蛇足 おわり
すっかりと気落ちして、こんなに気が滅入り落ち込むようなら憑き物もいっそ落ちてしまえばいいのに、と姿見を見ながら少年は独りごちる。
とはいえ、こんなものを宿業だなんだと引き摺り続けるのも間違っているのだ。間違っていると理解していて尚、間違いを正せない自分らしさを愛さなくてはならない。生きていくのなら。
自分の情動と死ぬまで付き合わなければならない、その当たり前を受け止めなければならない。
分かっているのだけど、難しい話だよ。と少年はぼやく。
「君はあれだよね、自分のことを考えすぎだよ。自分のことばかり考えて、苦しくなっちゃうんだ。それって多分自分のことが好きだから守りたくてなんじゃないかな? だとしたら悪いことじゃないと思うけどなぁ」
床に座る深雪がぐだぐだと喋るのを聞き流し溜め息を吐く。
深雪の姿ははっきりと見えたりなんとなくぼやけて捉えられなくなったりしている。大変煩わしい。
昨日の夜、それに今朝方起きて直ぐに残ってた残り僅かだった薬をまとめて飲んだ。
今日が最後だから、一緒に登校したかったのだ。深雪と共に昔のように、かつてのように学校までの道のりを共にしたかった。それが嘘とか偽りでしかないのは分かって、それでも結局手放せなかった。
「他人の事を大切に思うんならさ、ちゃんと思ってあげなきゃ駄目だよ。すぐに、他人の事を考えて、それが自分にどうなるのか考えてしまうんだから。私が居なくなってしまって、ちゃんとやっていけるか心配だよ」
この制服に腕を通すのも今日で最後だ。
「行くよ、深雪」
「そうだねえ、行こっか」
一階に下りて、居間を覗くと父親と目が合った。
カラスを生ゴミ扱いした父の姿は、生き物の生き方というか在り方を侮辱するように感じられて隔たりを感じていた。それはあくまで自分の心内の問題で、表面上でどうこうするとかはないものだけど、なんとなく嫌だと思ってしまう。
蟠りを口にして、何があるだろう? 何にもならない。不和が生じるだけだ。ヒビの入ったものを、自分でどう直すのか少年には分からない。いつだって、深雪が支えてくれた。指摘してくれた。ここを直したほうがいいよ、と。過保護にされすぎたのだと思う。甘えすぎたのだ。
「気を付けてな」
「うん、いってきます」
父は上げた目を新聞紙に落とし、何かを熱心に読みはじめる。
なんで、捨てたの? そう訊いてみようと口を開いて、別に聞かなくてもいいか……と止めた。きっと、気にするようなことではない。大したことじゃない。飼ってたペットとか、そういう誰かが大切にしてたものではないのだ。誰からも悼まれないそんな鳥なのだ。
玄関を出て、ドアの向こうで深雪が待っているのを見る。ほんの数ヶ月前にはそれが日常だった。
学校へと向かう道は、暖かな陽光に満ちていた。
歩くだけで気持ちが良くなるような道を僕は深雪と一緒に進んでいく。時折うっすらと消えいるように見えた深雪が、少しずつ暖かさに充てられてその濃さが増している気がする。
「別に構わないよ?」
公園で足を止めた少年に、深雪が言う。
「何にも、無いんだから。何も気にしなくていいよ」
公園からは子供の笑い声が聞こえる。子を呼ぶ親の声も。楽しく遊ぶ声が公園には満ちている。
それを耳にしながら、生垣の向こうを覗く。そこには何もない。悲しみも苦しみも、痛みだってそこには転がっていない。ただ、剥き出しの土が見えるだけだ。
もし悲劇があった場所にそれを示す何かが生まれるなら、この地球上に足の踏み場なんてなくなってしまうに違いない。
「ほらね、何にもない。無くていいんだよ。終わっちゃったんだから」
「僕は、深雪が居なきゃ……」
「分かってるでしょ。君は一人でも生きていける。ううん、それって特別な事じゃない。誰だって一人でも歩けるんだよ。薄情だなんて思う必要無いんだよ」
もしそれで死んじゃったら、みんな、みーんな今頃死んじゃってるよ。
何も言えなかった。何も言えないと少年は思った。
「のうのうと生きてるなんて思わなくていいと思うんだけどなあ。一途、というか……なんか、私が言うとちょっと厚かましいね?」
電車に揺られて、学校に着くまで深雪は何度も口にした。
私は気にしてない。そりゃ酷い話だよ! でも君と会えた事を本当に幸せだって思ってる……。そんなことをずっと口にしてくれた。それが自分の作り出したもので都合の良い言葉であったとしても嬉しく感じた。
教室に向かうと、しんみりとした空気が流れている。お別れだね。卒業しても遊ぼうねちゃんと連絡しろよ。お前こそ。そんな言葉があちこちで口にされている。
程なくして担任が入ってきて、何事かを喋っている。興味が持てなくて、少年は聞き流していた。在校生が先に体育館に行くまでの時間稼ぎみたいなものなんだろう、くらいにしか感じなかった。
移動の時間が訪れ、皆んなが席を立ちある程度列になって体育館へと、向かっていく。
そんな列からそっと離れる僕を誰も咎めなかった。空気みたいなものなのだ。今となっては、どう扱えばいいか分からない腫れ物。青春の一ページに付いた、その内忘れ去る予定のシミなのだ。
独り、体育館とは逆にある図書室に向かう。深雪が居なくなってすっかり行かなくなってしまった。委員会の仕事も何もかも、すっかりとやる理由も気持ちも無くなってしまった。それを誰も咎めなかったのは、気を遣われていたのかもしれない。
図書室の、深雪がよく座るテーブルの隅の椅子。僕が深雪を待つ時によく眺めた本棚。ここは何も変わらずにある。ただ、深雪だけがもうここには来ない。回想するように記憶を辿り、少年は席に着いた。もう少しだけ時間を待たなければならない。
静かだった。壁に掛けられた時計の針の音が聞こえてくる程に静かで、気を抜いたら寝てしまいそうなほど、安らぎに満ちている。
「よー、もういいんじゃない?」
歩いてくる深雪はまるで、本当に生きているみたいにはっきりと少年の目に映った。深雪の言葉に頷いて、少年は席を立つ。向かうのは職員室だ。
ゆっくりと職員室のドアを開ける。中に入って直ぐ、右の壁に各教室の鍵が掛かっている。その一番上、殆ど使われない屋上の鍵を手に持った。
屋上と書かれたラベルは剥がれ掛け、あまり触ると取れてしまいそうだ。
「どうするの?」
深雪が訊いてくるのも無視して、上へと階段を登っていく。誰も居ない校舎を歩くのはなんというか、得難い感覚のようなものがある。
屋上のドアに鍵を差し込んで、回すとカチャリと音が鳴る。思ったより大きな音は、校舎に響き渡るように感じられて少し身構えて、少年は体を滑り込ませた。
良い天気だった。
暖かな陽光に吹く風は気持ちがいい。寒さとはもう無縁だとばかりに心地良い。
「なんで、卒業式出ないの?」
暗がりに好んで座り込む僕は、あの場には異物で相応しくないと思えたから。そう口にすると、深雪はそっかと言った。
体育館の方から、曲が、声が聞こえる。これから先の道のりを歩いていくのに相応しい心地良い日だ。
柵に手を掛け、体を屋上のへりに持っていく。
「止めなよ。危ないし、冗談にしても笑えないよ」
「進むためにはさ、これが必要なんだ。馬鹿になっちゃって……いや、馬鹿だったんだ。最初からおかしかったんだよ、僕は。近くにずっと深雪が居てくれたから、マトモに歩いてこれただけで、僕は全然マトモじゃなかった。深雪を失って、それだけで歩けなくなりそうなんだ。時間が経って落ち着き出して、ああ限界なんだなあって悟ったんだ」
だから試さないとダメだ。自分を。
仮に死ぬことになっても構やしないのだ。生きていても構やしないのだ。
ただ、自分がこの先を続けていくに足るのか試してみたいと思っただけなのだ。
その結果がなんであれ、それは誰のせいでもない。
屋上に忍び込んだなんて彼女が知ったらなんと言うだろう。と目の前に佇む深雪を見据える。
もし、生きていたらその時はそうだ、墓参りに行こう。まだ、生きているよ。なんとか、やっていけているよ。こうやって、有耶無耶とした思いを抱えながら僕は歩いて行けているよ——
——とはいえ深雪の居ない蛇足の人生だ、終わってしまっても構わない。
怒るだろうか? 気持ちのいい風が吹く。僕は身を任せるように目を瞑って一歩踏み出した。
薄氷の上で彼女は踊る 由甫 啓 @Yuhukei
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