第8話

今から僕は非常識なことをしようと思う。寝ている花花子に内緒でこっそり家を出て、お隣さんに早朝から押しかけて一方的な謝罪を聞いてもらうためだ。許してもらえるかどうかなんて分からないし、もしかしたら余計に怖がらせるかもしれないのに非常に無鉄砲な考えである。玄関を出た先がまだ肌寒くて余計に自信がなくなった。お隣さんはすぐそこだというのに何かを言い訳するように僕は歩くスピードをやたらゆっくりにして、チャイムを押すことも五分くらい躊躇ってみる。震える指から発生したとは思えないくらい大きく響いたチャイムに花花子が起きやしないだろうかと冷や冷やした。しばらくしてコト、コト、と何の音かは分からないが人の気配には間違いないものを感じる。そのまま招かれることもなく寒い玄関先で放置されること更に五分。一旦帰ろうかなと貧弱な弱音が僕を蝕んできた時にいきなりガチャンとドアが開いた。間違いなくその怪訝な目付きはあの時の薔薇の少女だ。ああ、意外に可愛いパジャマを着ているんだな。やっぱり花花子と良く趣味が合いそうだ。


「……えーと、花花子と仲直りが出来たので、あの時の助言にお礼というか謝罪を……」


その瞬間ぶわっ、とあまりにも濃く深い薔薇の香りが僕達の周りの空気をかき消す勢いで通り過ぎて行った。いきなりの出来事に驚きながら周りを見渡すと洋館を取り囲むツタに恐ろしいような数の赤薔薇が咲き誇っている。薔薇の少女はそれに微妙そうな顔をしながら僕に向かって「おめでとうございます」と小さく呟いた。その耳はほんの少しだけ赤い気がする。一体どういうことだ。「どうぞ」と薔薇の少女が玄関の靴をずらしてスペースを作ってくれて、とりあえず家の中に入れてもらえたことに安心しながら僕は不躾にも内装をまじまじと見てしまう。家の中にまで薔薇が咲いている、こんなことってあるんだな。日光に当ててやらなくても大丈夫なんだろうか。もしかしてこの少女の生気を吸って咲いていたりして……やめよう、あまりにも失礼過ぎる妄想だ。今日ばかりはこんなふうに睨まれるためにお邪魔した訳じゃない。


「あの時は申し訳なかった」

「本当ですよ、怖かったです」


沈黙。それは今の僕にとって一番忌避すべきものだった。コッチン、コッチン、という大袈裟なほどの秒針の音に肌が痺れるような錯覚さえしてくる。ニャア、という鳴き声がどこからか聞こえて僕はハッと息を吸い込んだ。猫を飼っているのか。


「……?あれ?」

「見えないの、けどそこにいる」


足元を柔らかい毛が撫でていく感触にオロオロとしてしまう。スリスリと頭を擦り付けてきているのは分かるのだが如何せん何も見えない。恐る恐る手を持っていくとまたしてもニャア、と聞こえてきて手の甲をサリサリと舐められた。そこにいるらしい空間だけ、ほんのり温かい気がする。


「その子、一度ここで死んだんですよ。でもなんでか転生しないまま、もう一年くらいずっとここにいるんです」

「貴女と一緒にいたいんじゃ?」

「それじゃ殺した意味がないのに」

「おお、そうだったんですか……」


自分の手をじっと見詰める薔薇の少女の指は細くて白くて小さくて、本当にその手で生き物を殺すことが出来たのかと疑問に思ってしまうほど華奢だ。花花子のように飾るために出来上がった優雅な手ではなく、まだこれから美しくなるために大事にしなければいけないと教えてくれるような未熟で可愛らしい手。そういえば花花子も昔はこんな手をしていたのだろうか、と思い出してみたくなった。当たり前だがそんな細かいところを鮮明に覚えてはいなかったし、花花子は色白ではあるがこの少女よりもう少しだけ健康的な肌色だった気がする。何にせよ今も昔も僕が見ていて綺麗だと思うような手をしているんだろう、帰ったら手を繋ぎたい。薔薇の少女は何かを思い出すように爪を噛んでいた。それを悪い癖だと指摘するような仲でもない、血が出るほど噛まなければそれでいいと思って僕はそれを何となく眺める。けれどそれはそれでセクハラなのでは、とハッとしたところで目線を逸らしたが絶対に不自然だったはずだ。気にしているのなら花花子にネイルでも教えてもらえばいいと伝える気のないお節介が思い浮かぶ。しばらくして薔薇の少女の口から離されたその左手をチラリと見ると人差し指の爪の白い部分がギリギリまで綺麗になくなっていた。器用なことが出来るなと少し感心する。


「赤薔薇が咲いたの。九百九十九本の赤薔薇」

「ああ、見たよ……凄かった」

「その花言葉は分かります?」

「花花子が花が好きだから……何度か聞いてる。何度生まれ変わっても、」

「十分。花花子さんへのプロポーズはここにして。言っておくけど今日決行ですよ?」

「へぇ!?」


唐突過ぎるアイデアに声がひっくり返る。本当なら体ごとひっくり返りたいところなのだがあまりの驚きに僕の体勢の方は固まってしまっていた。それにこの少女が当然だとでも言うような顔をしているのが良く分からないし、僕は結婚なんてそんな大層なプロセスを花花子と踏むのは自分にはまだ早いと思っていたのだ。心臓が変な鳴り方をし始めてしまっている、僕はなんて答えてどう行動するのが最善なのか。それこそ自分で決めること、大事なことだろう。


「……まあ、案ずるより産むが易し……?」

「なんで今その言葉が出てくるんです?本当にプロポーズ成功させる気あります?」


そんなことを言われてもこの状況で「分かったそうしよう」なんてスマートに返事が出来る方がおかしいと思う。でも何となく薔薇の少女がアドバイスしてくれている出来事は参考にしても大丈夫な気がして、悪い方向へと行ってしまう未来よりも不鮮明な期待が勝った。人に言われて始めるプロポーズなんて女性にとってどうなんだという不安はもちろんあったけれど、それこそやってみなければ分からないことかもしれない。だってこれを提案してくれている薔薇の少女だってまだ少し幼いとはいえ女性なのだから、少なくとも僕よりは女心を理解している可能性は大いにある。けれど待ってくれ?


「プロポーズってどうやるんだ?」

「それはそっちで考えてください。ほらもう帰って準備して、花花子さんが起きちゃう」


肩を押される非常に弱い力に何故か抗えなかった僕は最後に慌てて薔薇の少女と多分その辺にいるはずの猫に手を振って薔薇の洋館から外へと追い出された。真っ赤な薔薇が僕を緊張させるように咲き乱れていて、プロポーズの成功を祈ってくれているのかもしれないと少しメルヘンな思考になる。それかもしくは『私達が咲いていながら失敗なんてしたら分かっているんでしょうね』という赤くて怖い脅しなのかもしれない。何か悪いことをしたあとみたいにソロソロと自分達のシェアハウスに帰ると玄関を開けた先に普通にメイクまでバッチリ済ませた花花子がいて「ヒン!」と情けない悲鳴が僕から漏れた。爆発的な緊張で無意識のうちにピンと伸びた背筋がいきなりのことでビキッと痛んだ気がする。まだ背中を痛めるような歳ではないだろうと自分の不摂生が嫌になるが今するのはその話ではない。なんかいつもより圧が強い気がする目の前の花花子に僕はもっと大事なことを伝える必要がある。


「こんな朝早くから家出だなんてご苦労様、お土産はどこかしらね?」

「ごめん何もない、後でスイーツ買いに行こう。五百円まででいいか?」

「んまぁリッチ!いいわよ!生クリーム!」


それは五百円分の生クリームを買って食べるということか?普通に考えたら『生クリームの使われたスイーツ』を略しているのだが花花子は口の中にホイップクリームを直に絞るのが人類の最も大きな夢の一つだと考えている節がある為どちらの説も濃厚だ。僕に出来るのはお金を出すこととそのホイップクリームで胸焼けをした花花子に温かいインスタントの飲み物を出すことくらいである。残りの選択肢は花花子の好きなようにしてもらうしかない。何故か花花子が片手で何か器を持ってもう片方の手で何かをグルグルと回す動作をしているのだがそれは何だろうか。もしかして生クリームをボウルで泡立てているのだとしたらお菓子作りが始まりそうな予感がする。予算五百円で作るスイーツは些か無理があることを僕は知っているのだ。五十グラムしか使わない粉類がその数倍の容量でしか売っていないことが多々ある、それがお菓子作りで出費がかさむ原因なのだと花花子と買い物をするうちに気付いた。道理で小学生向けのお菓子作りに推奨されるレシピが『溶かす』『固める』に特化したものばかりな訳である。ちょっと気合いの入った年頃の女の子のバレンタインデーなどは親御さんの懐が痛くて仕方ないことだろう。まあ最近の世の中で複雑化してきた子供の事情は置いておくとして、本題。


「えっと……お知らせがある」

「あら、何の?」

「内容は薔薇の洋館で伝えたいんだ。今から行ける?頼むよ」

「……どうしてあそこに?」


珍しく訝しげな表情をする花花子に心臓が縮みっぱなしで戻らない。そりゃそうだ、僕があそこに興味を示したことなんて一度もないのだから。もしかしたら『強盗でもするのかしら』なんて酷い勘違いをされているのだろうかと不安がよぎる辺り自分の日頃の行いがいかに信頼に足らなかったかを知る。人に優しくすれば自分に返ってくるとはよく聞くが素っ気なくしていたら罰として返ってくるなんて聞いていない。花花子が髪をクルクルと指で弄んで空中を困ったようなムッとしたような顔で見上げている。僕の真意が探れず色々な可能性を引っ張り出して悩んでいるようだが、どうやらこの場では伝えづらいことだというのは僕の纏っている雰囲気で伝わっているらしい。「ふぅ〜ん……」と猫が寝ぼけている時のような声を細い喉のどこかから出しながら花花子は僕の方に目線を戻してまだ困惑しつつもウンウンと頷いた。


「いいわ、ちょっと待っててちょうだいね」


そう行って身支度に取りかかりに行った花花子を見て何とか胸を撫で下ろす。さっきから心臓が祭りの太鼓ぐらい鳴っていて僕の寿命を早めに削っていっている気がしないでもない。そういえば僕ももう少し小綺麗な格好に着替えた方がいいのか、とふと気付いてしまってそれが新たな悩みとなった。プロポーズってスーツでするものなんだっけか、いやでもクリスマスのイルミネーションデートで決行する男性の多さから考えるとお洒落な服と良い雰囲気というのがセットになって大切な気がする。だとすればもう片方も叶える猶予がないというのが僕の現状だと気付いて更に頭と心臓がうるさくなった。準備というものがあるだろう、目標に向かう時はそこに思い切り立ち幅跳びをしようとするのではなくきちんと一歩一歩確認しながら進め。


「マフラー巻く〜?杏太」

「いや、かっこ悪いからいい」

「あらやだ、ようやく服の好みが出てきたのかしら。だとしたら遅過ぎね、もう貴方に拒否権はないわよ〜」

「……むぐ……」


口元までミイラみたいにマフラーを巻かれた僕はその下で思い切り唇を噛み締めた。エリザベスカラーじゃないのだからこんなに首元を厳重に守らなくてもいいと思う。というかこれではプロポーズの言葉がこもってしまって上手く発声出来ないじゃないか。ただてさえ緊張で呂律が怪しくなるだろうと分かっているのに泣きっ面に蜂のお手本のようである。「結婚してください」こんなに一度きりしか言いたくない台詞も他にないというのに花花子なら平気で「ワンモアプリーズ」とか返してきそうで怖い限りだ。けれどせっかく巻いてもらったマフラーをここで取り去ってしまえば更に何をするんだこの男はと余計な疑念を抱かせてしまう。スマートなプロポーズはもう諦めた、だがその道に至るまでに花花子が呆れて帰ってしまわない為なら僕は何だってしてやろう。花花子の穿いている青いマーメイドスカートの裾が波のように揺れて人魚みたいだなと安直な感想が心に湧いて出てきた。それこそ濡れた時のようにピッタリ張り付いた生地を越えてお尻の形がよく分かる。お洒落をするということがエロスに直結するのか、もしくは花花子だから何を着てもセクシーな装いに出来上がってしまうのか。財布とポケットティッシュとハンカチを入れたらもうパンパンになってしまうような小さいバッグを遠心力でブンブンと振り回す行動は決して大人の女性には見えないけれど、まあそういう外れたギャップ込みで愛おしいのが花花子だ。それから今度は僕を置いて高々とスキップをしながら玄関を出て行ってしまったのに慌てながら僕もすぐに外に出た。玄関から出て三歩も歩かないような場所で驚いたように僕の方を見詰めて立ち止まっていたのでこちらも少し驚く。もう何かに気付いたらしい。野生動物みたいな五感だ。


「薔薇、薔薇!なんか凄くないかしら!?あれどうしたの!?もしかして綺麗だから私に見せたかったってこと!?」

「それもある、それもあるけど、一旦進んで」


グルグルに巻かれたマフラー越しにも分かるくらい緊張から変な顔をしているであろう僕に花花子はいよいよ訳が分からないという顔をした。花花子より先に薔薇の洋館の庭に入りたくて不自然な早足で前に出て花花子の手を引く。少し花花子の足が止まりそうになっていることに気が付いて「お願いだよ」と伝える僕の声は震えていた。踏み入った先で僕達を待っていた薔薇の洋館は正しく愛を祝福をする教会のようで、けれど僕達のそれが成就するかどうか怪しいのが怖いところだ。薔薇の濃い香りが媚薬みたいに僕の行動力に火を付けて、もう戻れないならいっそのことかましてやれとあらゆる器官から侵食して僕を煽ってくる。プロポーズの言葉だって頭のどこかで多少は考えていたはずなのに今思い出せるものは一つもない。いいから、言え、言え、言うんだ僕、そうしたらきっと何かが変わる。良くも悪くも、今やることをやったら進むべき道を踏んだことに間違いはなくなるから。自分に必要なことが花花子にも必要かと聞いてみることの何がいけない、僕がしようとしていることは愛故だろう!


「ぼ、僕と、結婚してください!」

「……指輪は?」

「えっ、あ、ない……です……」

「ぷっ」


「ぷはははははっ!」と花花子が高らかに笑った。もうその時既に僕は頭を抱えて絶望からかっぴらいた目で地面を見ることしか出来なくなっていたし花花子はそんな僕の頭をバシバシと力加減をすることもなく叩いて「ドンマイよ!」と更に笑っている。そうだな、指輪、婚約指輪。必要に決まっているよな、翼がないのに空に向かって崖からジャンプしたらそれはチャレンジでも何でもないただの自殺行為だよな。ちょっと待った、あれ、でもこれプロポーズ失敗か?花花子からはイエスもノーも答えてもらっていない、そこのところどうなんだと先程とは比べ物にならない不安感が押し寄せてきた。そしてその時に鳴るパァン!という甲高い爆発音とその瞬間に辺りに充満する火薬の匂い。花花子と二人して振り向くと薔薇の少女がこちらを真顔で見ながら鳴らしたクラッカーの音だった。そして少し遅れてやってくる疎らな拍手。少し、いやかなり気まずいなと思っていると花花子が釣られて自分も拍手をし出した。いやいや、君はなんか違う気がするけれど。でも二対一は卑怯な空気感だと思ったため僕も一応拍手をしてみる。三人で拍手する音がパチパチパチと。なんだこれ。なんだこれ?


「おめでとうございます、花花子さん……」

「あら〜!?ここのお嬢さん!?初めましてこんにちは!いえまだおはようございますかしらね、とにかくごきげんよう!ありがとう嬉しいわ〜、杏太もほら!お祝いしてくれてるのよ、このお嬢さんにお礼を言いなさい!」

「いや待ってよ、まだ成功したかどうか分かってないから。花花子、君は僕に言うことがあるんじゃないのか?はいとか、喜んでとか、……ごめんなさいとか……」

「え?オッケーに決まっているでしょう、なんで私がごめんなさいなんて言うのよ。私のことをプロポーズを断った時に爆笑する女だと思っていたの?良かったわねぇそんな杏太を貰ってくれる女の人は私しかいないわ〜。それよりお嬢さんにお願いなんだけれどこの薔薇!一輪貰ってもいいかしら……!」

「もちろんです花花子さん!どうぞ!」


花花子の髪に薔薇を挿す少女が今までの僕に対する態度は何だったんだというほどの笑顔を見せている。今のここは完全に女の園だ、僕には薔薇のおしべだって味方してくれそうにない。ニャア、という声がどこからか聞こえて僕は必死にその声のありかを探した。ああ透明猫、お前は流石に雄だよな?僕のことを可哀想な同類だと思って慰めてくれるよな、お前のご主人様は酷いんだよ花花子のことを僕より独占したりするんだ。地面から猫の高さの辺りでさわさわと手を動かしているとンナー、という声と共に僕の手に猫耳が引っかかる感触がした。まだ幼いまま死んだ猫だったのかその頭はまだ少し子猫に近い大きさをしているようで、僕の片手の中にすっぽり収まる丸みは可愛らしいことこの上ない。そんな優しい透明猫と何かしらの会話がしたくて何も考えずに「ナーンナーン」と僕も鳴いてみた。自分が変なことをしているのに気が付いて思わずハッとすると花花子と薔薇の少女が『何してんの?』というような目をして二人がかりで僕のことを上から眺めている。お嫁さんに相手にしてもらえず猫に愚痴るという悲しき成人男性をそんな目で見るんじゃない、そっちには分からないだろうがこっちには色々な事情というものがあるんだよ。


「もう僕のことは萎れた薔薇だと思って扱ってくれ。そんなに僕をいじめるな」

「杏太は薔薇って感じじゃないわねぇ」

「花が咲くタイプの雑草っぽいですよね」

「おい酷いだろ、そんな可哀想な雑草を握り潰して心が痛まないのか?」


僕が膝についた草を払って立ち上がるとそれを無に帰すかのように花花子が僕のことを派手に押し倒して二人は地面へと倒れ込んだ。毟り取られるようにマフラーが外されてぬくぬくと甘やかされていたはずの喉に冷たい空気が滝のように流れ込んで痛い。そんな僕が目を白黒させているというのに花花子は歯がしっかり見えるくらい良い笑顔で「杏太!私達幸せになるわよ!」と大声で言った後こんなところでそれはそれは盛大なキスをしてきた。他の人がいるって!とバタバタ暴れる僕を抱き締めながら酸欠上等のキスを続ける花花子の力は何故か今までで一番強いような気さえする。「シーツ被りますか!?」ととんでもない気遣いをしてくれる薔薇の少女がどこにいるのかは視界いっぱいの花花子のせいで分からないが僕は必死に手を振って『いらない!いらない!』というジェスチャーをした。どう考えてもこの状況で盛れる訳がない、そもそも未成年かもしれない少女が見ている今ここでおっぱじめたりしたら僕達は何という罪に問われるのだろう。まだまともなお祝いもしていないのにハネムーンが刑務所だなんて絶対に嫌だ、そもそもあそこは男女が別で分けられているところじゃないか。


「……!花花子!TPOを弁えろ!キスなんかこれから今まで以上にいつでも出来るんだから家まで待ってくれ!」

「あ〜らやだ、お家に帰ったら私何されちゃうのかしら!ねぇお嬢さん、杏太って本当にムッツリで困っちゃうのよ〜」

「分かります、花花子さんにベタ惚れって感じでこれから更に大変になるんでしょうね……花花子さん、お体をお大事に」

「なんて話をしてるんだよ!君も大人の話に首を突っ込まなくていい、花花子は堂々としていればいいってもんじゃないんだから不健全なのを自覚しろ!」


ズレてしまっている薔薇を花花子の髪の上で一番綺麗な位置に戻しながら僕は自分に移っているであろう口紅を手の甲で拭った。それが正しく薔薇色だったことに気付いた今、口紅は大体赤色だろうという前提を知っていたのにも関わらず僕の心臓は嬉しさと運命的な衝撃に揺れている。例外として花花子がたまに黒い口紅を塗っているのを見ることがあるが正直僕はあれを物凄く悪役みたいだと思っていて、その時の気分はさながら女王に仕える盲目的な手下だ。強そうな女性は怖いから普段ならあまり近付いたりはしないのだが、中身が花花子だということを知っていれば『刺激的な一日になるな』くらいの認識で過ごせる。まあ今日以上に刺激的な日なんてこれから早々ありはしないだろうと思いながら僕はふと薔薇の少女に聞いてみた。


「そういえば君はなんで花花子のことを知ってたんだ?ちゃんと名前まで」

「貴方がいつも家の前を通る時に花花子花花子ってずっとうるさいからですよ」

「ああ〜……申し訳ないね……自分達でも静かな時がなくて僕も困ってるんだけど……」

「別にいいんじゃないです?幸せそうだし」


存外器の大きい少女である。僕が笑いながら感謝を伝えると「そんなのいいですから早く帰って花花子さんを満足させてあげて」とびっくりするようなことを言われてしまった。若い子がそんなことを言うなと言おうとして、その元気が有り余っているは僕達の方だろうと熱くなった頬を押さえて少し黙る。女性が集まった時特有の波長の合った笑い声に僕は男として一人疎外感を感じながら態とらしくため息をついた。喜色の溢れる薔薇色の頬をした花花子の笑顔を心底可愛いと思いながらじっと見詰めるのは決して悪くなかったけれど、やっぱりこれは僕が独り占めするに限るなんてふうに思ってしまう自分がいる。分かってはいたけれど花花子に出会ってからの僕は愛について随分な欲張りになってしまっているのだとしみじみ思うが、そこで文句を言わせる気は誰にもない。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ、だったか。別にそこまではしなくていいから、僕と花花子の笑顔を見てその日の自分しかいない夕食が寂しくなる人間くらいはいればいい。孤独に恨まれる立場の幸せを手に入れたことが、性格は悪いと思うが自分でも見せびらかしたいほどには嬉しいことなので。こんな人間だけれど花花子、どうか僕から逃げないでくれなんて、やっぱり駄目な人間は幸せになっても駄目なままだった。温かい泥のような幸せは実に僕にお似合いだろう。


「杏太、私今から行きたい場所があるわ。……ねぇちょっと、聞いてるかしら?」

「ん?うん?聞いてるさ。どこだ、今ならどこにだって付き合うよ」

「それじゃあお言葉に甘えて……海がいいわ」


僕は思わず変な顔をしてしまったよ、花花子。

***

「……昔を思い出すなぁ」

「貴方の家海が近かったの?」

「いいや、遠くはなかったけれど自分一人だと好んで行ってた訳でもなかったよ」

「じゃあなんでかしらね、人は海から生まれたからかしら。でも私も波の音は好きよ、そのまま眠りたくなるの」


座った時に手をついたせいで付いてきた砂浜の粒子たちをパラパラと払う。ここにあるのは穏やかな海だ、人を攫って食べてしまうような波は一向に来ない美しい海。この辺りの常識なのかは分からないが地平線がなく空と海が溶け合って一つになっているらしく、空を飛ぶ魚らしきものがちらほら見える。絵本の中みたいな世界観だなと思いながら大物の魚をどこかで見付けようと視線を動かした。流石に鮫みたいなのがいたら全力で逃げる所存だけれど今のところ変なふうにカラフルな小魚しか見えていない。隣に座る花花子に肩を叩かれてそちらを見ると持ってきていた小ぶりなバッグの中を覗くように指を差された。そこに入っていたのは財布でもポケットティッシュでもハンカチでも何でもなかったことにギョッとしてしまった僕は慌てて花花子の目を見て思わず半笑いになる。


「では問題です、杏太。これはなんでしょう」

「……包丁だね。家のやつだ」

「はい正解ね。私、これで貴方とお嬢さんを刺すつもりだったわ」

「なんで!」

「浮気されたのかと思ったじゃない。でもそれが貴方の幸せだっていうなら、あの子と向こうの世界で一緒になればいいってヤケクソで思ったのよ。まあ私の勘違いだったけれど」

「あの薔薇の洋館の子とか?有り得ないだろ、有り得ないけど、もしそうならそれから君はどうするつもりだったんだよ」

「この世界で一人よ。言ったでしょう、貴方がいないならずっとお家で待ってるって。でももう貴方は来ないから、やっぱりずっと一人よ。そんな未来が見えて、一瞬だけど死ぬほど怖かったわ。正直言って絶望したもの」

「そんなの耐えられない!僕が!」

「ええ、もう分かったわよ。十分ね」


太陽に向かって包丁を持ち上げた花花子の手元が刃物の反射でキラキラと光る。武器を手にする女性というものは何故こんなに美しいのだろうか。戦う訳でもない女の子が自分の意志で誰かを刺すことを心に決める、これはなかなかドラマチックなことである。決していいことだとそれらの事件を美化する訳ではないが、そこに至るまでのその女の子の心の揺れ動き、男よりは力に劣るだろう事実を全て覚悟で薙ぎ払ったあまりにも強い意志。これらは見ていて関心すらしてしまうのだ。壊すことを選べる人間は強いと思う、少なくとも僕はやるやる詐欺でこの地獄での人生の終わりへ無理矢理にでも飛び込む覚悟が足りていなかった。それを花花子、君はいとも簡単に飛び越えていくことが出来てしまうんだな。君を殺すなんてそんな偉大なことは僕には出来なかったよ。愛するあまり行動にブレーキがかかってしまう、幸せのために一度の痛みを我慢することも無理だと諦めて今この時に甘えてしまっていたんだ。


「今なら貴方が分かるわ、新しいことを始める時は綺麗な場所で心機一転したいわよね。いえ違うのよ、ここが綺麗じゃない訳じゃないけれど……別にここに執着するだけが人生じゃないもの、私気付いちゃった。才女かしら」


笑みが抑えられないあまりぷるぷると震える自分の頬を抓る僕のことを花花子は赤くなった顔で真剣に見詰めていた。つまりはつまり、そういうことだろう。僕の願いが花花子の願いにもなったのだと、まさか本当か?どちらともなくキスをして、これがこの世界での最後のキスになると何となく分かってしまった。砂浜の中で僕達をギラギラと照らす太陽は全然ロマンチックじゃなかったし、いつの間にか真夏のようになっていた天気はこの世界から逃げ出そうとする裏切り者を睨んでいるようでもあった。けれど僕と花花子が今更どんな罪を犯したところで僕達を引き裂く理由になるとは思えない。もし仮に罰を与えられたとして、それこそアダムとイヴのような話だろう。堕ちた人間にしか育てることが出来ない大木というものが確かにあるはずなのだ。別に花花子と育てるならばそれが林檎の樹だろうがぺんぺん草だろうが僕は楽しいから構わないのだけれど、どうせなら花花子に似合う花がいい。花花子に相応しい人生を咲かせていきたい。そんな花花子が喉を潤すための水のような存在に、僕はなってみたいのだ。


「私、貴方と死にたいわ!覚悟しなさい杏太!綺麗な海辺で心中よ!」

「やだ、僕生きたい」


最後に嫌よ嫌よも好きのうち、ではないがちょっとだけ勿体ぶって遊んでみた。そんな僕にはお構いなしに花花子は笑顔で包丁を振りかぶったけれど。別に聞いてもらう気もない冗談のつもりだ、花花子が死のうと言うなら僕の死ぬ準備は何年も前から出来ていたのだから。可愛い花花子、使命を果たす天使みたいな君は僕を殺す時だってこんなにも可愛い。そんなに可愛いものだからこの世界だって向こうの世界だって関係なく僕は花花子を好きになると約束しようじゃないか。なので僕はとびきり優しく微笑んで愛の刃を受け入れた。「来世も幸せにするよ」だなんて、そんなありきたりな二度目のプロポーズを最期に僕の首は胴体と泣き別れる。僕の血の轍をバージンロードにきっと跡を追っておくれ、いつでも待っているからね。

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S極の2人 蛇の目浮泥子 @urocojyanome

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