Escキーを押せ

村崎

 最近の社内が眠っているみたいに静かなのはみつけるさんが怒っていないからだ。

 少し前まで静電気が発生するのと同じくらいの頻度でギュイギュインギュイギュインギュイギュインという音と、〈パワーハラスメントと思われる発言がありました。これくらいサルでもできるだろ……〉といったアナウンスが響いていた。私たちはそのたびに原因を追究し二度と同じことが起こらぬようアラートを鳴らした人間を罰してきた。たとえば営業部の平沢部長。彼はとくにひどかった。数字の取れない新人に対してすぐ怒鳴る、暴言を吐く、残業や休日出勤を強いる。彼がハラスメントを発動するたび社内に設置された探知機が反応した。ギュイギュインは私たちを進軍させる合図だ。「いまのはハラスメントです」「謝ってください」「反省してください」「自分の発言の何が駄目だったのかをしっかり考えてください」「もう二度としないと誓ってください!」銃撃のように次から次へと言葉が飛び交う。私たちは束になれば強くなれた。断罪しなければならないという規則があれば体は勝手に動いてくれた。

「何回言っても覚えないから少し怒っただけ」というのが平沢部長の常套句で、最初のころは呆れるくらい反省の色が見えなかった。しかし悪いのは問答無用でハラスメントを行う人間である。言い訳は一切受け入れず断罪を続けるうちに平沢部長はアラートを鳴らさず仕事ができるようになった。

 しかしやっと平穏無事になるかと思いきや総務部の春日井さんの「いつ結婚するの?」、企画部の柳谷さんの「上司が全員残ってるのに帰るの?」「そこの掃除しといて」、経理部の川添係長の「一回くらいは飲み会に参加しないと」「もしかして男が好きなの? そっちの人?」といった発言が次々に感知され、アラートはしばらく忙しなく機能した。それに加えて就業時間内に煙草を喫いに席を外す社員も多かった。匂いでバレてしまうというのに喫煙者たちはいそいそと何かから隠れるように背を丸めてニコチンを摂取しにいく。いくら消臭剤でごまかしても優秀な探知機はすぐさま喫煙者を見つけ出し、彼らがオフィスに戻ってきた瞬間ギュイギュインとアナウンス〈休憩時間以外に煙草を喫った人がいます〉を流してくれる。「非喫煙者が働いている時間に一服する行為は許されることじゃありません」「せめて喫煙者を減給してください」「煙草の匂いが精神的苦痛です」私たちは平等でなければならない。訴えの甲斐あって、いまでは「ちょっと一服」などと席を立つ人間はいない。

 探知機の導入を発案してよかった。人事部の私から見ても社内環境はどんどん理想的になっている。社会全体では差別やハラスメントに対する問題が重要視されてきているというのに現場ではまだまだそのステージに追いつけていないというのが不思議だ。結局いくらニュースになったところで対岸の火事という意識の人間が多いということだろうが、我が社でも燃えているところは燃えている。その証拠に上司との関係に悩む社員の相談は後を絶たなかった。相談を受けるたび上司の磯貝さんと対策を練るのだが、異動や注意を促したところで根本的解決にはつながらない。どうすれば心を病まずに過ごせるか、退職を考なくて済むようになるのかを考えていたところにリリースされたのが「ハラスメントみつけるさん」だったのである。

 どこか呑気さがあって重苦しくないネーミングとは裏腹に、みつけるさんは容赦なくアラートを鳴らしていった。「馬鹿かお前は」ギュイギュイン「俺がお前らの頃は……」ギュイギュイン「また子どもが発熱?」ギュイギュインだれかの舌打ちギュイギュインだれかの溜息ギュイギュイン「今度の新人美人だって?」ギュイギュイン……。みつけるさんを発動させる側の多くは長く勤めている社員だった。断罪の果ての退職もありうるのではないかという懸念もあったが、不思議と彼らは頑なに自席に留まり続けるのだった。

 ハラスメントを受けた社員へのケアは主に磯貝さんがしてくれる。磯貝さんは私よりも三年長くこの会社に勤めていて、社員のなかでは古株だ。磯貝さんはとにかく優しくて頼りがいがある。社内随一の良心といってもいいだろう。その証拠に人事部だけはみつけるさんが鳴っていない。

「ミスなんて誰だってするんだから気にしすぎは駄目だよ。それより自分を追い詰めてしまうことのほうがよっぽど悪い。新人のミスをカバーするために上司がいるんだから、とことん甘えちゃえ」

 磯貝さんはミスをする人間を決して責めない。優しい声と表情で落ち込んでいる者を瞬く間に癒してくれる。私もずいぶん磯貝さんには助けられた。だから私も磯貝さんのような上司になりたいし、だれもが磯貝さんのようになればいいと思っている。そうすればきっと間違いなく、ここは理想の職場になるだろう。


「あれ……すいませんここのサイトにログインできなくなっちゃいました」

 最近人事部に配属された萩原さんが申し訳なさそうに私に助けを求めてくる。備品を発注するためのサイトのIDとパスワードは昨日教えたばかりで、さらにそのときパソコンにパスワードを保存しておくと便利だとも伝えたはずだが、荻原さんはそのことをすっかり忘れてしまっているらしかった。

 荻原さんは私にとって初めての後輩だった。磯貝さんが私を育ててくれたように、私も荻原さんを大切に育てていきたいと思う。もちろんみつけるさんを鳴らすことなく。

「IDとパスワードを送りますね。パスワードを打ったときにサイトに保存しますかっていうポップアップが出てくるはずだから、保存しておくと便利ですよ。もしくはメモ帳に保存しておくか」

 忘れてしまっていたのなら、それは私の教え方が悪かったということだ。昨日よりも具体的に丁寧に説明すると、「わかりました!」と返ってくる。荻原さんはなんといっても返事がいい。私が教えに対して元気に頷いてくれる。メモも取ってくれる。やる気のある新人が入ってくれて私も嬉しい。磯貝さんは穏やかな顔で私が荻原さんに研修しているのを見守っている。

 アラートを鳴らさず仕事をするのは簡単だった。アラートを鳴らさないようにと考えながら仕事をすればいいだけだ。相手を傷つけうる言葉が仮に思い浮かんだとしても、ギュイギュインの音が私を冷静にさせる。自分の感情を優先させることよりも罪人になることの恐ろしさのほうが重ければ、自然と相手に優しくなれる。

 なぜ平沢部長たちはアラートを鳴らし続けてしまったのか、それは黙らずにいることができなかったからだ。自分が正しいと思い込んでいるからだ。みつけるさんは彼らに罪悪感を覚えさせ、その重さを教え、間違いを突きつけた。

 今日も静かな社内、カタカタとリズムよく鳴るキーボードの音が心地いい。きっと私はこの先もここで働き続けることができるだろう。

「田島さんって恋愛映画が嫌いって言ってたじゃないですか」

 もうそろそろ休憩時間だな、と考えていたら、唐突に荻原さんに話しかけられた。恋愛映画が嫌い? そんな話を荻原さんとしたことがあっただろうか? 七秒くらい思考を巡らせると、数日前に磯貝さんとの会話のなかで「恋愛映画はそんなに得意じゃなくて」と言った記憶がよみがえる。あのとき荻原さんとは直接話していなかったように思うが、なるほどたしかに席が隣なのだから会話の内容が聞こえていてもおかしくない。

「いや嫌いというか、得意じゃないと言っただけですよ」

 嫌いという言葉はちょっと強すぎる。恋愛映画を愛してやまない人間だって当然いるのだから、配慮という面で私は「そんなに得意じゃない」と言ったのだ。嫌い。この言葉は文脈によってはみつけるさんが反応するのでひやっとする。

「あ、そうなんですね。でも田島さんにぜひ観てほしい映画があって」

「へえ、どんな映画ですか?」

「ふつうの恋愛映画なんですけど、主演女優の子がとにかく不細工なんですよ」

 えっ、と反射的に大きくこぼしたが、荻原さんは気にせず続ける。

「なんというかですね横から見た顔とかがとくに。笑っちゃうくらい不細工で。それがおもしろいんで恋愛映画嫌いな荻原さんにも観てほしくて」

 ギュイギュインギュイギュインギュイギュイン……、〈ルッキズムと思われる発言がありました。主演女優の子がとにかく不細工……〉久しぶりにアラートが鳴った。当然だ。荻原さんの発言はみつけるさんの言う通りあきらかにルッキズム、間違いなく人を不快にさせる。荻原さん以外の人間が音に合わせて立ち上がる。「えっなんですか? えっ」と荻原さんだけが混乱している。私が一部始終を説明しようとしたその瞬間、「申し訳ない誤作動みたいです」と磯貝さんが口をひらいた。

「わたしも隣で聞いていましたが、荻原さんの発言に問題はないようでした。お騒がせしてすみません」

 みつけるさんの音を止めたあと、磯貝さんがぺこぺこ頭を下げる。その姿に裁く準備をしていた社員たちの顔が一気にほぐれる。それまでの張りつめていた空気が嘘のように「そうでしたか」「気にしないでください」と声をかけて自席に戻っていった。

「荻原さん、気にしないでくださいね。みつけるさんが故障したかもしれないので見てきます。田島さんも一緒にいいですか」

「あ、はい。えっていうか今のがみつけるさんですか。初めて聞きました」

 感心している荻原さんには、ルッキズム発言をした自覚など微塵もないようだった。どうにも腑に落ちないまま磯貝さんのあとをついていく。みつけるさんの本体が設置されている薄暗い配管室に入った瞬間、磯貝さんが「すみません」と謝った。

「荻原さんはなんというか、仕方ないんですよ」

「仕方ない?」

「はい。仕方ないんです」

「それは、つまり……?」

「この先荻原さんの発言でみつけるさんが反応したとしても、断罪しないでほしいんです。わたしから全社員に共有しておきます」

「ですが、それはなぜ……?」

「荻原さんにはハンディキャップがあるからです」

 磯貝さんの神妙な面持ちからはこれ以上追及しないでほしいという気持ちが読み取れた。下手なことを言うと、アラートが鳴ってしまうからだろう。

「これを確認してもらえますか?」

 履歴書と一緒に提出されたという荻原さんの診断書だった。

「些細なことです。こんなちょっとしたハンディキャップを理由に不採用なんて差別になります。到底許されることではありませんからね」

 それはまったく磯貝さんの言う通りだった。それに荻原さんは悪気があってあの発言をしたのではない。ただ純粋に私に映画をすすめたいという一心で、そのおすすめの仕方が一般と少し違ったというだけで(そして当然その差異は美徳である)、全社員で断罪するほどのことでもない。

「もちろんアラートが鳴らないよう最大限フォローしてあげるのもわたしたちの役目です。大変かもしれませんが、田島さんには期待してます。一緒に頑張ってくれますか?」

「もちろんです!」

 荻原さんに負けじと威勢よく返事をする。磯貝さんはにっこりと笑ってくれた。

 オフィスに戻ると荻原さんが「ルッキズムってなんですか?」と無垢な表情で聞いてきた。目の前のインターネットで調べればいいのではという考えが一瞬浮かぶも私は荻原さんの上司として責任を持ってルッキズムについて説明をした。


「……あれぇ? うーん……」

 となりで荻原さんが頭を抱えている。あきらかに問題事にぶち当たっているようだが私になにもたずねてこない。わからないことはすぐに聞いてと伝えてあるはず。だが、これはわからないことをすぐに聞ける環境をつくれていない私の責任だ。

「荻原さん、どうしました? なにかわからないことでもありました?」

「あっ田島さんすみません。このエクセル、コピーしようとすると変になるんです」

「変とは……?」

「このセルをコピーするじゃないですか、そんでここにペーストすると、セルが赤い点線? で囲まれてうまくコピーできないんです」

「ああこれはなんか関数が入っちゃってるのかな……」

 荻原さんはこの会社に入る前は飲食店で働いていたらしく、パソコンの知識があまりない。Escキーを押し希望通りのコピー&ペーストを実行すると、荻原さんは「うわっすごいですね!」と大声で感動した。

「いやこんなのは初歩的なことで……」

 そこまで言って口をつぐむ。たしかに初歩的なことだが、そんな初歩的なことにすら苦戦していた荻原さんに対してこの発言は配慮に欠けるのではないか? しかし幸いにもみつけるさんは反応せず、荻原さんも「すごいなあ、すごい」と感心しきっている。

「こういうことになったときはEscキーを押すといいですよ」

「あっこれってエスケープっていうですか」

「そう、脱出とか回避とか、そういう意味らしいですね」

「なるほどぉ」

 そして荻原さんはマウスを動かし右クリックでコピー&ペースを繰り返す。前にショートカットキーを教えたはずだが、私が記憶に残る教え方をしていなかったのかもしれない。

「荻原さん、ショートカットキーを使うともっと早く仕事が進みますよ」

「ああ~……ショートカットキー、苦手なんすよね……。うまく指を動かせなくて、マウスで頑張ります」

 絶対にショートカットキーを使ったほうが効率的なのだが、苦手なことを無理強いさせるのはよくない。私だって、得意じゃない恋愛映画を無理やり鑑賞させられるのは嫌だ。

「なるほど」

 そう相槌を打って、私も仕事に戻る。荻原さんに頼んだ作業は一時間もあれば終わる想定だったが、すでに三時間近く経っている。遅いな、と思った瞬間ギュイギュイン、という音が脳内に鳴り響いた。


 磯貝さんの口から退職します、という言葉がするりと飛び出たときは衝撃だった。磯貝さんは辞めることなくずっと私と働いてくれる人だと勝手に思っていた。

「え、磯貝さん退職されるんですか」

「うん。急でごめんなさい。でも荻原さんも頑張ってくれてるみたいだし、私がいなくても人事部はまわっていきそうだから、いまのタイミングならいいかなと」

 たしかに荻原さんは頑張っている。与えられた仕事を一生懸命こなそうとしてくれている。ただ人事部がまわっているように見えるのは、荻原さんができなかった分の仕事を私がフォローしているからで、実際のところ問題なくまわっているわけでは決してない。

 磯貝さんの退職理由がわからなかった。ここは理想的な職場のはずだし、磯貝さんの年齢的に転職は厳しそうである。いや年齢を理由にするのはよくないことだ。退職の理由が気になるが聞けない。退職後のことを聞いていいのか判断がつかない。聞いたらプライベートに突っ込むことになる? どっちだ? みつけるさんは反応するのかしないのか。

「磯貝さん転職するんですか?」

 荻原さんがたずねた。みつけるさんは沈黙している。

「うん。まあ、そうですね」

 磯貝さんはつまり、自分が退職するから荻原さんを入社させたのか。ふたりで荻原さんをフォローしていこうと言ってくれた配管室での会話がいまはとても遠い。

「田島さんと荻原さんなら大丈夫。無理せず頑張ってね」

 いままで何度も助けられた磯貝さんの言葉が今日はまったく響いてこない。とても無責任な言葉に感じる。

「えっ次は何系の仕事なんですか? やっぱり人事ですか?」

 荻原さんが無邪気に質問を繰り返す。同じ人事なら転職する理由がますますわからない。磯貝さんはあいまいに笑いながら、「うん」「まあ」「そうだね」と具体的なことをひとつも言わなかった。顔がそれ以上は追及するなと言っている。私にはわかる。けれど荻原さんはわかっていない。

「荻原さん、あんまり聞きすぎても磯貝さん困っちゃうから」

「あっ。そうですよね。すいません!」

 荻原さんは注意を素直に受け取ってくれる、理想的な新人だ。

「じゃあ、まあ、あとひと月、よろしくお願いします」

 私が言うと磯貝さんは「こちらこそ」と優しく笑った。


 磯貝さんが退職してから残業が続いている。もちろん終電近くまで働くなんてことはないが、少しずつ作業が後ろ倒しになっているから残らないと終わらない。荻原さんは相変わらずショートカットキーを使わずにマウスでカチリカチリとコピペをしているし、よく印刷機を詰まらせるし、履歴書の扱いがいつまでも杜撰だし、IDとパスワードを忘れてしまう。

「そういえば最近野菜を生で食べるのにはまっていて」

 荻原さんは手を動かすより口を動かすのが好きだ。雑談がひとつもない職場は殺伐していてよろしくないので、大いに話したいことを話せばいいと私は思っている。

「白菜がとくにうまいんでおすすめです」

 そうなんだ、以外の返答が浮かばない。しかしこれではあまりにも素っ気ないだろうか? 冷たい上司は理想を壊す。けれどどうしても「そうなんだ」以外の言葉が出てこない。白菜を生で? 全然おいしそうだと思えない。はっきり言ってどうでもいい。そんなことより手を動かして仕事を少しでも終わらせてほしい。ギュイギュインと音がする。私はいま、言葉にしてはいけないことを思ってしまった。口に出していたらみつけるさんに怒られていたところだ。

「ん? あれ……すいません田島さん。エクセルがまた変になって」

 ぽかんとした表情の荻原さんに苛立つ。だぁからEscキーを使えって何度も言っただろっ。いい加減覚えろや。口に出さずに体内のみに言葉を放流したつもりだった。しかしギュイギュインギュイギュインギュイギュイン……〈パワーハラスメントと思われる発言を確認しました。だからEscキーを使えって何度も言っただろ、いい加減覚えろや……〉。到底ゆるされない言葉を私は吐いてしまったらしい。断罪のため社員が私に向かってくる。私が悪いのか? 聞くまでもない。私が悪い。

「パワハラです」「謝ってください」「荻原さんを傷つけています」「もう二度としないと誓ってください」「反省してください」断罪の言葉を次々に浴びせにかかってくる社員のなかには平沢部長もいた。まったく濁りのない目で私の罪を責め立てている。ああ平沢部長、あんなにアラートを鳴らす側だったあなたもようやく罪の重さを知ることができたんですね。ギュイギュインは私が荻原さんに謝らないかぎり鳴りやまない。思わず強い口調で叱ってしまって申し訳ない、私は荻原さんを責めていない、私の教え方が悪かった、もう一度、いや何度でもいちからしっかりやってみよう、こういうときはEscキーが役に立つ――。アラートを止めるための言葉は簡単に思いつくのに、なかなか口にできなかった。磯貝さん、あなたはなぜ辞めてしまったんですか。なぜ私を置いていってしまったんですか。私は本当に悪いんですか。幾度目かの「反省してください」が耳に入ったとき、私は駆け出していた。とにかくこの場から立ち去りたかった。自分の罪から逃げたかった。


 喫煙所と指定されているわけではないのに喫煙者たちがどこからともなく集まりなんとなく喫煙スペースになっているビルの裏側に逃げ込んだ。そこにはだれかが置いた空き缶があり何本もの吸い殻が突っ込まれている。ここに来ると必ず空き缶が置いてある。追いやられた喫煙スペースで私は知らないだれかの優しさを感じる。胸ポケットに入れている煙草を取り出して火をつけ思いきり喫み込んだ。みつけるさんを導入する前から私は休憩時間外の煙草は控えていたし磯貝さんが幼少のころ肺の手術をしたと聞いてからは休憩時間内でも煙草をやめた。それは磯貝さんへの配慮だった。

 一般的に臭いといわれる煙草はしかしとてもうまい。肺は重くなるのに頭がやたらすっきりする。ああああ――と煙を吐き出すとギュイギュインが遠くなる。ずっとここで煙草をふかしていたいと思う。思うけれど私はあそこに戻らなくてはならない。いまだみつけるさんは鳴っているだろうし、取り残された社員は混乱しているだろう。なにより私は荻原さんに謝らないといけない。

 五分以上かけてゆっくり煙草を消費した。オフィスに戻ったら休憩時間外の煙草の匂いを感知して、さらにみつけるさんが怒り出すだろう。身体のだるさを感じながらも足を一歩踏み出すと、前方から男の子と男の子が手をつないで歩いてくるのが見えた。思わず視線を送ってしまってギュイギュインギュイギュインとみつけるさんが狂ったように頭のなかで鳴り響く。違う私は決して差別とか偏見とかそういうつもりでふたりを見たわけではない。けれど「あっ」と思ったことは間違いようのない事実で、それに仮に男の子と女の子が手をつないでいるだけだったら私の視界に入ることすらしなかっただろうということを思うとやはり私は罪人である。旧態依然とした価値観をいまだ持っている自分を自分が容赦なく責める。自分はいくら傷ついても構わない。自分よりもよっぽど他人のほうが大切だ。痛みを感じることすらおこがましい私の体がすれ違って去ってゆく男の子たちのほうを振り返る。恋愛に性別は関係ないとわかっているのに男と女の恋愛を普通だと思い込んで生きてきた愚かな私はきみたちのことをまるで珍しいものでも見るように視線を投げてしまった本当に申し訳ない、と私は心の底からの謝罪を捧げた。これで赦罪になるのかはわからない。だからだれかわかりやすく私を裁いてほしい。

 そうだ私は裁かれたい。裁かれなければならない。オフィスに戻れば私は裁かれる。罪から解放されて楽になれる!

 ギュイギュインギュイギュイン……〈休憩時間以外に煙草を喫った人がいます〉。戻った私に社員たちが駆け寄ってくる。見ようによっては感動的な場面に映らなくもないかもしれない。さあ私を裁け、とにかく裁け。「同じ給料をもらっているのだから非喫煙者と同じ時間働いてください!」「荻原さんに謝ってください」「暴言は決してゆるされることではありません」正しい弾丸をこの身に受けながら私は荻原さんを見やる。荻原さんの顔は傷ついていた。私に怒鳴られて落ち込んでいた。謝ろう。謝ってまたここを理想の職場に戻そう。私が口をひらいたその瞬間「でも何度も同じこと教えたんだろ?」弾丸に紛れ込んだ細い針のような声が私に届いた。

 視線だけを動かして周囲をうかがうと平沢部長と目が合った。けれど彼の口は「謝ってください」と動いている。平沢部長じゃない、いまのは私に都合のいいただの空耳だ。私は加害者ではないと主張したいがための都合のいい言い訳だ。ギュイギュインを止めるため、私は――。

「でも何回も同じように教えてるんですよ。それなのに覚えてくれない。だから少し怒っただけです」

 みつけるさんを怒らせてしまう人間のことが不思議で仕方がなかった。口をひらくと問題発言をしてしまうなら黙ればいいだけなのに。そう思っていた。それなのにいま私はまったく黙ろうとしていない。

「ショートカットキーも使ってくれない。非効率的なせいで私の業務量が増えている。つまらないしょうもないことはしゃべるくせに手をまったく動かさない。これって私のせいなんですか? 私の教え方が全部悪いんですか? 覚えようとしない側にも問題あるんじゃないですか?」

 私の問いによって断罪の嵐が少しの間静まり返る。荻原さんはほかの部署の人間に守られているような位置から私を見つめていた。

「でも、荻原さんは、あの、仕方ないから……」

 だれかがこぼした。仕方ないって一体なんなのだろう。荻原さんはすべてその一言でゆるされてしまうのか? 私たちは本来、みつけるさんを鳴らさないためではなく、相手のことを思いながら仕事をするべきではないのか? それが理想の職場なのではないのか?

「私はただここを理想の職場にしたいだけです」

 理想の職場とはつまりハラスメントも差別も偏見もない、皆がストレスをまったく抱えず平等に仕事ができる環境。でもその皆のなかに私自身を含めると一気に理想が崩れてしまう。それなら私は自分より他人を大切にするしかない。

「荻原さん」

 みつけるさんが反応しないように溜息ではなく深呼吸をした。

 白菜を生で食べることにハマっている荻原さん。ショートカットキーを使うのが苦手な荻原さん。女優の不細工さを笑う荻原さん。仕方ないという理由で皆に守られる荻原さん。

「先ほどは言いすぎました。ごめんなさい。気を付けます。それから煙草を喫いに行ってしまったことも。今後ないようにします」

 頭を下げると、ほう、と社員たちの安堵の息が聞こえてきた。だれかがみつけるさんを止めにいき、社内はまた静かで居心地のいい空間に戻る。

「あっ。ぜんぜん。大丈夫です!」

 顔を上げた私に向かって、荻原さんが元気よくそう言った。どうやら私は赦免されたらしい。再び平沢部長と目が合う。悪いのは問答無用でハラスメントを行う側。そう言われた気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Escキーを押せ 村崎 @mrsk351

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ