第七話 会者(2)

 何度も、キーを打ち続けていると、次第に自分がそういう機械のように思えてくる。思ったことをタイプライターのように文字を打ち出すそういう機械なのだ。

 そこに一切の躊躇いなんてなく、思ったことを書き上げ、要らない部分を削ぎ落とし、正しく剥き身の自分を文字にして表していく。羞恥なんていらない。躊躇うことなんてない。浅ましい僕の在り方を、煩悩を、猥雑さを、煩雑さを。入り組んでこんがらがって、解くことも出来なくなった在るが儘を書き上げるていくのは、なんというか小気味良さを感じる。


 自分のことを書く。なにかで読んだ事がある。作家とかの、創作するというのは自分を曝け出すことだって誰かが書いていた。自分のことを切り売りして書き連ねるものだって。

 なら、これはどうなんだろう? 脚色もない、ただ在るが儘を書こうとしているこれは、ノンフィクションとして人の目に止まるだろうか? それとも、何かしらの自伝めいたものとして読まれるのだろうか。


 読む人次第で変わるんだろうなあ。読むに値しない読みづらいだけの言葉の羅列と評する人もいれば、どうにもならなさを叫んでいたなんて言ってくれる人もいるかもしれないな。同じように大切な人を奪われた人が読んだりしたら何を思うだろう?


 目の奥がごろごろと痛んで、それが頭痛なのかイマイチ判断が付かなかったから、思わず顔を顰めた。熱はなんだかんだ引いた気がする。怠さは身体中に感じられるが、知ったことじゃないと無視をできるもので、目の痛みは耐え難い。書いていられない。というより、画面を見ていられない。目を開けてるのと閉じているのも痛みを感じる。


 カーテンから差し込む薄明かりは、早朝が近いのを感じさせる。もう、そんなに時間が経ったのか。あの男は、結局やって来なかったな。あいつもまた、僕の殴った部分が痛んで堪らないのだろう。そうならば、それが死因となればいい……。


 暫く目頭を抑え、肩を回した。もう少し、もう少しだけ書こう。そうして、人が出歩くような時間になったら寝よう。流石に、昼間から此処を訪れたりしないだろうさ。


 長く溜息を吐く。何歳も老け込んでしまったような気がする。寝てはいても栄養を取らない体が軽くなるわけもない。考えることも死ばかり。生も死も、何もかも無ければ考えずに済むそれだけの話なのに、何を悩んでいるんだろう。生きるとか、死ぬとか、本当にくだらないことだ。深雪の居ない世界には、僕にとっての愛はない。生きる意味も損なわれた。


 苦しまなくてはならない世界なら、最初から生まれなければいい。そう声高に叫んでやりたい。後悔ばかりの人生に、何を付け加えればいいだろう。そんな考えも無駄なんだ。死んでしまえば全部終わりだ。残された人も何も、死んだら関係ないことだ……。


 ……寝ていないと、どうしても鬱々としてしまう。一度回った考えが何度も周回してくる。答えなんてないのだから、仕方がないのかもしれないが。

 馬鹿なことだ。とはいえ、心休まる事がこれから、あるだろうか?


 何度目かも分からない溜息を吐いて目を開けると視界一杯に深雪の顔があった。

 壁という壁に悪趣味な模様のように僕を笑顔で見つめる深雪の顔が。天井にも、パソコンのモニターにも深雪の顔が所狭しと犇いて、僕を見ている。

 縁日のお面屋。あれだ。あれのように、沢山の深雪が連なって僕を見ている。


 叫びそうになって、立ちあがろうとして突いた手がぐにりと何かを潰した。床にも、深雪が居る。深雪の顔が床にもある。僕の手は、その一つを容易くぐちゃぐちゃに潰してしまっていた。

 手に脳漿とも目玉ともつかない、何かの肉片がこぶりついていて、それさえも、僕を見ている……。

 叫んでいた。叫んだつもりなのに、声が出ない。恐ろしくて怖くて、たまらない。怖気が喉を潰してしまった。


 あっああ……! 顔、顔がっ。なんだって、そんな笑顔を貼り付けて僕を見るんだ深雪……! 怒っているのか? あいつを、取り逃したらからだからそうやって、僕の前に……! やめて、くれ……やめてくれェ……僕なんかに笑いかけないでくれッごめん、ごめんよ僕が、僕が一緒にいればっこんな、こんなことにはならずに済んだのに……。


「よーっ大丈夫かい」


 間近でした声にびくりとする。何時の間にか、身を縮こめて、頭を抱えていた。ぜえぜえと、息は荒く動悸がひどく不安定で落ち着かない。顔を上げるのが、目を開くのが恐ろしくて堪らなかった。きっと、この世界で一番僕を傷つけられるのは深雪だけだから、好きだと愛していると言い合った深雪の言葉ほど、僕を殺しうる言葉は他ならなかったから、この声もまた恐ろしい。


「見にくると君はいつも体調悪そうにしているね。流石に不安になっちゃうよ」


 恐々と目を開けば、壁も天井も普通で、パソコンもまたなんてことはない。——なんだっていうんだ。僕は、本当にどうにかしてしまったんだ。一面の、深雪の次はまただ。また、一人でさも最初から居たように目の前に座っている……。


「さあさ、進捗はどうだい?」


 全身から吹き出した汗だけが、先ほどの異変だけを告げていてる。手には何もついていない。何もかもが正常だ。いつも通りの居間で、僕は深雪と居る……。深雪と居るんだ。


 そうか、深雪と居たんだ。

 最初からこうして、一緒にいたんだ。居て欲しい時はいつだって居てくれた。死んだからってそうじゃなくなるなんてあるはずない。……ああ、僕は疑ってしまっていたんだな。居なくなるわけないじゃあないか……独りで狂ったように考えて、ああ馬鹿みたいだなぁ。


「ねえ、深雪」


 僕は深雪の横に座り直す。可愛らしく微笑む深雪の手をそっと握った。


 なにもかも、壊れてしまったんだ。今更気付くなんて本当に馬鹿なんだな。なんというか、ぷつりと、考え違いの線が切れてしまった気がする。ずっと、こうして見守っていたんだ。なんてことない。最初から離れてなんていなかった。


「うん、なあに?」

「僕はさ、約束を果たそうと思うんだ。見たいって行っていたから。行かなきゃいけないと思うんだ」


 そう言って、深雪の顔を片手で寄せると軽く口づけをする。虚しいだけだ。こんなもの。


「うん、そうだね。言っていた。ちゃんと、私を連れて行ってくれるのかい?」


 勿論だよ。そう微笑んで、僕は横で顔を赤らめる深雪を押し倒して、その首を絞めた。要らない。偽物の慰めなんていらない。僕は、彼女を連れて日の出を見て、それでお別れとするのだ惜別の儀式なのだそれが。別れは恐ろしくない。深雪は此処にいる。

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