第七話 会者(1)

 暫く、男の立ち去った方を眺めて、ゆっくりと窓を閉めた。


 追いかける、警察に連絡を。そんな幾つかの考えが頭を過るがどれもが無為に思えた。警察になんと言うつもりだ? 追いかけて、追いつけるのか? 追いついてどうするつもりだ? とか。だが、あんなやつ殺さなくてはいけない。居てはならないのだと、そう思う。


 殺す。

 人を、殺す。

 それは忌むべきことだ。そうでなければならないと人間が生きていく上で定義する、最も明瞭で守らなければならないことだ。人を殺した人間は須らく人間の営みから排除されなければならない……。


 僕は、彼を、あの男を殺せるのだろうか? 恨みはある。憎しみはある。殺さなくてはならないという理由もある。多くの人が、そんなことがあれば殺すまでいかずとも何がしかの報復を已むなしというだろう。


 僕はその時、どうするのだろう。


 カーテンを閉めてしまうと、部屋は真っ暗になった。暗がりの中、ぼんやりと浮かぶ影を頼りに深雪の近くで座り込む。


 目的は何だろう。今更……今更というほど時間は経っていないか。もう、何日も何週間も経ってしまったような気がする。

 だとしても、また奪うのか。僕から何事かを奪うのか。深雪を? それとも、僕の命か。口封じ、出来ると気付いたのだろうか。今であれば上手くやれば僕に全てを擦りつけられるかもしれないと。


 いづれにしろ、到底許容出来るものではない。許容出来るような目的であるわけがない。あの男の行為の何を許容出来るだろう? 謝罪でさえ要らない。懺悔のひとつも入りはしないのに。

 尾けていたのであれば、ここを見ていたはずだ。それなのに、深雪の家を見ていたということは、つまるところ端から深雪を知っていたと考えるべきだ……。

 事を起こして内心びくびくと震えていたのに、事が露見していない。事件が未だ事件として認識されていないと公園や、深山家の様子を見て察したのではないか。となれば深雪を連れて行ったのは僕だと考えたのでは?


 深雪を知っている。それは場合にっては僕を知っているということではないか? ……よく行く店の店員だったり、乗り合わせることの多い電車の……そこまで遠くなく、学校の……もしかすると、近所の人でさえあるかもしれない……。


 もしも、あの暗がりの中から見返したあの眼が、僕を知っていたのだとしたら……それも、昨日今日からではなくもっと昔から……。

 そうであるなら、尾ける必要もなく容易かったろうな。そうでなく、誰とも知らない人間であるかもしれないが……。


 戻ってくるだろうか。なら何時? 今か、それとも明日か? 僕だと気づかず、見咎められたと思い逃げた可能性さえある。だが、だけどだからといって僕が何かすることがあるだろうか?

 煩わしい。もう関わらなくていいだろ。もう充分に、関わったじゃないか。僕らの中を充分に掻き乱して、踏み付けていったじゃないか…。


 眠る深雪を、ちらりと見る。

 彼女に、死してなお更なる苦しみがあっていいものだろうか。良いわけががない……。自分の手を離れた自分の体をいいようにされるなんて、きっと気持ち悪い事だ。悍ましいとさえ思うはずだ。少なくとも、僕は不快だと感じてしまう。ならば、何か考えなければならない。


 物も言わず、ただ横たわる深雪にそっと口づけを交わす。冷たい。当たり前だ。もう、この唇が動くことも笑いかけてくれることもない。

 虚しい。なんと、虚しいんだろう。ただ、自分の為にする冷たい口付けの虚しさを、どう語ればいいのだろう。

 それでも、せずにはいられなかった。余りに冷たくて、痛みさえ感じる口付けはどうにもならない愛おしさの発露に他ならなかった。何度だってしようと思えば出来たことだ。何度だってしたことだ。それが、もう出来ない。こんなにも冷たく悲しい口づけを、きっともうすることはない。


 あいつは、戻ってくるだろうか?


 これから戻ってくるとは思えなかった。理由なんてない、なんとなくそう感じただけだ。それでも、起きていようと思う。もし、あの男の魔の手が迫った時、眠りこけていて忽然と深雪が居なくなっていたらと思うと恐ろしくてたまらない。


「深雪、おやすみ」

 そう、一言残して居間へ戻る。


 明かりはつけなかった。傍目から、起きていると分からない方がいいと思ってだ。隙をつくとかそんな考えが頭を掠めたのもある。誰にも気づかれなくていい。何がどうなろうと、僕とあの男の間で全てが終わればいいと思う。


 パソコンのモニターを見れば、時間はとっくに零時を回っていた。


 静かだ。パソコンの稼働する音と、エアコンの音だけがこの静寂を脅かす。来るか分からない男を待つのに相応しいと思う。密やかにあるべきだ。深雪を起こさないように密やかに。


 それまでに、せめてキリよく書き終えてしまいたい。僕のこれは、もしかすると遺書のようなものに思われるかもしれないな。何があって何を思ったか書いて遺したそれを最初に見るのは家族だろうか? それとも警察だろうか。或いはあの男だったりするだろうか。


 何も食べず、体調を崩した僕はあの男に立ち向かえるだろうか? いや、立ち向かうとかではないのかもしれない。ただ、生きるにしろ死ぬにしろ理由を求めなければならないから。死ぬのなら深雪を守って死ねたらいいと思う。それは幾らかマシな死に方だろうから。


 死にたくないが、死んでしまうのなら仕方がない。そう思うのはもしかすると緩慢な自殺とでも言うべきなのかもしれない。それでもいい。彼女と共に居なくなるのならそれもいい。

 男が襲ってきて返り討ちに出来たならば、それはそれでいいのだ。彼女のために何かを出来たという実感がこの手に持てるのなら、なんだって構いやしない。


 そんな風に言うと僕から幸せを奪い取ったあの男が僕にとっての救い足り得るようにかんじられて少し嫌だな。そんなに大袈裟なものじゃない。幾らか気が晴れるだけだ。どちらでもいい。どちらでも、僕が何かできるのならいい。


 もし、謝りでもされたら。それこそがきっと一番許せない。謝るくらいなら最初からするなよ。謝るくらいなら何もせずに首でも括って勝手に死んでくれた方がどれほど嬉しいだろう。


 かたかたと、キーを叩く音が響く。エアコンの稼働する静かだけど耳障りな音が鼓膜を震わすのが不快だった。気付けば音も気にならなくなって、言葉を綴る。それだけに没頭していた。

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