第十話 離苦

 僕は、両親達の居る建物から少し離れたところで一人立っていた。


 父さんも、母さんもあの日の翌日、夜のうちには帰ってきて本当に大変だったろうな。婆様は、危篤であったらしいが、持ち直して無事長らえたと言っていた。その直後にこれだから、気もそぞろで落ち着かない日々を過ごしたに違いない。


 ナイフを持った犯人と対峙した話を警察から聞いていたのか会うなり抱きしめて無事で良かったと泣く母の抱擁は、僕の胸を押しつぶすほど痛かった。何も大丈夫じゃ無い。深雪は死んでしまって、そう口にしたいのを堪えた。

 そんな風に、親愛を踏み躙るべきでは無いと思ったから。その愛がどれほど苦しくて苦いものだったとしても受け止めなければいけない。


 思えば、葬儀なんて初めてのことで何をしたという訳でも無いのに気付けば事が進んでいったように思う。


 誰もが、年末から年始のこの僅かな期間を深く胸に刻んで告別式に臨んでいた。

 本当に、小さな集まりだった。僕と、両親。深雪の父に母。たった、それだけ。それだけの集まりだった。三が日に、聞かせたくない。そう言っていた。殺されて、犯された。そんな悲惨な話を、正月から聞かせたくは無いのだと言っていた。


 僕なんかが、参加して良いのかと問うと、「もう一遍、言ってみろ。ぶん殴るぞ!」と冗談混じりに深雪の父は口にした。その顔は今にも泣きそうで、ぎこちない笑みは無理をしているのがありありと伝わるものだった。

 僕より、大きかったその体は空気の抜けた風船みたいで、今にも潰れてしまいそうで。ああ、こんなこと言うんじゃなかったなと僕は強く後悔した。


 誰しもが悲しみに暮れていた。きっと痛いぐらい噛み締めて、遺体を見ていた深雪の両親を思う。


 手伝おうとする、僕の両親の申し出を断って、自分たちで一つずつやりたいのだと口にする、想いを思う。


 あれが大人なんだ。ああして、少しずつ悲しみを切り崩して、なんとか咀嚼するのだ。二人で支え合いながら、取り仕切るその姿は儚さのような、静かな悲しみに満ちていた。


 僕達の前で、泣かなかった深雪の父が夜、深雪の前で一人泣いていたのを僕は知っている。

 僕の話を聞いて、泣きじゃくった深雪の母は、赤く腫れた目で震える吐息を漏らしていた。


 僕のしたことについて父も母も、何も言わなかった。僕に何も言わなかった。黙って、聞いて、そうしてたった一言、そうかと言った。多分、きっと言葉がたくさん浮かんだんだと思う。それで、何を言えば良いのか分からなくなって、なんとか絞り出したのがそれだったんだと思う。


 深雪の父も、母もその場に居て、沢山泣いて、何度も口を大きく開けて、拳を振るわせていた。何度も、何度も拳を自身の太ももに叩きつけて、結局何も言わなかった。

 各々が、言うべきことが溢れて、苦しそうだった。


 殴られていいと、殴られるべきなのだと思っていた。それで済まなくてもいいと思っていた。もし、それで殺されるのなら、深雪になんと言ったらいいのだろうと考えていた僕はきっと、もう以前のようにこの人達と関われないのだろうな。


 僕は、どうだろうか? 事情聴取を受けて、カウンセリングを軽くされて、平常であると診断された僕はもう、悲しみとは無縁なんじゃ無いかと思う。

 多分、人間の感情には総量が決まっていて、どう振る舞えばいいか分からず目一杯の悲しみをまとめて崩して飲み込んだ僕の心に、悲しみはもう残ってない。綺麗に枯れてしまったんだ。


 挙句、問題なんて言われたくなかった。気が触れて、狂ってしまっていると言って欲しかった。

 きっと、学校が始まれば多くの人たちから可哀想だとか、大丈夫と心配される。何も知らないから、知らぬうちに彼女が殺されたんだと思った人達が優しくするなんてそれこそ気が狂いそうだった。


 気が狂ったんだあいつはと言われた方がどれほど良かったろう。

 あいつは、死体を持っていくぞ気をつけろ……そんな後ろ指を一心に受けるべきなのだ僕は。


 先生と呼ぶのも憚られるあの男は、全てを自供して縄についた。その手についた縄が、首に掛かるのかは僕は知らない。それを、厳しいとは思わないが、死刑という量刑は与えられない気がする。


 そして、僕は。僕は、赦されてしまった。なんでも、どうしても口を挟む余地なく、深雪の親族は僕を咎めなかった。あまつさえ、警察から庇いさえした——。


 誰もが咎めなかった。

 それが、あまりにも痛い。これから歩いていく道の全てを僕自身の心が言い続ける。そんな気がするのだ。

 ——恥知らずと。


 僕だけが僕を赦さない。許せない。僕以外の誰もが僕に罰を与えない。あまりに、滑稽だ。


 そろそろ深雪を入れた棺が、火に焚べられたところだろうか。

 一緒に居ようと思っていた。最後まで見届けようと。

 だけど、この葬儀の間ずっと、僕の心は凪のように落ち着いていて、この場で余りに異質なのだと気付いてしまったから、居るべきでは無いと思ったのだ。ひそりと、離れた僕に誰もが気付いていたと思う。だけど、何も言わなかったのは痛いほどの静寂を破りたくなかったのだろう。


 僕はもう、別れを済ませていると気付いたのかもしれない。

 惜別の念は、もうとっくにあの夜に溶けてしまった。心に降り積もった感情は雪のように溶けて後悔だけが色濃く跡になった。


 大きな煙突から細々と煙が立ち上っていく。どんどん高く遠くへと煙は揺れ動きながら登っていく。どこまでも、どこまでも、空に浮かぶ太陽目掛けて登っていく。


 吹いた風は暖かで冬の寒さを忘れさせるもので、今日は一月には異例の暖かさだとテレビで言っていた。


 暖かな日差しに照らされて、煙を見ながら思うのは今朝方言われた深雪の両親の言葉だ。


「有難う」

 そんな一言欲しくなかった。

 両の手で頭を抱えるように左右の耳の下、顎の骨を強く揉んだ。

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