかではなく、相手が何を喜ぶかを大切に」と教えてもらったのを思い出して、「相手にこのプレゼントをどういう場面で使ってほしいかに合わせて決めたらいい」とアドバイスしてみました。


 私がアドバイスなんて、少しおかしな感じがしますね。



 一息。

 インクをつけ直して、



 ナルエッタだったら、きっと魔法にも服にも詳しいから、もっと素敵なアドバイスができたと思います。もしあなたが近くにいたら、「もっと相談するのに良い人がいるよ」と教えてあげられたのに……そう思うと、今はこうして遠くに離れて暮らしていることを、改めて感じました。


「何でもいいから手紙を書いて」とナルエッタが言った意味が、今になって少しわかった気がします。


 遅いでしょうか。でも、また何か大切なものを見つけたら、私に教えてくださいね。そのときはまるで話が通じていないように思うかもしれませんが、ただ私は、あなたよりゆっくり歩いていて、まだ同じものを見つけられていないだけなんです。



 それから、結びの言葉。



 今日は寒かったです。この手紙が届く日も、きっと寒いことでしょう。

 デザイナーのお仕事も、昇進が多くてなかなか落ち着かないでしょうが、どうかあなたが風邪なんか引きませんように。


 じゃあ、またね。

 エリィ



 返事が来たのは、それからあまり日の経たない冬の朝だった。

 メイドから手渡された便箋も、冬の空気を吸い込んで冷たい。エリィはそれを受け取ると早速、他の用事は後に回して自室、ベッドに腰掛けて、その手紙を開けてみることにした。


 読む。

 宛名があって、二行目。



 えらい。



 よくぞあの筆不精が自分から手紙を出した、と一通り自分を褒める内容がそこにあった。


 エリィは微笑みながら、手紙を読み続けていく。

 近況があった。今年はこっちの方が、そっちの国よりも暖かいらしい。でも確かにエリィの言う通りで、最近はとにかく仕事が忙しくて仕方ない。早朝や深夜に動くことも多いから、その分寒さがこたえることもある。


 ああでも、心配しないで。

 エリィがくれたお守りのペンダントは、ずっと着けてるから。


 これがあれば、何が来たって無敵でしょ?



 それから、ひとつだけ。

 それに関連してのことで……手紙に書いてくれた、アドバイスの話。



 私が言ったこと、そんな風に覚えててくれて嬉しいよ。

 でも、あなたより少し早く歩いている人として、ひとつだけ。



 プレゼントってね。

 ときどき、「物」じゃなくなることがあるの。




゜+.――



 それから、しばらくエリィは考えていた。

 ナルエッタから受けたアドバイスのアドバイス……それを受けて、自分はどうすべきか。家の仕事の合間や、魔法の実験の結果が出るのを待っている間なんかに、ぼんやりと悩んでいた。


「エリィさん、今日はありがとうございます!」

「こちらこそ、呼んでくれてありがとう。それから誕生日おめでとう、クロエ」


 悩んでいる間に、クロエの誕生日は来てしまった。

 まあそういうものだな、とエリィは思っている。やるかやらないかの問題というのは、結局そのやるかやらないかを決断する日まで解決しないものなのだ。


「それでは、お集まりの皆さま。本日は当家のクロエの誕生日会にご参加いただき……こんなにかしこまった挨拶は、ひょっとすると要らないかな?」


 テオドアが冗談めかして言えば、そうだそうだと学生たちから声が上がる。

 では、と彼は苦笑して、


「気楽に進めるとしようか」


 ゆるやかに、始まりを告げた。


 小規模な会だった。

 別にこれは、エリィにとってもそんなに不思議なことじゃない。


 貴族子弟の誕生日パーティなんて、いちいち豪勢にやっていたら一年が何日あっても足りないからだ。それに学生たちは普段は学校に行って一生懸命勉学に励んでいるわけで、まさか「今日は誕生日のお祝いをするのでみんなでお休みします!」なんてことはしない。それはたとえば、今クロエとグラスを並べている第三王子リオン・アークリッジも例外ではなく、王族だってそんなことをしない以上、他の人間だってそこまでのことはできない。


 だから、これは。

 ただ子どもたちが、長期休暇にも友達と遊ぶための――と言い切ってしまうには、しかし。


「みんな、仲良いね」

「ん。……ああ、そうだな」


 司会の仕事が一段落したテオドアに、静かにエリィは語り掛ける。

 子どもたちは、決められたとおりになんか全然座らない。会が始まってしまえば、すぐにクロエのことを囲んで、きゃいきゃいと喋り出していた。


 流石にあの輪の中にいきなり混ざり込めるほどの図太さはないから、エリィはふたりきりの大人組として、今日の席はテオドアの隣。


「好かれてるんだ、クロエさん。あの年次で副会長だもんね」

「ああ。俺に似ず、立派に育ってくれた」

「そう? あ、そうだ」


 今のうちに、とエリィは、


「プレゼント、結局どうしたの?」

「ああ。その件、世話になったな。色々他にも相談してみた末に、組み合わせや取り回しの良いものを何足か選ぶ形にしてみた。考えてみれば、あの子も色々と自分で選べる年だしな」

「……そう」

「そういえば、君の方はどうなんだ。俺の立場から訊くのも良くないかもしれないが、使用人から『随分重たいものを預かった』と聞いたぞ」

「私の学生時代のノートの写し」

「…………」

「どうかな。思い付いた中で、一番実用性があって喜ばれそうなのがこれだったんだけど」

「……宮廷魔法使いでも、泣いて喜ぶだろうな」


 よかった、と呟けば、パーティは進んでいった。


 それはたとえば、料理自慢たちが手間暇をかけて作り上げた甘いケーキを切り分ける時間だったり。

 あるいは、珍しいお茶を小さなカップにいくつも淹れて、味を比べてみたり。

 子どもたちが持ち寄った食材を、目の前で侯爵家のシェフが料理してくれたり。


 リオン王子たちが中心になって作り上げたらしい、全く新しいボードゲームで遊んでみたり。


 人数人数、とこればかりは呼ばれて、ゆったりと見守っていたはずのエリィもテオドアと一緒に、卓に着かされてみたり。


「あっ、ちょっ、エリィさん! いま俺に手心を加えませんでしたか!?」

「ええ。あんまり一方的に勝っちゃっても面白くないと思って。クロエ、大丈夫? 暇じゃない?」

「ふふ、暇です。あんまり一方的に勝っちゃって」

「んなっ――」


「会長しっかりー」

「製作者ー」

「副会長様が退屈してらっしゃるぞー」


「お前ら……あんまり舐めるなよ、ここから逆転してやる! お義兄様が」

「えっ。……いや、この盤面ではもう命運が――待て。今、何と呼んだ?」

「エリィさん、このカードってこの場面で使ったらどうなりますか?」

「相手が苦しむ」

「ですよね。ふふっ、使っちゃお」

「…………」

「…………」


 一方的に相手をボコボコにして、二度とクロエと同じ陣営に入れなくなったり。


 そのゲームが始まってからは、特にあっという間だった。

 たぶんこれはこの誕生日パーティの後も学園で大流行して、先生たちから苦言を呈されるんだろうなという盛り上がり方。会の主役ということでずっと席に着いているクロエの技量は目に見えてめきめきと向上しており、今や誰が一番最初に彼女を倒せるかを争う有様となっている。


 そろそろか、と思ったら、テオドアも同じことを考えていたらしかった。


「わ、」

「っと。すまん、大丈夫か」


 廊下に出ると、ちょうど彼と鉢合わせる。

 それからその後ろで、魔法器を弄っているリオンたちとも。


「ええ。どう、起動に問題はない?」

「ちょーっと待ってくださいね……。うん、大丈夫そうです。ですよね?」


 エリィは一応、訊ねられたからそれを覗き込んでみる。

 真っ黒な球体。特に効果が表れていない間は、球面上に自分の姿をぼんやりと映すばかりだけれど。


 こんこん、とテオドアが、横から指で軽くそれを叩いた。


「問題ない。……学生でありながら、よくここまで精巧に作れたものだ」


 同意の気持ちを込めてエリィも頷けば、リオンたちはぱっと顔を明るくした。


 それからは、できるだけこっそりとだ。

 ほとんどのものは事前にクロエに知らせておいたけれど――これだけ大掛かりなものをやるなんて、きっと夢にも思っていないだろうからと。リオンたちはぎりぎりまでそれを隠す。


 パーティ会場の真ん中。

 遮るもののない、もしかしたら席表を見たときに「ここだけスペースが開いているな」「何かに使うのかな」なんて思うかもしれないような、そんなところ。


 クロエが「今のは運が良かった」「一番危なかった」と何度目だろう、ゲームの勝利宣言をしたあたりで、小さくテオドアが指を動かした。


 部屋の灯りが。

 彼女を不安にさせないような速度で、ゆっくりと陰っていく。


「えー、おほん。それでは我らが自信作のゲームと、我らのプレイヤーとしての看過できない弱さが副会長殿を楽しませているところで」


 魔法器の横。

 そこに立って、発案者のリオンがクロエと見つめ合う。


「ここでサプライズ! ……苦手だったら申し訳ない。でも、そんなにうるさいものじゃないはずだから、気楽に見ててくれ。ほら――」


 彼は両手を広げて、


「もう、夜が来たみたいだぞ!」




 そうして、小さな宇宙が廻り始めた。



 

 エリィの部屋よりもずっと広い、それでも王都平原よりはずっと小さなパーティ会場。

 魔法器から放たれた光が、めくるめく星の空を、そこに映し出していた。


 暗闇の中、本当だったらずっとずっと遠くにあるはずの星が、指先が触れるような距離にある。

 一日だって、一月だってかかるような星の運行が、ほんの一瞬の間に空に軌跡を描く。


 流星が降る。

 彗星が尾を引く。


 誰からともなく感嘆の声は漏れ出てきて、立ち上がって、夢の中にいるように誰も彼もが一歩を踏み出して。


 エリィは、クロエを見た。

 美しい湖のように、その瞳に星空を映し取る彼女の顔を。


 どうやら成功したらしい、と思ったから。

 労いのサインとして、親指と人差し指をくっつけて、リオンに向かって合図してあげようと。


 そう思った、ときのことだった。



「うあ、」



 クロエが泣いた。




゜+.――



 嬉し涙、とクロエは言った。

 けれどその涙が流れる直前のクロエの表情をエリィは見ていたから、子どもたちに囲まれるままにしないで、彼女の手を引いて、こんなことを言った。


 お化粧直し。

 ほら、あんまり見ないの。


「……すみません、エリィさん……」

「いいよ。大丈夫? 落ち着いた?」

「…………まだ、ちょっと……」

「ゆっくりでいいよ。誕生日なんて、本人は何したっていいんだから」


 言えば、ほんの少しだけクロエは顔を上げて、笑おうとした。

 それが上手く行かなくて、結局また俯いてしまう。涙が一粒、床に落ちる。

 

 連れ出したのは、会場が開くまでの控室にしていた近くの小部屋。

 本当に、さっき言ったとおり化粧室も兼ねているから、何台かの鏡だって置いてある。


 さっきまではあれだけ賑やかで、温かだったのに。

 少し離れただけで、こんなにも静かで、冬の寒さだった。


 躊躇ってから、けれど結局、エリィはクロエに触れる。

 少しでも楽になってくれればいいと思って、規則正しく、優しく、その肩を叩いた。


 ん、と涙を飲み込む音がする。


「……さっきの、嬉し涙で通ったでしょうか」

「たぶんね。大丈夫」

「私のせいで盛り下がったり、してませんでしたか。だったら、申し訳なくて」

「平気平気。何か言われたら『びっくりさせる方が悪い』って言えばいいんだよ」

「……エリィさんは、」


 すん、鼻を鳴らして、


「わかっちゃったんですよね。……その、さっきの、」

「……うん。何だか、つらそうな顔をしたと思ったから、咄嗟に」


 息。

 何か、爆発しそうなものを抑えつけるような。


「私、」


 抑え切ったのか、それとも洩れ出たのか。

 クロエは、口を開いた。


「打算で、あの学園に入ったんです」


 訥々と、けれど端的に、彼女は語った。



 侯爵家が傾いているのは、小さな頃から知ってました。

 でも、お父様が倒れてしまうなんてことは、全然予想もしてなくて。


 ずっと、お兄様が頑張っているのを傍で見ていました。

 あれだけ熱心だった魔法だって投げ捨てて、必死になっているのを、見てました。


 見てたのに。

 私、何もできなくて。



「だから、学園に入ったんです。色んな繋がりが作れるから、それで、同じ理由で生徒会に入って、少しでも家のためになればって」


 でも、と彼女は。

 顔を上げられないままで、言う。


「みんながあんな風に、純粋に祝ってくれるのを見たら――私、なんて酷い人間なんだろうって。そう、思っちゃって……」


 一秒、二秒。

 三秒。


 ごめんなさい、とクロエが言う。

 こんな話しちゃって、と困り笑いの奥に、涙を押し込める。


 その前に、


「何も恥ずかしいことなんかじゃないよ」


 クロエが顔を上げる。

 エリィはそれに、優しく微笑みかける――少なくとも自分では、そのつもりの表情を作ってみる。


「だって、学校ってそういう場所だもの。仲良く一緒に遊んで学んで、それが終わったらはいさようなら――それだけの場所じゃないよ。それからも繋がって、続いていく場所。私だってほら、こんな風に昔の同級生の家に遊びに来てるんだし」

「……でも」

「変わっていいんだよ」


 私ね、とエリィは言う。


「今も大概だけど、昔はもっと酷かったんだ。性格とか、態度とか。初等学校に通ってたときも変わり者だって言われて、両親からも、もう少しどうにかした方がいいって言われるくらい。……でも、学園に入って変わった」


 昔のことを、思い出しながら。


「教室にいる人たちを見てるうちに、友達とか、自分より年下の子とか……そういう人たちに、どうやって優しくしたらいいか、わかった。当たり前のことなんだよ。学校だけじゃなくて、そういう風に人って、人と関わって少しずつ変わっていくの」


 でもいまだに、年上の人とはどう喋ったらいいか怪しいんだけど、とエリィは冗談めかして言う。

 冗談になってくれたかどうかはわからないけれど、できるだけ。


 昔、ナルエッタが教えてくれたみたいに、優しく語り掛けることにした。



「あなたが泣いたのは、酷いことばかり考えている人だからじゃない。

 昔より、相手のことを優しく思えるようになったから。

 知り合う前より大切になった誰かが、そこにいたから。


 あなたは学園に入った頃より背が伸びて、昔より多くのことが見えるようになった。

 それは、恥ずかしいことでも何でもない。


 誕生日が来るみたいに、すごく自然なことだよ」



 いつの間にか、クロエの涙は止まっていた。

 ただ、すでに流した水の粒が、その瞳に留まっているだけ。


 彼女は、


「私、」


 少し嗄れた声で、言う。


「エリィさんみたいな、人になりたい。かっこよくて、何でも解決できて、誰かを幸せにできる、魔法使いになりたい」

「うん」

「だから、学園に入ったんです。それも、嘘じゃないんです」

「うん」

「なれるで、しょうか」

「なれるよ」


 彼女の震える手に、そっと自分の手を添えて。

 エリィは、伝えた。




「誰かに優しくされたり、誰かを大切に思ったり。


 それだって誰かを幸せにできる、素敵な魔法なんだから」




゜+.――



 きっと自分はこの日を忘れないだろうな、と思う日が、クロエにはふたつある。

 ひとつは、もちろん今日だ。



 涙をどうにか引っ込めて、会場に戻って。


 ごめんごめん、嬉しくて、ともう一度言い訳をして。

 信じてくれたかわからないけれど、エリィが「ごめんなさい。お化粧直しを手伝おうと思って颯爽と連れ出したんだけど、自分が化粧下手だって忘れてたの」と冗談まで言ってくれて、みんなもそれに乗ってくれた。


 それからは、楽しい舞踏会の時間だと言って。

 何人かが楽器の演奏を始めて、他の皆が手に手を取って、踊り始めた。


 もちろん、クロエはいくつもお誘いを受けた。

 ダンスは得意な方ではないけれど、それでも恥ずかしくはないようにと練習していた時期もあったから、それほど気負いはない。音楽に合わせて、星の下で踊る。


 夢みたいな気持ちで。

 なのに、リオン会長に手を取られときは、急に現実に帰って来てしまったような気がした。


 手の力。

 足の動き。

 何度もエリィに「本当に大丈夫ですか」と確認して、保証されたはずの顔のこととか。


 そういうのが、いつまでも頭から離れなくて、俯き気味になって。

 こうして手を握っているのが、遠い星が瞬いてどこかに消えてしまうくらいの、永遠に思えて。


 何だか馬鹿らしくなって、思い切って顔を上げる。



 そのときのリオンの顔を見たら、思い出した。




 あれは、三年前のことだ。


 まだ自分が、学園に入学していなかった頃。

 病み上がりで何もできずにいた、あの夜のこと。


 王都平原には、魔力嵐が吹き荒れていた。

 まだそれは遠くにあったけれど、それでもその烈しさに窓がびりびりと震えるような、そんな夜だった。


「お兄様。大丈夫なの?」


 ベッドサイドに座って、窓から外を眺める険しい顔のテオドア。

 きっとあの瞬間も凄まじい重圧を感じていただろう兄に、自分はそんなことしか言えなくて。


 それからほどなくして、炎の嵐が輝いた。

 魔力嵐よりもずっと強くて明るい、全てを爆発させて、滅してしまうような、そんな嵐が。


 当たり前のことだけど、とても不安になった。

 みんなを連れてもう逃げようとか、そういうことをきっと、自分は言ったのだと思う。


 でも、兄は逃げなかった。

 そういうことをすると、きっとあらかじめどこかから連絡を受けていたのだと思うけれど――きっと、受けていなくても。


「心配するな」


 だって、


「世界で一番の魔法使いが、助けに来たんだ」


 あのときの兄の表情と来たら――




「会長」


 音楽の中で、囁くようにクロエはリオンに語り掛ける。

 へっ、なんて彼は変わった声を出したものだから、堪えられなくてクロエはくすくす笑う。


「プレゼント、」


 彼の手を、握りながら。



「すごく、すごく嬉しかったです。本当に」



 あの日、嵐が去った後も。

 確か、こんな星空だった。




゜+.――



「もう、君には頭が上がらないな」


 星が空を巡るのを見つめながら。

 彼女の隣に腰掛けて、テオドアは呟くように語り掛けた。


 この屋内の天体ショーは、随分と子どもたちのお気に召したらしい。

 さっきまではテオドアも『大人のお兄さん』として――こういう舞踏会に多少慣れている貴族子女のみならず、平民の子たちからも――ダンスパートナーとして引っ張りだこで、ようやく今になって、腰を落ち着けることができた。


 閉会の時間も、随分押してしまいそうな雰囲気があるが。

 どうも水を差すのも野暮に思えて、後はただこうして、子どもたちの喜びを見守るばかり。


「……ああ、気付いてたの」

「気付くさ。自分の妹のことだ。……気付いていて何もできなかった以上、とても胸は張れないが」

「仕方ないんじゃない。あなたたち、似てるから」

「似てる? どこが」

「え、知らないけど……」

「…………」


 さっきまで自分と同じようにダンスの手解きをしたり何だりで、学生時代からは想像も付かないような姿を披露していたエリィ・ノアは、しかし学生時代そのままの、とぼけているんだか真剣なんだかよくわからない受け答えをしてくる。


 けれど時を経て変わったところもあるのか、続けて、


「何となく、そう思っただけ。兄妹だって知らなかったらどう思ったかわからないし、ただの思い込みかもね」

「……そうか」

「うん」

「…………」

「ね。ひとついい?」


 なんだ、と訊ね返す。

 エリィは口に手を当てて、囁くような、音楽に掻き消されてしまうような、小さな声で言う。


「プレゼントのことなんだけど」

「ああ」

「あれ、私が間違ってたかもしれない」


 顔を離す。

 まじまじと、テオドアは彼女の顔を見る。


「ナルエッタと手紙で話したときに、プレゼントのことを聞いたんだけど」


 冗談を言っている様子は、ない。


「プレゼントって、『物それ自体』じゃなくて『気持ち』の方が重要になる場面もあるんだって」

「……それは、そうだな」

「知ってたの?」

「逆に君は知らなかったのか?」

「あんまりこの話、続けない方がいいかもね。テオドアが人を見る目がないってことが明らかになっちゃうし」


 私が知ってたかどうかは一旦置いておいて、とエリィは、


「こういうのってケースバイケースで、一般的には『気持ち』の方が優越することって少ないから、『物それ自体』を工夫した方がいい……と思って、あのときはアドバイスしたんだけど」

「だが、助かったぞ」


 テオドアは言う。


「俺はその……少し思い入れが強すぎたと、自分で思ったんだ。自分が渡したいものばかり気にしていて、クロエが何を必要としているのかを考えるのが疎かになっていた」

「でも、大事なのはふたりの関係なんだって」


 エリィが言う。


「さっき、クロエと話していて感じたから。きっとあの子は、あなたが相手だったら『それが自分にとって必要か』じゃなくて、『どんな思いで贈ってくれたか』の方に嬉しさを感じると思うよ。……まあ、私よりもずっとテオドアの方がクロエについては詳しいだろうから、あくまで参考意見だけど」


 ごめんね、と。


「伝えるのがぎりぎりになっちゃって。私も、言おうかどうか迷ってたから」

「……いや、構わない」


 ありがとう、とテオドアはエリィに伝える。

 それから、言われたことを素直に受け止めて――瞼を閉じて、


「もう少し、考えてみるよ」


 決して、悪い意味ではない。

 自分なりに辿り着いた結論を、そうして口にした。


「確かに君の言う通り、クロエについては俺の方が詳しいだろうから。もう少し時間を置いて、あの靴を渡すかどうかは考えてみる。……どうせ、今日は渡さないしな」

「そうなの?」

「ああ。あれだけ泣いた後にあんなものまで渡したら、いくら何でも疲れるだろう。それに、友達が持ち寄るプレゼントよりあからさまに高価なものを渡すのも、場違いだしな」

「あ、確かに」

「そうだろ? ……やっぱり、あのとき君にああ言ってもらえてよかったよ。おかげで少し、冷静になれた」


 そう、とエリィは頷く。

 ならよかった、と言って、ふたりぼんやり、星の動きを目で追って。


「そうだね。魔法のプレゼントなら、誕生日の分はもう、このプラネタリウムがあるし」


 エリィが呟いた。


「そうだな。魔法のプレゼントは、友達からのものだけで十分だ」

「ん? いや、あなたとの合作って意味で」

「…………どういう意味だ」

「だって、あなたでしょ。作りかけの魔法器の設計図を、学校に置いて行ったの」


 絶句した。

 絶句して隣を見ると、やっぱり彼女はいつもどおりの、何でもないような顔をしていた。


「子どもたちがいるところでは隠したがってるのかなと思って言わなかったけど……あれ。私も指摘しない方がよかった?」


 そういうことじゃなくて。

 いや、でも、そういうことでもあって。


「んな、」


 テオドアは、言葉を選んだ。


「いつから、気付いてた」

「最初に見たときからだけど」

「どうやって、」

「見ればわかるよ。あなたの魔法、すごく特徴的だから」


 驚きで停止した思考が、星と一緒に回り出す。

 まさか、と思った。


「俺の魔法なら、全部わかるのか」

「……? あ、靴の話してる? うん、見ればわかるよ。あなたが作ったんでしょ」


 エリィは当然のような顔と声で、


「あれも隠してたつもりだったの? 私への相談って、そういう部分も……魔法器の出来をチェックしてほしいとか、そういう理由も入ってるものだと思ってたんだけど」


 もちろん、そういう理由もあった。

 けれど、まさか隠していたのがバレていたとは欠片も思っていなくて。


 テオドアは、


「……ずっと、続けていたわけではないんだ」


 言わなくてもいいことを、自分から話してしまう。


「家のことが落ち着いて、余裕が出てきたから。こういうことをする時間も取れるかと思って、少しずつ、仕事の合間に」

「そっか。今でも魔法は好きなんでしょ?」

「……ああ」

「じゃあ、よかったね」


 エリィは、知っていたよとでも言いたげに頷いて、


「続けなよ。あなたの作る魔法器って、すごく綺麗だもの」


 そんなことを、さらりと言ってのけてしまう。


 ああ、とか。

 うん、とか。


 曖昧な言葉で返して――そういえば、前にもこんなことがあったなと、テオドアは思い出してしまう。




 まだ、学園に入りたての頃の話だ。

 すでに侯爵家が傾き始めていることには気付いていて――だから、少しでも家の力になろうと思っていた。人脈作りだの何だのは向いていると思わなくて、代わりに飛び級して上の学年に入れたことが心の頼りで、魔法で何か、飛び抜けて優秀な成績を残せたらと、躍起になっていた。


 なのに、自分より明らかに優秀なのがひとりいて。

 何を考えているのか全然わからないというか、何も考えていないようにすら見える奴がひとりいて――対抗心を燃やして、ひたすら製図室で魔法に打ち込んでいたら。


「それ、魔法器?」


 その当の本人が、後ろから覗き込んできた。


 覚えている。放課後で、夕暮れだった。

 自分はいつも居残っていて、そいつはどうしてそのとき、その時間までいたのかわからない。


 何だよ、とか、あっち行け、とか。

 そういう言葉を口にするには大人になりすぎていたから、あの何を考えているのかわからない瞳で、じっと自分の作った設計図を覗き込まれるがままで。


 一体何を言われるのかと。

 心を折られないようにと、嫌な想像だっていくつもいくつも駆け巡って。


 なのに。


 夕陽を背にして、彼女は言った。


「あなたの魔法、すごく綺麗だね」




 それだけでよかったのかもしれない、と。

 これだけの日々と記憶をまとめてしまうのは、馬鹿らしいことだろうか。


 テオドアは、考えている。

 暗闇の中で。自分にとってはひどく長い――けれど、きっと人から見ればほんのわずかな時間を超えて目の前に現れた、かつての幻の中で。淡い星の、光を浴びて。


 あの一瞬と、この一瞬を結び付けて。

 まるで星座のように、そこに意味を描き出してしまうのは。


 こんな――きっと明日になれば忘れてしまうような。

 自分は一生覚えていても、きっと相手にとっては何のことはない、一瞬だけを頼りに。


 何もかもが終わったことと。

 終わってしまったものなんて、本当は何もなかったことに。


 気付いても、いいのだろうか。


「……綺麗、か」

「うん、すごく」


 呟けば、エリィは屈託なく頷いた。


「今こうして踊っている子たちも、きっと十年後、二十年後に空を見上げれば、今日のことを思い出すよ。だって、実際今こうして投影してるのって、未来の空で――あ、そうだ」

「ん」

「訊いていい?」


 エリィが言う。

 珍しく、ちょっと躊躇うような顔。テオドアは頷く。彼女の口が開く。


 私たちって、


「学生時代、仲良かったっけ」

「……何だ、急に」

「この間、学園に行ったときにフラウラ先生に言われたから、気になって。先生は仲が良かったって言うんだけど、そうだっけ」


 また答えにくいことを、とテオドアは思った。


 しかし同時に、良い意味で気も抜けた。

 そうだ、この同級生はこういう人間だった。今までの張り詰めた考えなんて、こっちの気持ちなんて、まるで関係ないのだと。そういうことを思い出して。


 ふ、と笑う。


「どうだかな」

「どっち?」

「結構話した記憶はあるが、特別仲が良かったかは俺も知らないな。ただ、卒業後にこんな風に妹の誕生パーティで隣り合って座っているイメージはなかったから――」


 彼女に合わせて。

 できるだけストレートで、肩に力の入っていない言葉で。


「普通じゃないか」

「そっか。普通か」


 そっか、ともう一度。

 妙に納得したように、エリィは頷いた。


 さて、と。

 テオドアは、それでやり取りに区切りがついたような気がして、周りを見渡した。


 まだまだ星空の下のダンスパーティは盛り上がっている。

 けれど、そろそろ大人の責任として水を差さねばならない。あまり遅くまで遊ばせて危なくなるのは子どもたちの方だし、泊めるにしても各家庭に――恐ろしいことに王宮まで含めて――事前の連絡くらいは入れなくてはならない。


 気は進まないが、そろそろ大人の仕事の時間だ。


「――ふ、」


 そう思った、瞬間のことだった。


 声に釣られて、隣を見る。

 エリィだった。珍しくおかしげに、口元を緩めて笑っている。


 つい、好奇心で訊いてしまった。


「どうした」

「ううん。大したことじゃないんだけど。さっき、私たちの仲って普通って言ったでしょ」

「ああ」

「だったら、」


 彼女は。


 本当に不思議で。

 本当におかしいと言いたげに。


「私って、そんなに仲が良くない人の魔法の癖を、ずっと覚えてたんだなって思って」


 笑った。



「変なの」



 テオドアは、気付いていた。

 自分の中に、たくさんの適切な言葉があることを。


 いくらでも思い付くのだ。

 この数年、そういう仕事ばかりをしてきたから。そして幸いにも、ちょうど彼女が何を求めているのかも知っているから。


 自分の心の中にあるものから、適切な言葉と論理を選び取って、いくらでも彼女に提示することができる。


 向こうが望むものを、自分が提供できると。こんなメリットがあると。そういうことを弁舌巧みに言ってのけて、交渉と取引に持ち込んで、丸め込むことができる。


 そういう選択肢が、積み重ねた人生の末に自分に与えられたことに、気付いている。


「エリィ・ノア」


 なのに。

 これは一体、何なんだろう。


 心臓が、早鐘を打っていた。

 このまま爆発して、死んでしまうんじゃないかというくらい。


 名前を呼ばれて、彼女が振り向くまでの時間が、永遠のようにも感じた。

 けれど、それは本当は永遠ではないものだから――髪が揺れる。頬が映る。星明かりが、彼女の輪郭に光を差す。


 何、と言って。

 彼女が振り向くから。


 思ったとおりのことを、テオドアは言った。




「好きだ」




 エリィ・ノアの顔が、見たことのない表情を浮かべ始めるのをその目に収めながら。

 やっぱり、テオドア・イルシエーラは、考えている。




 ひょっとして、今この場所、この言葉なら。


 いつかずっと、星を見るたびに、思い出してくれるだろうか。




 エリィの口が、ゆっくり開く。

 テオドアは、彼女の言葉を待っている。



(了)

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爆滅聖女エリィ・ノアの婚約 quiet @quiet

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