第五話 生者(1)

 目の前を駆けていく深雪のその背を、僕はゆっくりと追いかけていた。

 こんな日くらいのんびり行けばいいのに。


 桜の花が粉雪のように緩々と舞う中、彼女の烏羽玉のような髪が踊るように風にはためき、くるりと回った。綺麗な髪だなあ、と思う。本当に、綺麗だ。心からそう思う。


 そんなこと、口にした事が何度あっただろう? お互いに、思い合って確かめるなんてしなくったって心の底から、しっかりと繋がっている。そんな気持ちに甘えていて、愛しくて、美しくて、可愛いと感じることを僕は何度口にしただろう?


 思い出せない。思い出せないんじゃないか。言わなかったんだな。恥ずかしくて、照れてしまって伝えるべきをちゃんと口にしていなかった。そうなんだろうな。


 授業中、シャーペンの頭で眉間をぐりぐりとやる仕草は少し抜けているなあと思って、その様が愛らしかった。

 不得手な卓球をやる時に、意気込みだけ万端で声出しも一端なのに、空ぶったり変な方向に飛ばしてしまうのも可愛いと思っていた。

 美術の授業で、黙々といつもの明るさが潜み、真剣にキャンバスへ向かうその横顔は真摯でまるで絵画のようで美しいと思った。

 映画を観るときに体をゆらゆらと揺らす仕草も、苦手な食べ物になると途端に箸が遅くなるのも、少しおっちょこちょいなのも、一緒に宿題をやると「休憩しよーよ」なんてすぐに口にしちゃうところも、何もかも愛していた。


 愛おしくて堪らなかった。


 丁字路の突き当たりで彼女が、ほら早くーと声を上げる。

 僕は深雪に追いつくと、一緒に道路を渡って公園へと足を運ぶ。


 あまり良くないよなぁとは思うのだけれど、この妙に面積ばかり広く、その癖遊具の少ない公園は多くの地元民からよく通り抜ける為に使われている。

 本来の公園として、遊んだり散歩だったりで扱われることはあまり無いように思う。朝早い時間にゲートボールを嗜むご老人方を見掛けはするから、学校に行っている間は存外利用者も多いのかもしれない。


 そんな近所の大きな公園を前にして、僕は足を止める。今朝方から、なにか胸の中にどうにもならない後悔の念のようなものが棘となって刺さっている気がするのだ。

 沢山の、すればよかったがずっと気を重くさせて、ずっと布団に引き篭もってしまいたい気になっていた。


 その嫌な気持ちが、この公園を前にして本領を発揮せんとばかりに蠢きだした。この公園は駄目だ。ここには居れない。通ることさえしてはならない……。そんな感情が僕を縛り付けてくる。


 僕のことなどお構いなしに、楽しげに僕に話しかけながら深雪が入っていくものだから、口から出そうな憂鬱をぐっと飲み込んで後に続いた。


 公園の木々は綺麗な花を咲かせていて、地面を隠さんとばかりにその花を降らしている。

 入ることを躊躇ったのが馬鹿みたいだ。こんなに綺麗なのに、何を嫌だと感じたのだろう?


「ねえ、今度お花見とかしようよ」

「いいけど、何処か遠く? 近場で?」

「皆んなで車乗ってがいいなあ。勿論二人でもオッケーだよ!」


 笑顔を振りまく深雪の姿はとても眩しくて、目を離したら見失ってしまいそうなほど儚い……。

 決して手放してはならないものだ。

 そう思って、深雪を見詰めて。その先に男が立ってこちらを見詰めている。春先で暖かなのに、フードを目深に被り僕達を見ている。いや、深雪を見ている。

 動悸が激しくなって、眩暈がする。

 大丈夫? と声を掛ける深雪の声も、目の前も全部ぼやけて判然としなくなって吐き気だけが僕を襲った。


「ううん、気にしないで早く、学校に行こう……」

 絞り出した声はひどく掠れて嗄れて耳に響いた。


 思わず眠たげな欠伸が出て、口を大きく開けて、ぎりと顎が音を立てた。

 学校は殆どやることも無く今後のスケジュールと挨拶だけで終わってしまい、どうにもやる気が出ない。

 深雪とは級友とのお喋りやら何やらで学校を出るタイミングズレてしまった。


 足早に歩けば駅の改札口で、深雪が僕を待っている。人通りが少ないのは時間が午後だからだろう。始まったばかりの新学期に、僕たちはいつもより早く帰宅の途についている。


 深雪は、改札の近くで肩に掛かるくらいまで伸びた髪の先を弄っている。部活で邪魔だからといつもは肩に掛かるまで伸ばさないでいたから、慣れないのだろうか。

 短いのと長いのどっちが好き? そんなことを訊かれたことを思い出す。あれは何時のことだっただろう? 中学の時だったか。それとも——


「ねー、帰ったらどうするん」


 帰ったら。深雪と、一緒に帰るのはいつものことで、それが僕の日常だった。部活動をしない僕は図書委員の仕事がある日は時間一杯、図書室で軽い雑務をしながら深雪を待っていた。自分の当番じゃない日でも、基本的に居座っていたものだから学年問わず図書室の人と割と認知されていたらしいのは、今となっては懐かしい。

 別に、待っててなんて言われたことはなかった。僕がそうしたくて、深雪を待ってた。一緒にいつも帰っていた。小学校からいつも、そうやって一緒に生きていた。


 小学校の頃なんて、皆んな少し後先を考えないものだし、面白いと思えばすぐに口にする生き物なわけだから、手を繋いで帰る僕らを揶揄われたこともあった。深雪は膨れっ面で怒っていた。深雪に、一緒に帰るの辞めよっかと切り出したら、膨れっ面がみるみる内に萎んで大泣きしたのを覚えている。


 ——やだっやだやだやだ! 一緒って言ったもん! 一緒にずっと、ずぅーっと一緒って言ったもん!


 そうやって、大泣きする深雪をどうしたらいいか分からなくて、深雪を守るつもりで口にしたのになんで泣いちゃうのか分からなくて。悲しそうに、弄られたことよりも傷ついたと言わんばかりに泣く深雪に僕も悲しくなって大声を上げて、二人で何が悲しいのかも分からないくらい泣きながら帰ったのだ。その時だって手は硬く繋いでいた。


 深雪の両親も、僕の両親もそんな僕等に戸惑ってほら家に入ろう、そう言ってそれぞれの家に連れて行こうとすると余計に泣きじゃくって。その日はどうにもならなくて、二人で抱き合って寝入ってしまった。


 嗚呼、馬鹿だったんだな小学生の僕は。


 ……そのまま、成長したかったな。馬鹿なんかじゃない。純粋だったんだ。そのままの僕で居たかった。あの頃の僕だったら、きっとその手を掴んで離さなかった。


「んー、どうしようね。午前で終わると持て余すよ」

 ふと、改札を通りながら思い出して、

「あっ深雪んところ、今日誰も居ないんでしょ? 母さんが昼ごはんウチで食べなーって言ってたよ」

「へへ、御相伴戴きます。そのまま、午後ローなんて観ていっても許されちゃう?」

「母さん今の昼ドラ観てたかな。まあ、大丈夫じゃん? 駄目だったらそっちの家で観ようよ」

「やー、楽しみだねえ。今日のご飯なんだろー。いつも美味しいからなぁ」


 ホームに降りて、時間を確認すると丁度良かったみたいだ。もう時期に電車がやってくる。


「今週の午後ローはなんだったか答えておくれ」

「今週? 深雪の方が確認してるじゃん。あー、イーストウッド特集?」

「違うよ! 私の感覚だとクリントさんは夏の方が多いイメージ!」

「それは夏休みで家によく居るからそう思うだけでは……?」


 与太話に興じながらやってきた電車に乗り込んで、空いた席に二人で並んで座る。

 立っている人は少なく、まばらに埋まった席はろくに埋まることなく電車は動き出す。


 がたん、ごとん。流れる景色を何度、深雪と見ただろう? 高校生活中だけでも車窓から見る世界は徐々に変わっていった。線路沿いにあった散髪屋は何時の間にか消えていて、今でもテナント募集の看板が寂しげに佇んでいる。二人で自転車を漕いで横を通り抜けた田んぼは今では一軒家がひしめいて。

 それでも、横を向けば変わらず深雪の顔があった。

 これが幸せだったんだと思う。

 これが、僕にとってのこの日常こそが掛け替えのないものだったんだ。


 今を大切に生きろ。

 なんでもない日々が幸せ。

 掛け替えのない日常を。


 そんなこと、もっと、どうしてちゃんと言ってくれなかったのだろう? よく歌われるような、有りがちでぞんざいに扱われてしまようなそんな使い古された言葉が、真実たり得るんだとどうして誰も言ってくれなかったんだろう? 掛け替えのない日々は、欠けてしまえば替えがないのだと、どうして誰も言ってくれなかったんだろう?


 滅茶苦茶な話だ。誰にも、非なんてない。ただ、僕が気付かなかっただけ。気づけなかっただけ。それだけだから。


 肩を揺らされて、何時の間にか閉じていた目を開く。


「着きますよー。朝早かったからって五分ちょいで良く寝れるなあ。私ともっと会話してこうぜ!」

 ぴょん、と立ち上がる深雪の放った言葉に痛みを覚える。もっと、会話したかった。後悔がないように、ありったっけ喉が枯れて声が出なくなるまで思いの丈を伝えるべきだった。

 声が出なくなれば、筆で書いて伝えれば良かった。方法なんて、その機会だって沢山あったのに。

 ああ、これが僕の後悔だ。

 すべきをしなかった、それが僕の後悔だ。果たさなかったことへの後悔が、僕の未練なんだ。それはもう、解消できない。だって、相手が居なくなってしまったから。

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