第六話 必滅(3)

 そうは思うが体は精神で屈服出来るものじゃ無い。

 貧乏ゆすりのように体が震えるのがみっともなくて、両の膝を掴んだ。


 じっと、深雪を見つめる。僕は深雪の心も体も、何もかもを愛していた。奪われるなんて思ってもみなかった。だから、取り乱しもしたし、同じ譫言を何度も口にするように、只管に戸惑いや怒りとか悲しみを振り払うように何事かを考え続けていたように思う。


 聞こえやしないだろう。聴いちゃいないだろう。だって死んでしまった。肉体だけそこにあっても仕方がないのだ。肉体が何か、トランシーバーのようなもので遠く離れた天上でも地の底でもいい、声が届くのなら聴いていてほしい。

 そうでなくても、構わない。深雪が僕を思ってくれていたことに出来ることなんて何もない。何もないからこれは、これからする独白は全て自分の為だ。聞こえたらいい。聞こえなくてもいい。そんな意味のないことだ。


「……深雪は、きっと復讐とか敵討を望みはしないと思う。そういうことを好む人ではなかったから。だけど、死の淵で、殺される恐怖と犯されるという嫌悪を前に、君が何を思ったのかは分からない。もし、それを望んでいたのだとしたら僕はそれを為せなかった。為さなかった」


 あの時、僕は深雪に駆け寄りたい一心だった。あんな男に掛けてやる時間なんてこれっぽっちも無かった。あるわけがなかった。それは言い訳に聞こえるだろうか? 聞こえるだろう。望んでいたのならなおのこと。


「だから、それを許してくれとは言わないし、もしそうであったなら必ず成し遂げてみせる。もし、あいつが僕の前に現れたなら僕は必ず同じように殺してみせる……」


 僕が深雪の初めてで唯一でありたかった。認めなければいけない。じぶんの汚さを一つずつ許容しなければいけない。


「深雪がなんで襲われないといけなかったのか、僕には分からない。深雪じゃないと駄目だったのか? 深雪はあの公園を通って、あの男に話しかけられたのか? 無理矢理に襲われたのか? あの、僕が公園を通り抜けるのを嫌厭した怒鳴り声……あれは、君に対するものだったのか? そうであるなら、僕はきっと自分を許せない。許せるわけもない。

 それこそ、自分を殺してやりたいほどに。……君の望むことだけをしたい。そう思ってしまうんだ。可笑しいだろ? 死んでから、そう強く思うんだ。あまりにも遅い。遅すぎる。生きている内に叶えるべきなのに。死んでからじゃ、君の笑顔一つ見れやしないのに。そんなことも、考えていなかった。日々を大切に生きていなかったんだと思う」


 反応はない。当たり前だ。あるわけがない。返事なんかない。その当たり前が凍てつくような風と共に、僕のぽかりと空いた、まるで伽藍堂のような心の裡に入り込んでくる。


「僕は君を好きで、ああ知ってるよな。それだけはきっと変わることなく続いていくことだから。僕が死ぬまで、何があっても君を思い続ける。思い出までも手放したくないんだ。君自身を手放してしまったのにな。嗤えるだろう? ……君は、こういう皮肉ともつかない自虐は嫌いだった。口にするといつも、口を尖らせて卑下すんなよーなんて言ってくれた。それに救われていたんだな僕は」


 吐く息が、そのまま凍りついて落ちてしまうんじゃないか。そう思えるくらい寒い。震えが止まらない。


「愛してる。愛してるよ深雪。もっと、何度も口にすべきだった。例え、木々の葉が口になったって思いの丈を語り尽くすことなんて出来やしないのに。嗚呼、もっと口にするんだった。君が嬉しそうにするなら、尚のこと口にしていくべきだったんだ。

 そう思うんだ。そう、思う癖にさ。君を陵辱したあの男の触れた部分を汚れてしまったと感じてしまったんだ。それは許されることだろうか。そんなことで、好意が愛が損なわれたりしないのに。一瞬でも、君が穢された。汚れてしまった。そう感じてしまった。君自身の在り方が損なわれたわけじゃない。ないはずなのに、僕は君の体を汚れてしまったと……。

 死んでから、犯されたのか。生きている内に、犯されて暴れるから殺されたのか……そんなのは知らないし、知る由もないことで……ただ、肉体が体が、死してなお犯されていたのは間違いないことで……そんな所業の痕を前に、あの男の触れた部分を綺麗にしたいと思った。清めたいと思ったんだ」


 わなわなと震えるこれは、寒さだけじゃない。きっと自分への怒りが多分に含まれている。


「あいつが、触れたと思うところを拭いていって、せめて綺麗にしたいとそう思って始めたのに、君の柔らかさと、穢らわしい所業とに心を殺されるような気持ちで触ったことも無いようなところまで触れて、気付いたら僕はあの男がしたように下半身を……許されないことだ。吐いてしまうほどの嫌悪感に苛まれて、僕はここから飛び出してしまった」


 深雪の頬は触れていたら凍りつくのではと思うくらい冷たい。


「そのうえ、朝に来た君の父にも、母親にも嘘を吐いた。君が居なくなって心配をしているだろう二人に、知らないという素振りで、あまつさえ体調まで心配させてだ……! 僕は、僕は恐るべき罪人だ。君の体を運んで、それはきっとあの男を、逃げ去ったあの屑を助けることで、君の両親の苦しみを長引かせている……」


 すまない……本当にごめん。僕は君が思うより、僕自身が思うよりも愚かな男だ……。


「何の開き直りも出来ない。許されるべきじゃない。第一発見者だから、誰だってそうなれば苦しいだとか、親しい人間だからどんな行動に走っても仕方がないなんて謂れるべきじゃない……そうだろう? 君は、そう言わないかもしれないけどさ、ケジメとかそういうのは必要なんだ。僕は裁かれるべきだ。誰しもの目に留まり、罰されるべきなんだ。

 だから、と言うとまた違うんだけどさ。君のことを、僕のことを書いている、僕等のことを書いているんだ今。忘れたくない、忘れないように。誰もが忘れられないように。誰しもの心に。棘のように刺さってしまえばいいなんて思って書いててさ。笑えるよな。悪いことをしたと言いながら、僕はこの事件に関わった人間以外にも苦しんでほしい、少しでいいからその胸を苦しくして欲しいと望んでる……」


「こんな僕に救いは要らないんだ。あるべきじゃない。こんなことを言われても困るだろうけどさ。聞いて欲しかったんだ。思ったことを、少しでも知って欲しかった。独白なのか告解なのか分からないけど、口にしたかったんだ。君の前で」


 僕は、こんななんだ。君が居ないとそれだけで、こんな風に歪んでしまうんだ。


 久々に声をこんなに出した気がする。寒さもあって喉が痛む。体のあちこちが寒さで痛みを訴えてくる。

 態々、こんなことを言う為に寒さの中に身を晒して、何も言わない君に何事か告げるなんてまるで、ここが礼拝堂みたいじゃないか。……だから何だと言うんだ。何に礼を拝せば、深雪に会えるのだろう。縋ることしか出来ない偶像なんて望むべきじゃないんだ。


 窓は閉じてしまおう。今更かもしれないが、こんな時期に窓を開けているなんて普通じゃない。見咎められたら不審に思われてしまうに決まっている。一日だって開け放ったままにすべきじゃなかったのに。


 深雪の足元を通って、窓に手を掛ける。吹いた風がカーテンで僕の視界を塞ぐものだから、思わず疎ましげに払う。


 窓の向こう、道路に面するそこには、深雪の家を眺めるフードの男が居た。

 胸が痛いくらいに激しく鼓動するのを感じる。寒くて感覚のなかった手足が突然熱くなったような気がする。

 胸が鷲掴みにされてしまったような緊張も。


 思わず食い入る僕を、男が見上げた。街灯のせいで影になった顔は判別がつかない。ただ、目が合ったように感じた。


 何秒経っただろう。男は不意にぎこちない走り方でその場を去って行った。待て! そう上げようとした声は喉で詰まってしまった。


 あの男は、深雪を知っていて襲ったのか? それとも僕を尾けて?


 なんにせよ、あの男は此処を知っている。ならばきっと此処に来るのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る