林檎

鍋谷葵

林檎

 鳥の糞と、埃と、蜘蛛の巣で曇り切った電光掲示板には終点の時刻が灯される。途端、右手に持つビジネスバッグと左手に持つ紙袋が酷く重くなる。

 田舎の冬は酷く寂しい。

 それは延々に広がる暗闇と冷たい田畑の臭いのせいだ。

 畑に面した無人駅のプラットホームのベンチに腰を下ろしていると、詩人あるいは哲学者になったような気分になる。ベージュ色の重いウールコートのポケットに両手を突っ込んで、蜘蛛の巣と埃が堆積した錆びついた鉄骨の梁をぼうっと見つめているとそんなことばかり考えてしまう。冷たく乾燥した夜風が、未熟な哲学を深めていく。

 しかし、こんなことは無意味だ。現状が解決されるわけでもない。強いて利点を上げるとすれば、視界が開けるくらいだ。けれど、自分と他人とが不連続な存在であることを認知してしまって、より自分の殻に閉じこもってしまう要因となる。

 くだらない。

 僕が考え付くくだらない語群に、そんな高尚な意味が含まれている訳がない。僕の言葉の中にあるのは、精々この煙草一本に含まれるニコチンの心地良さくらいだ。上手くいかない日常を、一瞬だけ忘れさせる諦観の情だけだ。

 苛立たしさを隠すため、もしくはこんなN県O市のX駅で電車を待っている自分という存在を認知するため、少し湿気った煙草を咥える。それから一本五十円の毒に蛍光色のライターで火を点け、寂れた空に紫煙を吐く。アンモラルな存在として居れば、誰かに見てもらえるような気がするから。もっとも、いまは夜更けだ。誰も認知してくれない。

 電車が二つ前の駅を通過する知らせがホームに響く。こんな時間に知らせたところで、何になるんだろう。いや、働き続けた人間にとってこの機会音声は福音なんだろう。忙しい一日が終わる合図なのだから。ただ、同じ境遇にある僕の耳にこの音は酷く虚しく響く。

 臭くて汚い煙を供給する毒も、ほとんど燃え切ってしまった。フィルター付近の辛さを味わうのは御免被る。さてアンモラルな存在であるのならば、僕はこの吸殻をどうするべきなんだろう。聞くまでもない。分かり切っている。僕がここに居たという存在を残したいのであれば、線路にでも、ホームにでも、捨てておけばいい。そうすれば僕がここに居たという物的証拠は残る。存在はこの吸殻によって証明される。世界から見放されたような空間にも人がいることを、人は認める。もっとも、それをできるだけの勇気が僕にはない。どれだけアンモラルな存在になろうとしても、臆病風に吹かれて、いつもと同じく緑色の袋の中に吸殻を入れる。

 たった一つの間違いすら犯せない自分は腹が立つ。どうせだったらやくざ者になればいいのに、モラルに徹して、自分のことを連続的な存在だと思い込んでしまう。上司の間違った意見に同調して、一切の自我を出すことなく、淡々と業務を遂行するだけの単一的な機械であると認識してしまう。それが無性に腹立たしい。けれども、それが僕だ。だから、悔しさを抱えたままこうしている。

 どうやら電車は一つ前の駅を通過したらしい。無機質な機会音声がそう伝えてくれた。けれど、家に帰れるというのに気は全く乗らない。今日が月曜日だからだろうか。いいや、これが金曜日であったとしても僕の気が晴れることはない。

 気が晴れないのであれば、現実逃避をしよう。

 臆病者は自分に言い聞かせて、再び煙草を咥える。ただ、残念なことにライターオイルが切れてしまったらしい。偶然ではなく、現実を忘れようとした罰なんだろう。咥えていた煙草をポケットの中に戻して、再び梁を見つめる。汚れ切って、錆び切った年代物の梁にはなんだか親近感が湧く。いや、梁だけに親近感が湧くんじゃない。駅舎すべてに親近感が湧くんだろう。多くの時間の堆積だけが、僕の心に寄り添ってくれる。

 けれども、そこに僕が居ないというのは腹立たしい。何か臆病な理性を肯定しながらも、この空間に残せるものはないだろうか。いや、僕の手元にそれはあるじゃないか。

 ベンチの左側に置いた紙袋の中を覗きこむ。同僚のSさんがくれた真っ赤な四つの林檎は、電灯に照らされ、艶やかな表情を見せている。ただそんなことお構いなしに、紙袋に手を突っ込んで、最も小さな林檎を取り出す。テニスボールほどの小さな林檎を。

 小さな満足感を引っ提げ、立ち上がる。

 そして、黄色い線の外側に立つ。

 そして、右手に持つ林檎をバラスト際の土が露わになっているところに落とす。

 謎めいた達成感と一抹の不安を抱きながらベンチに戻ると、電車のヘッドライトが薄暗いホームを照らし始める。

 電車はホームでいつものように停車する。

 僕は精一杯ほくそ笑む。

 右手に紙袋、左手にビジネスバックを持って、黄色い線の内側に立ってほくそ笑む。


「汝等ここに入るもの一切の望みを棄てよ。そして、恐れ慄け。未来の破壊に」


 そしてぽつりと冬の空に消える言葉を呟いて、やってきた電車に乗り込む。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

林檎 鍋谷葵 @dondon8989

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ