第7話

「杏太、私子供が出来たのよ」

「ふぁい?」


キョトンとしてしまった。自分の腹を撫でながらはにかむ花花子に僕はひとまず口の中のパンを飲み込んで、残りを皿に置こうとして、失敗した。手が震えてパンを持つどころではない。落ちたパンというのは何故例外なくバターを塗った方を下にして落下してしまうのか、という人類の永遠の懸念点はここでも解決しないらしく僕のスウェットズボンは洗濯が必要な状態に成り果てた。濃厚かつ洋風な匂いは確かに悪くないけれど食用なだけあって香水代わりにはきついものがある。とりあえず拾い上げたパンをもう一度皿の上に戻したあと、そこそこの埃がバターを接着剤代わりに付着しているのを見てもう一口も食べないことを決めた。まだ半分ほどしか食べていなかったため微妙に勿体ないという気持ちになる。もう一枚焼くべきだろうかと悩みどころな自分の胃の容量を服の上からさすって、それと同時に花花子も自分の腹をさすっていた。花花子はおかしいことを言っている。いつもおかしいが今回は普段の十倍はおかしいことを言っているのだ。だってここは死後の世界で、自殺をした人間しか集まることは出来ないはずで。生きている時に子供が『出来ていた』のならまだ分かるのだが、それならもうとっくに生まれているはずだしあの時の僕達は小学生だし、果たしてその時に花花子に初潮がきていたかも分からない。あの頃の花花子に手を出したやつがいるとしたらそれは間違いなく犯罪だろうから考えたくもない問題だ。今更それは本当に僕との子か、なんて花花子に問いただすつもりはさらさらない。子供が出来るとしたら僕以外との関係なんてある訳がなくて、そんなところは僕の心配する問題点ではない。またいつもの虚言じみた本気か分からない冗談なのか、と聞いてみるには僕には到底勇気が足りていなかった。花花子の妄想の可能性も含んだ妊娠がもしまたいつもの超常現象だとしたらこんなに悪趣味なことはないだろう、僕はこの世界の全てを恨みたくなってしまう。だって生きている人間が生きている人間を産むから出産なのだ、こんなところで生まれてしまった子は不幸な両親が不幸な境遇で作った子だと大きくなった時に説明されるんだぞ。僕達の価値観ではその子を育てていけない、きっとそれは僕達の知っている人間の感性をした存在にはなってくれない。だから僕は言ってしまった、誰も得をしないと分かっていてもこれが僕なりに真摯に考えた意見なのだと花花子に知ってもらいたかったから。真面目に話し合うつもりならそれが人を傷付けることもあると都合が良過ぎるくらいの納得を自分にさせて、努めて平静を装った有様と結果で僕は残酷な現実を口にした。


「その子がここで生まれても、きっと幸せにはなれないよ」


カランッ!と花花子が落としたフォークが甲高い音を立てた。潰れた目玉焼きの黄身が意味もなく皿に広がっている。ヒヨコになる前の存在が流れ出している、なんて普段は絶対に考えないことを感性として捉えたのは間違いなくこれから生まれる子供の話が僕の中であまりに大きい話題だったからだ。完全に思考が引っ張られてしまっている状態で平静も何もないのだが、この時は慌てたり発言を撤回しようとする余裕すらなかった。間違ったことを言ったつもりはないのに、だからこそ人はそれを意見の相違と言ってお互いを尊重するために決別する。笑って別れられるのならいい方だ、だってそこそこの確率で人は自分と相容れないものを嫌いなるだろう。それは花花子も同じなのかもしれないと、目に映った表情の光景に僕は今すぐにでも目を逸らしたくなったのだった。


「なんてこと言うの」


悲痛な顔だった。強いて言うならピンと張られたピアノ線のような凍てつく眼は一際恐ろしいもので、僕を正気かと疑っているようだった。花花子が立ち上がる。僕は動けなかった。今なら何をしても失敗する気がして黙るしかないなんて何とも情けないことだ。普段優しい人が怒ると怖い、というのはあながち間違っていないのだろう。けれどそれは優しい人を好きになる感性を持った人間は怒られた時に納得や反抗をするまでもなく怯えるしかない小心だからということだ。人と対立することが怖い、けれど見放されて人がどこか遠くへ自分を置いて行ってしまうのも怖い。だから僕みたいな人間は人のご機嫌取りを嫌なことだとは思わずむしろ人生において必要なことだと思って生活している。それが寂しいだとか水臭いだとか言う相手との関係性はまだまだそんなものだ。いつの間にか愛想笑いが必要じゃなくなる時なんて自分ではどうやったって決められるものではない。そんな僕にとって唯一の相手である花花子が明確に怒りを露にして、多分この時この世界で僕のことを一番嫌いに近い感情を向けている。絶望を感じるより先に心臓が無くなってしまったような気がした。僕の頭が気を利かせて脳内物質を調合してくれたのかもしれないが、ただでさえ僕は痛いことや苦しいことからずっと逃げてばかりの人生だったのだ。相手が花花子で、その鋭い感情が僕に向けられているということであれば。それだけは正面から向き合っていきたいと、僕なりに真摯な態度を示そうとしただけなのに。君との平和が好きなだけなのに。


「いいわ、私出てっちゃうんだから。貴方が父親らしくなるまでは帰ってこないわ。覚悟が出来たら迎えにきてちょうだい」

「いや、覚悟なんてそもそも、さあ」

「じゃあね、またね」


カツカツカツ、と普段より速いヒールの音が玄関へと伸びていく。ガチャン、バタン、というふたつの音が鳴るのを最後に静寂が訪れるまでは呆気ないほどあっという間で、しばらく硬直していた僕は椅子にもたれかかって目だけを動かした。台所にも、二人がけのソファにも、ユニットバスの方にも花花子の気配はない。当たり前だ、花花子はさっき出ていったのだから。心臓が変な鳴り方をしている。胃がムカムカして気持ち悪い。思わず立ち上がってトイレへと歩みを進めた僕の手はジトジトと汗ばんでいて、それをスウェットの裾で雑に拭ってから僕は便器に顔を突っ込んだ。喉を開いて「あ」だか「か」だかを絞り出しても先ほど食べていたパンは出てこない。唾液だけがポタポタと垂れる程度で、じゃあ何故吐こうとしているのかは自分でも分からなかった。でも何かしら出したい、じゃないと胸に何かがつっかえて死んでしまう。誰かにどうにかしてほしいけれど、今は自分で出来る限りの努力をするしかない。


「か、花花子」


いつもなら背中をさすってくれたはずの華奢な手の感触を思い出す。なのに期待をしている背中に刺さるのは空虚な孤独ばかりで、僕はもう嫌になってしまった。大丈夫、数時間もすれば帰ってくるさ。散歩がてらにまた変な物を拾ってきた花花子が誇らしげに笑って、今日はいい天気だったとお喋りするのを静かに聞けばいい。僕はトイレットペーパーで口を拭ってトイレへ流して、そのままソファへ移動した。右隣はポッカリ開いたままのソファだ。テレビでは子供向けの歌が流れていて、チャンネルを切り替えると映った天気予報ではポップなマークの雲と傘が並んでいる。ここら辺は今日は一日曇りだそうだ。大丈夫、台風でもなければ花花子の言う天気は全て『いい天気』なのだから。大丈夫、大丈夫。

***

拝啓、未だ帰ってきてくれない花花子へ。あれは、僕の自信のなさの現れだった。情けなさの煮こごりで、甲斐性なしの性質がまざまざと吐露してしまった、最低な一言だった。反省はしている。昨日、結局あれから安心など一欠片も出来なかった僕はそのままベッドに潜り込んで布団を被って、無理やり瞼を閉じた。なんとそのまま丸一日を過ごして太陽はまた昇って、そして今日の午後になってもずっとベッドでミノムシのようになっている。意外にもこんな事態だというのに空腹になっている感覚があるのだが、それ以前にキッチンに立って何かしようという気分が起きない。だってそうしたら一人分の食事を作って、一人で食べて、一人で片付けをしなければならないのだ。そんな孤独に自ら身を打ち付けるような真似は誰がしたいだろうか。ずっとくるまっていたはずの毛布は暖まっていなければいけないはずなのに酷く寒いというか寂しい。花花子がいないと洗濯したばかりでもそこまでいい匂いはしないのだな、と勝手にガッカリされている毛布には申し訳ないが本当のことだ。改めて僕は暖かい毛布や布団がそこまで好きというわけではなく少々閉鎖的な空間に花花子と一緒にいるのが好きなのだということに気付けた。今更気付けたからなんだ、本来なら知らなくても生きていけたはずの自己分析だ。じゃあこんなところにはいる必要がないだろうと半分ヤケクソのモチベーションを振り回してベッドから降りてみた。今まで何ともなかったカーペットが、フローリングが、自分の足音しかさせないせいで僕の孤独感に喧嘩を売っているように思える。これから何をすればいいのかも分からなくて、『おはよう』の一言すら発する機会のない喉は張り付いて痛いくらいに乾燥していた。手に取った自分のコップの横で伏せられていた花花子用のマグカップではぷっくりしたデザインの猫だか熊だかが僕のことを何も考えていないような顔で見ていて少しイラつく。可愛いコップで紅茶やコーヒーを飲んでお嬢様のような気品を醸し出していることもあれば「水道から直接飲むのがワイルドで爽快感もあるのよ!」なんて公園の水飲み場にいるやたらシュッとした野良猫みたいなことをし出す花花子が何度も頭をよぎった。これがしばらくは本当に記憶や思い出としてしか浮かんでこないかもしれない。花花子が帰ってこない限り妄想の産物だ。もうそれだけで自身の置かれた境遇に改めて絶望した僕は再度ベッドに突っ込んで動かないべきかと先程のようやく絞り出した行動力を水の泡にしようとしていた。けれどこの家にある物は単純計算で半分が花花子の物である、こんなことでいちいち参っていては花花子が帰ってくるまでやっていけない。花花子がいなくて花花子の私物だけがあるこの生活がなるべく早く終わることを祈りつつ、それまでを持ちこたえられるように慣れなければ。


「………………」


何を血迷ったか花花子のリボン付きカーディガンを羽織ってみる。慣れるっていうのは多分こういうことじゃない、これでは一人の開放感から普段はやっちゃいけないことにチャレンジ精神が湧く子供だ。絵面だって正直言って変態のそれをした思考の成人男性である、青春の一環で女の子が彼氏の上着を着てそのサイズ差にドキドキしているのとは訳が違う。かなりパツパツになった薄い布は下手に腕を動かしたらどこかしらが破れそうだし、もうそうなったら僕は花花子に怒られてしまうだろうな。まあ帰ってきてくれないと怒られることもないから今のところ杞憂でしかないけれど。どうしても卑屈になる僕の思考回路は希望という油を差すことすら今は難しい。こんなガビガビの心の男がそれでも花花子を追いかけられないのは、自分から謝りに行くよりほとぼりの冷めた花花子が帰ってきたところで謝罪と感謝を伝えた方が安牌ではないかというとんでもなく及び腰の期待とろくでもない自信がインストールされているからである。よくよく考えればこんな駄目人間を誰が好きになるのだろうか、とはすぐに分かることだが今の僕はそれが出来ない。というか認めたくない。まるで子供だ。花花子には甘やかしてもらっていた経験しかないのだ、今すぐに行動面と精神面で自立すべきという最もな意見には聞こえないふりをしてしまっていた。耳を塞いだ後に聞こえるのは思い出にある花花子の笑い声だけ。今はこれで耐え過ごしたかった。

***

その日の夜、訪問者がきた。長い長い黒髪の、色の白い少女だった。


「探しに行って、あげないの」

「……誰ですか、貴女」

「薔薇の女です」

「薔薇の女?なにそれ……ああ、ああ。お隣の洋館の人?もしかして」

「そうです」


だとしたらよくこんな所に来る気になったものだ。変態カップルが隣に住んでいるという認識は間違いではあるけれど安全な思考であったのに、わざわざ女性一人で訪ねてくるなんて怖くなかったのか。正直呼び鈴が鳴った時は頭のおかしい変質者が僕を殺しに来たのかと思ったし別にそれでもいいかとすら思っていた。僕が刺殺されたところを帰ってきた花花子が悲鳴を上げて必死に手当てしてくれる、それでも止血は間に合わず僕がついに事切れるという最中に聞こえるのは『すぐに追いかけるわ……』という悲痛な愛情が涙と共に降りかかる音。そんな大層な妄想をしたところまでは良かったのだがこの少女には今のところ僕を刺殺してやるという気概は感じられない。か弱そうな少女に全くもって謂れのない冤罪を期待している僕の方がよっぽど犯罪者に近い頭の作りをしているのだが、大切な人が去ってしまった男なんてドラマでも現実でも割と錯乱しがちだ。恐らく目が据わっているであろう僕を前に何かを伝えようと勇気を振り絞っている様子の少女に同情とうんざりする感情が入り交じった。僕を非難する花花子の表情と少女のそれが一瞬重なったからである。僕の中で女の人の怒り顔というのはなるべくなら見たくないもののベストテンに入るかもしれない。見ていて怖いし疲れる、我ながら駄目な男のお手本のような感性をしている。


「泣いてましたよ、あんなに優しい人が。大方貴方が酷いことでも言ったんでしょ、謝りなさいよ。女の子を泣かせるなんて最低野郎のやることですよ」

「……うるさいな、貴女に何が分かるんですか。というか帰ってよ」

「捨てられますよ、謝罪も出来ない男なんて。都合がいい時にしか優しく出来ない、意地っ張りで独りよがりで、本当にあの人を愛していたんですか?」

「うるさい!さっさと帰れよ、根暗女!」

「っ!」


声を荒げた僕に彼女は酷く怯えているようだった。はぁ、はぁ、とどちらともなく苦しそうな呼吸音が鼓膜を揺らして、頭がクラクラと不快に回る。酸欠だ。「帰ってくれよ」と弱々しい言葉を最後に背中を向けた僕に彼女は数秒黙ったあと、「これだから男は」と震える声で捨て台詞を吐いて出ていった。


「知るか、そんなこと」


何があって向こう側で死んだのか知らないが、僕は僕で花花子は花花子だ。他人に測れるような関係じゃない。僕はそう信じている。そういえば女性に本気で嫌悪の怒鳴り声を上げたのなんて初めてだった、こんなにも気分の悪くなるものだったとは。あの少女が自分よりも力も歳も上の男に対して怯えながらも必死に伝えたいことがあったのだとすれば、恐らくそれは僕がきちんと受け止めるべきことだ。汚い言葉を吐き出した喉が何かの罰を食らっているかのようにザラザラに乾いて息をするのにも痛みを感じていた。それなのに水もコーヒーもジュースも何もかもが求めているものと違う、今のところ無理やり飲み込む涙しか僕に許された飲み物はないらしい。地獄の刑罰みたいだなと、この世界に住んでいるにしては遅すぎる核心を今更突いてしまったみたいだ。僕は分かったつもりになっていただけ、今からまざまざと見せ付けられる地獄はきっとこれだけじゃないのだろう。だからその日は更ける夜が僕をどこかへと引っ張って、いつの間にか意識も奪っていってしまうのを孤独の乗り上げたベッドで待つ。絶対に悪い夢を見るだろうなというのは最初から分かっていたことで、塩水でぐちゃぐちゃになる予定の枕の白さが嫌に不気味なのを最後の光景に僕は体の全てにシャッターを閉じた。

***

「猫のお兄さん、あの節は猫をありがとうございました」

「……やあ、この間の」


純粋なる猫食いの男性だ。ちょうど気晴らしのために外に出て失敗したところだったので会ったのがこの人でよかった。これで日光を浴びると人は元気になれるという説を僕が身をもって否定することが出来る。そんなのは時と場合による、とな。下手に元気かつ健康そうな人に当たってしまったら僕は自分との落差に愛想笑いすら出来ない非常に感じの悪いやつになってしまっていたかもしれない。そもそも状態の悪い人間が今更何を言っているのかという話かもしれないが、駄目な時ほどギリギリのところでプライドを手放したくないと足掻くのが人間というものだろう。猫食いさんの真っ黒な目が僕を一頻り眺めたあと地面へと移って、そこにある何かを指でツンツンと突いている。多分あんまり良くないことをしているというのは分かるのだが、今の僕以上に良くないものなんてそうそうないと思う。つまり僕がそれを見てもそこまでのショックは受けないだろうということだ。パッと見何かの死骸を弄っているということは既に分かってしまっている。今回は哺乳類ではないようだがもう死んでいるかつての生き物が好きなのだろうか。


「それなんですか?」

「カブトムシの、メスです」

「へぇ、それも食べるんですか」

「食べないです。食べない。カッコイイので」


多分だけどカナブンだ、それ。素でやっているのだかお茶目さんなのか判断に困る。別に意地悪で言ったつもりはなかったのだが猫食いさんが思った以上に真剣な顔で首を横に振ってくるのに少し申し訳なくなってしまった。冗談が上手く通じなかった時ほど気まずいものはない。そしてこの空気は相手に対する適切な言葉選びを間違えた僕の責任であって猫食いさんは被害者だ。雰囲気を上手く流して切り替えが出来ないのならそもそも会話を面白くしようなんて考える前に会話を成立させることを目標にすべき。僕はまた一つ賢くなった。本来なら十年は前に覚えておくべきとされる事柄であるが人の成長には何歳になっても差があって当然である、そこはしょうがないと思うしかない。


「オスがいると赤ちゃんを産むのですけどね」

「……へぇ、そうなんですね」


今はあまり触れたくない話題だ。今僕が抱えている問題と虫の産卵を一緒くたにするべきではないことくらい分かるのだが人とは連想する生き物である。嫌なことが芋づる式に思い出されるあの感覚、僕は普段生活する中でも毎回ドツボにはまってしばらく動けなくなったりするのでそもそも人間の脳みその作りが僕の性格に合っていない可能性があると思う。それこそ神様にお願いをしなければどうにもならないような無理を承知の問題だ、だから今のところそれを解決するつもりもないけれど。ところでこの猫食いさん、言葉遣いが丁寧なタイプの少年みたいだ。話題に対する好奇心がそんなに落ち着いた声で話すには少々幼い気がして、でもそれは心地良いピュアだと僕は思ったので特に嫌ではなかった。


「お母さんカブトムシは、赤ちゃんを産むと、死にます。命懸けです」


思わずドキッとした。頬を掻く指が不必要なのに止まらない。落ち着け、この人は何も知らないはずなんだ。カブトムシの話をしているんだ、だって自分でそう言っていた。そうだろう、なあ。言っちゃ悪いが虫は普通交尾をして卵を産むことにいちいち疑問なんか抱いていないんじゃないかと僕は考えている。出産に対して心配や不安がこんなにも多く付き纏うのは人類の賢さだ。何万年も前から存在した本能に疑問を抱く思考の余地がある、それに抗う人々は何かと小言を言われやすい世の中だがそれを馬鹿にするのはもはやナンセンスだと大体の人がモラルとして認識出来るようになった。命懸けって、そんな行為をしてもらえるほど僕は花花子との間に愛情はあっても信頼に値する男ではなかったと思うのに。実際に女性の求める期待が分からず応えられずそのせいで孤独を齧ってぼんやりしているような人間なのに、僕には責任が重すぎる。覚悟が出来ないことは大人になれないことで、心のどこかでは僕はまだ一人前の人間として生きていくことを全く出来る気がしないと諦める思い切りが欲しかったのかもしれなかった。そんな僕の尻を叩いてくれるような存在を僕は良しとしていなくて、だって苦い薬と健康を天秤にかけて後者を納得しろというのは子供にとって酷だろう。所詮僕はその程度の精神の人間だということだ。


「私の母も、命懸けで私を産んで、それからうんと苦労をしていたようで。母一人きりでの子育ては子供の頃の私から見ても過酷でした。毎日産んでごめんね、と言われている気がして母のことが嫌いでした。今思えば子供には複雑過ぎる事情でしたから。そして私が中学を卒業したあとに失踪して、それきりです」

「……はい。大変ですよね、そういうの……」


もしかして僕は遠回しに説教をされているのだろうか。どこかで知られたくない事情がバレているのではないかと冷や冷やおどおどするのは人生において良くあることだけれど今は本当にそれが怖くなってきた。どんなふうに言われても今の僕がはいそうですかと良い方向へ納得する言葉は叱責だろうが激励だろうがそんなものはどこにもない。痛いことが分かっているトレーニングや治療は頑張る前に諦めてしまいたい、出来るならばなんとか回避したい。現世で生きていた頃風邪で点滴をしてもらった時に『死んだ方がマシなのでは』とさえ思った僕にはその時から既に生きていくための根性が欠落していたのだろう。臆病者の才能は変なところで発揮されていて、もうどこへ行ったって変わらないから逆に恥ずかしくもないと自嘲で済ませられる。


「でも、最後……最期?に「大好きよ」と言ってくれたことだけが忘れられなくて。なので私は今になっても、母のことをよく知らなかったことを後悔しています。母というものが分からなくて、気になってしまって、話がしたいと思うんです。もう一度会えるかと思って、この世界へと飛び込みました」


何か難しいことを考えてうつうつとしている時のように先程カナブンを触っていたはずの手で目元を擦る猫食いさんに僕は少しだけ黙った。その行動力はどこから来るのだろうという疑問もあったし、生きている頃から何となくこの世界の存在を感覚で捉えていたということにも驚いたし、思いのほか愛情に満ちた理由で死んでいたことが意外だった。脚が取れてしまっているカナブンのメスが『それならしょうがないわね』と自分の不幸に納得している気がする。悪意なく自分の気持ちに素直な人間というものは無下に扱い難いものだ。母親のことが気になったから死んで確認します、というような人間なのを知ってしまったら虫の死骸をツンツンするくらい許容してしまうだろう。僕はカナブンと架空の同意をして彼女の現世への転生を祝福しておいた。いいオスと巡り会えることを心から祈っているよ。カナブンのために頭を使うのは一旦そこでやめにして僕はもう一度猫食いさんへと言葉を向けた。なるべく当たり障りのない会話をしたいけれど距離を置きたい訳でもないのは自分の中で珍しい感情だったと思う。


「会えましたか?お母さんと」

「……猫のお兄さんから貰った猫でカレーを作って、家族団欒で一緒に食べて向こうへ戻るつもりだったんですれど。考えていたら緊張して私が猫の味見をするだけで終わりました。なんて声をかけたらいいのか、お互いにまだ分からないみたいです。でももうそろそろ、挨拶というのをしてみようかと。なんて言えばいいでしょうか、何かいい案はありませんか」

「……久しぶり、会いたかったよ、とかでいいんじゃないですかね?普通に」

「なるほど、参考にしてみます。ありがとうございます。あとさっきも言いましたけど私カレーが作れるんですよ」

「そうですね、さっき確かに聞いた気がしますね。なんでカレーなんですか」

「温かい日本の家庭ではカレーを美味しそうに食べるのがもはやマナーなんです。猫のお兄さんも作ってみては」

「難易度高いですね……出来たらやってみようと思います。アドバイスありがとうございます、猫食いさん」

「猫食いさん?」

「あ、やべ。なんでもないです、間違えました。ごめんなさい」


ずっと向こうで猫食いさんのことをチラチラと覗き見しているサルビアを手いっぱいに抱えた女性にこっそり会釈をする。僕は「それじゃあまた今度」と少々早口で猫食いさんから離れることにした。そっちはそっちで仲良くしてくれ、僕も花花子を今すぐ探さなければいけないという気になったから。親子愛と恋愛は同じところにはいられないけれど、たまに隣合うぐらいならいいのかもしれないと気付けた僕は猫食いさんを勝手に友達に認定させてもらった。向こうが僕をどう思っているかは分からないけれど、今回が為になったからいいと僕は少しだけ前向きだ。

***

足が痛くなるまで大体三時間、僕はあちこちを歩いて見て聞いて花花子を見付けようとウロウロしていた。なんとなく花花子ならここにいるんじゃないか、と思うところを行ったり来たりして多分そこそこの数の無駄足も踏んでいる。お洒落な雑貨屋も覗いたし、知らないアパートの階段を上って住人に変な顔をされたし、もしもの可能性を見落とさないために車の下を覗き込む不審者にもなったりした。いくら花花子でもそんなところには流石にいないか。だから道の向こうで見知った髪色のロングヘアを見つけた時は嬉しいのと緊張が同時に襲ってきて「ああ……!」と独り言にしては少し大きい声が出てしまったのも仕方ない。けれどすぐにそれは心配へと切り替わって、僕は有り得ないような顔をしてしまった。何故か病院の手前で俯いている花花子に心がうるさいほどザワザワと荒れて、なるべく早くそこへ近付きたいという思いと立ち止まってもう一度よく考えたいという思いが絡まる。色々なパターンの最悪が頭をよぎるのを何とか落ち着けようと必死に冷静になろうとした。だがそこにある病院に『婦人科』の表記を確認したところでもう駄目だった。そうだよな、産婦人科はこの世界じゃ見たこともないものな、行くとしたらそこしかないものな。会話が出来る距離まで僕が近付く前に花花子の目がこちらを捉えた。その視線が肌を切り裂くようだと、まるで台風に出くわした時に無理やり前に進む時のような感覚を抱く。胸の中が崩れるような、大きな思いで張り詰めるような。酷く苦しいその感情に押し出されてついつい目が潤んだ。花花子の顔を見た瞬間にこれは我慢出来ないと、涙に抗う気持ちはすっかり抜けてしまっていた。


「杏太、杏太、私、子供は出来てないわ」

「知ってるよ、知ってる」

「でも、嘘でも信じてほしかったのよ」

「ああ、ごめん、ごめんよ花花子。そうだな、出来たらいいよな、本当だったらよかった」

「本当に思ってる?嘘つきの顔してるわ」

「ごめん、ごめん、ごめん。そう、嘘なんだ。花花子が無事なら何でもよかった。想像も出来ない子供の顔より、花花子のことばかり考えてたよ。どうしようもない男だった、本当にごめんよ。何でもするから帰ってきてくれないか、なぁ、花花子、なぁ、なぁ」

「もう、もういいのよ、私ももういいんだわ、杏太、何も言わないで」


花花子の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。ハンカチで拭うこともなく、ただただ悲しみのままに塩辛い感情を流し続けている。きっと僕も同じだった。喉が引き攣って情けない嗚咽が漏れて、みっともなく鼻をすすりながら花花子に一歩一歩近付く。後ずさりする花花子に、やめてやれと頭の中の自分が怒鳴っているのに追いかけるのをやめられない。十歩を超えた辺りで膝が言うことを聞かなくなり、僕はその場にしゃがみ込んだ。目から口からボタボタと地面に染みを作って、そこに向かって額を擦り付ける。もう名前を呼ぶ気力も出ない。


「ダメな人ね。どうしてそうなの。そういう時はちゃんと謝って、一生をかけて償いますって言葉と態度で示さなきゃなのよ。ほら、帰るわよ。許さないから、杏太のこと、一生恨んでやるんだから」


近付いてくる足音に情けない安心感を覚えて、余計惨めになった僕という存在が小さく小さくなっていく。無理やり立たせようと僕の腕を引っ張る花花子にごめんのなり損ないを何度も何度も唱えて、それでも罪の意識は濃くなっていくばかりだ。見上げた先で「そんなのいいから、早く立ってよ」と僕を睨む顔にコクコクと頷いて、必死に踏ん張ってようやく地面から体を持ち上げた。額から垂れた何かが鼻を伝って口に入る。鉄の味がした。


「絆創膏、大判のがあったわよね。備えあれば憂いなしなのよ。頭振っちゃ駄目よ、おでこは出血しやすいの。貴方の方がまるで子供みたい、手がかかってしょうがないじゃない。ほっとけないじゃない。もう、もう、もう!杏太、貴方って人は本当に!」

「ごめんよぉ」


ずびずびと鼻を垂らして泣いている僕を叱るように顔を合わせる花花子は目こそ真っ赤に充血していたけれど、もう新しい涙を流すことはしていなかった。唇を噛み締めたせいか口紅がよれて関係ないところまで赤がはみ出している。ピアスは片方なくなっていたし、髪の毛は一部が固まってゴワゴワになっていた。それでもその瞳は、花花子が僕を見てくれている時のもので間違いない。僕という存在を無視することも、逃げることも、面白がることもなくじっと実態を落とし込んでくれる、等身大で見てくれる透き通ったブラウンの瞳。僕が大好きな花花子のパーツのひとつだった。それをこんなに真っ赤にさせて、僕はやっぱり酷い男だ。最低最悪だ。こんな人間、花花子じゃなければ助けてなんてくれなかった。


「探しに来るのが遅過ぎるわ、私のことが大事じゃなかったのかしら。それともこの期に及んで怒ってる私のことが怖かった?」

「君のことを強いからって、大丈夫だって自分に言い聞かせてた。怖かったのはそうだけど、こいういう時に何をどうしたらいいのか分からなくて。もう二度と経験したくないことしか分からない」

「お馬鹿さんねぇ……典型的なダメ男じゃないの、なんでこんな人を好きになっちゃったのかしら。名誉挽回しなさいよ、帰ったら私をお風呂に入れて美味しい炒飯を作る!教えてあげるからちゃんと覚えること!お返事は!?」

「い、イエッサー……?」

「よろしい!」


こんなに情けなくて誰にも見られたくない光景だと思いながらも、帰っている途中でこのぐちゃぐちゃの顔に収拾をつけられるビジョンが全く見えない。血で汚れている洋服の洗濯の仕方を僕は知らないし、炒飯は生米か炊いたご飯で作るのかということも分かっていない。分からないことだらけの道のりの答えを二人で探して行くのがパートナーだと聞いた気がするけれど、それならきっと旦那に向いているのもお嫁さんに向いているのも花花子の方だ。いい加減恋する人から愛せる人になれよ、と額の傷がジクジクと訴えている気がする。それに僕はこっそり頭を縦に振って、その後すぐさま花花子に叱られたのであった。

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