第六話 必滅(2)
立ち上がったパソコンを操作して、書きかけの文字の羅列に向き直る。
どうでもいいと思ってしまえば、なんだか指が軽かった。言葉を選んでいたんだと思う。綺麗な言葉を吐こうとしていたんだな。人の感情なんて汚ないのだ。薄汚れていて、醜くて、道徳や倫理、法律で縛らなければいけないようなものなのだ。
取り憑かれたように言葉が感情が文字となって頭を駆け抜ける。今、心に渦巻く思いのそれぞれを一切合切吐き出してしまいたかった。嘘も罪も贖罪も。愛も望みもなにもかも、嘘偽りなく思ったことを全て書かなくてはいけない。そんな気概が僕を駆り立てるのだ。
パソコンの光源だけの部屋で黙々と書き連ねるのはきっと傍目から見たら異様で、普通ではないと思われることだろうな。幸いここには僕しかいない。
他人のことなんか気にするべきじゃない。他人に読んでもらうのに、気にしてはならないのだ。そうしなければ、変に忖度したものになってしまう気がする。
在るが儘の、自分を書いて書き殴って、読んだ人が言えばいい。そんなのはありふれた出来事ですよ。苦しい思いを誰だって抱えて生きているんです。死んでしまうほどの苦しみは、この地球上の何処にだってあるんですよ。
こんな感情は有史以来何処にだって転がってるんだ。特別なことではない。陳腐な出来事なのだ。その陳腐さは、普遍さであり、同時に誰にでも訪れることなんだと誰もが知るべきだ。
心が落ち着いて、やっと時間を見る。まもなく、日が回る。三十一日になろうとしている。
年の終わり。新しい年の始まりが近いどころか目前だ。慌ただしい年末だった。深雪のことがないにしても、ああそういえば婆様はどうだったのだろう? もし無事だったとしたら、きっと納得のいかない、そんな顔をしてしまうだろうな。深雪は死んだのに。十八で、死んでしまったのに。八十近い人が生き残っているというのはこの世界の在り方が変なんだ。
父さんも、母さんも。何を思うだろう。母を失って、お隣さんの娘が死に、僕に対して以前のままでは居られないだろう。少し、申し訳ない気になる。こんな風でごめんなさいと謝ろう。
今年を深雪は越えることが出来なかった。そう言うと、まるで年越しが一大事で越えることが困難のようで面白い。そんなことも許されない世界なら滅んで仕舞えば良いのに。
それにしても、もう三十一日か。季節のイベントのようなものは、いつも深雪が口にして……彼氏としてあまりに受動的だったんだな僕は。僕と一緒にいてちゃんと楽しかったんだろうか? 幸せで居たのだろうか? 今となっては訊くことの出来ない問いは、生きている限り何度も浮かぶだろうな。
深雪はなんと言うだろうなんて問いは、これからすっと付き纏う問題で。僕はその都度足を止めてしまうだろう。それはきっと情けなくて、虚ろげに見えるだろうな。縋るつもりなんてない。ただ、どうだったろう? 深雪はこういうのが好きだったな。これは嫌いだったなと思い返してしまうだろう。そうやって確認せずにはきっといられない。もし、そうやって生きて、途中で思い出せなくなったらきっとその絶望感たるや身を裂く物悲しさを僕に与えるに違いない。忘れたくない。内に秘めて、深雪の全部をこれ以上取りこぼしたくない……。
こんなに、筆が進むのは初めてかもしれない。創作ではないから、実際にあったことを書き連ねているだけだからなんだろうけどね。
立ち上がるとぐらりとふらついた。ああ、立ちくらみだなんて思いながら、しゃがみ込もうとしてソファーにどかりと座り込んだ。そりゃそうか、炬燵とソファーの間なんて僕が狭めたのだから。立っていられないくらい強い立ちくらみに、うーとかあーとか意味もない声が思わず出る。
こんなに強い立ちくらみは初めてだ。立ちくらみというより眩暈だろうか。思えば何が違うのだろう。よく分からない言葉を使うなんて、学のなさを晒すみたいで嫌だな。
きっと、変な寝方をしたのと、一日何も食べてないからだ。そこに熱で体が弱っていて、そういう色々が今こうして不調となって噴出したのだろう。
実際には五分と座り込んでいなかったのだろうけど、何時迄も揺れるような感覚が襲うものだから、世界が揺れているんじゃないかと思えてきて面白く感じたものだから、収まるにつれて少し惜しんでしまった。
ゆっくり立ち上がって、いがらっぽい喉に水を流し込む為に台所に向かう。何か食べないとと思うが、気が進まない。
そうして戻ろうとした時、机の上に出しっぱなしの薬が目に入って今朝方飲んだ量と同じだけ飲んだ。
今と打って変わって冷え切った台所から廊下に出て階段を見る。寒さが上から来ている。一瞬、深雪が、死が連想される。なんで死というのは寒さとか暗さで表現されるのだろう。別に暖かで良いと思う。世界が苦楽に満ち、救いが与えられもしないのなら、その最期、死んだ後くらい暖かであるべきだ。
いや、平等なのかもしれない。死後は寒く暗いのだ。この世もまた寒く、暗い。ならそんなものなんだろう。
心の隅で、深雪の肉体を、死体を前にして反応した体を恥じていた。それが深雪と会うことを拒んでいたように思う。
今なら、そういう醜さとか悍ましさを受け止められる気がする。これは儀礼なのだ。別れを、分たれてしまったことを受け入れる為の儀礼なのだ。
素足には、あまりにも冷たい階段を、一段一段しっかり登っていく。それだけで、指先から感覚が無くなってしまうんじゃないか? そう感じるほどに凍てついている。
その一段一段は、踏みしめるたびにこんな恐るべき寒さの中にたった一人にしてしまった僕への罰なのだ。禊ぎなのだ。
寒さの中に消えた深雪に会う為に、体中の熱を禊いでいるのだ。
登り切ると、和室からゆっくりと寒風が吹き込んでいるのを感じた。半端に閉まった戸から吹き込んだ寒風が部屋だけではなく家全体を氷の棺桶にするように凍らせようとしているのだ。いっそ、そうなればいい。この家が全部凍りついて、誰も中に入れなくなってしまえばいい。誰も出れなくなってしまえばいい。
そんな氷棺とでも言うべき家の中、その二階で朽ちることなく二人で居れたら僕の心は多少の暖かさを感じるやもしれない。
このまま世界がどんどんと寒くなっていけばいいのに。全部凍りついてしまえ。
中に入り、戸の近くにある電気を付ける。寒さのせいか少し時間を置いて豆電球がぽぉっと部屋を照らし始める。
横たわる深雪は、記憶通りに横たわっている。美しいまま、布団の上で目を閉じている。今にも目を覚ましそうなのに、近寄らずとも分かるくらいその体は冷たさを放っているように感じた。
深雪を挟んで、その奥で手を振るようにカーテンが揺れている。
同時、そこに深雪を幻視して、ほらやっぱり生きてなんかいてくれない。そう呟いた。
この寒い部屋で一人にしてしまってごめんとも口にして、僕は深雪の横に座り込んだ。畳はまるで地面のように硬く感じられた。寒さのせいか? それとも、この部屋全部が深雪の死を嘆いていたのかもしれない。一階に消えた僕に代わって。
ふう、と一息吐くと目の前が真っ白になり直ぐに霧散した。冬に着る厚手の寝巻きとはいえ全身が震えるのをそのままに、胡座をかいた。深雪もまたこの寒さの中にいたのだ。もっと寒かったはずなのだ。それなら忌避する理由は無い。
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