第13話~月詠六郎とラブ&ピース ―めでたし、最高に優美な人よ―
「――それで? 安部祐次はどうなったの?」
夏休みを翌週に控えた正午。蘆野河河川敷を愛犬、ウェルシュコーギーのパピーのリードを握った天海真実が、隣を歩く執事、月詠六郎に尋ねた。真夏の晴天だが、海からの柔らかい風が心地良い。
「こちらで手配したヘリとは別の、ミス・リッパーが用意していたヘリで逃亡しました。神部国際空港から先の足取りは不明です」
真夏でもスリーピーススーツの月詠は、定規のような背筋のまま返した。パピーがリードをぐいぐいと引き、真実を急かす。
「その、リッパーさんというのは、ひょっとして月詠さんのお知り合い?」
「年寄りの冷や水という奴ですね。彼女とは古い付き合いです。真琴さまはご存知ですが」
「私にはまあ、無縁な話よね。いいわよ、気にしないで。姉さんは私よりも頭が切れるし、商売柄、そういった事情にも詳しい必要があるんでしょうよ。具体的にそのリッパーさんというのは何者なのかしら? 訊いても安全な範囲で」
一足早く夏休みといった家族連れで今日も蘆野河河川敷は溢れていた。ドッグショーさながらもいつもの光景だ。
「リッパー、渾名らしいですが本名は聞いていません。一番新しい経歴はNSA、米国家安全保障局の上級工作員としてセルビアで安部祐次と接触ですが、その前は米国中央情報局、CIA幹部補佐です。その前が旧KGBが集まった無名組織の構成員で、出身は米軍海兵隊。少尉として国防総省直下の特殊任務に従事していたとも聞きました」
「それはまた、とんでもなく凄い話ね? アメリカ海兵隊の少尉さんが名立たる諜報機関を渡り歩いて、ひょっとして大統領直属のスペシャルエージェントだとかそんなかしら? ダブルオーセブンもビックリよね。そんな彼女とツーカーな月詠さんと姉さんにもビックリだけど」
「真琴さまからは事態の収拾を指示されていたのですが、彼女と加嶋さまがいらしたので」
「カシマ? あの、久作くんのガールフレンドの? 生粋の諜報員とその下で動いていたテロリストに、ミス桜桃だかの彼女? だから安部はホテルの屋上で悲惨な結末を迎えず済んだ、といったところかしら? まあ、その結果が彼にとって良いかどうかはまた別でしょうけど」
月詠が昨日夕方にホテル・スカイスクレイパーに向かったこと、真実の傍から離れた以後は姉の真琴の指示で動いていたことは承知していた。そうするように真実が月詠にお願いしたからだ。月詠が真琴の指示で動けば相手がテロリスト安部であっても無事では済まない。企業家として成功して実績のある姉の真琴は、真実と違って荒事にも精通している。隣を歩く執事がそんな真琴の後押しをするだけの経歴であることも薄々は知っている。
まさか生粋のスパイと知り合いだとは想像さえしていなかったが、そもそも真実は彼女の存在すら知らなかったので、月詠六郎、今は真実の執事という肩書きのロマンスグレーとの関係も知る由もない。
昨日の時点で真実が前村歩に対して出来ることは、身代金を用意することと、月詠を送り込むこと、これだけだった。
学園高等部一年の、チェリービーンズで同席したなかなかのハンサムが無謀に聞こえる作戦を実行しようとする段階で、警察官である神和や乾の手に余るような事態を想定して、その後始末役として月詠を真琴の指揮下に置いた。最終的に血生臭い仕事をお願いするかもしれないという覚悟はあったが、それはホテル屋上に待機していたらしい加嶋玲子、速河久作のガールフレンドだと聞かされている彼女のお陰で回避されたようだった。
リッパーだかというスパイが後始末を神和に一旦は押し付けて、しかし屋上でレイコと月詠に遭遇し、安部を引き取った、そういう事情だろう。聞いた経歴の彼女が安部をどうするかはもう想像するだけだが、再び自分の耳にその名前が届かないだろうとは容易に予想できる。
学園で噂の加嶋玲子は安部にとっての守護天使、アークエンジェルだったようだが、もう一人のアークエンジェル、リッパーが文字通りの守護天使だとしても、誰にとってのかは定かではなく、少なくとも安部祐次のアークエンジェルではなさそうだ。ことごとく慈悲から見放された安部祐次、そう考えると犯罪者ながら少しは同情も沸く。守護天使か鎌を振るう死神かはともかく、安部はリッパーと共にホテルを去り、空港から先の足取りは不明。阿久津零次の渾名ではないが、ジョン・ドゥー、身元不明男性死体さながらだ。
「阿久津先生とミコたちは?」
「阿久津零次は今回の主犯として通常通りに逮捕され、聴取が終われば送検されて裁判待ちですが、有罪は確定でしょう。神和さまは捜査中に怪我をされたそうですが、処分は県警九課の永山課長さまの裁量の範疇だそうです。公文書としては神和さまが警備部の備品を持ち出したことに対する始末書と、刑事部捜査一課が誘拐犯罪を解決しつつノワールと呼ばれる組織を一斉検挙したといった具合です。警察庁には影山さまが事件を処理したと報告されて、警視庁のSATは待機から通常に戻っています。この事案は今後の警察庁の誘拐犯罪に対する資料と、SATの運用データ収集に利用されるようです。警視庁公安部はノワールへの捜査協力という名目でしたが、サミーさまは警視庁に戻ったそうです。中国公安のリーさまは引き続き神和さまらと一緒だとか」
すらすらと舞台科白のように月詠が報告する。真夏の炎天下でも汗一つない月詠と、荒い息遣いのパピーの落差が真実には面白かった。
「鉄砲だとかバンバン撃ったんでしょうに、始末書一枚だなんて、永山さんも影山さんも器量が大きいというか、大雑把というか。あれだけの規模ならもう警察の面子なんて関係ないでしょうに、キッチリ落とす辺りがさすがのお二人ってところね。公式にはスムースに解決した事件で、ちょっとした手柄にもなってるなんて、永山さんも影山さんも策士よねー。警察庁も県警も九課も、誰も処分されずにミコの始末書一枚って、組織として相当よね? 当然、速河くんなんかは無関係ってことになってるんでしょう?」
「はい。いちおう参考人として露草さまが九課の聴取を受けたそうですが、担当したのは旦那さまと永山さまですから、形だけです。後日報告書をとお願いしているので数日中に真実さまの手元にも届くかと」
月詠の説明に、真実はぷっ、と吹き出した。
「自分の妻の聴取なんて、それこそ形だけでしょうに。まあ目は通すけれど、形式的なものでしょうね。アクツエージェンスは?」
「アフリカ大陸での活動は止まっています。いずれ撤退でしょう。体力はあるのでボリビアから巻き返すかもしれませんが、天海グループと衝突する場面はもうないでしょう」
「でしょうね。阿久津代表は紳士ですもの。ご子息の失態をそのまま企業ダメージにするような能無しでもない。南米からカナダ辺りに市場を移す、そんなところでしょうよ。前村さんの娘さん、歩さんは?」
「問題ないと聞いてます。葉月巧美さまに比べれば大したことはない、と鳳さまから聞きました。速河さまが若干疲労しているようですが、神和さまの負傷に比べれば回復は早いと、こちらも鳳さまから」
「蘭子さんの診断なら間違いないでしょうね。歩さんも巧美さんも、速河くんも若いから、夏休みに入るころには万全なんじゃない? ミコはしばらくおとなしくしていればいいのよ。彼女、ずーっと走り回って殆ど休暇も取ってないようだから、今のうちに静養すればいいのよ。ホテルの修繕費を天海で負担というの、姉さんは?」
「全額、天海ジャパンで負担するそうです。警察庁は事態の全容を把握していませんし、影山さまに貸しを作りたくない、そんなことをおっしゃっていました」
「姉さんは変わらずね。慈善事業じゃあないのに打算的というのか。これで警察庁へのパイプが出来た、なーんて喜んでるかもね。そのうちAMAMIロゴの入ったパトカーでも見かけるかも、変な話」
「ちなみに、神和さまの車の修理費は自己負担だそうです」
ぷっ、と再び吹き出した。神和の自慢の車がどの程度破損しているかは知らないが、泣きっ面に蜂ではないが、始末書の後に車の修理請求書で、神和はしばらくおとなしくしているだろう。チェリービーンズで一杯おごってやれば機嫌は少しくらいマシになるかもしれない。
「他は、速河さまらが明晩、アクロスにあるスパゲティ店で食事会を開くらしいので、僭越ですが私のポケットマネーから幾らか出しておきました」
「あら? それはどうも。アクロスのって、ひょっとしてデリゾイゾかしら? あそこのパスタは美味しいわよね。天海ジャパン傘下であれだけのパスタを出す店はないわよ。蘭子さんと一緒に食べたのは随分と前だから、今度は相模さんかミコでも誘ってみようかな? 葵は旦那とイチャついてればいいのよ。教え子にあんな二枚目を揃えて親密で、全く羨ましい限り」
「真実さまはその学園の理事長ですが?」
「……そうよね? 葵と同じくらい速河くんや須賀くん、バスケ部の方城くんと親しくしても別におかしくないわよね? ついでにアークエンジェルのレイコさん、噂のリカちゃん軍団とやらと親密にしてもいいわよね。アヤちゃん、アメリカ国籍のままの彼女はパソコンに詳しいらしいから、そんな話も出来るでしょうし、個人的にはレイコさん、速河くんのガールフレンドで安部祐次の命の恩人でもある彼女とはゆっくりとお話してみたいし……リッパーさんだっけ? そちらと話すなんてのは無理かしら?」
鼻歌交じりで軽く尋ねた真実に対して月詠は、文書でなら可能かも、そう返した。しかし提案した真実にしたところでスパイらしき彼女との間に話題などはない。むしろ姉の真琴のほうが話が合うかもしれない。要するにそういう人種だと、そういうことだ。
愛犬パピーがあまりにもリードを引くので、真実は手を離した。途端に自由になったパピーが跳ねるように芝生を蹴って駆け回る。他所の家族の大型犬に近寄ったり、川面を鼻で突いたりと随分と忙しいようだった。フリスビーは車、アキュラZDXの後部で今は手元にはない。口笛で合図を送るとパピーは駆けて足元に戻り、しばらくうろうろしてからまた走り出す。まるでミコのようだ、そんなことを思いつつ天海真実は毎度の鼻歌、ラブ&ピースで月詠と並んで散歩を続けた。
正午、蘆野河河川敷。
夏休みを翌週に控えた真夏の晴天は、暗い犯罪などなかったかのように心地良い風を海から運び、真実や月詠、パピーを撫でるように通り過ぎる。ノワール、フランス語で黒を示す犯罪組織やその画策などそもそもなかったような、絶好の散歩日和である。
キャン!
パピーが小さく吼えて真実を促す。しばらく考えてから真実は、パピー目掛けて駆け出した。
オールバックに口髭のバーテンダーは、客のうち、お気に入りだと彼が決めた人物には決まって同じ質問をしていた。
酷く簡潔なその問い「人生とは?」に対して、濃紺のロングヘアにシルバーメタルフレーム眼鏡の妖しい女性は「煙草と酒と仕事とバイク」と応え、艶のあるセミロングで清楚な着衣の理知的な女性は「お金とお散歩とドライブ」と応え、ロゴ入りの黒いベースボールキャップが常の小柄で活発な女性は「法と秩序に支えられた、つつましい暮らし」と返した。ランチタイムに顔を出すまだ学生の若い三人の男子の一人、長身で切れ長な顔付きの彼は「トレーニングと勝利」、その旧友である大柄の痩躯は「真理の追究」と応えて、二枚目と三枚目の中間のような二人のクラスメイトは「自由と平和と平凡と、ささやかな正義」と返した。それを訊いたバーテンダーはこうまとめた。
「人生とは、煙草と酒とバイクと、金と散歩とドライブと、法と秩序に支えられたつつましい暮らしと、トレーニングと勝利と真理の追究と、自由と平和と平凡と、ささやかな正義である」
男女合計六人の言葉を並べただけのそれはしかし、年配のバーテンダーを満足させた。バーテンダーは人生とは、禁煙禁酒と自転車と、貧困と徒歩と、無法と怠惰と敗北と無知と、強制と危険と非現実と、圧倒的な悪なのだろうと、反語を並べてみた。アコースティックギター片手にこれを詩にでもすればそれらしく聴こえるかも知れないとも思ったが、残念ながら年配のバーテンダーには数百の酒を区別してカクテルをダンスの如くシェイクする能力はあっても、弦を爪弾いたり気の利いた詩を生むほどの才はなかった。
彼のこれまでの人生はどちらかと言えば平穏で、才能と幾らかのツキに恵まれてはいたし親しい知り合いも多かったが、特別にドラマチックということはなく、毎度の問いをした相手を少し羨ましく思った。そして、こちらも毎度の科白を笑顔で付け加えて、オーダーされた飲み物をバーカウンターに滑らせた。
「若いうちは旅をしましょう」
――ミラージュファイト・ノワール おわり
ミラージュファイト・ノワール @misaki21
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