第六話 必滅(1)

 ソファーに凭れた背から腰が痛む。それに頭も重くのしかかってくるようだ。

 昨日も今日も、こんなのばかりだ。ただ、空虚で、陰鬱さだけが僕の中に漂っている。


 横になって寝ていないから体がひどく痛む。頭の痛みは大分引いているみたいで良かった。あんまり痛むようだと何も手に付かないだろうから。


 炬燵布団は引っ張ってしまったのか少し此方に寄ってしまって天板も併せてズレている。それを押しやって、触れた炬燵布団が湿っているのに気付く。


 自分の頬に触れて、寝ながら泣いていたのを知って少しずつ意識がしっかりとしてくるのを感じた。


「ああ、嫌な、厭な夢だ……」

 喉から出る声は自分のものと思えないくらい嗄れていて、何十歳と老いてしまったような響きがある。


 夢を見ていた。しっかりと思い出せる。明晰夢だった、ように思う。あまりはっきり見るものだから、もしかしたらいつの間にか目が覚めていて深雪とのあったかもしれない日々を考えていたのかもしれない。そう思ってしまうくらい、生々しさというかリアリティのようなものがあの夢にはあったような気がする。癒しがあった。同時に苦痛も。


 思うに、この涙の一つ一つが僕にとって大切な何かだったのだ。損なって、損なってしまったのなら、何もかも要らないと思ってしまう心の弱さが僕にはあったのだ。

 欠けてしまった替えなんて無いぽかりと胸に空いた穴が今、自然なことに思えてきた。無理に埋めるべきじゃないのだ。在るが儘に欠けてしまうべきなのだ。


 はっきりと知覚して考えて、気付きを得た。

 正に天啓だったように思う。未だ纏まりきっていないが、視野が開けた気がする……吹雪いて一寸先も見えない野晒しの道を一人、遠く揺れる街頭を信じて歩くような……まるで思想家気取りだ。


 だけど、歩ける。一人でも生きていけてしまう。確信できる。半身を裂かれたって生きていけるだけの強かさが、冷たさがこの弱い心の奥底にはある。その冷たさは折れて、粉々になった死体の冷たさだ。死んでしまったから挫けることもない。


 深雪を失ったから辛くて悲しくて涙が溢れて。失ってしまうことを恐れていなかったからこそ、鮮烈に心を切り刻んだ。失ってからこれからを恐れ、同時畏れてしまったんだ。

 あの夢は正に天啓で、そうであるなら深雪は僕にとっての神様だった——そう口にすべき、敬愛を胸に抱いていた。親愛を情愛をもって共に居て、それが失われて深雪を思い、想ってどうにもならないのに、考え続けて、その全てが自分の為であり、その対象は深雪だった……。


 損なわれて、深雪は僕にとっての偶像となってしまった。

 愛……平穏、救い……悲哀、苦楽さえ孕んで、おおよそ人の、情動それらを司る……。馬鹿げた話だ。それでも人間が何かを思うことが信仰の始まりであるならこれは、正にそうなのだ。


 純愛をもって、僕は殉じれる。それは殉愛じゃない、随分と昔に心を捧げてしまっている。正に信仰だったのだ。共に居て、共に生きて、共に死のうというどこまでも青臭い誓いは、互いを信じてこそで、互いがあってこそだった。片方がもう居ないのにその誓いを捨てないのなら、それはもう信奉だ。


 信じて仰ぐ……好きな人を大切に想って、この人の為ならと生きるのも。救いを求め、平穏を望み生きるのも、等しく同じだと思う。同じ人間の祈りなのだ。捧げる思いに差などあるものか。

 救いは訪ずれないんじゃない。もうないのだ、既に受け取っていた。ここまで、救われ続けてきた。笑い合って、一緒に泣いて、喜んで悲しんで……彼女と居た時間こそが僕にとって限りない救済だった。それはもう、思い出の中にしかない。


 ニュースで、ネットで偶に聞く、無敵の人なんてのは存外、僕みたいな人がなるのかもしれないな。何かをしようとか、そういう意思はないけれど。もし必要だったら行動に移せる。もう僕を見守る太陽は消えてしまった。暖かでどこまでも甘い慈愛はもう消えてしまった。それなら残りなんてどれほどの価値があるのだろう?


 共に歩くという当為が。せねばならないと想っていたことが出来なくなって、では僕は今何を為す? いや、違う。共に歩いてはいける。思い出は損なわない。損なえない。損なわずに生きなければならない。それが最低限しなければならないことだ……。


 何時なんだろう。暗く朧げな影に目を凝らしながら手探りでスリープモードになったノートパソコンを立ち上げて、強張った肩を回す。程なく青い光に照らされて、思わず目を細めた。


 同時に、こうも思ってしまう。考えてしまう。


 愛も信仰も、思想も、人の心が齎すその働き全てが疎ましくくだらないものだと考えてしまう。不要なのだと言えてしまう。本心から、言えてしまう。愛そうという思いも、くだらないと詰る思いも等しく同じに胸に抱ける。抱けてしまうから僕はこうなのだ。


 生きたくはないが死にたくもない。そもそも、その考えは昔から根底にあったように思う。


 相反する思想を、清濁併せ吞むことを許容出来ずに居たのは深雪に相応しくあろうとしていたからに違いなくて。格好付けたかったんだなぁ僕は。良く見られたかったんだな。昨日よりも、今日の僕を。今日の僕よりも明日の僕を。深く、深く愛していって欲しかったのだ。身勝手にそう思ってしまうからこそ、心の冷めた部分がくだらないと唾を吐く。


 人間なんて、なまじ賢しく生まれなければよかったんだ。獣と同じで良かった。生きる為に生きて、喜びとか悲しみとか感じる間もなく必死に生にしがみ付き生きていく。そういうので良かったのに。


 忘れないように。もし忘れてしまったらの、そのもしを無くす為に書くべきで、この情動が心の機微が決して僕だけでは無いんだと知りたいから文字に起こそうと思うのだ。

 苦痛を感じず生きているなんて許し難いことだ。皆、等しく苦しんでくれ。その思いをぶつける為に書くのだ。


 読んだ人間が悉く辟易し、もし我が身に降りかかればと想像し、或いは過去の傷を抉られ、苦しんでほしい……。

 皆等しく苦しめ。この苦しみを分かち合いたいなんて話じゃない。各々が各々の悲劇を以て苦しんでほしい。そうでなければきっと、心からの平穏は訪れない……。


 深雪が救いを与えてくれることはもうない。無いのだから、自分で平穏を望むしかないのだ。それがどれほど歪んでいても構やしない。

 思い詰めて悩むにも、死ぬにしてもまずは生きなければならない。


 どうだって良かったんだ。深雪以外。僕以外どうだっていい。僕が勝手に滑落して苦しむように、周りも苦しんで歩いていればいい。それだけで、僕は苦しんでいるのは自分だけではないのだと安堵するだろうから。

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