電子の羽、天使の翼

鹿島 コウヘイ

前編

 妹が死んだ。その連絡は、母親から届いた。

 



 撮影を終えて控え室に戻り、何気なくスマホを覗くと、見覚えのない番号から連続で着信が入っていた。下にスクロールしても同じ番号が並び続けている様は、ある意味壮観でもあった。どうやら数十件以上は履歴があるようだ。


 首を傾げる。これは仕事用に使っている端末ではなく、プライベート用の端末だ。自宅でトラブルでも起きた? それとも知り合いが誘拐された? 心当たりはなかった。


 疑問に思いながら着信履歴を眺めていると、ちょうどその番号から電話がかかってきて、スマホが震え始める。驚いたこともあって、私は反射的に画面をフリックしていた。出てしまったものは仕方がない。スマホを耳に近づける。


「な──つき? ──なの?」


 雑音が混じった、耳障りな声が聞こえた。それが誰の声なのか分かったとき、瞬間的に怒りが沸いた。約束が違う。けれど感情を露わにするのも癪だったので、私は冷静に答えた。


「あのさ。お互いにもう関わらないって、約束しなかった?」


 スマホから聞こえてくる声は母のものだった。私の言葉に構わず、母は続ける。


「そうじゃな──が、美琴が──」

「美琴?」


 妹の名前を、久しぶりに呼んだ。

 母は取り乱していた。美琴が──。血が──どうして、救急──間に合わな──。断片的に流れる声と、不穏な想像を掻き立てる単語。私の頭に浮かぶ光景は、ひとつしかなかった。


「──死んだの?」


 亡くなった、という言葉を使わなかったのはわざとだった。けれど母が怒り狂うことはなく、動転しているのか、ぐちゃぐちゃな声を発しているだけだった。


 母の声を聞き取ることに神経を集中させていると、ドアがノックされるような音が聞こえたような気がした。そちらに目を向けると、加賀ちゃんが立っていた。電話していた私に気がつき、出ていこうとする彼女を手で制する。そうしている最中に、母が「自殺」と言ったのがかろうじて聞き取れた。


「──へぇ」


 相槌を打ちながら、心の中で噛み締める。自殺。そうか。美琴が自殺したのか。ふぅん。そっか。


「いったん切るね。電話」


 そう告げて、電話を切った。いったん、と言ってしまったのは失敗だったかもしれない。何にせよ、まずは事務所に相談だ。これからのことは、それから決めればいい。


「お疲れ様、加賀ちゃん」

「お疲れ様です」


 加賀ちゃんに向き直ると、彼女は律儀に頭を下げる。


 彼女は私を担当するマネージャーだ。私よりもいくつか年下だけど、真面目だし、細かいところにも目を配ることができる。周りからは加賀ちゃんと呼ばれているようなので、私もそれに倣って加賀ちゃんと呼んでいる。


「すみません、ノックして返事があったと思ってしまいました。大事なお話でしたか?」

「いや、全然大丈夫だよ。母親から」

「そうですか」


 それから私たちは明日のスケジュールの確認をした。早朝から昼過ぎにかけてファッション誌のスナップ撮影。夕方からは週刊誌に掲載される予定のインタビューが三本ほど入っている。加賀ちゃんは最後に「例の台本も送ったので、せめて目は通してくださいね」と念押しすることも忘れなかった。台本というのはとある映画のことで、主役級の役を打診されている。大きな仕事ではあるのだろうけど、あまり気乗りしない。


 加賀ちゃんは黒革の手帳を閉じる。そして、彼女はどこか躊躇いがちに口を開いた。


「あの」

「なに?」

「すみません。先ほどの電話、わたしの聞き間違いでなければ──死んだ、とか聞こえたような気がするんですが……」


 内心で苦笑する。声量は落としていたつもりだったけれど、私も動揺したのか、思ったより声が出ていたようだ。ただ、聞こえていたのなら隠す理由もない。どちらにせよ事務所には報告が必要だと思っていた。


「──ごめん。斎藤さんって今から連絡つきそう?」

「え?」


 斎藤さんというのは、加賀ちゃんの上司にあたる男性だ。事務所のマネージャーを管理する、いわゆるチーフマネージャーと呼ばれる立場の人で、私もこの仕事を始めたときからお世話になっている。


 加賀ちゃんと目を合わせる。演技は嫌いだ。けれど、こういうの状況になると、どこまで相手の感情を思い通りにできるのか、興味本位で試したくなってしまう。


「──亡くなったみたいなんだよね。妹が」


 心に傷を負いながら、それでも芯が崩れないように気丈に振る舞っている。もしもそんなふうに今の私を加賀ちゃんが捉えたのだとしたら、やはり私は演じることが得意なのかもしれない。




「大々的には出ないと思うけどね」と言って、斎藤さんはペットボトルのブラックコーヒーに口をつけた。容器の中の黒い液体が、大きく波を立てた。


「もちろん事務所としても各所に働きかけるけれど、そもそも自殺の報道は、国がメディアに注意を促してるくらいにはセンシティブな情報で、しかも今回は──言い方が悪いけど、本人じゃなくてその家族。それを出す、イコール世間を敵に回すことになる。リスクの方が大きい」


 あの後すぐに斎藤さんには連絡がついて、私と加賀ちゃんは事務所に戻った。落ち着いた雰囲気が漂うカフェのような会議室で、私の正面には斎藤さんが、その隣に加賀ちゃんが座っている。


「後は向こうがコメントを出すかどうかかな。あっちの事務所から羽川さんに連絡とかいってないよね?」

「はい。何も」

「だよね。まぁ、引退してるからもう出さないか」

「すみません。菜月さんの妹さんは、業界の方なんですか?」


 事務所や引退という言葉が引っかかったのか、遠慮がちに加賀ちゃんが尋ねる。斎藤さんは加賀ちゃんの方を向いた。


「加賀ちゃんさ、VTuberって詳しい?」


 唐突な質問に戸惑ったような様子を見せながらも、加賀ちゃんは真剣な顔で答えた。


「有名どころに目を通すくらいは。でも、詳しいわけではないです」

「あ、加賀ちゃんも見てるんだ」


 私が驚きながら言うと、彼女は頷く。


「一応は。競合相手というと違うかもしれませんけど、大手企業とのタイアップやCM、アーティスト活動とか、ネット以外のメディアへも進出していますし」

「じゃあさ、天羽あもうソラネって聞いたことある?」


 斎藤さんが尋ねると、加賀ちゃんは「アモウソラネ」と記憶を辿るようにつぶやく。少し考えてから、彼女は言った。


「ほとんど見たことないですけど、天使みたいな翼が生えてる女の子でしたっけ。チャンネル登録者も数万人はいたような気がします」

「それ、私の妹。ちょっと前に卒業というか、引退したみたいだけど」


 今度は加賀ちゃんの方が驚いたように「え」と声を上げた。


「そうなんですね」

「うん。プライベートなことだから、事務所でも一部の人にしか伝えてなかったけど。私、家族と仲が悪いんだよね。妹ともそうだったけど、特に母親と」 


 事務所の自動販売機で買った、ホットのカフェオレに口をつける。口内に甘ったるい風味が広がる。


「家族と過ごすのが嫌になって、衝動的にこっちに出てきて、この仕事を始めて。徐々に表に出られるようになったとき、母親から連絡があったの。今まであなたのために使ってきたお金を返して、ってね。初めは無視してたんだけど、鬱陶しくなって全部ブロックしたら、とうとうこの事務所に連絡してきたんだよね。──毒親って言うんだっけ? こういうの」


 いつもの口調を意識して、私は淡々と告げた。別に、同情されることを望んではいないのだ。


「埒が明かないから、私からある程度まとまったお金を渡して、その引き換えに関係を切った状態にした。念書も書いたくらい。法的拘束力はないみたいだけど」


 金銭の無心をしないこと。相互に連絡を取らないこと。事務所の弁護士にも相談しながら、そんなことを盛り込んだ。ただ、法的に家族と縁を切る方法はない、とも言われたことを覚えている。それを聞いて「不便ですね」と私は答えた。


「家族が亡くなったことを聞いても反応が薄かったのは、そういう事情があったから。私、そこまで薄情ではないからね」


 冗談めかして言うと、加賀ちゃんは少し表情を崩した。それを横目で見ながら、斎藤さんが私に尋ねる。


「それで、葬儀には出るの?」

「出ないです」と私は即答した。少しは悩んだ素振りをすればよかったかな、と言ってから思った。




 中学二年生の夏休み明けから、美琴は学校に行かなくなった。原因は知らない。その頃にはもう、妹とふたりで会話をすることはほとんど無くなっていた。


 母からは「菜月がもうちょっとしっかりしていたら」だとか「美琴のことを考えなさい」だとか、そんなことを言われた。美琴が引きこもるようになってどうして私が責められているのか、本当に分からなかった。


 その美琴が始めたのが、配信者としての活動だった。流行りの歌を歌ったり、雑談をしたりする、そんな活動。中身はどうであれ、美琴が何かに打ち込んでいることが嬉しかったのか、両親は温かく見守っていた。だから私も彼女への理解を求められた。隣の部屋で深夜に配信をされても。美琴のために家事を手伝ってと言われても。お姉ちゃんなんだから。美琴も頑張ってるんだから。何度もそんな言葉を投げかけられた。


 そして、どういう経緯なのかは分からないけれど、美琴はバーチャルYouTuber──VTuberの『天羽ソラネ』となった。白髪の頭上には、天使のような輪。背中には、白い翼。そんな美少女のアバターを彼女は纏った。


 一度だけ、彼女の配信を自分の部屋で見たことがある。壁を挟んだ向こう側で、普段とは違う猫撫で声で話す美琴。画面の隅で小刻みに動く、天羽ソラネのアバター。視聴者の熱狂的なコメント。それらがただ、ひたすらに薄ら寒かった。美琴も、その視聴者たちも、いったい何が楽しくてこんなことをやっているのか分からなかった。


 やがて私は受験生となった。元々は都内の大学に進学したかったけれど、両親は実家から通える範囲の大学しか認めなかった。学費を免除されるだけの成績を取る。生活費も自分で何とかする。そう伝えても、母は呆れたような顔をして言った。


「──そういうことじゃないでしょ。あなたは昔からずっとそう。勝手なことばかり言って。美琴に申し訳ないと思わないの?」


 その瞬間、この家族と繋がっていたはずの私の中の何かがプツンと切れた。これからの時間を、そして人生を、美琴に捧げろ。そう言われているのと同じだった。私は盛大に反抗した。母は私を殴り、私も母を殴った。


 結果として、私は高校を卒業すると同時に家から出ていくことになり、地元の大学への入学を辞退して、東京の大学に進学した友人の家に転がり込んだ。自分が生まれ育ったこの場所から、できるだけ遠いところに行きたかった。


 しばらくして、目的もなく渋谷の辺りをぶらぶらとしていると、ふいに知らない男性に声をかけられた。詐欺か、性風俗の勧誘かと疑ったけれど、相手もそれを察したのか、名刺を渡される。


 その名刺に印字されていたのは、私でも耳にしたことがあるような芸能関連の会社で、どうやら正当な、いわゆるスカウトのようだった。注目を浴びることは好きではない。ただ、自分の外見に価値があると見定められたのであれば、そういう仕事をするのが合理的かもしれない。


 今の私はどうせ無職だ。何もしないよりはいい。そんな軽い気持ちで私はこの業界に足を踏み入れ、結局はその気持ち以上に努力をして、今の私、羽川菜月ができあがった。

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