後編

 斎藤さんに伝えた通り、私は美琴の葬儀に行かなかった。彼女の死を偲ぶ気が起きなかった。


 ただ、実家では両親が美琴の遺品の整理をするようで、菜月にも見てほしいものがあると母から懇願された。誰が行くか、と思ったけれど、美琴が私に何を遺したのか、それにはほんの少しだけ興味があった。


 私が生まれ育った街では、雪が降っていた。実家で出迎えてきた両親は、最後に見たときよりも活気が失われていた。きっと年月のせいだけではなくて、美琴が死んだことも影響している。


「──私に渡したいものは?」


 けれど、そんなことはどうでもいい。家に上がりながら、急かすように私が問うと「それもあるけど、美琴の部屋を見てほしいの」と、悲嘆に暮れた表情の母に言われた。


「亡くなってからそのままにしてあるんだけど、パソコンとか、ほら、機材? あれをどうすればいいか分からなくて。──Vなんとかってやつ、やってたでしょう?」


 母の一声で、私の足が止まる。VTuberという言葉を覚えられないのか。忘れたのか。あれだけ応援すると言っていたのに。あれだけ活動に理解を示しているような態度だったのに。


 というかそもそも、そんなこと私に頼むなよ。知ってるわけないんだから。二階に上がり、ドアノブを回して美琴の部屋に入る。


 亡くなってからそのままにしてあると言われたので、散らかっている光景を想像していたのだけど、部屋は綺麗に整頓されていた。壁に沿うように置かれたL字デスクの上にはデスクトップパソコンが、その横には大きなモニターが二台、隣り合うように並べられている。レコーディング用らしきマイクと、マイクスタンドもあった。それを見て、私は適当に言った。


「──機材とかパソコンは、必要ないなら処分すればいい。アカウントとかも、たぶん事務所というか、運営が管理してたんだと思う」

「アカウントってなに? 事務所? 美琴も事務所にいたの?」


 母の質問を無視する。私は苛立っていた。どうしてそれを私に聞く。母は美琴という心の支柱を失って、今度は私の気を引くために無知を装っているのではないか。そう思った。母は、そういう立ち振る舞いを人だ。周囲から同情を求めるときに、自分を弱く見せることを躊躇わない人だ。


 私の演技が仕事で評価されているのだとしたら、それは母親譲りなのだろう。自分ではない誰かを刷り込む度に、偽物の感情を心に宿す度に、家族の血や、目に見えない繋がりというものを意識させられる。だから私は演じることが嫌いだ。


 もうこれ以上、家族と関わらないようにしよう。この人たちのことを家族と思うのはやめよう。天井のシーリングライトを見つめながら、私は心に決めた。




 帰り際、玄関で母親から真っ白な封筒を手渡される。裏返すと、小さな文字で「お姉ちゃんへ」と書かれていた。


「これは?」

「美琴が書いた、遺書。わたしと、それとお父さんにも書いてたの」


 顔を上げると、母は涙を流していた。そして、嗚咽混じりに言葉を続ける。


「美琴も本当に苦しかったんだろうけど、でも、優しい子だったし、お母さんにはよく分からないことも頑張ってた。だからこれを菜月に。最期に、あの子が書いたものだから、読んでほしいの」


 目の前で封筒を破り捨てたくなる気持ちを抑える。そんな行動はあまりにも幼稚だと感じたから。


「菜月も仕事で忙しいだろうから、心配で。辛かったら、いつでも帰ってきていいんだからね」

「──は?」


 耐えられず、怒りの混じった声が出た。「え?」と聞き返す母に、なんでもない、と首を横に振ってから私は続けた。


「もう、ここには帰ってこないよ」


 母の顔を見ることなく、私はそう告げた。玄関の扉を閉めて、足早に立ち去る。毅然と、そして堂々と私はここから去る。本心でもあり、演技でもあった。私は母親とは違う。他人に弱みは見せない。


 あなたなんですよ。美琴が学校に行けなくなったことを私のせいにしたのは。美琴のことを優先するように強制して、それに反抗したら、この家から出て行ってほしいと私に言ったのは。


 美琴が亡くなったことで欠けた心を、私で満たそうとするな。たかが美琴の死で、私とあなたがまた繋がると思うな。今更もう、どうにもならないのだから。




 タクシーの車窓から、過ぎ去っていく風景を見つめる。ここを訪れることは、もう二度とない。


 本当に? 私は自分に問いかけていた。


 家族との縁を切ったと言っておきながら、美琴が死んだ知らせを受けて、のこのこ実家へ戻っている。久しぶりに両親の顔が見たかった? 両親に頼られて嬉しかった? 有名になった自分を見てほしかった? 駅のプラットホームでも、帰りの新幹線の中でも、ずっとそんなことを、私は私自身に考えさせられていた。


 自宅のマンションに着いたときには、もうすぐ日が変わろうとしていた。バッグを適当に置いて、息をつく。そのままリビングのソファに背中を深く預けると、一気に疲労感が押し寄せてくる。


 早くシャワーを浴びて、ベッドで眠りたい。けれど、妹の遺書を読むという労力を要するようなことを、明日に回したくもない。ふたつを天秤にかけて、私は後者を選んだ。


 バッグから封筒を取り出して、開ける。中には罫線の引かれたルーズリーフが数枚、折り畳まれて入っていた。開くと、隙間なく埋め尽くされている文章が書かれていた。




 お姉ちゃんへ

 

 たぶんもうすぐわたしは死ぬと思う。もうすぐ死ぬっていうのは、血を流してる最中だとか、病気になってるとかじゃなくて、これを書いて、身の回りの整理をして、しばらくしたら死のうと思ってる。

 もともと遺書なんて書くつもりはなかったんだけど、今から死ぬんだってことを考えると、やっぱり何か遺したほうがいいんだろうなって思った。だって、こうやって誰かに何かを伝えられるのも最後だから。お母さんとお父さんにはもう書いた。お姉ちゃんに向けて伝えたいことがあるかどうかはまだ分からないけれど。

 きっとわたしは死ぬその瞬間まで、わたしの人生はいったいなんだったんだろうって考えてる。今こうしている間にも考えてるけど、意味のない人生だったと思う。でも、これからの人生を良くしていこう、取り返そう、挽回しようとは思えない。未来に希望を持つことにだって、エネルギーみたいなものがいる。わたしの中にはもうそんなものない。いつの間にかなくなってた。新しく生まれることもない。

 わたしにはできないことがたくさんあった。勉強もできなかったし、スポーツもできなかったし、友だちもうまく作れなかった。お姉ちゃんが上手にできて、他の人も普通にできるようなことが、なぜかわたしにはできなかった。だからわたしはいつも、周りと比べて劣ってると思いながら生きてた。とてもつらかったし、耐えられなかった。そんなとき、お母さんもお父さんも、SNSでも、みんな言ってた。つらくなったら逃げてもいいって。だからわたしは逃げた。逃げて、学校に行くのをやめて、外にも出なくなって、自分の部屋にこもるようになった。だって、つらくなったら逃げてもいいって言われたから。

 そんなわたしを心配して、お母さんもお父さんも、わたしだけを見るようになった。家族として、わたしのことを一番に優先するようになった。お姉ちゃんからしたらうざかったよね。でも、そんなわたしを見て、お姉ちゃんは優越感を抱いたこともあったんじゃないかな。だからお姉ちゃんがわたしに消えてほしいと思った回数と同じくらい、わたしもお姉ちゃんに消えてほしいって願ったと思う。

 学校に行かなくなったわたしは、ネットの世界でほとんどの時間を過ごしてた。ゲーム実況者とか歌い手とか、そういう人たちのことは前から好きで、わたしも顔を出さずに歌ってみた動画とかを投稿したり、長時間のゲーム配信を上げたりしてみた。お母さんもお父さんも「美琴がやりたいことはなんでもやってみたらいい」って応援してくれたな。そのゲーム配信のひとつがバズって、業界ではそれなりに有名なプロダクションから連絡をもらって、わたしはVTuberの天羽ソラネとしてデビューした。お姉ちゃんが家から出ていくちょっと前くらいだったから、知ってるよね。天羽ソラネのチャンネル登録者数だったり、SNSのフォロワー数は、どんどん増えていった。

 それから何年か経って、菜月が東京でファッションモデルをやってるらしい、ってお母さんが電話で誰かと話してるのをたまたま聞いた。すぐにネットやSNSで調べたけど、それっぽい情報は全然出てこなかった。嬉しかった。無名じゃん。全然大したことないじゃん。結局お姉ちゃんは、VTuberとして人気を集めてるわたしと違って、その他大勢の人間のうちのひとりに過ぎない。ざまあみろ。そんなふうに感じて、気分が良かった。でも、お姉ちゃんが有名になるのもすぐだったね。わたしでも知ってるようなファッション誌の表紙にもなって、ドラマや映画にも普通に出るようになった。その度に、わたしのなかの何かが、少しずつ崩れていった。

 わたしのほうは、チャンネル登録者数が伸び悩み始めて、動画の再生数もあまり回らなくなってた。それで、焦りとかストレスもあって、生配信で過激な発言をしちゃったんだよね。そしたら炎上した。ちょうどそれと同じくらいのときに、お姉ちゃんが載ってる新聞の記事とか、雑誌の写真とかが切り抜かれてるスクラップブックをたまたま家で見つけた。集めてたのはお母さんだった。今の時代、いくらでもネットで見れるのにね。それで気づいた。天羽ソラネのグッズとか、コラボ商品とか、そういうものはわたしの部屋の中だけにしかない。わたしがやっていることや、VTuberというものを、お母さんもお父さんも、本当は何もわかってないし、深く知ろうともしない。

 それから急に、自分がやっていることとか、やってきたこととか、そういうのが全部ゴミみたいに見えるようになった。再生数とか、チャンネル登録者数とか、ファンやアンチのコメントとか、そういうのも空虚なものにしか思えなくなった。天羽ソラネと羽川美琴、その両方が完全に否定されたみたいだった。言ってることがおかしいと思われるかな。たしかに、天羽ソラネは、羽川美琴じゃない。でもね。天羽ソラネは、わたしなんだよ。

 天羽ソラネは、わたしにとってのすべてだった。パソコンとか、スマホとかで、顔も名前も知らない誰かが、画面を通じて、たしかに天羽ソラネのことを、わたしのことを見てくれる。わたしの言うことに反応してくれる。わたしのことを認めてくれる。わたしのことを求めてくれる。わたしのことを好きだと言ってくれる。わたしのことを愛してくれる。わたしに生きていてほしいと言ってくれる。それがわたしにとっていったいどれほどのことだったのか、お姉ちゃんには絶対に分からない。これからもずっと。でもきっと、お姉ちゃんはそういうのを手に入れられる。そもそも必要としてないかもしれない。それが本当にうらやましい。

 ここまで書いてわかった。わたしはわたしに価値を感じられない。わたしはわたしを肯定したいのに、何をしてもわたしはわたしを肯定できない。それが苦しいから、死にたいんだと思う。理由がわかって、ちょっとすっきりした。たぶんこれで死ねる。

 最後に、勝手なお願いなのはわかってるけど、わたしの分までお父さんとお母さんに優しくしてあげてください。今までお姉ちゃんに迷惑をかけてきて、わたしが死んだらまた迷惑をかけることになるんだろうけど、たぶんこれが最後だから、どうか許してください。


 美琴




 重い瞼を開ける。背中にはソファの柔らかい感触があった。いつの間にか眠っていたようだ。スマホで時刻を確認する。午前九時を過ぎていた。今日は仕事を入れないようにしてもらっている。時間を気にする必要はない。


 目をこすりながら、辺りを見回す。美琴の手紙は、カーペットの上に落ちていた。ソファから身体を起こし、拾ってもう一度、手紙に目を通す。そして、ゴミ箱へと捨てた。


 私は落胆していた。自分の妹が最期に遺したものが、その命を懸けて訴えかけようとしたはずのものが、こんなにも薄っぺらく、中身もなく、何の輝きも放っていないことが、残念でならなかった。


 わたしの分までお父さんとお母さんに優しくしてあげてください? どうして自分にできなかったことをそんな簡単に人に押し付けられる? 自分を肯定できないから死ぬ? 世の中の人が全員、誰かに肯定してもらいながら生きているとでも思ってるの?


 いったい美琴は私に何を伝えたかったのだろう。ただの恨み言だろうか。それとも復讐のつもりだったのだろうか。どちらにせよ、私には届いていない。


 妹への関心なんて、もうとっくに、私の中には存在しないのだから。

 

 ゴミ袋を片手に持ちながら、玄関の扉を開ける。


 共有廊下の窓から差し込んでいる日差しは、この世界で生まれたばかりのように、きらきらと輝いて見えた。温かい光を浴びながら、窓を開けて、冷たい空気を肌に感じながら、外の景色を眺める。


 雲ひとつない、青色に澄んだ空が、突き抜けるようにどこまでも広がっている。まるでこの世界そのものが、私に向けて開放という言葉を体現してくれているようだった。


 そこまで清々しい気分、というわけでもないのだけど。

 そんなことを考えながら、私は苦笑した。

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