鬼の面

@ninomaehajime

鬼の面

 あの日の夢を良く見る。

 夜陰やいんが忍び寄る時刻で、周囲の建物は濃い陰影をまとっていた。その日は遊びの帰りで、心地良い疲労感に秋風が滲みた。路面に落ちた電柱の影が溶け、夕闇と同化する。まだ幼い「僕」はお腹を空かせ、家路を急いでいた。

 そのときだ。空がにわかに明るくなった。頭上を仰げば、紫紺色しこんいろをした上空を橙色の光を放つ隕石が落下していた。遠近感が狂って大きさは定かではない。軌跡が尾を引いて、空を泳ぐおたまじゃくしにも見えた。

「僕」が目をみはる中、その発光体は緩やかな速度で神社がある山の方角へ落ちていった。周りの木々を照らしながら、山の中腹に吸いこまれていくのを視認した。

 呆気に取られていた「僕」は、ほとんど無意識に駈け出した。あの隕石の元へ行かなければならない。突如として湧き上がった衝動に突き動かされ、空腹感さえ忘れて山の方角へ向かった。長い坂道が中途にあり、太腿ふとももの筋肉が悲鳴を上げても、走ることを止めなかった。

 苔むした高い階段を駆け上がり、朱色の鳥居をくぐった先に現われたのは、黒々としたもりに囲まれた小さな神社だった。境内けいだいは荒れ果てて、掃き清める者がいない参道は落ち葉と枯れ枝が積もっていた。手水舎ちょうずしゃの水は涸れ、列を成す灯篭は所々が欠けている。

 社殿の前には賽銭箱が置かれていたが、盗難にでも遭ったのか木の格子が割られていた。鈴の尾が千切れ、紙垂が垂れた本殿の奥へと続く戸は片側が喪失し、濃い闇を覗かせていた。かつて、この中に御神体を納めていたのだろうか。

 風が吹いた。視界を枯れ葉が一斉に舞い、山林へと「僕」を誘っていた。寂れた神社の境内から山中に入り、直感に従ってあの光を目指した。折り重なった枝葉の隙間にはとうに星々が点っており、濃くなった夜闇やあんの中で、繁茂はんもした草木を掻きわけて頬や腕に切り傷を作った。

 やがて草葉を揺らす音に交じって、柔らかな水の音が耳朶じだに触れた。この山には沢があるのだと初めて知った。

 橙の光源が静かに明滅していた。どうやら沢の近くにあるらしい。息を切らしながら、山を歩くには不向きなサンダルで必死に向かう。子供の好奇心だけでは説明できず、強迫観念じみた焦燥感が「僕」の心を支配していた。

 やがてそれが間近に迫り、眩しさに目を開けていられなくなった。「僕」は一生懸命手を伸ばした。胎動する光に指先が届く寸前で、溢れ出した光の奔流に意識が呑まれた。何が起こったのか、よく覚えていない。

 ただ不思議な体験をした。山から湧き出た水が苔むした岩を洗いながら流れ落ちている。「僕」は垂れた手を沢の流れに浸し、岩場の上で仰臥ぎょうがしていた。目を見開き、糸が切れた人形のように意識を失っているのが見て取れた。

 俗に言う臨死体験だったのかもしれない。遥か天を仰ぐ「僕」を、別の自分が俯瞰ふかんしていた。子供の視点よりも随分と高い位置にあって、さながら宙に浮いている錯覚を抱いた。それでいて、足の裏にぬめった岩の冷たさを感じており、幽体離脱にも体の感覚があるのかと不思議に思った。

 倒れた「僕」に向かって、恐々と手を伸ばす。妙に赤みがかった視界から現われたのは、己のものとは思えないほど太く、赤錆びた腕をしていた。

 全てが終わった後で、僕は木々のあいだを飛び交う懐中電灯の光と呼び声を聞いた。

 後に聞かされた話だ。夜になっても帰らない「僕」の安否を案じた両親が警察に通報し、山の中腹にある神社へ向かう子供の姿が目撃されていたことによって、町の青年団も総動員して山中の捜索が行われた。彼らの懸命な捜索活動により、沢のそばに倒れていた僕の発見に至ったのだ。

 夢うつつで覚えているのは、全身を包む毛布の温かさと男性の大きな背中、回転灯の赤い光。担架に乗せられて運ばれる自分の体にすがり、「僕」の名を泣き叫ぶ女性の声。きっと麓で祈りながら待っていた母親だったのだろう。

 ああ、それが自分の名前なのだ。心の中で幾度となく反芻はんすうした。

 搬送された病院で精密検査を受けた。幸いにも担当した医師には異常を発見できず、数日ほどで退院できた。

「どうして山になんか入ったんだ」

 保留されていた父親の叱責に、僕は何も答えられなかった。今まで接した人間の中に、あの日の隕石のことを口にする人間はいなかった。

「もういいじゃない、あなた。この子も無事だったんだから」

 妻に諫められ、父親は渋々ながら追及するのを止めた。ただし二人には、もう二度と危ない場所には入らないこと、決して夜には出歩かないことを誓わされた。

 かれこれ六年ほど前の話だ。

 高校生になった現在、ごく平凡な生徒として学生生活を送っている。ホームルームの時間で、担任の連絡事項を伝える事務的な声音が眠気を誘う。窓ガラスには気だるげに頬杖をついた、起伏に乏しい自分の顔が映っている。とくに目鼻立ちが薄く、他人の印象には残らない顔立ちだろう。

 窓の向こうにはジオラマめいた町並みが広がっている。地方の片田舎に過ぎず、都会に林立する高層ビルなどとは縁がない。精々、町を横断する形で長い線路が敷かれている程度だ。遠景に角張った電車がゆったりと走っている様子は、やはり鉄道模型じみて現実味に欠けていた。

 山々の稜線りょうせんに囲まれており、僕の家がある住宅地とは近い位置にあの野山があった。標高はそれほど高くなく、枯れた色に紅と橙の彩りを添えていた。初秋を漂わせる山腹に、枝葉に半ば隠された細い階段がかすかに視認できた。地上と件の神社を繋ぐ道だ。

 確かに「僕」が目の当たりにしたはずの隕石は、誰かが話題にすることはなかった。他の目撃者は皆無で、行方不明になった少年が山中で無事保護されたという旨の記事が地方新聞に掲載されたのみである。

 あれは決して幻ではない。僕はそのことを知っている。

 知らず頬に爪を立てていた。そのまま指を上下すると皮膚組織が削り取られ、赤々とした爪痕が残された。痛みはない。

 ただ最近、無性に顔が痒い。



 ひと昔前、宇宙からの侵略者から地球を守る秘密組織を描いた映画が話題になった。現在は閉店したビデオレンタルの店に当時のポスターが貼られており、黒服に身を包んだ黒人俳優と壮年の名優がサングラスをかけ、近未来的な造形をした銃を両手に構えていた。色褪せたポスターの中で彼らは勇ましくも滑稽に思えた。

 SFコメディ映画としてのおもむきが強い作品だが、原型となったのは1950年代以降にアメリカなどの英語圏で流布るふされた都市伝説である。通称メン・イン・ブラック。二本では黒服の男たちとして知られる。この噂の詳細は次の通りだ。

 U.F.O。いわゆる未確認飛行物体を目撃した人間の家に、ソフト帽にサングラス、黒い背広という出で立ちをした男たちが現われる。政府の一員を名乗る彼らの振る舞いは奇矯ききょうだ。左右で違う種類の靴を履いていたり、フォークの扱い方さえ知らない。どこか不気味な雰囲気を漂わせる男たちは、目撃者に対して自分が見たものを口外しないように要求する。対象が従わない場合は脅迫行為に出ることもあるという。

 ある説では彼らの正体は宇宙人そのものであり、自分たちの存在がおおやけにならないように人間に偽装して口止めしていると言われている。

 無論、真偽の程は定かではない。モチーフにした映画の流行もあって日本での知名度こそ高いが、所詮は荒唐無稽な都市伝説に過ぎない。

 ところが奇妙な噂が蔓延していた。

 この町に黒服の男が現われたのだという。正確には、それらしい人物を目撃したという人間が僕の周りで増えてきているのだ。

 彼らは口々に言う。まるで鴉の羽を思わせる黒いロングコートを纏っていた。身の丈二メートルを超える大男である。夜でも黒いサングラスをかけており、夜道に佇んで通行人を観察していた。にしきの布に帯で留められた、竹刀らしき物を手にしていた。

 聞いた限りでは、ただの不審者としか思えない。大体、宇宙人やU.F.Oといった要素が一切出てこないではないか。

 そういった疑問を隣の席のSにぶつけると、彼女は少し煩わしそうに言った。

「知らないよ。そういう伝言ゲームなんじゃないの」

 昼休み、彼女は読書に勤しんでいた。少し古びた文庫本の裏表紙には図書館の蔵書印がされている。著者名はH.G.ウェルズで、題名から察するにSF物らしい。

 教室に生徒の姿はまばらだった。校庭でサッカーに興じる男子の声が窓越しに聞こえる。クラスメイトの多くは友人たちと思い思いに過ごしているのだろう。

「伝言ゲーム?」

 僕が尋ねると、Sは眼鏡のつるを撫でた。

「連想ゲームでもいいかもね。最初は黒い服を着ただけのおかしな人だったのに、誰かが都市伝説の黒服の男と言い出した。皆が噂してるうちに、U.F.Oの存在を隠蔽するために監視してることになった。ただそれだけ」

 淡々と述べるうちにも指先が頁を繰る。この素っ気なさには慣れていたので、器用だな、という程度にしか思わなかった。

 Sはクラスで少し浮いていた。別にいじめられているわけではない。積極的に交友を広めるよりは架空の物語に浸る方を選んだだけだ。授業以外の時間はほとんど読書に費やしており、周囲からは本の虫と揶揄されていた。

 一方、僕はというと広く浅い人間関係を築くことに腐心ふしんしていたため、機会があればSにも話しかけた。当初はほとんど相手にされなかったが、最近はSが根負けする形で雑談にも応じてくれるようになった。

 椅子の背もたれに肘を乗せ、横を向いた姿勢でSに顔を向けながら話を続けた。話題が途切れれば、彼女はすぐに本の世界に没入してしまうことを知っていた。

「でもさ、この前U.F.Oを見たって騒いでた奴がいたぜ。何か関係があるんじゃないのか」

 数日前、クラスでもお調子者のCがU.F.Oを目撃したと教室で吹聴ふいちょうしていた。普段から不真面目な態度が目立つために、周りからは冗談半分で受け止められていた。

「大方、人工衛星でも見間違えたんでしょうよ」

 Sの返答はにべもない。おそらくCのことが好きではないのだろう。彼が授業中に騒いでいるさまを見て眉をひそめていたのを、僕は目撃している。

「人工衛星って地上から見えるもんなの」

 素朴な疑問だった。Sは眼鏡の奥から鬱陶しそうな眼差しを寄越したが、質問には律儀に答えてくれる。本の虫なだけあって博識な彼女との対話は、男子と馬鹿話するよりは有意義だった。

 Sは活字から目を外して、窓越しの空を仰いだ。ややくすんだ青空に薄雲がまんべんなく広がっている。

「ここは片田舎だから、よく空気が澄んだ日の夜には人工衛星が反射した光でも肉眼で見えるんだよ。星とそっくりな光点がゆっくりと動いて、人によってはそうね……U.F.Oと思うかもしれない」

 その表情は普段と少し印象が違っていた。怜悧れいりな雰囲気が薄れ、年相応のあどけなさが滲む。その変化に少しばかり戸惑った。

「Sも見たことがある?」

 僕が尋ねると、彼女は漠然と空を眺めながら、

「いつもじゃないけど、たまに」

 そう答えた。

「いつもって、よく空を見上げてるの?」

 僕の言葉に、Sははっとして顔を戻した。少しばつが悪そうな顔をして、文庫本に目を戻す。

「別に、たまたまだよ」

 どっちだよ、と釈然としない気分だった。紙をめくる音が鼓膜に触れる。廊下から話し声とともに何人かの生徒が教室に帰ってきていた。黒板の上にある時計を見れば、昼休みの終わりを告げる予鈴の時刻が迫っている。

「聞いてみればいいじゃない」

「え?」

 本から目を離さず、Sが言った。僕が発言の意味を考えていると、彼女は続けた。

「だからその黒服の男に直接聞けばいいでしょう。あなたは何者ですかって。U.F.Oとは関係してるんですかって」

 僕は思わず吹き出す。彼女は至って真面目だった。他人とはどこかずれた感性がSにはある。

「冗談だろ。そんなの答えてくれないだろうし、ただの頭のおかしな奴だったらどうするんだよ」

 知らないよ、とSは素っ気なかった。同時に予鈴が鳴ったので、この話はおしまいとばかりに文庫本を閉じた。



 クラスメイトの知り合いからカラオケに誘われたが、丁重に断った。相手も期待していなかったらしく、そのまま学校の校門で別れた。付き合いの悪い奴だと思われているに違いない。

 六年前の出来事から門限が厳しく定められ、部活にも入らず、真っ直ぐ家路に就く。高校生にもなって夜遊びもできないなどはなはだ情けない話である。

 母は週に三日ほど近所のスーパーにパートとして働きに出ていた。今日はシフトに入っており、いつも財布にしまっている家の鍵で玄関を開ける。明かりが消された廊下に斜陽が差しこんだ。僕は学生靴を靴箱に入れ、二階へと続く階段を上っていく。

 我ながら飾り気のない部屋だった。窓のカーテンを透かして、少し赤みを帯びた薄黄色の日差しがベッドのシーツを染め上げている。すぐそばの壁際には勉強机があり、丸っこい形をした目覚まし時計がチクタクと針を刻んでいた。

 僕は窓を遮ってベッドに移動した。明かりは点けておらず、自分の影が肥大化して壁紙に映し出される。フローリングの床に鞄を放り投げ、ベッドの上に仰向けになった。サスペンションが鈍く軋む。

 夕日を照り返した地球儀が本棚の上に鎮座していた。趣味と呼べるものはなく、知り合いに勧められた漫画や雑誌が棚の中に収められている。あくまで話題に合わせるために購入したもので、面白いとは全く思わなかった。

 本当に興味を抱いたのは、あの青い星の緻密な模型ぐらいだった。

 今日はたまたまU.F.Oから人工衛星の話に移っただけで、とくに天文学に関心があるわけではない。学校の教材を購入するために足を運んだ文房具屋で、この地球儀に目が吸い寄せられた。ほとんど店の飾りとして長く置かれていたせいか、精緻せいちに描かれた北半球のユーラシア大陸や北極海などが埃を被っていた。年老いた店主も商品として認識していなかっただろう。

 冴えない学生が地球儀を凝視するさまは、さぞ奇異に映ったに違いない。弓と呼ばれるフレームと台座によって固定されたミニチュアの地球は、これまでになく欲求を刺激した。

 なけなしのお小遣いをレジのカウンターに全額差し出したとき、いつも眠たそうな店主が面食らっていたのを覚えている。

 そうして手に入れた地球儀を丁寧に磨き、部屋に飾った。経線と緯度が神経のように張り巡らされた球体を何時間も見つめた。実際の天体と同じく公転面に対して地軸が傾けられており、明かりを消すと宇宙からこの星を観察している気分になって、奇妙な懐かしさが胸を満たした。

 地球儀が黄昏に染まる。夕日が沈むにつれて、夜の気配が外から滲み出す。クローゼットなどの家具が陰影を帯び、僕自身も夕闇に呑まれた。まばたきさえせず、二時間ほどベッドに仰向けになって身じろぎ一つしなかった。

 陰をまとう惑星の地表から何かが飛び立った。小刻みな羽音を発するその生き物はどうやら蠅で、上下運動するはねの模様がよく見えた。大きな八の字を描いて天井を飛び回り、螺旋を描く軌道で高度を落とす。

 羽ばたきが鼻先をかすめた。着地する場所を探しているらしく、ベッドの上を低空飛行していた。まるで逡巡する間があり、僕の眼球の上に降り立った。

 長時間見開かれたままで、水分を失って乾いた目を生物の部位とは認識しなかったのだろう。僕は眼球運動を控えたまま、蠅の細部を観察する。節足動物特有の複雑な構造をした腹部から、細かな毛がびっしりと生えた六本の肢が伸びている。まるでエイリアンだ、と思った。

 蠅は前肢を器用に使い、二本の触角を洗っている。頭部の大部分を占める複眼が室内の様子を映し出す。足場にしている僕には一切注意を払うことがない。警戒心の強い昆虫を騙しおおせていることに大いに満足した。

 玄関の鍵が開く音がした。時間帯から考えて、母親が帰宅したのだろう。食材が大量に詰まったスーパーの袋を抱え、これから夕飯の支度に取りかかるはずだ。

 ところが階下から「僕」の名前を呼ぶ声がした。いつもなら夕食ができるまで放っておくのに、一体何の用事だろう。

 微細な反応を察知したのか、網膜に肢を下ろしていた蠅が飛び立った。その小さな標的目がけて、ベッドの下に垂れていた右手を振り上げた。握り拳を顔の前に持ってきて指を開くと、黄ばんだ体液とともに翅や肢の残骸が手のひらに付着していた。それらを舐め取ると、少し甘い味がした。

「ねえ、帰ってるの?」

 再び返事の催促が響く。全く、何だというのだろう。僕は億劫に体を起こし、頭を掻きながら部屋の出口へ向かう。水分を補給するために、眼窩の中で眼球を転がした。二つの視界が別々に動き、室内の天井と床が交錯した。幾度かまばたきを繰り返し、瞳に潤いが戻ったのを確認して部屋を出た。

 欠伸あくびを噛み殺しながら階段を下りると、台所の方から物音がする。父の帰宅に間に合わせるために夕食の支度を急いでいるのだろう。パートから帰ったばかりで疲れているだろうに、頭が下がる思いだ。

 レースの刺繍があしらわれた暖簾のれんから顔を出すと、エプロンを身に着けた母の後ろ姿が見えた。ヘアゴムで髪を束ね、質素なTシャツから肩甲骨がわずかに浮いている。痩身だから、きっと可食部は少ないだろう。

 母は肩越しに振り返って眉を顰めた。

「また制服のまま寝てたのね。皺になるから止めなさいと言ってるでしょう」

 顔を見るなり小言だ。僕はつっけんどんな態度を取った。

「うるさいな。それより、何の用?」

 生意気になって、と言わんばかりに彼女はため息をついた。水道の蛇口を捻り、じゃがいもを洗い出す。冷蔵庫の近くにスーパーの袋が置かれ、長ネギやパックの豚肉がはみ出していた。今夜は肉じゃがだろうか、と見当をつけた。

 調理を続けながら母は言った。

「学校で何か言われてない? 不審者に気をつけなさい、とか」

 唐突な質問だった。妙な噂話こそあれ、担任から直接注意を受けたことはない。僕がそのむねを伝えると、「そう」と呟いた。

「何かあったの」

 問い返すと、わずかな間があった。流水がシンクで弾ける音が響く。

「さっき妙な人がいたのよ」

 彼女は動きを止めた。

「ちょうど通学路のあたりかしらね。道端で背の高い人が立ってたの。何をするでもなく、ぼうっとしてて。どんな人か見づらくて、夕日の陰になってるのかと思ったんだけど」

 全身が黒ずくめだったのよ。母は声音を落とした。

「しかも手には木刀のような物を持っていてね。母さん、怖くなって。道を引き返そうかと思ったんだけど、変に反応したら後ろから殴りかかられそうで」

 スーパーの袋を握り締め、そのまま足早に通り過ぎることにしたそうだ。なるべく視線を合わせなかったので、ろくに顔も確認できていない。ただ、暗いにも関わらずサングラスをかけているらしいことはわかったという。

 長身の男は母が目の前を通り過ぎても反応しなかった。胸を撫で下ろしたのも束の間で、後ろから低い声がしたそうだ。

「知っていますか」

 母は全身が強張った。おそるおそる後ろを振り返れば、やはり男は同じ方向を向いていた。朱く染まる山の稜線に、溶けた夕日がゆっくりと呑まれていく。

「あの山には昔からよく隕石が落ちたんですよ」

 頭上でけたたましい鳴き声がした。中空に張った電線の上に数羽の鴉がいて、黒い瞳で彼女を見下ろしていた。その光景に不吉なものを感じて、母は急いでその場を後にした。男が追いかけてくることはなかった。

 すでに蛇口の栓は閉じられており、静寂に響く水滴の音が鼓膜を打った。

「気味が悪かったわ」

 母は呟いた。気持ちを落ち着かせるためか、肩を大きく上下させる。平静に見えて、まだ動揺が残っているのだろう。

「だって、そうでしょう。この町に隕石が落ちてきたなんて聞いたことがないわ。きっと頭がおかしくなって、現実と妄想の区別がつかなくなってるのよ」

 僕は答えなかった。

 その後もじゃがいもの皮を剥きながら、「学校に伝えた方が良いかしら」とか独り言を呟いていた。僕は手持ち無沙汰になって、部屋に戻ろうかと考えた。背を向ける寸前で、名前を呼ばれた。

「くれぐれも気をつけなさいね」

 こちらを振り向いた母の表情は真剣だった。

「なるべく一人で帰らないように、人気のない道は通らないこと。変な人を見かけたら絶対に近寄ったらだめよ」

 母は睫毛を伏せた。

「もうあんな思いはこりごりだからね」

 六年前のことを言っているのだろう。「僕」の記憶と照らし合わせても、母の心配性が強まったのはあの日からだ。彼女を安心させるために僕は笑ってみせた。

「大丈夫だって。何も起こらないよ」

 少しの間があって、母は言った。

「なら、いいんだけど」

 また調理に戻り、金属製のボウルにじゃがいもが積み上げられる。母の痩せた背中が言った。

「晩御飯ができたら呼ぶから」

 僕は適当に返事をして、水音が響く台所を後にする。二階への階段に上る途中で折り返しがあり、小窓から真円に近い月が覗いていた。強烈な痒みを覚えて、顔面に両手の爪を突き立てる。爪の先が皮膚を突き破り、生温かい液体が顔を伝う。濡れた指のあいだから四角に切り取られた夜空を睨んだ。

 危険だ。もっと情報を集めなければならない。



 Cは教室の一角に陣取り、行儀悪く机に尻を乗せていた。痩せぎすで手足が長く、やや猫背気味のために猿を思わせる。授業中でも落ち着きがないから、そういう印象を受けるのだろうか。

 先生方から素行が悪いと言われる面々の中で、Cは中心的人物と言えた。物怖じしない性格から交友関係が広く、噂話には敏感だ。いち早く得た情報を自慢げに披露する姿をよく見かけるが、話の展開が荒唐無稽でクラスメイトからの信用は著しく低い。

 何でもいいから今は情報が欲しい。校内では持ちこみ禁止の漫画雑誌を堂々と広げ、巻頭グラビアの水着姿の女性に寸評を加えている彼らに近寄った。

「やあ」と片手を上げて挨拶をすると、にやにやしていたCがきょとんとした目をする。髪を染めたりピアスをした男子生徒たちも訝しそうだ。その場の雰囲気で悪ふざけに付き合ったことはあっても、同じグループには属していない。

「何、お前?」

 どことなくとぼけた表情でCは尋ねた。面長で、妙につぶらな瞳をしている。彼を嫌っている女子の一部が密かに「エテ公」と呼んでいることを僕は知っていた。

「いや、大したことじゃないんだけどさ。CがU.F.Oを見たって」

 言い終えるより先に、Cは身を乗り出していた。目の前に喜色満面があり、思わず身を反らす。その肩越しに、椅子を寄せた男子たちが物好きを見る眼差しを僕に送っていた。

「お、何だよ。俺の話が聞きたいってか。お前、良い奴だな」

 まくし立てられる。後ろの連中の呆れ返った反応から見て、この件に関してよほど相手にされていないのだろう。

「あれは何日前だったかなあ。部活の帰りだったんだけどよ……」

 勝手に話し始めたのは好都合だ。彼の目撃証言を拝聴すると、次の通りである。

 Cはバスケット部に所属しており、意外にも次の大会に向けて真面目に練習していたらしい。体育館の外が暗くなり、空気が冷えていた。部活仲間とも別れ、一人で帰り道を歩いていると、夜空に星々が瞬き始めている。彼がぼうっと空を見上げているとき、奇妙な動きをしている光点があったそうだ。初めは飛行機の点灯かと思ったが、そのわりには明滅せず、ぽつぽつと浮かび出した星々のあいだを白い光が泳いでいく。

 U.F.Oだ、と直感した。興奮を覚え、その光を追いかけた。山の峰を通り越えて見えなくなるまで、追跡を止めなかったという。

「くそっ、カメラでも持ってりゃあな。きっと山のどこかに宇宙人の基地があるんだぜ」

 Cは悔しそうだった。語るのに夢中で、悪友たちが失笑していることにも気づいていない。僕は笑う気にはなれなかった。六年前の「僕」もまたそうだったからだ。

 この町は宇宙人の侵略を受けており、住民の一部は入れ替わられているなどと妄言を吐いて周囲の苦笑いを誘っていた。聞き流しながら僕は考える。彼の見間違いでなければ、Sの人工衛星説はあながち間違いではなさそうだ。ちらりと彼女の席に目をやれば、我関せずと読書に没頭するSの横顔があった。

 ようやく本題だ。わざと意地悪く言った。

「U.F.Oを見たんなら、黒服の男に気をつけないとな」

 上機嫌だったCは鼻白はなじろむ。

「んだよ。俺がおっさん相手にびびると思ってんのか」

「おっさん?」

「知らないのかよ。ホームレスみたいに汚ねえ髭を生やした中年親父だってよ」

「実際に見た人がいるの?」

「ああ、ダチのダチから聞いたんだけどよ。誰だっけな……ともかく、道端でぼうっと突っ立ってんのを見たっつってたわ。俺がその場にいたらとっ捕まえてやったのになあ」

 その場でシャドーボクシングを始める。その無根拠な自信はどこから湧いてくるのか。ともかく、母の目撃証言と大差ない。これ以上有益な情報は得られないと判断し、礼を述べて自分の席に戻ろうとしたとき、Cが肩を揺らしているのが目に入った。

「そういえば、変なこと言ってたっけなあ」

「変なこと?」

 僕が訊くと、Cはにやけながら答えた。

「あいつ、剣道部だったっけなあ。ほら、黒服の男って木刀みたいなものを持っているらしいじゃん。その佇まいって奴が、まるでブシだったんだってよ」

「ブシ……?」

「サムライってことだよ。この現代社会にほんと馬鹿みたいだよなあ」

 U.F.Oを見たと大騒ぎした男が言えた口ではない。直接その生徒に話を聞きたくても、Cの頭からは相手の名前さえ抜け落ちていた。

 授業中、ずっと考えていた。話に聞く黒服の男は不精髭を生やした中年男性で、背が高い。黒いロングコートにサングラスという出で立ちで、錦の布で包まれた長物を握っていて、その姿は武士を想起させるという。

 大した情報ではないかもしれない。ただ、胸が騒ぐ。

 武士ということは、握っているのは刀だろうか。



「どうしてそれを私に聞くの?」

 僕の問いかけにSは困惑していた。夕日の橙が教室を染め上げている。帰りのホームルームを終え、クラスのみんなが我先にと出ていく中、分厚いハードカバーの本数冊を鞄に詰めるのに苦慮する彼女に話しかけた。シリーズ物らしい、何とかの没落という題名が背表紙に記されているのが見て取れた。

「ほら、Sって色々物知りじゃん。何かわかるかなって」

 知らないよ、と Sはそっぽを向いた。夕映えが当たっているためか、薄い頬が紅潮して見える。齧りついたら無花果いちじくの味がするだろうか、などと益体のないことを考えた。

 この数日のあいだ、黒服の男について調べた。彼は個人であり、いずれも目撃されるのは同一人物らしい。生徒たちの口の端に上るたびに、噂が変遷へんせんしているのが興味深い。件の映画の影響だろうか、U.F.Oを目撃した人物を口止めする脅迫者だったはずが、地球外生命体の存在を隠蔽するために手段を選ばない殺し屋として語られるようになった。真実を広めようとする者は、例外なくその手に握られた凶器で殺されるのだという。

 まるで出来の悪い三文小説だ。きっとSの嗜好には合わないだろう。当の彼女はのろのろと帰り支度を整えながら、机の模様に目を落としていた。根が真面目で、どんなに下らない質問でも私見を述べてくれる。

 焼けた窓の向こうを眺めながら、矛盾を覚えた。自分はどうして黒服の男にこだわるのだろう。殺し屋云々は尾ひれがついたもので、実態はただの不審者に違いない。隕石について言及したのも妄想の類で、偶然の一致に過ぎないのだ。

「……鬼隠おにがくれ伝説」

 その呟きが思考に埋没しかけた意識を引き戻した。聞き逃した僕は「え?」と間抜けな声を上げた。Sは学生鞄に全ての本を収めることに成功しており、膝の上に乗せられている。地味な紺色のスカートから伸びた足は夕日に照らされ、妙に艶めかしい。

「鬼……何だって?」

「鬼隠伝説。図書館で郷土資料を読んだことがあるんだよ。この町に伝わる民話でね、平安時代よりも後だったかな。当時の人たちは子供を攫う鬼に悩まされていたんだって」

 記憶の糸を手繰りながら、眼鏡の縁を指先でなぞる。丸いレンズが斜陽を反射しており、隠された眼差しは窓越しの景色に向けられていた。住宅街の裏側に張りついた野山の稜線を淡い光が描き出し、奇妙な存在感を際立たせている。

「ほら、あそこに小さな神社があるでしょう。あの山に鬼が隠れ棲んで、人を取って食べていたの。勇猛で知られた武士が噂を聞きつけて、山に乗りこんで鬼を討ち取った。退治した証として首を持ち帰ったけれど、それからも不吉な出来事が起こったらしくてね。祟りを恐れた人々が鬼の首を祀るために神社を建てた。だから昔は鬼首おにくび神社と呼ばれていたそうだよ」

 彼女の話を聞きながら、僕は脳裏に寂れた境内を想起した。夜の山林に囲まれた小さな神社。朱塗りが剥げかけた鳥居をくぐる者は少なく、ほとんど忘れられた社殿の奥に、かつて人を食う鬼の首が鎮座していたのだろうか。

「勉強になったけどさ、その話は黒服の男と何か関係があるのか?」

 純粋な疑問のつもりだった。Sはむっとした様子で、鞄の留め具を甲高く鳴らして席を立ちあがる。

「別に、武士がどうこう言い出すから思い出しただけ。関係があるかなんて、そんなの知らないよ」

 素っ気なく言って教室の出口へ歩き出す。その後ろ姿に向かって思い浮かんだことを投げかけた。

「黒服の男って鬼退治した武士の子孫なのか」

 僕の発言が何かおかしかったのか、Sは吹き出した。華奢きゃしゃな肩を揺らして、こちらを振り返る。普段無愛想な彼女が笑いを堪えているさまは珍しかった。

「変なことを言うね。じゃあ、鬼が今もどこかにいるの?」

 知るか。今度は僕が仏頂面する番だった。

 Sはくすくすと笑いながら、「じゃあ、また」と告げて教室を後にした。残された僕は頭を掻く。彼女と違って薄っぺらい鞄を肩に引っかけ、橙色に染まった廊下に出た。他のクラスの男子生徒が競って駆け抜ける中、緩慢な足取りでこれまでの調査を振り返っていた。

 黒服の男を調べて集まった情報といえば、面白おかしく脚色された人物像と山にある廃神社の由来ぐらいだ。今までの行動は徒労と呼んで差し支えない。

 正面玄関を出ると、グラウンドの方向からかけ声が響いてきた。運動部が練習に励んでいるのだろう。体育館ではボールが弾む音がかすかに聞こえる。お調子者のCも練習に励んでいるのだろうか。

 学生の列に加わり、夕暮れの下で家路に就く。ガードレールを越え、影が道路に並ぶさまは日常の風景ながら奇妙である。まるで葬列だった。

 生きることが死に向かうことなら、あながち比喩でもないのかもしれない。僕は普通の人間だ。順当に行けば高校を卒業して大学に入り、どこかの会社に就職するだろう。まだ見ぬ相手と結婚し、子を儲け、成長を見守りながら老いていく。

 普段は考えもしないことが泡沫ほうまつのごとく次々と浮かんだ。まだ十代の自分が大層な死生観を抱くなどおこがましいにも程がある。血が滲んだ色の夕空にあてられたのだろうか。

 警報機がけたたましく鳴っていた。帰路の途中にある踏切の前で列車が通過するのを待つ。秋風が吹き抜けていた。黄色と黒で色分けされた遮断機で閉じられた向こう側に人の姿はなかった。

 緩やかに湾曲した線路の奥から列車の先頭車両が迫ってくるあいだも、下らないことをつらつらと考えた。クラスのあいつの肉は、どんな味がするだろう。

 少し俯き加減だった僕の前髪を風がなぶる。圧力とともに目の前の景色が巨大な車両に遮られた。それは貨物列車で、コンテナを幾つも積んでいるのが見える。連結された車両が次々と通り過ぎ、すすきの穂が千切れんばかりに踊り狂っていた。

 気もそぞろだったから、列車が通過するのはあっという間だった。急に視界が開き、夕焼けが目に入ってくる。僕は思わず手をかざした。警報機が鳴り止み、風が収まるのと同じくして静寂が訪れる。

 踏切の向こう側を隔てていた遮断桿しゃだんかんが持ち上がる。その先に黒い人影があった。最初は逆光になっていて、そう映るのだと考えた。よくよく目を凝らせば、どうにも太陽のせいばかりではない。

 足元に伸びた黒い影と同じく、その人物は黒で統一された服装をしていた。足首まで届きそうなロングコートを纏い、革の手袋から頑丈そうな編み上げブーツまで光沢のある漆黒だった。踏切の信号機の高さから比較して、かなり上背うわぜいがある男である。蓬髪ほうはつから覗くサングラスは、しゃれこうべのぽっかり空いた眼窩を彷彿ほうふつとさせた。

 噂の通り、臙脂色えんじいろをした錦の布袋で覆われた長物を手にしている。

 黒服の男がそこにいた。



 信号機が青になり、踏み出したブーツの靴底が線路の並行した溝を踏みつける。落ち着け。自分にそう言い聞かせた。あれは、ただの不審者に過ぎない。男はサングラス越しに真正面を見据え、泰然たいぜんとした足取りで確実にこちらに近づいてくる。直前まで誰もいなかったはずなのに、あの男はどうして目の前にいるのだ。

 思考が乱れ、息遣いが荒くなる。わずかな距離なのに、男が接近するまでのあいだが恐ろしく長かった。肩幅も広く、身長と相まって圧迫感さえ覚える。視線を遮る黒いサングラスは、睥睨へいげいする鴉の眼差しに似ていた。

 踵を返すには遅すぎる。僕は靴の裏が路面と接着しているような錯覚を振り切って、足を踏み出す。鼓動が耳の奥で脈打ち、視界の縁が暗くなる。視野狭窄しやきょうさくに陥った視界に、高い位置に不精髭が生えた下顎が映った。さらに下ると男の片腕が現われ、無造作に握られた臙脂色の長物が窺える。どうやら椿の花を象った和柄が散りばめられ、長さは六十センチを超えるほど。背の部分がわずかに反っているのが不吉だった。

 黒服の男と靴のつま先が交差する。周囲の音が消えていた。男はこちらを一瞥することもなく僕とすれ違う。やはり杞憂だったのだ。緊張を解きかけた瞬間に、その言葉は投げかけられた。

「お前は矛盾しているよ」

 耳朶に触れた低い声音に、総毛立った。

「何もかも全て忘れてしまったのか」

 布が擦れる音。紐が解かれたのだと直感した。同時に、未だかつてない悪寒が全身を包んだ。背後から発散される強烈な気配が殺気なのだと理解したとき、僕の口から咆哮が迸った。

 斬られる。

 どうやってその場を逃げおおせたのか――よく覚えていない。残っている断片的な記憶は、網膜を塗り潰す夕日の光。家々の屋根を飛び移る、およそあり得ない視点。電線に止まっていた鴉の群れの中に飛びこみ、視界を乱れ舞う黒い羽根とともに耳障りな鳴き声が今も頭蓋を反響している。

 気づけば、自分の部屋でずっと震えていた。玄関を通った記憶はなく、現に今靴を履いたままベッドの上で蹲っている。冷たい外気の流れを頬に感じた。窓枠は閉じられているのにカーテンが揺れている。窓辺の下はガラス片が散乱しており、どうやら外から何かが飛びこんできたらしい。その物体は見当たらず、本棚と接触した痕跡だけがあった。

 本棚は倒れ、板の一部は砕けていた。雑誌や単行本が床に散乱し、部屋の片隅には地球儀が転がっている。衝撃でフレームの弦から外れ、大陸に断層が生まれたかのごとく大きな亀裂が見て取れた。

 噛み合わない歯の根をすり抜けて、獣じみた唸り声が漏れる。僕は頭を両手で抱えた。衝動のままに掻き毟ると、頭皮が破れて血が流れ出す。わずかに粘り気のある液体が顔面を濡らしても、気にかける余裕はなかった。

 黒服の男の言葉が頭の中で反響していた。僕が矛盾している。全く意味がわからない。やはり頭がおかしいのか。なら狂人の言動など理解できるはずがない。自分は――ただの人間なのだから。

 首筋に違和感を覚えた。鮮血にまみれた指先を伸ばす。しなやかな感触に触れ、学生服の襟首から引き抜いて目の前にかざした。

 それは鴉の羽根だった。

 どうしてこんなものが、という思いと先ほどの記憶が交錯する。およそ現実味に欠けたあの光景が夢ではなかったというのか。震える指先でつまんだ楕円形の羽根を凝視した。

 夕焼けに血塗られた黒い羽根は、不吉そのものだった。



 いつもとは違う夢を見た。

 まだ僕が「僕」ではなかった頃のことだ。虚無の海の中にいた。とてつもなく広大で、途方もない暗黒を内包していた。上も下もなく、時間の概念もない。大海に放り出されたおたまじゃくしに等しく、ただ無為に流されていた。

 羊膜ようまくに包まれた胎児の記憶に近いかもしれない。外界の環境とを隔てる殻に守られながら、五感のどれとも違う器官で周囲の光景を知覚していた。ウミボタルの群れが海中を漂い、至るところで楕円に輝く輪を形成している。漆黒のキャンパスに彩りを与えていた。

 橙色の尾を引いて、僕は密集するウミボタルのあいだを掻いくぐる。己があまりに小さな存在なためか、距離感が掴めない。何とはなしに理解したのは、周りを取り巻いている光の粒が自身とは比較にならない質量を有しており、間近に見えてもとても到達できない距離にあることだった。

 永い旅の途中で、さまざまな光景を知覚した。無定形のガスが渦巻き、浮遊する塵を引き寄せて球体を形成しようとする過程。彼方から飛来した粒が他の物体と衝突し、双方とも砕けて混ざり合う。寿命を迎えて限界まで膨張し、爆発する光の奔流。その光さえ呑みこむ、絶対的な捕食者の黒い口。

 いずれの事象に触れても無事ではいられなかっただろう。まさに奇跡だった。思うに、自分はある種の魚が大海に放出した卵の一つに過ぎず、膨大な数の兄弟は大半が荒れ狂う潮流ちょうりゅうに呑みこまれて消えたに違いない。死のあぎとをすり抜けられたのはほんの一握りなのだろう。

 夢の中の僕には自我というものが存在せず、ただ本能に従って冷たい海のさらに深奥を目指した。知覚の触手を限界まで伸ばし、何かを探していた。およそ生き物が生存し得ない過酷な環境を、クマムシなどに見られる乾眠かんみんに近い状態で耐え抜いた。

 押し潰されそうなほど密度の濃い暗黒の中を、孤独に過ごした。この身が海水が溶け合って、まるで深海の一部になった心地だった。個をなくすのに反比例して知覚できる範囲が広域に渡り、圧倒的な情報量で溺れてしまいそうだった。

 喘ぐように伸ばした不可視の手は虚空を掴むばかりで、空々しい感触だけが残った。僕は足掻いた。一筋の光明さえ差しこまない深海の底で、本能的な欲求に衝き動かされた果てに、何かが指の先に触れた。

 感覚を研ぎ澄ますと、途方もなく巨大な炎の卵を中心に幾つもの光の粒が廻っていた。質量が生み出す引力によって、周りの物体が周回軌道を描くことは珍しくない。ただその中に、特異な輝きを放つ光があった。

 すぐ傍らに無機的な石塊いしくれを従え、より色彩を際立たせている。全体を覆う大気の膜だけでなく、表面の大半を澄んだ水が占めていた。茶褐色と深緑で構成された陸地があしらわれ、立ち昇った水分は流動的な雲となって気流を巡り、再び雨粒となって大地に振り注ぐ。その循環の仕組みは呼吸によく似ていた。

 何より本能を刺激したのは、有機物の動体反応が無数に感じ取れたことだ。広大無辺の海を彷徨い、永遠とも思える旅路の果てに、初めて血と肉を有した生命体の体温に触れた。

 その光は青く、美しい球体をしていた。



 目を覚ましたとき、仄暗い天井が見えた。とても懐かしい夢を見た気がするのに内容を思い出せない。僕はベッドから半身を起こす。窓の下の破片はとうに片づけられており、閉じられた鎧戸の隙間から微かな陽光が漏れている。薄闇の中でも、机の端で秒針を刻む目覚まし時計が明瞭に見て取れた。時刻は六時を指し示そうとしている。

 定まらない焦点が壁際に寄った。一部が破損したままの本棚と、小さな段ボールに放りこまれた地球儀が目に入る。地表に刻まれた断裂を見ても何も感じない。あれだけ飽きることなく眺めていたのに、不思議なものだ。

 仕方がない。所詮は、ただの偽物なのだから。

 階下では既に母が起き出しており、台所で朝食の支度をしていた。まな板の上で野菜を刻み、火にかけた鍋の湯が沸騰している。朝の食卓には味噌汁が欠かせないと彼女は考えているらしい。

 昨夕、スーパーのパートから帰ってきた母親に問い質された。外から見れば窓が割れていることは一目瞭然なのだから当然だろう。足がもつれて転んでしまったのだと、我ながら下手な弁解をした。

 彼女の目線は、倒れた本棚や割れた地球儀に向けられていた。僕の弁が信用されていないことは明白だ。後日業者を呼んで修理するとして、その日は鎧戸を閉めて凌ぐことにした。夕食を済ませて部屋に戻った後も、階下の話し声はしばらく止まなかった。

 目覚まし時計が鳴っていた。僕の部屋のものではない。両親の寝室からで、敷き布団から腕を伸ばした父が時計のアラームを止める。昨日息子の奇行を話し合ったためか、まだ眠そうな目を擦りながら身を起こし、傍らの文机ふづくえに置いた銀縁眼鏡を手探りで掴み――。

 はたと気づく。大きな家ではないとはいえ、どうして一階の状況をつぶさに把握できるのだろう。五感を逸脱した未知の感覚器官が、肉体の殻を越えて周囲に張り巡らされている。そのような奇妙な体験だった。もっと神経を凝らせば、情報の奔流が堰を切って脳内になだれこんできた。

 屋根裏に鼠の姿が数匹あり、埃にまみれた梁のあいだにはゴキブリの死骸や糞が散乱していた。梁を齧っていた鼠がふと鼻先を上げる。屋根を突き抜けて上空に意識を移せば、山が近いからだろうか、一羽のとんびが飛んでいた。笛の音を連想させる鳴き声とともに住宅街を俯瞰している。新聞配達のオートバイが排気音を撒き散らし、柴犬をリードに繋いだ初老の男性を追い抜く。散歩中の老人は、顔見知りらしいごみ袋を抱えた主婦と会釈を交わし、尻尾を振っていた柴犬が遥か頭上の鳶に気づいて一声鳴いた。

 頭蓋が鈍く軋んだ。触腕しょくわんを広げていた認知の網は引き戻され、朝日を拒む室内で頭を抱えてうずくまる自分の姿があった。

 どうやら「僕」の器では限界があるらしい。脳みそをさいなむ鈍痛に耐えながら、必死に自らの身に起きたことを分析する。ずっとなくしていた器官を取り戻した感覚があり、変化というよりも回帰と呼ぶ方が正しい気がした。

 皮膚の下で何かが蠢く。顔が酷く痒い。

 時計が無情に針を刻んだ。僕にはおそらく、時間がない。



 耳慣れた喧噪が、今は酷くわずらわしい。

 両親にこれ以上疑念を抱かれないように普段通り登校した。そして、周囲の環境が一変していることを痛感した。いや、昨日と異なるのは自分の方なのだ。

 意図せず得た感覚器官が情報に飢えていた。いくら抑えようとしても貪欲に触手を伸ばし、手当たり次第に些細な会話を食い散らかす。脳の許容量は飽和を迎えようとしていた。

「昨日の最終回、観た?」

「一時限目から数学かよ」

「これ、本に書いてた恋のおまじない」

「昨日さ、帰り道で変なの見たの」

「Ⅱ組の奴ら、生意気だよな」

「家の屋根から屋根に飛び移って」

「ううん、猿じゃない。もっと大きくて、人間みたいな……」

 聞こえるはずのない、他愛のないやり取りさえ余さず拾ってしまう。ラジオの周波数が微妙に重なり合い、多重に音声が聴こえる状態に近い。教室の内外の言葉が入り混じって、それこそ宇宙人が話す不可解な言語に思えた。

 うるさい、黙れ。

 歯を食い縛り、机の木目を凝視する。早退するべきかと考え、思い直した。昨日の一件から母親から不審がられているし、彼女はパートで家を空けるだろう。あの黒服の男がまた現れないとも限らない。一人になる状況は極力避けるべきだ。

 ああ、顔が痒くて痒くてたまらない。

「――ねえ、どうしたの」

 雑音が一瞬だけ遮断された。声をかけてきたのは、丸い眼鏡をかけたクラスメイトだった。

「ずっと怖い顔して。珍しく具合でも悪いの?」

 休み時間でも滅多に席を立たないSが傍らに佇んでいた。あれだけ情報の洪水に翻弄されて、地味な女子の接近にも気づかないのだから本末転倒だ。

 頬を軋ませて、笑みをかたどる。僕が「僕」であるために、まだこの顔は必要だ。

「何だ。心配してくれるなんて、優しいところもあるんだな」

 そう茶化した。他者に悟られてはならない。薄皮一枚を隔てた秘密を看破されるなど、あってはならないことだ。

「……別に心配してるわけじゃないけど」

 思惑通りSはむっとしたようだ。どうかそのまま自分の席に戻ってくれ。こうして誰かと喋っているだけでも、その喉笛を噛み砕きたくなる。

「本当に、平気なの?」

 このようなときに限って、Sは食い下がってきた。苛立ちと戸惑いがい交ぜになった感情が湧いてくる。眼鏡の奥の静かな眼差しが不愉快だった。やめろ、「僕」の皮の下を見透かすな。

「何なら保健室に……」

 彼女が言い募ろうとしたとき、乱暴な音を立てて教室の扉が開いた。クラス中の視線が一瞬だけ集まる。姿を現わしたのはCだった。相変わらず手足が細長く、制服をだらしなく着崩している。薄い鞄を逆手に肩へ引っかけていた。

 クラスメイトたちはすぐに関心をなくし、元の雑談へ戻る。僕も顔を逸らそうとして、なぜか教室の入り口で突っ立ったままのCと目が合った。彼はあだ名の由来となった猿顔に大きな笑みを広げる。

 とても嫌な予感がした。

「よお、聞いたぜ」

 周りをはばからない大声で言った。再び彼に耳目じもくが集まる。大股で向かう先はこちらで間違いない。思わず助けを求めてSを見上げると、彼女は何とも形容し難い表情でそっと距離を取った。

 教室の注目を一身に集めながら、にやけた笑みのCが目の前に立つ。何の用かと尋ねるより先に、Cは無遠慮に肩を叩いてきた。

「いいよなお前、羨ましいよ」

「何のことだよ。痛いから止めてくれ」

 自分でもそうとわかるほど声が低くなる。抑えなければ、喉の奥から獣じみた唸り声が漏れてしまいそうだった。

 こちらの変調に頓着することもなく、Cは顔を寄せる。その目は輝いており、軽い興奮状態にあるのは明確だった。彼は囁く。

「昨日、黒服の男と会ったんだろ」

 混沌とした感情が血流を駆け巡り、臓腑ぞうふを冷やした。頭蓋を軋ませていた同級生たちの喧噪が急に遠のいて、周囲から孤立した感覚に陥る。

 なぜ知っている。昨日の今日で、あの場には僕と黒服の男以外誰もいなかったはずだ。仮に目撃者がいたとしても、よりにもよってこの男に伝わる理由は何だ。

「……それって、誰かから聞いたの?」

「誰だっけな。ダチのダチだけど、あんまり親しくないから忘れちまったわ」

 また友達の友達か。

 そいつは本当に実在するのか。

「悪いけどさ、そいつはデマだよ。黒服の男なんて見てないし、昨日は真っ直ぐ家に帰って遊びに出かけてもいないからね」

 少し早口だったのは否めない。平静を保たなければ、と意識するほどに皮膚の下で何かが蠢動する。

「おいおい、隠しっこはなしだって。この前、ちゃんとお前の聞きたいことには答えたんだからさあ」

 へらへらとした調子の声に砂嵐が覆い被さる。無数の不明瞭な囁きが頭の中で飛び交う。もはや同じ言語を使っているとは思えず、大量の蠅の羽音にも聞こえた。ついに俯いて顔面を手で押さえると、頬が、額が、瞼が蠕動している。はち切れんばかりに皮の下で暴れている。

「何黙ってんだよ、お前さ。こっち見ろって」

 聞き取れずとも、声の波長が苛立っているのがわかる。乱暴に肩を掴まれた。聞き違いでなければ、あのSが制止の声を上げたのを耳にした。

 自覚はなかった。おそらくはCの手を振り払ったのだろう。我に返ったときには教室中が水を打ったように静まり返っていた。直前までとは異なり、妙に頭の中が澄んでいる。周りを見渡せば、別のことをしていたのだろう皆が固まっていた。

 目の前にいたはずのCは数メートル先まで離れており、その直線上にあった机や椅子は押しのけられ、横倒しになっているものもあった。幸いと言っていいのか、近くで雑談していた者は直接巻き添えにはならず、驚愕の表情を浮かべたまま立ち尽くしている。

 教室の中央で越えたあたりで、Cの細長い体躯は他生徒の机に寄りかかる形で止まっていた。片手で机の角に掴まり、みっともなく学生服の裾をずり上げながら長い両足を床の上に広げている。どうやら強い衝撃で吹っ飛ばされたであろう彼の周りを、クラスメイトたちが遠巻きに囲んでいた。

 何が起こったのか全く理解していないのだろう。Cはしばらく呆然としていた。それでも自身に危害を加えられたのはわかったのか、見る見る顔が歪んでいく。歯茎を剥き出しにし、鬼灯ほおずきのように紅潮したその面貌めんぼうは、まさに猛り狂う猿そのものだった。

「てめえ」

 強引に机を押しのけた反動で立ち上がり、床を踏み鳴らしてこちらへ向かってくる。その足取りは若干覚束なかった。

 当の僕はというと、鬼気迫る彼には構わず自らの手のひらを凝視していた。刻まれた手の皺の下を、蠕虫ぜんちゅうに似た何かがうねっては沈んだ。

 ああ、そうか。遅まきながら理解した。

 僕は確実に追い詰められている。

 怒りのあまりからか、Cが奇声を発して拳を振りかぶっていた。傍観していた女子たちから口々に悲鳴が上がる。このままでは殴打されてしまうだろう。だが、そうはならない可能性が高いことも予期していた。

 こめかみに拳が届く寸前で、扉が勢い良く開け放たれた。Cは反射的に手を止め、そちらに首を向ける。折良く現われたのは、生活指導の教諭だった。強面で知られる彼は教室の荒れ具合を見て、次に拳を振り上げたCを捉えた。

「この騒ぎはどうした。何やってんだよ、お前」

 普段の素行から教師陣に目をつけられているCが咎められ、憤怒の形相で動きを止めていた。彼の天敵が偶然通りかかったのは幸運であり、事前に察知できていたおかげで椅子から立ち上がる必要もなかった。

 頭の上で大きな舌打ちが聞こえた。

「何でもねえよ、くそが」

 Cはそう吐き捨てると、踵を返して大股で出入り口へ向かう。憤懣ふんまんやる方ない様子で途中にあった机の脚に蹴りを入れた。指導教諭の制止の声を振り切って彼は教室の外へ出ていった。

 残された同級生たちは動揺を滲ませながら、乱れた机や椅子の位置を直す。騒動の原因にも関わらず、僕を責め立てたり手伝いを要求する声は一切なかった。

 いないものとして扱われる中、唯一視線を感じた。そちらを振り向けば、Sが所在なさげに佇んでいる。かける言葉が見つからないのか、ただ静かに僕を見つめていた。

 眼鏡の下で訴える感情を汲み取れるほど、僕はもう人に近くないようだ。



 その日の放課後に至るまで、僕に話しかける同級生は皆無だった。相変わらず頭の内部では周辺の情報が集積されている。校舎の構造を立体的に捉え、上下階の教職員や生徒の動向を正確に把握できた。探知の精度が向上しているにも関わらず、負荷によって今朝のような醜態を晒すこともない。

 現在の自分に適応できている。その事実を喜ぶべきか判断に迷う。

 腫れ物を触るような扱いを受けながら、良し悪しはともかく関心を寄せられていることはわかった。昨日まで目立つ存在ではなかった同級生の豹変に困惑を隠せずにいる。人ひとりを吹き飛ばした膂力りょりょくを未だに信じられない者、自分たちにも乱暴を働くのではないかと怯える女子たち。施錠された屋上の階段で、悪童たちが集まって生意気な男子に制裁を加える企図をしている。その面々には教室に姿を現わさなかったCも含まれていた。

『あの野郎、絶対に許さねえ』

 階段の最上段に座り、膝の上で組んだ指を神経質に組み替えている。俯いて表情までは読み取れない。きっと据わった目をしていることだろう。

 昼休み、職員室に呼び出された。いかめしい顔つきをした指導教諭と、どこか尻の据わりが悪そうな担任教諭が同席している。普段から素行が良いとは言い難い連中を相手にしている彼は率直な物言いで尋ねた。

「お前、あいつにいじめられてるのか」

 客観的に見てCは被害者側だ。どう情報が伝わっているのか、彼ならやりかねないという先入観が目を曇らせているのだろう。騒動を大きくするのは本意ではなかったので、同じ主張を繰り返した。

「とくに何もありません」

 生活指導の教諭と担任があれこれと尋ねても、答えは変えなかった。やがてため息とともに「何かあったらすぐに言いなさい」と僕を解放した。

 黒板の上のスピーカーから終業を告げるチャイムが鳴った。一斉に椅子をかき鳴らし、足音が入り乱れて教室を後にする。さて、どうしたものか。思案しながら帰り支度を進めていると、横合いから声がかかった。

「今日は校門から帰らない方がいいよ」

 声の主に目を向けると、窓から差しこむ夕日を受けたSの姿があった。陰影が制服越しに体の線をなぞり、いつもより食欲をそそった。

 発言の意図はわかっていた。それでも僕は尋ねた。

「何で?」

「見てみればいいよ」

 促されて、窓辺に近づく。正面玄関から黒い葬列が流れていく。遠くの校門に吸いこまれて姿を消す人の群れとは別に、近くに植えられた木の裏で数人の男子がたむろしている。彼らはどうやら下校する生徒の顔を確認しており、誰かを待ち構えていることは明白だった。

「今行ったら、たぶん酷い目に遭うね」

 窓に手を当ててSは言った。

「そっか、困ったな」

 事前に計画を知っていたので、反応が薄いことを訝しく思われたかもしれない。こちらに一瞥を送り、Sは吐息をこぼす。踵を返して廊下に向かった。そのまま帰るのかと思ったら、彼女は机に鞄を置いたままだった。

 教室の扉に手をかけ、肩越しに振り返る。

「昇降口も見張られてるかもしれないから、靴を取ってきてあげる。今日は裏門から帰りなさい」

 Sはそう言い残し、後ろ髪をなびかせて姿を消す。取り残された僕は戸惑った。一体、何のつもりだろう。どうにも彼女らしくない。

 窓辺に近寄って外を見下ろす。少しずつ下校の列がまばらになっていく中、校門付近の木々に紛れて監視をしている数人はあまり熱心そうではない。そもそもはC自身の報復であり、彼らなりの仲間意識で付き合っているだけに過ぎないのだ。

 その当人の姿は肉眼では見えない。朝の騒動もあって見咎められるのを嫌ったのだろう。遠くはない場所で手ぐすねを引いているだろうことは探らなくてもわかった。

 戻ってきたSから礼を述べて靴を受け取り、別れを告げて階を下りた。昇降口には向かわず、体育館がある方面へと向かう。校舎と体育館は渡り廊下で接続されており、グラウンドに面している。そこで学生靴に履き替え、置き場のない上履きを学生鞄に押しこんだ。部活動の準備をする運動部を尻目に敷地内を遠回りし、小さな裏門を抜けた。

 多くの学生が出入りする校門と違って、人気はほとんどない。小さな文房具などがあり、緩やかな坂道になっている。いかにも裏道という印象を受けた。夕刻で陰影が濃い時間帯ともなればなおさらだ。

 警戒を怠ってはならない。Cたちはともかく、黒服の男がいつ現われるかわかったものではなかった。

 噂通りだった。あの男は殺し屋だ。次に遭遇すれば、自分は狩られるという恐ろしい確信があった。その前に目的を果たさなければ。

 ふと疑問が首をもたげる。自分の目的とは何だろう。

 意識の空隙くうげきをつかれて、後ろからの呼びかけに遅れた。緩慢に首を巡らせると、眼鏡をかけた同級生が息を切らしていた。

「あれ、どうしたんだ。お前はこっちから帰らなくてもいいだろ」

 本心からの言葉だった。Sの接近には気づいていても、行動の意図までは読めなかった。教室で別れの挨拶を交わしたばかりだ。斜陽を受けて佇む彼女の影は、華奢な肩を上下させている。普段から本ばかり読んで、きっと運動不足に違いない。

「ええと」

 Sにしては歯切れが悪かった。朱い光が丸い眼鏡を反射して眼差しを隠していた。きっちりと規定を守ったスカートの丈と白い靴下のあいだから細い脛が覗いて、齧りつきたい衝動に駆られる。

「今日、ずっと様子が変だったから」

 我に返った。照れ隠しを装って頬を掻く。

「具合が悪くってさ。もう大丈夫だから」

 照れ笑いを浮かべながら、顔面を引っ掻く手が止まらなくなった。頬の肉が抉れて、指先に血と肉片が付着する。暮れの色に紛れていると信じたいが、さすがに彼女の眼前で隠し通すのは難しい。

「……本当に、大丈夫なの?」

「大丈夫だって」と僕は背中を向けた。不審の眼差しから逃れるためだ。傷口はすぐに塞がるとしても、これ以上疑われるのは好ましくない。

「それじゃ。今日は、ありがとな」

 血にまみれた手をポケットに隠し、上履きで膨らんだ学生鞄を振る。多少不自然な仕草であったことは否めない。きっとこの場で別れてしまえば、Sは何事もなく日常を送れただろう。

 なのに、彼女はそうしなかった。

「黒服の男に会ったって、本当なの?」

 Sの発言は、足を止めるには十分だった。人通りがないのが幸いである。正面の顔を誰かに見られれば、きっと悲鳴を上げられただろうから。

「呆れたな。あんな与太話を信じるって?」

 背中を向けたまま肩をすくめる。視界に広がる空は赤い。夕暮れとはここまで血染めだっただろうか。

「私だって信じてるわけじゃないよ。だけど、いつもと感じが全然違うから」

「へえ、どんな風に」

 わずかな沈黙の後、Sが言った。

「何だか……怖いよ」

 風が吹く。秋口にしては少し生温い。まばたきを忘れて、剥き出しになったままの眼球から潤いを奪い去る。

「そういうお前だってらしくないじゃないか。本しか興味がないって顔してるくせに、今日は随分とお節介だ」

 軽口を叩く。眼窩の中で左右の眼球が回転し、世界が反転する。真後ろを向いてなければ、耳まで裂けた口がSに見えていたことだろう。頬肉の隙間から、獣じみた呼気こきが漏れた。

「……そんなにおかしい?」

 か細い声がこぼれる。

「クラスメイトのことを心配するのは」

 虚をつかれた。にわかに人間らしい表情を取り戻すのを自覚する。そうか、僕は彼女に心配されていたのか。上っ面の人間関係に終始して、こんなにも簡単な答えに思い至らなかった。

「君ってさ、クラスの誰とも親しいようで、いつも距離を保っていたね。人とは深く関わらないで、顔では笑っていても楽しそうには見えなかった」

 まるでお面みたい。Sは呟いた。

「私に話しかけていたのだって、君なりにバランスを取っていたんだろうね。どんなに下らない話でも良かったんだ」

 後ろの声は淡々としている。その表情は、きっと夕影に隠れていることだろう。

「それでも、私は……」

 言葉が途切れた。橙色の夕日の下で、運動部のかけ声が遠くから響いてくる。何と言えばいいかわからなかった。多分彼女もそうだろう。人間離れした能力を獲得しても、肝心なときには何の役にも立ちはしないのだ。

 沈黙に堪えかねてか、Sが口を開く。

「U.F.Oとか宇宙人はね、私だって全然信じていないわけじゃないんだよ」

 脈絡のない話だった。それこそ内容は何でも良かったのだろう。本と向き合ってばかりで喋り慣れていないだろうに、彼女は拙く話し続ける。

「小学生のときにね、不思議なものを見たんだ。塾の帰りに空を見上げたら、何かが光ってて、隕石だ、って思ったの。だけどおかしくってね。後で誰に聞いても隕石なんか見てないって。そんなの知らないよ、って同じクラスの子から馬鹿にされた。でもよく覚えてるんだ。あれは人工衛星なんかじゃなかった。もしU.F.Oだとしたら、見に行けば良かったってずっと後悔してたよ。また同じものが見れないかなって、今でも空を見上げるんだ」

 馬鹿みたいだよね、とSは照れ臭そうに笑った。

 本当に、夕日が赤い。

「そういえば、同じ日に行方不明になった子がいたんだっけ。無事に保護されたらしいけど、何か関係しているのかな」

 僕は言った。

「その子ならよく知ってるよ」

「え?」

 Sを振り返る。非現実的な光景に理解が追いつかないのか、呆けた顔をしていた。僕は裂けた口で笑う。

 ようやく、見つけた。



 翌朝のホームルームでSが家に帰っていないことを担任が告げた。

 普段の生活態度に問題が見られなかったためか、彼は深刻そうな面持ちで心当たりのある者はいないか尋ねた。交友が深かったクラスメイトはおらず、教室の皆は顔を見合わせてざわめくだけだった。

 根拠のない憶測が飛び交う中、僕は頬杖を突いて空っぽの机を眺めている。いつも見慣れた横顔がないというのは不思議な気分だ。まるで教室の景色が変わって見える。

 あるいは一線を踏み越えたためか。

 ずっと視線を感じていた。顔を向けずとも、Cが遠くの席で睨んでいるのがわかった。昨日の待ち伏せが不発に終わって腹に据えかねたのだろうか。ただ、その眼差しには複雑な感情がこめられている気がした。

 彼らが行動に出たのは、昼休みのことだった。チャイムが鳴って教室が去ると同時に、Cを始めとした数人が僕の机を取り囲んだ。もう人目を気にするつもりはないらしい。

「来いよ」

 Cが平坦な声で言った。逆らう気はなかった。罪人のごとく粛々と連行される僕を仄暗い好奇心を含んだ視線が見送った。

 彼らが断罪の場に選んだのは、裏庭にある焼却炉のそばだった。敷地の片隅に位置し、切り立った校舎の壁と植樹された銀杏いちょうに囲われ、視界を狭めている。足元には熟した実が散乱し、いくつかは踏み潰されて黄色い染みになっていた。

 突然Cが僕の腹を殴った。もはや何ら痛みを感じない。体をくの字にして、うめく振りをした。姿勢が低くなった髪を鷲掴みにして、彼が無理やり顔を上げさせる。

「お前、舐めてんのか」

 興奮した「エテ公」の顔が眼前にあった。歯茎を剥き出しにすると、ますます類人猿そっくりだ。おかしくなって、僕は笑った。

「悪かったよ」

 今度は頬を殴打された。どうやらお気に召さなかったらしい。衝撃で足がよろける。過熱するCの行動を周りの連中が笑いながらいさめる。顔は止めとけって。

 制止は通じなかった。彼は薄っぺらい靴の底で僕の鼻っ柱を正面から蹴り飛ばした。鼻骨が折れる生々しい音が聞こえて、もんどり打って倒れる。鼻腔びこうから溢れ出た鼻血が呼吸を妨げ、大口を開けて喘いだ。黄色く色づいた銀杏の隙間から、薄い空が垣間見えた。

 獣じみた息遣いが聞こえる。度を過ぎたCの暴力に、初めは面白がっていた取り巻きの男子たちも狼狽を見せ始めた。おいやり過ぎだ、洒落にならないって。制止する声も彼は聞く耳を持たない。

 再び頭髪を引き千切らんばかりに掴み上げ、僕を無理やり立たせた。鼻から垂れる鮮血が地面に赤黒い染みを作る。前のめりに引きずられていく先に見えたのは、焼却炉だった。

 閉じられた鉄製の蓋から饐えた空気が漏れている。高温で焼かれた生ごみが発する臭気だ。現在は稼働していないが、まだ余熱がくすぶっている気がした。

 僕の髪を掴んだまま、Cは器用に蓋の金具を外した。黒々と塗り潰された丸い穴が口を開ける。既視感を覚えた。全てを呑みこむ穴。光さえ吸いこまれて――。

 周りが止める間もなく、僕の頭部は焼却炉の投入口に突っこまれた。灰が大きく巻き上がり、気管に入って激しく咳きこむ。

「俺あ知ってんだ」

 外からくぐもった声が聞こえてきた。

「昨日、あいつと最後に会ったのってお前だろ。見たって奴がいるんだ。しらばっくれんな」

 返事を待たず、勝手に興奮して話を進める。あいつとはSのことだろう。もはや疑問は抱かなかった。誰かが彼に情報を流しているのだ。鴉の濡れ羽色をした、黒い男の輪郭が暗闇に浮かんだ。

 他の人間が息を詰める中、Cの怒号だけが響いた。

「何をしやがった。え、いい加減正体を見せろよ」

 声が震えている。怒りだけではない。異常なまでの暴力性の理由を、僕はようやく理解した。

 怯えているのだ。昨夜のSと同じく。

「本当は人間じゃないんだろ、お前」

 静けさが辺りを包んだ。銀杏の枝葉がそよ風に揺れる。普段は一笑に付す男子生徒たちも、迫力に気圧されて何も言えない。

 僕は片手の関節を折り曲げて、後ろ髪を掴むCの手首を握り返した。

 鈍い音と肉がひしゃげる感触。脱力した指が垂れ落ちて頭から離れる。え、という間の抜けた声がして、次の瞬間には絶叫に変わった。

 焼却炉の穴から引き抜くと、暗闇に覆われた視界に光の奔流が流れこむ。背後では、滑稽なほどに折れ曲がった手首を押さえてCが叫び続けている。

 事態を呑みこめずに立ち竦んでいた生徒たちは、こちらの顔を直視するなり目を見開いた。その表情が一様に恐怖に染まり、声にならない悲鳴を上げた。足をもつれさせ、一目散に逃げだす。激痛に喘ぐCを残して。

 葉陰はかげがそよいでいる。あり得ない角度に垂れ下がった手首を凝視するCの前に立った。視界に入った靴先に、彼は脂汗にまみれた額を持ち上げる。自分を見下ろす眼差しを認めて、顔面の筋肉が限界まで引きった。ますます猿じみていた。

「大したもんだよ」

 僕は言った。

「お前に正体を見破られるなんて、夢にも思わなかった」

 間近で僕の顔を見たCが恐怖のあまり白目を剥き、泡を吹いて気絶した。せっかく賞賛したのに、随分と酷い反応だ。

 校舎の角から騒ぎを聞きつけた教職員たちが叫んでいる。まだ遠い。倒れたCと僕を見比べて、状況を把握できずにいる。

 校舎を見上げた。銀杏からこぼれる光は水底に似ている。少しだけ名残惜しく、自分で思うよりもこの学校が好きだったらしい。

 あーあ、あっけなかったなあ。

 両足に力をこめた。地を蹴って跳ね上がる。途中で校舎の壁に穴を開け、さらに浮上した。景色が置き去りにされ、眼下に学校の屋上を見渡せた。俯瞰した校舎はコの字の形をしており、まっさらなグラウンドを抱えている。特別教室があてがわれた第二校舎と、蒲鉾かまぼこを連想させる屋根が敷地の端に配され、自転車登校のための駐輪場、水が抜かれて底をさらしたプール場など、普段は馴染みのない場所まで望めた。

 屋上の貯水タンクに着地し、外殻をへこませる。四つん這いのまま校舎を見下ろした。窓が連なる教室の向こうに、昼休みに興じる生徒たちの姿があった。何事もなければ、Sが黙々と読書に励み、きっとCが馬鹿話を吹聴していたのだろう。今は果てしなく遠い日常だった。

 視線を感じた。窓の一つに唖然としている男子の顔が浮かんでいる。たまたま空でも眺めていて、僕の存在に気づいたのだろう。その容貌は起伏に乏しく、目鼻立ちが薄い。まるで以前の自分だ。

 凡庸な彼に対して、頬を裂いて笑ってみせた。

 さようなら。心の中で別れを告げて、タンクから再び跳んだ。



 屋根から屋根へ、背の低いビルへと飛び移り、憚ることなく町中を移動した。まだ人目が多い時間帯とあって、頭上を跳躍する謎の人影を住民たちが目撃して驚いていた。きっと明日から新たな都市伝説が生まれるに違いない。

 長い階段を一足飛いっそくとびに上り詰め、朱色が剥げかけた鳥居の上に降り立つ。落ち葉が降り積もった境内を、木漏れ日がたゆたう。一斉に鳴り出す葉擦れの音が耳に心地良い。

 音を殺して石畳に着地すると、猫背気味に歩みを進める。目指す先に廃れた神社があった。切妻造きりづまづくりの屋根には幾つもの穴が空いており、日光を招き入れている。壁を構成する板材は剥げ落ち、目前にはやはり朽ちかけた賽銭箱が座していた。まだ日の高い時間帯に観察すると、伝承とは無縁の廃屋にしか見えない。

 昨夜に本殿の内部へ侵入した際、木の戸は完膚なく破壊してしまった。獲物に逃げられては元も子もないので、戸口は山中から運んできた岩や倒木で塞いである。発達した感覚器官が触手を伸ばし、屋内で横たわる少女の姿を捉えていた。

 神社の前まで歩を進め、濡れ縁に足をかける。眼前に立ち塞がる岩石は大きく、大の男でも動かせないだろう。障害物の隙間に手を差し入れ、強引に押し広げていった。鈍く擦れる音とともに細かな砂利がこぼれ落ちる。質量のある岩や木の幹が崩れていくと、重い落下音が響いて土埃を舞い上がらせた。

 薄闇に包まれていたであろう本殿の内部を光明が照らし出す。何もなかった。鬼の首を祀ったというには、それらしい台座なども見当たらない。至るところが腐り落ちた床材と、梁の一部が折れかけた天井。屋根が抜けた部分から日の光がすり抜け、宙を舞う埃を浮かび上がらせている。たったそれだけの殺風景な空間である。

 やはり、伝承などそんなものだ。

 弱々しいうめき声が聞こえた。床に倒れたSが上げたものだ。汚れと破れ目が酷く目立つ制服姿のままで、胸元ははだけて白いブラジャーの紐が覗いている。拘束には千切れた鈴の尾を用いた。全身に巻きついた太い縄によって身動きを封じられ、抜け出そうと試みたのか、スカートがめくれて露出した太ももに赤い縄目が刻まれている。その肢体は艶めかしい。

 床板を鳴らして、ゆっくりと彼女の元へ近づく。今度こそ目的を果たさなければならない。耳まで裂けた口の端から生温かい吐息がこぼれる。

 本来ならば昨夜のうちに終わらせておくべきことだった。母胎として適性のあるSを攫い、この廃神社に閉じこめた。それなのに、気絶した彼女を置いて去ってしまった。まるで何事もなかったと言わんばかりに帰宅して夕食を取り、宿題を済ませてベッドで眠りに就いた。いつも通りに登校して、あの騒動を経て今に至る。

「お前は矛盾しているよ」

 あの黒服の男の言葉を思い出す。自らの行動原理が理解できない。暗い海に散った僕たちの目的は、種の拡散だったはずだ。

「……どうして」

 Sが呟く。接近する僕へ首をもたげようとする。普段は丹念に梳いているであろう髪の毛が乱れて、脂汗をかいた額に張りついている。その朦朧とした表情は淫靡いんびですらあった。

 もう躊躇ちゅうちょは許されない。僕は倒れ伏す彼女の前に佇むと、手を伸ばした。暗緑色の触手が指の先から生えてくる。イソギンチャクが獲物を捕食する様子によく似ていた。無数に枝分かれした器官が広がり、Sの体に触れようとする寸前で、まだおぼつかない瞳が僕の顔を映した。

 その目が大きく開かれる。

「化け物……」

 蠢いていた触手の先端が静止する。ビデオテープの巻き戻しに似ていた。意に反して、指の中に隠れる。頭の中が真っ白になっていた。

 化け物――僕が?

 違う。僕は、「僕」は人間だ。

 混乱して後ずさる。呆然としているSにも構わず、両手で恐る恐る自分の顔に触れた。人の皮膚とは異なる。Cに傷つけられた表皮が再生できていない。ぬめりを帯びていて、絶えず表面が蠢いている。

 恥じ入って顔を覆い隠しながら、僕はうめいた。頬肉を引き裂いた口の両端から漏れる声音は人間とは程遠い。例えるなら獣に近く、けれど地球上のどの生物にも合致がっちしないだろう。

 気づけば、Sから遠ざかっていた。彼女はこちらを凝視している。見るな。僕は声にならない声で叫ぶと、踵を返して神社を飛び出した。外の日光が視界を炙る。後ろで名前を呼ばれた気がした。

 雄叫びを上げる。山鳥が一斉に飛び立った。木々が生い茂る山中を、靴を脱ぎ捨てて四つん這いで疾駆した。大小問わず野山の生物が逃げ出す。

 学生服の袖やズボンの裾が草木によって切り裂かれ、ぼろぼろになった。泥にまみれ、山肌を削り、樹木を闇雲に薙ぎ倒しながら、なお止まることができない。この絶叫は麓の町まで届いているだろうか。数年を共に暮らした、仮初かりそめの両親には聞こえているだろうか。

 正気に立ち返ると、周りは静謐せいひつに包まれていた。穏やかに流れる沢のせせらぎ。苔むした岩の上に膝をつき、空の色で朱く染まる水の流れを見下ろしていた。頭上の枝から舞い落ちた木の葉が流れていく。

 水面に映る自分の顔は、人間とはかけ離れていた。破れた皮膚から露出した部分は赤銅色しゃくどういろをしており、粘液を絶えず滴らせている。爬虫類じみた大口は糸を引き、その隙間から夥しい牙を覗かせていた。肥大化した真紅の双眸そうぼうが、夕日を反射する沢に浮かび上がって僕を見返していた。

 これは――鬼だ。

 皮膚の再生が始まらなかったのは、もう僕にとって不要だったからだろう。妙に冷静になった頭で分析する僕の首筋に、冷たい物が押し当てられた。

「きっとここに戻ってくると思っていた」

 背後から聞こえてくる低い声音には、覚えがあった。

「ここは、お前が初めて降り立った場所だから」

 夕闇から滲み出した。そう錯覚するほどに、黒い気配は突然生まれた。サングラス越しの冷徹な眼差しが後頭部を射抜く。張り巡らされた感覚器官の網をもすり抜け、ここまで接近を許してしまった。

 この男もまた、常識の外の存在なのだろう。

「およそ六年前、一人の少年が亡くなった」

 鈍く輝く刀を構え、黒服の男は言った。

「古くからこの惑星に飛来するある種の生命体は天狗星てんぐぼしとも呼ばれ、特殊な波長の光を発する外殻を身に纏う。とりわけ人間の子供のみが視認でき、引き寄せる。まるで誘蛾灯のように」

 その語り口には何の感情も含まれていない。ただ事実を淡々と述べている。僕は水面を見下ろしたまま、微動だにできない。

「お前はおびき寄せた少年を殺害し、その皮を被って彼に成りすました」

 鼓膜を風が攫う。木々がざわめき、沢の水面が揺れる。醜い化け物のかおをかき乱し、そのさまを黒々とした影が見下ろしている。

「外見だけではない。お前たちは成り代わった人物の人格や記憶を模倣する。そうして人間社会に溶けこみ、番を探す。やがて種ごと成り代わるために」

 少し間があった。僕は首筋に押し当てられた刃の感触におののきながら、疑問にも思った。どうしてこの男は、すぐに僕を殺さないのだろう。

 黒服は続けた。

「しかし、どうやらお前は全てを忘れていたらしい」

 低い囁きが夕風に溶けていく。その一言で、あの日の夜の全てを思い出した。ああ、そうだ。僕は「僕」ではない。恐怖に引き攣った幼い顔。沢の岩辺で力なく横たわる少年。その肉の器に伸びる、無数の触手。

 Sの言った通りだ。僕は化け物で、この男はやはり殺し屋なのだろう。人間ではなく、自分のような人外を狩る存在なのだ。抵抗を試みようものなら、無慈悲に殺されるという確信めいた予感があった。

「あなたは何者ですか」

 もはや会話に適さない声帯で、それでも慣れ親しんだ地球の言語を紡ぐ。この男の素性を知ったところで、結末は変わらないだろう。ただ少し前の会話を思い出しただけだ。

「俺のことなどどうでもいい」

 あっさりと切り捨てられて、思わず苦笑いがこぼれそうになる。ほら、Sの嘘つきめ。やっぱり何も答えてくれないじゃないか。

「あいつは、どうなるんですか」

 荒れ果てた廃神社に横たわる彼女の姿を思い浮かべる。この期に及んでクラスメイトの心配など、やはり僕はあべこべだ。

「どうもならんさ」

 彼は答えた。

「全てを忘れて戻るだけだ。お前のいない日常に」

 それは事実上の死の宣告だったが、僕は不思議と安堵していた。席に腰かけて本を読み耽る彼女の横顔が、人間として過ごした日々にいつもあった。

 山稜をなぞる夕影が薄まっていく。滲み出た夜闇が木々の幹に絡みついて、僕たちを呑みこもうとしている。背後に佇む黒衣の影は、暗闇に身を浸すことでより気配が濃くなる。

「本来なら、あの娘は貴重なサンプルとして回収されるはずだった」

 こちらに語りかけているというより、どこか独白に近かった。

「天狗星を認識できる娘は、外来種にとって母胎に成り得る。お前の子を宿らせ、成長の過程を観察することで未だ不明な点が多い生態を研究する。それが我々の目的だった」

 我々、か。やはり組織的な後ろ盾があるのだろう。黒服の男は、秘密組織の一員なのだから。

 少し言葉を切って、男は呟いた。

「だが、お前は一線を越えなかったんだな」

 抑揚がなかった言葉の中に、わずかな感情の起伏が読み取れた。その事実が黒服の男の胸中に何をもたらしたのか、もう僕には永遠にわからないだろう。

 沢に金属的な反射が煌めいた。長く鋭利で、わずかに背が反り返った刀身が映っている。見事な刃文の刀がゆっくりと持ち上がる。

「なあ」

 最後に黒服の男に尋ねた。

「僕は、何なんだ?」

「わからんさ」

 彼は答えた。

「お前が忘れてしまったのなら、もう誰にも」

 刹那だった。首が斬り落とされたのを理解したのは、逆さまになった視界を映したからだった。頭を失った胴体は、そのままの姿勢で固まっていた。一瞬だけよぎった黒服の男の表情は、暗く陰っていた。

 この首は、あの神社に祀られるのだろうか。そんなことを考えながら、僕は瞼を閉じた。

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鬼の面 @ninomaehajime

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