第四話 鏤骨(3)
痛む頭を振って、立ち上がって部屋の電気を点ける。
がんがんと痛む頭に辟易するが、痛みを感じると言うのは寧ろ正常に成りつつあるということだと思う。ご飯もろくすっぽ食べていないのに、体はしっかりと生きようとしている。動かす当人の意思などお構いなしだ。
パソコンの前に再びどかりと腰を下ろす。スリープしているパソコンを起動させようとして、もう少しだけ、目を閉じて休めと言わんばかりに痛む頭に根負けしてソファに背を預ける。
死にたい。言うのは簡単だよなあ、と思う。死にたくないというのは当然で、死にたいと言うのもまあ、当然の思想じゃないか。こんなに苦しい思いをしてまで生きなければいけないのなら、生まれる前に一言声を掛けて欲しかった。
あなたは、この世界に生まれて色んな出来事を経験して成長して、その中には辛くて挫けそうなこともあるけど、同時に抱え切れないくらい幸せがあるのよ。だから、さあこの世に生まれ落ちて。なんて、口にしてくれればよかったのだ。
そうしてもらえれば、辛いのも痛いのも嫌だから。幸せじゃ代替品にも出来ないし傷薬にはならないのだから。生まれてとか、生きてとか気軽に口にするべきじゃないんだな。
一度付いた傷は僕を一生涯苦しめ続けるのだ。忘れてしまえ? 忘れてしまえば、悔やむのだ。あれ程愛していた口にしたのに忘れるだなんて許されないのだ。忘れた己が許せず、それは新たな傷となって覚えていもいない大切な何かに狂っていくのだ。
ああ、なんと無情なんだろう!
産んで欲しいなんて頼んだことないのに! 産まれた以上生きなきゃいけないなんて苦痛じゃないか? 僕はよくもまあ、この歳まで欠陥のあるような体をぶら下げて生きてきたものだ!
じゃあ、死ねばいいなんて死にたいなんて。出来もしないのに、口にするなんてのも恥知らずだ。生きたくない。だけど、死にたくもない……僕は死にたくない。死んでしまいたいけど、心の底から消えてしまいたいと望むけど、死にたくないのだ。死んだら、どうなるんだろう。死んだら今以上に苦しくなるのではないか? 死んでしまったら後戻り出来ないのだ。出来ないからこそ、人間は空想の死後を思って、怖くないなんて嘯くのだ!
本当は怖い癖に恐ろしいから蓋をしているんだ! 嘘つきだ。偽善者共め!
深雪……君は、苦しんで死んだのかい? そうして、死んで訳もわからない真暗闇に放り出されて曖昧のままに、何も見えぬままにただ自我の消失を感じ取ったりするのだろうか。
ぱたりと、終わったのか? それなら、それならいいなあ。辛い思いをしたのなら何も無く消えてしまえていれば、いい。それは、それが幸せじゃないだろうか。
輪廻なんてもの存在しなければ良い。使い古さなければ回らない魂なら、そこまでしてこんな世界維持しなくていいのだ。そうまでして、深雪がまた何処かで生まれて、生きてその見知らぬ地を故郷そして育ち、様々なことを経験して何かしらの苦しみを味わうなら、終わってしまった方がいいのだ。
いつだって、一緒に居て、また出会って、歩み寄って、同じような思いをするのなら終わった方がいい。次は平気なんて誰も保証できないのだ。次はダメでも、その次が? 何度も繰り返して、そうする内に、深雪と幸せになることもあるだろうさ。その次は? 何もないのだ、何も、そんな曖昧でただ繰り返す、そんなもの無くていい……。
忘れそうなら、終わってしまった方がいい。忘れるなら忘れない内に、終えてしまった方がいい。
そうだよ。その方が幾らかマシだ。僕の人生に深雪は、いつも居て。居たのだ。喪って、こんなに自分でもどうかしてしまったと思うくらい狂ってしまった。すべきじゃないことをした。考えなんか纏まらなくて、同じことを、同じようなことを何度も繰り返し考えて。答えなんて出ないのに、ずっと考えて。
答えなんてないのだ。皆んな、内に秘めているだけなんだろう。何年も連れ添った妻や旦那を亡くして、独身を貫いた人や愛する家族を友人を恋人を喪った人達は、その喪失を埋めれなかったんじゃないか?
埋められないから、色々試したり、考えたり、余りに悲しくて苦しいから忘れてしまえ、そう思って生きて、結局忘れられなくて、誰にも見られない胸の中に、奥底に沈めてしまうんじゃないか?
生きていけないから。皆んな、そうやって折り合いをつけているんだ。きっと、それが普通なんだ。
死体を盗むように、人知れず連れ去った僕は——僕が、そうしていいのか? 同じように苦しみであろう家族が隣に住んでいるのだ。今まさに、悲嘆に暮れ娘を探して不安に震えているその横で、友人の家で、友人の息子が、実の息子のように接していたのにあろうことか愛娘の死体を連れ去った——
そんな人間が、世界中の何処でも有り得る悲劇に同じように立ち向かっていい訳がない。
——苦しむべきだ。誰よりも苦しんで、心が砕けそうなくらいの思いを抱くべきなのだ。
きっと耐えれなかった人は、その命を自ら絶ってしまう。そこまで苦しんで、狂ってしまったのだ。命を自分で終わらせねば堪えられないと狂う前に狂ってしまうのだ。
そして、それは僕に許されるべきじゃない。狂うのなら狂って狂いきるべきなのだ。誰からも石を投げられるべきなのだ。
深雪の遺体に、僕は何もしていない。恥ずべき、唾棄すべき冒涜はなにもしていない。いっそ、こうなるのなら奪えば良かった。深雪は僕を拒まなかったろう。無理に組み伏せてしまえば良かったのに。
そう、書いておくべきだろう。僅かでも、考えてしまった。思ってもいないことは口になんて出来ないんだから、僕はクズなんだ。盛ることを考えた畜生以下だ。犬だって死んだ犬を前にそんなこと考えやしない。だから、僕は人でさえない、ひとでなしなんだろう。
そういった、昨日今日と頭を巡った思考の全部を記すべきなんだ。そうして、事が露見してそれを読んだ両親や深雪の両親は酷く失望し怒り憎しみさえ抱くかも知れない、殺されるんじゃないか、それくらいの気迫でもって殴られたとしても父や母は止めるだろうか。止めずに悲しみに満ちた目で眺めるだけだろうか?
でも、そうでも書いておけばきっと、ちゃんと怒れるだろう。怒る理由を、傷ついて、その吐口に僕はなるべきなのだ。
だから、生きなきゃいけない。深雪は、嫌がるだろうな。両親のそんな姿見たくなかったろうから。もし、それで殺されそうになったら、そこで僕は一人居なくなればいいんだ。人知れず、何処かで山の中で野垂れ死ぬべきなのだ。
そんなことしたら、余計苦しんじゃうか。苦しんで悲しくて辛くて、そういった思いに潰されてしまうかも知れない。そうは、なって欲しくないなぁ……こういう厭な気持ちに惑わされるのは僕だけでいいのだ。
ああ、頭が痛いなあ。それに、眠くて堪らない。結構寝たと思うんだけどな。
ゆるゆると、右手を伸ばしてスマホを探る。手渡されたスマホを見て、深雪母の「なにか必要だったら早めに言うんだよ」というメッセージと、午後十七時過ぎであるのを確認して、視線を横にやった。
「よー、辛そうだね大丈夫?」屈み込んで、僕を見る深雪に、思わず微笑んだ。
「平気だよ。有り難う」
「ならよし。私はさあ、別に君のことを恨むとかそう言うふうには思っていないんだよ。苦しめー! とも言ってないでしょ。仮に私が君の妄想の産物だとしてさ、君の見た私の再現ならそれは私じゃないかな?」
それを否定されるのは、なんか嫌だよねえと口にする深雪を前にして。ああ、やっぱり、死んだんだなあなんて思いながら見つめて。
「ああ、やっぱり怒ってたんだ。怒りも、するか……」
死んでしまったんだ。そりゃ、そうだろう分かっていた。知っていた。認めたくなかったってだけで。
音もなく、横に現れた深雪はもうこの世に存在しない。
分かってるんだけどなあ。あんなに冷たい体で、生きているわけない。それなのに、どうして僕はたった一人の死を受け入れることが出来ないんだろう悼むことが出来ないんだろう。僕は、僕はどうして、こういう風に出来ているんだろう。
「君はさ、怒られたいのかい?」
そんな人居るわけない。怒られずに済むなら、それが一番に決まってる。それでも、自分が許せない何がしかを許すためには怒られなきゃいけないんじゃないか。だって、なんの罰も受けないなんてきっと間違っているのだ。
「なら、私が精一杯怒ってあげる。また、そうやって一人で苦しんでー! ってさ」
言葉を交わせば交わすほど、瞼が重くなってくる。深雪が何か、僕に言っている。また、手放されいく意識の中で、一つだけはっきり届いた言葉があった。
「……の約束は守って欲しいなぁ」
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