第五話 生者(2)

 深雪と連れ立って、電車から降りる。

 見慣れたプラットホーム。駅近くの高校からがやがやと遠く声が聞こえる。フェンスの向こうでは、子供達が走っていく。風は暖かで心地いい。

 深雪のふわりと浮いた髪が楽しげに揺れている。


 こんな日々が確かにあったのだ。


「なんか今日は一段とぼーっとしてるね。そんなに眠いかい?」

 階段の前で立ち止まる僕に、深雪が首を傾げている。


「春の陽気が、暖かいなって。……随分と、寒かったから」

「うーん?」と怪訝な顔で僕を見る深雪に、ほら行くよ。そんな風に声を掛けて。嗚呼、寒くて、寒くて堪らなかった。凍りつくような、寒さは体だけじゃなく心だって蝕んでいたんだ。それが、春風なんて関係ない。

 君さえ居れば。それだけで、暖かい。


「今日はいつにも増して変な子だねえ」


 微笑むその顔は余りに優しくて手放せるわけがなくて、余りに綺麗で。心臓が痛む。息が出来ないくらい高鳴る。それはかつてみたいに、ただ甘酸っぱさや愛おしさだけじゃない。苦しい、辛くて悲しくて胸が痛む。欠けてしまった。自分から失われた、喪われて損なわれてしまった全てがそこにあるような気がして、苦しい。


「深雪は」


 だから、口を突いて出る言葉は心の底からただ、訊ねずにはいられなかった。


「なんだいなんだい、随分真面目な——」

「幸せだった?」


 きょとんとした顔に、思わず抱きしめたくなる。それをしたらきっと、離せなくなる。立てなくなる。きっと歩けなくなってしまう。


「幸せだった、ねえ」


 変な言い回しー、なんて笑いながら深雪は改札の前で立ち止まる。

 周りに、人はいない。学生も社会人も、駅員も見当たらない。分かってた。分かっていたことだ。思い出のような、夢だ。


「ありゃ? どうしたのさー。なんか泣きそうだよ?」

「ああ、いや。目にゴミが入っただけだから」

「えー、ほら見せてご覧よ。って見ても分からんけどね」

 うぇっへっへ、なんて変な笑い声を上げながら、深雪は僕の隣にやってくる。


 涙を流す僕の頭を、優しく撫でて寄り添う深雪にこんな顔見せたくなかった。きっと涙でぐちゃぐちゃで見れたものじゃないだろうから。せめて、格好くらいつけたい。付けたかった。


「さて泣き虫さん、一緒にさー映画観るじゃん? だから分かると思うけど、ハッピーエンドが好きなわけですよ。どんなジャンルでも、最後は笑って終わるのが好き。大団円で終わるのが好き。色々あって傷ついたりして、それでも最後はびしっと決めるような話が好き」


 そう言いながら、深雪はするりと離れて改札の前に立つ。背中を向けていて、表情は見えない。でも、きっと微笑んでいる。


「でも、それってフィクションなわけですよ。現実はぜーんぜん、そんな風にはならないの。当たり前だよね、シビアな話だよ本当」

 深雪が、改札を抜けていく。


 余りに、幸せな夢だ。

 だから、とても残酷だと思った。あったのだ。そして、有り得たのだ。何時までも続いていく、そんな毎日が確かにこの手にあったのだ。


「どんな終わり方だとしてもさー、私は君と一緒なら幸せだぜ!」


 改札を挟んで、ピースなんかして言い放つ深雪の姿は余りに眩しい。


「……置いていかないでほしかった。いいや、一緒に、居れば良かった。それだけの話なんだよ」


 呟くような声は、きっと深雪に届いていない。届かなくていい。こんなのは唯の恨み言にしかならない。


「僕が、一緒に居ることが出来なくて、それで死に別れたとしても?」


 こんなこと、訊くべきじゃない。夢は、綺麗なまま終わらせるべきだ。


「おお? 変なことを聞くねえ今日は。どうしたの?」


 何も言わずに僕は深雪を見つめる。涙が、溢れて邪魔だ。邪魔で仕方ない。深雪の、例え夢の中であってもその姿を焼き付けて置きたかった。忘れないように、しっかりと覚えておきたかった。そんな風に毎日を共にすれば良かった。


 泣きながら見つめる僕に、困惑の表情を浮かべながら深雪は口を開く。


「そりゃさー、どうしたって後悔も未練も沢山あると思う。無いわけないよ。事故でも、病気でも、そういうのって予期しないものじゃん。だから、きっと後悔する。もっと一緒に居たかった悔しい! ってならないわけない。


 でも、あーなんだっけあれ。えー、ひ、ひー比翼! 比翼連理の鳥みたいに、ずーっと死ぬ時も一緒なんて凄く素敵だなーって思ったりもしたことあるよ? だけどさあ、もしどっちかが死んじゃったらさ、死んだ方は生きていて欲しいって思うんじゃないかな。死んで欲しいなんて、思ったりしないんじゃないかな?


 追いかけて死ぬなんて、違うと思うし。殉じる愛もきっと創作なら美しい話だよ。だけど、私を思うその愛に苦しいとか辛いとか、そんなものを混ぜないで欲しいって思うかな。純粋な愛が一番素敵じゃん?」


 改札越しでよかった。目の前に居たらきっと肩を掴んで僕は泣きながら叫んでいた。

 純愛も殉愛も、どちらも僕には高尚に思えた。思い遣りが、愛が、慈しみが、どれも無償でなにもかも渡したって後悔なんて微塵も無い。そんな風に思えたのが深雪だから。


 ——深雪と一緒だったら、他の誰が死んだってこんなに傷付かなかった。


 深雪を失ってしまえば、駄目なのだ。比翼の鳥のように、死んでしまえればよかったのに。衰弱して死ねれば良かった。自分のために、殉じたい。殉じてしまいたい。僕の愛は身勝手で、死体を拐ってしまう程に歪じゃないか。失わなければ、知らずにいれた。それが余りにも恥ずかしい。深雪の愛を受け取る資格なんてあったのだろうか?


 僕は、僕は深雪の言葉を、甘く優しい言葉を、何一つそうだねなんて言うことがもう出来ないのだ。だって、そうだろ。残されたら、辛いのだ苦しいのだ。死にたくなるほどに、泣き叫んで、でも死んだって深雪に会えないのだ。会える保証なんて何処にも無い。永遠に損なわれてしまったのだ世界から、僕から。


 余りに優しくて、余りに苦しかった。目覚めれば無くなるものなんて、欲しくなかった。夢だと気づかずに一生揺蕩ってしまえればどれほど良かったろう。


 深雪は、もう居ない。

 わざわざ、見せなくてもいいのに。沢山考えて夢幻を見るほどに想って、思い出を、あったであろう光景を見るなんて余りにも。


 残酷でもう、嫌だ。そう思った。

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