蛇足 二月

 深雪が死んだあの日から、もう一ヶ月近くが過ぎた。


 始業式の終わりに悼ましそうに、悲痛そうにいう担任の姿は酷く滑稽で、思わず吹き出しそうになるものだった。浅ましい。嫌らしい人間だ。


 何人かの女子が泣きじゃくって、多くの質問の声が上がり、それは担任だけではなく少年にも及ぶものだった。

 どうして、なんで、知ってたのか。たくさんの視線が自分に集まるのを少年は酷く疎ましく思う。


 泣きながら問いかける女子に、動揺を隠せない男子。降って湧いた身近な不幸は彼らの心に影を落とすもので、同時に心に傷を残すほどのものではなかった。

 自分に群がる、深雪を知る同級生達は勝手に憐れんで、同情して元気づけようとして、そういって勝手に自分の感情を慮ろうとする周りの人達を気遣って答えている事が馬鹿馬鹿しくて、段々言葉少なに返してしまった。


 煩わしかった。自分を取り巻く環境が、疎ましい。


 それも、一ヶ月と持たなかった。誰しもが、忘れてしまったようだ。

 深雪のことを、誰も口にしなくなった。同級生の女の子。テニス部に所属して、去年死んだあの子。そんな風に囁かれることも無くなった。


 ——あいつ、いつまでああしてるんだよ。悲しいのは分かるけどさあ。——やめなよ。ずっと一緒に居たんだよ。私たちより苦しいに決まってるじゃん。——でもよぉ、ああ暗い顔されるとテンション下がるんだよ。——あーね。それちょっと分かる……。


 一ヶ月。一ヶ月でくるりと変わった。

 可哀想な同級生から、疎ましい同級生へと一ヶ月で変わってしまった。


 今までも、きっと何処かで囁かれていて、少年の耳に入らなかった噂もまた封が切られたように流れ出していた。


 ——テニス部の顧問、辞めたのって生徒に手出したからなんだって。


 五月蝿い。


 ——あー! それ知ってる。孕ませたって話っしょ?


 黙れ。


 ——そうそう。んで、丁度居なくなった生徒が居てさぁ。


 ……口を、閉じろ。


 ——深山さんらしいよ。——えっでも死んだって。——だから、嘘なんだって。葬儀、誰も知らされてないとかある?——じゃあ、なに? 子供出来たから学校来れないってワケ?——じゃね? なんか、後輩が言ってたんだけど、深山ん家引越ししてもう居ないんだって。——学校変えたってこと? もうちょいで卒業じゃん私ら。——もしかして、高跳びってやつぅ?——きゃーっ教師と生徒でってこと? やばぁ。——じゃあなに、あいつ捨てられたってこと?——あれじゃん、体の相性がさぁあいつじゃ満足出来なかったってワケよ。——ちょっと下品過ぎー!


 身勝手だと、そう思った。

 勝手に、憐れんで、勝手に扱き下ろして見下すようにレッテルを貼る周囲に、最初は怒りを抱いていた。なんて醜いんだろう。廊下を歩くたび、登下校で擦れ違う度に、なんて軽薄な奴らなんだろうと少年は思い、深雪を侮辱するような言葉は特に心を傷つけるものだった。


 ほんの、ほんの少し前まで悼んでいたのに、嘆いて悲しんで涙した人までが陰口を叩くのを、到底理解出来なかった。


 担任の、「そんな噂あるのか? 気のせいだろ。俺は聞いたことないなぁ。お前が鬱々としているから誰も言っていないような、そういう悪口を言われたような気になるんじゃないのか? うちの生徒に、そんな下世話な事を言う奴がいるって言う風にお前は思ってるんだな。先生はそういうの良くないと……」滔々と喋り続けるその様は、まるで同じ人間に思えなかった。


 彼は、自分の心さえ理解出来ないのに、他人のことなど、どれほど考えようと理解出来ないと気付いてしまった。

 そして、それを試みることの大切さに理解を持ちつつも、拒絶することを彼は選ぶに至った。もし、他者を理解しようとするなら、自分のことを理解してくれる人が現れた時だろうと。それが、もう有り得ないことも分かっている。理解されたかったのはたった一人だけで、それはもう決して叶わないのだから。


 ——これが人間だと言うのなら、確かに僕は人でなしだ。人でなくていい。人になんかなりたくない……。


 口にしない人も居た。口にしないだけで、決して庇うようなこともなかった。関わりたくないのだろう。その気持ちは痛いほど分かった。これは、いじめとか、そういうものではないのだ。ただ、身近な、繊細で話題性に富んだ、玩具なのだ。


 それに、何かされたことはなかった。何となく、自分の周りには壁のようなものがあり遠巻きにされていると感じるだけであり、それ自体は望むものだったから。気にしないことを選んだ。


 もう誰も居ない深山家の前で、少年はぼんやりとその家を見上げていた。もう、ここはもぬけの殻なのだ。誰も居ない。居なくなってしまった。

 いづれ此処に新しい居住者が現れるのだろうか? それとも、取り壊され全く新しいものに変わるのだろうか。そういった話も、顔を合わせることなく深山夫妻は去ってしまった。


「帰んないの?」

 囁くような深雪の声に、少年は口を開こうとしてせかせかと近所のおばさんがこちらに歩いてくるのを見た。


「あ、ちょっと! あんた深山さんと良くしてたろう? これ、ちゃんとするよう言っといて。家の前なんだから、ちゃんと綺麗にしてもらわないと。もうそろそろ越すんだろう? その前にちゃんとね、綺麗にしといておくれよ。越すんだからって勝手されちゃ困っちゃうから。じゃ、頼んだからね」


 一方的に捲し立てて、去っていくその人にもう越しましたよ、なんて返す暇もなく唖然としてその姿を見送った。

「あっ、これじゃないかな。……可哀想にねぇ」


 ふと、視界の隅で深雪が何かを指さした。

 コンビニの袋が口を縛られて深山家の塀に凭れ掛かるように置かれている。

 それを手に取ると、生ごみが入っているのだろうか。袋の底からぽたぽたと、液体が垂れた。

 体に付かないように気を遣いながら袋を開けると、鴉が一羽死んでいた。何があったのか、嘴が砕け、羽も体も、まるでバットで叩きつけたように潰れた鴉が虚ろな目で見返していた。


「どうするの?」


 声に答えず、自分の家に入るとその庭の隅にこっそりと穴を掘った。出しっぱなしの園芸用のスコップでまるまる入るまで掘り進めて、袋のまま埋めて石を上に一個置いた。


 悪戯、だったのだろうか。誰でもよくて、何処でも良くて、悪ふざけで殺して捨てたのだろうか? 死んでるのを拾い上げ捨てるに困って置き去りにしたのだろうか?


 深雪と違って可哀想になんて少年は思わなかった。胸に浮かんだ言葉はひとつだけ。


 なんで、僕が。

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