蛇足 一月
冬休みが終わって、少年は独り登校していた。
久々に会う、友達の顔を思い浮かべたり、出先での話や、お土産なんかを渡そうと、もうちょっと休みが欲しかったなぁなんて名残とか。そういう色々を彼は何一つ抱いていなかった。
目の下にはクマが薄っすらと浮かび、彼が最近あまり眠れていないことを示している。
電車に揺られ、学校へと向かう道を独り歩いていく。擦れ違う同じ制服の先輩や後輩、同級生は皆一様に、ある程度の幸福を享受し生きている。それは決して損なわれて良いものではなく、それは自分自身にも当て嵌まると少年は知っていた。
例え、何があったとしても幸せになる権利というのは須く誰もが持つものだ。
持てない人間は、未だこの世に生まれていないものか、この世を去ったものだけ。
その権利を自分は持つべきでないと考える少年は、半ばこの世に居ないと言えるのかもしれない。
目の端で深雪が前を指差した気がした。
「なんか、色々あったから懐かしく感じるよ!」
弾むような声に少年は声のした方を見る。誰も居ない。深雪の葬儀からずっと耳元で深雪が囁くのを彼はそのままにしてきた。振り払うことせず、聞き続けた。口にするのはその時々様々な内容であり、声だけだった。
それが、昨日から姿さえ見えるような気がしてきていた。
これが良いことなのか、悪いことなのか少年には分からなかった。きっと、良くはないのだろうとは思うが、それだけだ。
校門の前では、旧友に会ったとばかりに姦しく話す少女達がいる。その脇をすり抜けて、少年は昇降口に向かう。鞄に入れた上履きを袋から取り出して、履いていた靴を下駄箱に入れる。自分の教室へと向かう。その足に躊躇いはない。
がらがらと音を立てて、教室のドアを開ける。
まばらに集まった同級生達は一様に、この冬休みの話をしている。世間話やたわいのない冗談に笑っている。
僕はどうだろう、と少年は思った。彼らに混ざって会話できるだろうか?
不安だった。自分は明るい話題に触れて良いような人間ではない。彼らに混ざって歓談に興じていい人間ではない。
それは何度も、ふとした瞬間に彼を捉えて離さなかった疑念だ。
ずっと考えていた。答えなんてないのだと分かりながらも答えが欲しかった。答えを求めるのは、それについて思い悩まなくてよくなることで、それを求めること自体が僕に許されるものかと、何度も考えを否定し続けた。
こと、自分を許さないこと。信じないこと。その二点に置いて彼は誰よりも真摯に向き合っていた。
何人かのおはようという声に応じることさえ、躊躇われた。
既読付けたんなら返事しろよなーと肩を軽く叩いて歩く友人に、曖昧な笑みを浮かべた少年は、その時でさえちゃんと笑えているだろうかと不安だった。
「ねえ、深雪今日休み? 一緒に来てないよね風邪とか引いちゃった感じ?」
女生徒の気遣わしげな声に、
「深雪は——」
どう答えればいいのか。ずっと考えていて結局何も分からなかった。
実は死んじゃってさ。事件に巻き込まれて、というか正に発端で——そんな風に少年は口にできない。どんな伝え方が正しいのか分からない。考えて、考えすぎて分からなくなった。
言葉に窮してまごついて。怪訝な表情を浮かべた女子を遮るように、「よーし、ホームルーム始めるぞー、席に着けー」と担任が教室に入って来た。
少年の中では未だ燻り続け、心を焼き続けるその火種が耳元で囁く。
「今、言うのかな? あ、でも時間ないよね。体育館すぐ行くだろうし」
少年の耳は居ない人間の声を拾い続けていた。
それを罰だとは思わない。寧ろ、救いだと思っていた。こうして、形はどうあれ共に居るのだと思えたから。それが何の慰めにもならないのだと分かりつつ手放す事が出来ない狂気だった。
体育館へ移動する同級生に混じって、移動しようとして肩を掴まれた。
「始業式終わったら、ちょっと職員室寄ってくれ。辛いかもしれんが、すまんな」
担任は僕が頷くのを見て、神妙な顔でその場を離れていく。
「今の何?」と訊く同級生に、なんでもないよ。と返して僕はみんなと体育館へ向かった。
皆んなと、の虚しさに噛み締めて痛む顎を軽く押さえた。
始まった始業式の冗長な会話も、横で話すひそひそとした声も、何も興味が持てない。ただそこに居て時間の流れるままに居る。それがこれからの自分を物語っているような気になって少年は口を歪めた。
これで生きていると言えるのだろうか? どうでもよかった。生きていたくなんてない。少年の心は常に暗がりに身を置き続ける。明るく照らされることはない。
教室に戻る波から逃れて、職員室を目指す。
「……深雪のこと、だよな」
何も言うことなんてない。訊かれても、困る。話されても困る。当事者なのだ。忌むべき犯罪者なのだ。非難されれば彼は堂々と、自らのしたことを口にする心積りで今日、登校していた。
職員室で、口にされたのは言わないで欲しい。ただ、それだけだった。
テニス部の顧問は急遽都合により退職し、深雪は不幸な事故で死んだということで通してくれないかと、ただそういう懇願だった。
どうでもいい、と少年は思った。
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