第九話 愛別
登山客用の駐車場には車の一台も見当たらない。
こんな時に態々来る物好きが居ないのは有難かった。見咎められるわけにはいかないのだ。死体を連れて山になんて、一歩間違えば死体遺棄と揶揄されても申し開きのしようがない。
舗装された山道に乗り入れ、どんどんと登っていく。がたごとと揺れるたび、深雪が倒れたりしないかと不安でその歩みは非常にのろのろとしたものだ。
このまま登っていくと、何合か知らないが駐車場が見えてくる。そこに止めて、なだらかな坂を少し降れば、開けた街を一望する柵とベンチしか無いような、そんな場所があったはずだ。年に一回しか行かないとはいえ何度か行けばうっすらと覚えているものだ。
記憶通りに、現れた駐車場の端、通る道へ程近いところに乗り付ける。
カーナビの時間表示を見ればもう少しで四時になろうというところだ。初日の出は早くても六時半程と書いていた。ここから深雪を背負って歩いていくのに少し掛かるとして、普段の倍以上掛かるとしても三十分くらいか?
エンジンを切り、深雪をなんとか苦労しながら背に乗せる。車の鍵……まあ、いいか。どうせ誰もいやしない。気にすることもないだろう。
全く利用客が居ないというわけでは無いのだろう。幾つかの街灯が薄っすらと辺りを照らしている。来るにしてもあと一時間と後だろうか。
一歩ずつ山道を深雪と共に進んでいく。一歩、また一歩と。昨日、もしくは昼間にでも雪が降っていたのだろうか? 山道を所々、雪が覆い隠している。転ばないように、誤って深雪を落としてしまったりしないようにと、歩いていく。
一年前ここに来た時は家族ぐるみで来たっけか。あの時も、帰り道僕は深雪を背負って歩いてたっけ。初日の出を待って、皆んなでそれを見て新年の挨拶をそこでして。そうやって気付いたら深雪は僕の肩に首を預け寝てしまっていた。
——ああ、そっか。一緒に見れなかったから、今年こそは。そう思っていたのかな。なんてことない、ただそれだけの約束。それだけなのに、果たせない約束が……。
途中、足が滑りそうになる危うい場面もあったけれど、程なく目的地に着いた。
開けた広間。申し訳ばかりの木の柵が切り立つ崖の境になっている。そこから少し離れて石で出来たベンチが二つ並んでいる。こう、何もなければ人も来ないか。
雪の積もるベンチに一旦深雪を座らせて、しっかりと雪を払ったところに座らせ直す。背の低い背もたれに寄り掛からせ、一息ついた。
深雪。あと、ちょっとで初日の出だよ。行きたいって言ってたろ? だから、ちゃんと君の望んでた通り僕が運転して、二人きりで……。初日の出を見たら、どうしようか、まだ考えきれてないんだけどさ。見終わったら一緒に家に帰ろう。それで、僕は君の家族に謝ろう。謝って済むことでは無いけどさ、まずは謝って、それで何があったか説明しようと思うんだ。
「深雪、その時には一緒に居て欲しい。深雪と過ごした、日々が場所がさ。目を閉じれば思い浮かぶんだ。何度も君を見て、何度も君と歩いた道で、そういった場所の全部に君は佇んでる……」
さっきから、どうしてもちらつくのだ。声が、耳の奥で。
「もう直、着くね!」「あと少しで初日の出だねえ」「寒がりさんなんだから、もっと暖かくしなね」と聞こえてくるのだ。勿論、それが都合の良い自分の妄想だなんて分かってる。自分の頭が作り出した幻聴なんだと理解している。それでも、それは酷く苦しい経験だった。
殺したのだ。夢でも幻でも、この手で要らないと殺したのに。それなのに、こうも纏わりつき、声を掛けてくる。夢だから、幻だから何度だって目の前に現れるのだ。殺したつもりになったって、結局は出所が、僕の頭がある限りは一生ついてまわるのだろう。
そうでないのなら。もし、妄想の類でないのなら。
神様が本当に存在していて、こんなにも酷いことをお許しになるような神様であったとしても、願いが通じるのなら祈らずにはいられない。
どうか、どうか。もし、本当に居られるのなら深雪と言葉を交わさせてください。やり直したいなんて望みませんから、だから——
「なあ」
男の声。後ろからだ。
何となく、予感はあった。きっと現れるだろうという気がしていた。僕は、ベンチから立ち上がり振り返る。深雪を挟む形で、フードを目深く被った男が立っている。こちらに歩いてきて、僕と深雪の前に立つ。
「……なあ、なあ私は、私は深山のことが好きだったんだ。好きで、ずっと好きで……分かるか? 分かるよなお前、深山と付き合ってるもんな。深山は本当に良い子で、誰にでも優しい子で、本当はこんなつもりじゃ無かったんだ。無かったんだよ」
震えながら呟く男の顔は、俯きがちなのもあり未だ見えない。ただ、声には不思議と聞き覚えがある。誰だ? 何処かで何度か聞いたことのある声……。フードの陰に隠れたそれを僕は知っているのか?
それに、なんて間の良いことだろう。来るのだなんて予感は、本当にもしかしたら、この男もまた僕の想像の産物に過ぎないんじゃないか? そう思わせるに足る気持ちの悪い空気感というか、そういうものがある。
とにかく、罰されたくて僕がこの場に生み出したのだ。いや、もしかすると最初から、公園での出来事なんてものは元より僕が、本当は襲ったんじゃないか? そうして殺して犯したのだ。思えば抵抗の跡などもあまり無かったように感じる……。
「おい、聞いてるのか」
怒りと怯え、それにもし全部僕の頭の中で行われた喜劇だとしたら……そう考えて笑いそうになって声が震えそうになるのを無理やりに、押し殺して言葉を投げかける。
「誰だよ。誰なんだあんた」
ぴたりと、男が止まった。何となく、目を見開いて此方を伺っている気がする。
灯りの少ないこの場所では、その顔の下半分しか判らない。
「私が分からないのか? ああ、そうか。確かに接点は、薄いか……」
男はぼそぼそと口にすると、フードを取った。見たことのある顔。三十くらいだろうか? 無造作に頭に巻かれた包帯は僕のせいだろう。何処かで見たことがある。じっと凝視してはたと気付いた。
「深雪の、部活の——」
「ああ、顧問だよ私は……好きだったんだ笑えるだろう? 三十を超えた教員が一生徒に懸想するなんて嗤えるだろう?」
でも、好きだったんだ。地面を見ながら呟く男の声がとにかく空虚に響く。
好きだった? 好きだったから殺したのか? なんで、なにがあった。何より、気色が悪い……こいつは、何を言っているのだろう?
「ははは、そう睨まないでくれよ」
ヘラヘラと口にする癖、今にも泣きそうな傷ついた表情で、喉が震えていた。
「私だってこんなつもりじゃ、なかったんだ。君が深山と付き合ってるのは知ってた。知ってたさ。だから、だけど、この思いを自分で捨てることが出来なかったんだ私は。保護者ではないがね、打ち上げに呼ばれていた私はタイミングを見計らってたんだ。
彼女が、手洗いに立った時に私は彼女に好きだったんだと告げたんだ。振られること前提さ。だって、あまりに許されないだろう? 教員と生徒なんて。だから、君をずっと、ずっと羨ましいと思ってた。いつだって一緒にいて、それできっと、あの体を何度も貪っていると思ったら憎くさえ思えて——
……すまない。脱線したね。私が好きだって伝えたら、深山は……あの深山が、気持ち悪いって呟いたんだ。深山のあんな表情は初めて見た。嫌悪に満ちたあんな顔を向けたことも、気持ち悪いなんて言いやがったことも、許せなくて」
辛くて、本当に傷ついたんだよ。そう呟く男の右目から涙が流れた。
まるで被害者のように、辛そうに顔を歪ませ、男は泣いている。
その目に、今すぐにでも指を突き込んでやりたかった。首を絞めて同じように殺してやりたい。そんな感情が胸でぐるぐると回って、ひどく気持ちが悪い。気分が、悪い。
なんて身勝手で、理不尽で、こんなのが、こんな奴が真っ当な人間のフリをして生きていた事が信じられなかった。
「……だから、殺した?」
「違う、違うよ。そんなわけないだろう、そんなことで殺すものかよ。ただ許せなくて、尾けてたんだ。本当はお前を殺すつもりだったんだよ……」
そう口にする男の眼は酷く濁り澱んでるように見える。
「なら、なんで……」
深雪を、殺した? 僕を殺せば、それでよかったじゃないか。それで全部、よかったじゃないか。僕が死ぬだけで、深雪が死なずに済んだのならそれで、それが一番じゃないか。なんで、僕を殺してくれなかったんだ。なんで、深雪を……。
「なのに、一人で深山が公園を通って、あのアマは私を見て、言うに事欠いてストーカーだの気持ち悪いだの……私は教員だぞ。それなのに、悪様に、あんな……あの眼、あの眼を見たらかっとなって、気付いたら首を絞めて殺して、妙に体が熱くて犯して……」
初めてだった。初めて、思い切り人の顔を殴り飛ばしていた。もんどり打って男が倒れ、苦痛を訴えている。もう駄目だ。聞きたく無い。こんな奴、居ないほうがいい……。
このまま、蹴り飛ばしてやろうと、近づいたところで男がポケットナイフをいつの間にか手に持っているのに気付いた。
「こんなつもりじゃなかったんだよぉ! 殺すなんて、そんな分からなくなって! ああ、そんなつもりなかったんだ。痛めつけて、止めさせたかったんだよォ! あの軽蔑する目を、向けないで欲しかったんだよ!」
男が叫びながらナイフを片手に突っ込んでくる。躱わそうとして、雪に足を取られて僕はひっくり返った。好機とばかりに馬乗りに男がナイフを突き立てようとしてくるのを、必死に手を掴んで止めようとする。男の顔が近い。吐く息はアルコールとタバコの匂いが混ざり耐え難い。
「あれから、何度も何度も何度も目の前に深雪がちらつくんだア! 部屋の隅から私を、あの眼で、ずっとじぃっと見てきておかしくなりそうなんだよォ! 助けてくれよお!」
ふざけるなよ。言えたことじゃ無いのかもしれない。それでも、あまりにもこの男は身勝手すぎる。下劣な、男だ。助かりたいだと? ふざけるな、ふざけるなよ。僕でさえ助かりたいなんて烏滸がましくて口に出来やしないのだ。……いっそ僕に取り憑いて恨めしそうに睨みつけてくれれば、僕が悪かったのだと思えるのに。
荒い息遣いだけが、辺りにこだまする。
助けは来ないだろう。ここは静かで、誰も来やしない。
ナイフがじりじりと迫ってくる。上からかかる力に未だ耐えれているのは奇跡かもしれない。だが、もうまもなくナイフが突き立つ——
ばたん。そんな音がすぐ近くからした。誘われるように。僕と男の視線は動き、横になって僕らを見つめる深雪が其処に居た。
薄っすらと開いた目は僕たちを見つめている。浅ましく、愚かしい僕たちをじっと見ている。
その瞳から、つぅーっと雫が落ちていく。倒れた拍子に雫が垂れたのだろうと思う。だけど、きっと本当に泣いているのだとも思った。
「う、う、うぅああああア」
と、途切れ途切れな嗚咽が響く。それが、最初男のものなのか、それとも僕自身のものなのか判別が付かなかった。醜くいがみ合う僕たちの姿は正に醜態としか言えないもので、約束を果たすのにあまりに相応しくなかったから。
胸を締め付けるほどの後悔が重く感じられる。
ベンチで横になった深雪は何も言わず、倒れた拍子だろう、薄く開いた瞳で僕たちを見つめている。涙を流して僕らを見ている。
気付けば、押さえつけるような重みは消え、男が泣きじゃくりながら深雪に土下座するように縮こまっていた。蹲って、手をぎゅっと握りしめて。祈るようなその姿勢はあまりに、哀れで断頭台に首を置く囚人のように見えた。
この男も壊れてしまったんだ。心を病んで、頭を殴ったせいか? なんでもいいか。ただ苦しみ続けてほしい。償わなくていい。償いなんて意味がない。
すまないとか、ごめんとか呟き続ける男の足元に落ちたポケットナイフを手に取る。
深雪。僕は、僕はどうしたらいい……捕まるとかそういうのはどうでもいい。ただ、何もかもどうでもいいと僕は思ってしまってる……。くだらない、本当にくだらない……そんなことで、深雪を手に掛けたことも。僕を本当は殺そうと考えていたとかも、本当にくだらなかった。
手に持ったナイフを、男の背に突き立てるように持つ。まあでも、どうでもよくて、くだらないなら。復讐なんて、陳腐な行為もまた——
腕を振り上げたところで、一陣の強い風が舞った。雪が舞って、踊るように飛んでいく。
薄っすらと白んだ、薄氷のように綺麗な空に、雪がくるくると飛んでいく。
そうして見えなくなって、なんとなく呼ばれた気がして、深雪を見た。
「君が無事なら別にいいよ。君が無事で、君の代わりに死ねたなら私はまあ、いいかなって思う。未練も、後悔もたっぷりだけど——」
——幸せだったぜ、陽くん!
風に乗ってそんな声が聞こえた気がした。いや、聞こえたんだと思う。じゃなかったらこんなに涙が溢れるものか。
僕は、自分の名前が好きじゃなかった。陽なんて、明るくて自分らしく無いと思っていた。深雪は良い名前じゃんなんて言っていて。
はっきりと白み始めた空から薄っすらと陽の光が差し込んで、降り積もった深雪を照らし出していく。きらきらと輝いて、綺麗だった。世界が、輝いていた。
馬鹿げた話だ。死んだのに。死んだ人の言葉を、妄想に決まっているのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。寂しいんだろう。認めるものかと拒んだのに、こんなにも心が絆される……。
深雪が亡くなって、無くなって。世界の見方を見失ってしまった。この狭くて残酷な世界をまだもう少しだけ生きているだろうか?
新鮮な気持ちだった。真新しく見える世界を眺めていると、「おーい! 此処にいるのかぁ!」と深雪の両親の声が聞こえてきた。
駄目元で、あちこち探していたのだろうか? だとしたら、申し訳ないことをしたなと思う。
近付いてくる声に、僕は辺りを見た。
陽の出に照らされて、輝く雪に。蹲る男。ナイフを持って立ち尽くす僕に、深雪の姿。
どう、説明したもんだろうなぁと思わず苦笑いを浮かべて、寝転がる深雪を見れば、僕に微笑んでいた。
深雪と二人、笑い合った。
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