第12話~前村歩と全世界の支配者なる運命の女神(後編) ―寛大なるアフロディーテに栄光あれ―

 笑顔を崩さずに安部祐次が続ける。

「ミス・ホークアイのそれは俺に対するチェックメイトで、彼女、リッパーにではない? さて、俺にはそれは重要なように聞こえないんだが?」

「神和さんではないですけど、それがアナタのミスですね。リッパーさん、応えてくれなくてもいいですけど、アナタはNSAの人ではありませんよね?」

「イエス」

 返答があったことに久作は少し驚いたが、内容が想像の範囲内だったので表情には出なかった。代わりに安部祐次があからさまに驚いている。リッパーという女性と久作を交互に見て、それまでの涼しい顔が途端に険しくなっている。

「何? どういうことだ! お前はNSAの工作員で! セルビアで俺をレッドスターに潜入させただろう!」

 早口で言う安部に対して、リッパー、アジア系に見える黒髪は笑みで返した。

「……騙した? いや! しかし! 資金も装備も兵隊もきっちり受け取って! 俺はレッドスターと共同でエルサレム入りして、ユダ系のゲリラを……お前! お前は一体誰なんだ!」

 拳銃を女性に向けて怒鳴る安部だが、リッパーと呼ばれた女性は久作に向けた笑みを安部に向けただけで返答しようとしない。

「安部さん、つまりそういうことです。なに、簡単な話ですよ。仮にぼくがNSAだかで指令する立場にあるなら、末端の兵士に作戦は与えても、その作戦がどういう目的なのかまでは説明しない。これは兵が捕虜になったりして作戦の全貌が漏れることを防ぐ、当然の処置だ。そして、ぼくがもっと上の立場なら、自分がNSAだとかも説明はしない。安部さんが思い通りに動くなら肩書きや動機は何でもいいんですよ。古今東西、軍人は生粋のプラグマティスト、実利主義者で成果しか見ないものですから。作戦を遂行可能な錬度の兵士を準備して、今時ならそれ自体が政治的取り引きの材料の一つでもある」

 久作の科白に、安部は顔色を青くさせている。リッパーという女性からの笑顔もそれを増長させる。

「NSAのその思惑は兵士に説明されることなく、場合によって末端は切り捨てる。元自衛官なら解るでしょう? 兵士というのは基本的に消耗品で、自発的に動いては使い物にならない。そうなった場合は切り捨てる。そして、その判断は最前線からの情報もしくは、最前線にいる直系の部下がする。日本で誘拐を画策した辺りで、安部さん、アナタはもう切り捨てられていたんですよ。だってそうでしょう? 乾警部補が言った通り、こんな派手で目立つ行為を、NSAだかの諜報機関がする筈がない。それでも武器や兵隊、資金を用意されたのは、そんな勝手をする安部さんの動きも沢山ある作戦に有効かもしれない、そんな打算だ」

 考えながら喋ることで久作は、頭の中のショートが復旧されるようだった。思考は更に加速する。

「でも、目の前に武装した警察官がいて兵隊は倒されて、別で警察官もいるこんな状況は、NSAもCIAも関与を認めない。そんなことをすれば今までの秘密隠密行動が台無しだ。日本政府ともややこしくなる。だったら末端の兵士、安部さんを含む全員を切り捨てて自分らとは無関係だと公式発表すればそれでお仕舞いだ。その判断を、そこのリッパーさん、彼女がやった。ホークアイが言っていたでしょう? 補給ルートを寸断された兵士はもう兵士じゃあないと。強襲で部下を失って撤退ルートも潰されて増援もない。対するこちらは県警からの増援、警視庁SATなんてのもある。マトモなNSA職員ならそんな状況の部下は切り捨てる。補充はいくらでも可能でそもそもが非公式の作戦と部隊だ」

 安部が、ありえない、そんな表情で久作を睨みつつ銃を構えるが、久作は淡々と続ける。時折、リッパーという女性を眺めつつ。

「切り捨てるのに躊躇なんてない。ついでに始末してくれ、そう思うのが道理でしょう? 逮捕されれば送検されて、政治的圧力は一切なくICPOに引き渡されて、途中で口封じに始末されるかそのまま連邦刑務所。ICPOではなくNSAが逮捕すれば、これはもうNSAの手柄だ。国際使命手配テロリストを諜報機関であるNSAが逮捕なら株も上がる。放置していれば敵対する組織、例えばCIA辺りからスイーパーが送り込まれて始末される。末端とは言えNSAの作戦行動を立証できる証人ですから、NSAにとっては厄介だしCIAにしてもNSAとのやり取りを暴露されるネタは潰したい。KGB崩れからすれば始末することは手柄で、ひょっとするとFSB、ロシア連邦保安庁に抜擢なんてのも夢じゃあない。隣のご老人は見たところアジア系ですが、もしかして蛇尾、スネークテイルと呼ばれている組織からの助っ人ですか? 蛇尾は中国政府との関与もある組織だから、米国NSA工作員は始末したいでしょうね。安部さん? アナタは両脇の二人が何者なのか、ご存知ですか? ぼくら、神和さんを含めたぼくらリカちゃん軍団と安部軍団の違いは、まさしくここです」

 須賀とリカを見る。須賀は当然という風に頷いていて、リカは解らないながら同意、そんな様子だった。神和は呆けた顔を久作に向けている。露草は普段通り、我関せずと煙草を吹いていた。

「バカな! 俺を切り捨てる? レッドスターの幹部でノワールの幹部で、ノエルとのパイプまである、エルサレムの一大勢力の俺を?」

 安部祐次の科白は久作と、ウルフシャギーのリッパー、向かって右で沈黙するアジア系の初老にで、サングラスを忙しく泳がせている。

「だからでしょう? 世界規模で監視されている幾つもの組織とパイプがあるというのは、内情に詳しいということで、その組織のバックからすれば、余計なことは喋るな、そう思うでしょう。一つ助言すると、安部さん、アナタはここで逮捕されるほうが余程安全だ。神和さんに逮捕されれば、少なくとも日本警察の保護下だけど、神和さんの前から消えるというのは同時に、複数の大きな組織に狙われるという意味でもある。どちらを選ぶも自由ですけど、案外、選ぶ暇もなく消されるかもしれませんね。ぼくがNSAの幹部ならまずはそうしますよ」

「要するにだ!」

 天井スピーカからホークアイ、アヤの声が響いた。

「安部祐次! お前はデカいバックを持ってるから自信満々だったんだろうけど、NSAとかCIA、FSBとか中国政府ってのは、情報管理に関しては徹底してんだよ! そもそもNSAに引き抜かれた、その時点で相手を疑うべきだったのにな! エシュロンなんて非公式の、NSAが認めてない通信傍受システムから立案された作戦なんて、とんでもなく胡散臭いってことに気付けよ、バーカ! 隣の女はたぶんラングレー出身で、アンタをずっと監視してるんだよ。ついでにスイーパー、始末係かもな。このホークアイ様の組む作戦はいつでもパーフェクト! オーマイガッ! でチェックメイトだ!」

「ラングレー? リッパー! 貴様! CIAか!」

 ウィルディ・マグを向けて阿部はレイバングラスで睨むが、リッパーは笑顔で柔らかく返す。声色は内容とは反対に澄んだものだった。

「ミスター・アベ? USAにはCIAやNSA以外にも沢山の組織があるのよ? 私の素性なんて、アナタには関係ないでしょ? 武器や資金を欲しがったから提供して、ねだるからノエルや蛇尾とのコネクションも作ってあげた。最初の予定通り、レッドスターと一緒に嘆きの壁を占拠してくれれば足りてたのに、帰国してチンピラ風情とあれこれやるものだから段取りの調整が大変だったけど、後始末はこの国のポリスに任せることにするわ」

 くすり、小さい笑顔は神和彌子に向けられたものだった。一時は魂が抜けたような表情だった神和が久作の科白と共に元通りになり、リッパーの笑顔ですっかり復活した。リッパーに笑顔を返した神和はこほん、と一つ咳払いして、再び怒気と覇気を放つ。

「改めて! 安部祐次! アンダーアーレスト! テメーを逮捕だ! 罪状は、カンナギ法違反! このあたしが法律だ! 抵抗すれば射殺して死体袋ごと送検してやる! デッド・オア・アライブ! あたしはどっちでもいいぞ? さ迷える紅い弾丸を散々バカにしやがって! このクソチキンめ!」

「自分が法律て、何の映画やねん。やっぱこいつ、アホやわ」

「それは俺が保障しますよ、露草のべっぴんな奥さん」

 煙草を咥えた露草がぼそりと付け足し、おそらくこちらも煙草片手であろう通信の乾警部補が続いた。両手のマシンピストルを再び安部祐次に向けて構え、神和は大きな両目で安部を睨む。対する安部祐次はそれまででは想像さえ出来ない劣勢に慌てているらしく、ソファから飛び跳ねるように立ち上がったが、拳銃はリッパー、久作、神和、初老の老人と照準が定まらないようだ。久作の説明とリッパーを名乗る女性からのトドメの科白で安部は、巨大なバックを持つ工作員から一転、県警管轄内で発生した誘拐事件の犯罪者となり、周囲は敵だらけで、誰が味方で信頼出来るのかさえ不明になっている。

「王手、いや、チェックメイトだったな。拘置所か死体安置所の居心地でも後で聞かせてもらうかな?」

 部屋の入り口に立つ須賀がポツリと呟いた。そこに立つことで阿部の退路の一つを封じていると、警棒を握っていることから解る。どういう状況であれ、須賀恭介は無駄な行動は一切しない男なのだ。

「その声! 須賀恭介か! お前は?」

「やれやれ、錯乱しているのか? 元軍曹の安部さん? 俺はアナタと交渉した際にきっちりと忠告したはずだ。イーグルサムを相手にすると状況は悪化して結果は最悪になる、とな。これも繰り返したが、現金要求だけならここまで大袈裟にはならなかったのに、アナタはセルゲイ・ナジッチという名を出した。そこから速河が言ったような裏事情に繋がるのはつまり、最悪の結果というまさにそれだ。孤立した兵士は兵士ではなく、バックボーンだと思っていたそれが巨大であればあるほど命取りだと気付かない。元軍曹、アナタはとんでもない間抜けだ。希代のエンターテインメントも顔負けの大した道化っぷりだ。路地裏で背中から刺されるのがお似合いな、哀れなエンターテイナーさ。惨めにあがくも良し、神和巡査部長に保護してもらうも良し、自由にすればいい。アナタが行使出来るおそらく最後の、唯一の権利だ」

 文字通り吐き捨てるように須賀が言い、安部はレイバングラスを掴んで床に叩き付けた。写真資料よりも老けた、この数分で更に年を取ったような安部祐次の左目が久作を睨んでいる。右目はあらぬ方向を向いていた。右目の上、眉毛に小さな傷があり、右目は斜眼(しゃがん)だった。それが先天性でないことは資料から解る。どこかでの戦闘によるものか、事故か何かかは解らないが、視点の定まらない右目は安部の心情そのもののようだ。

「この右目は! 俺が兵士である証だ! 街を移るたびに不気味だと言われるこの目を、仲間は似合っている、そう言った! 連中はとっくに死んだが、俺が彼らの代理人だ! NSAが俺を利用するなら、俺もNSAを利用するのさ! ノワール、この連中も同じだ! 阿久津の提案は俺のバックを利用したものだが、それでいいのさ! 俺も阿久津を利用して、お互いにそれで良しとした! 警察を巻き込んだのはそこから先がこの国にはないからで、NSAに対する俺の保険でもある! 一国の警察組織と対等以上に渡り合えるというこの俺に余計なことはするな、とな! リッパー! お前がCIAでも俺はいいさ! 利用した挙句に使い捨てるのなら、俺は別の組織と手を組むだけだ!」

 拳銃をリッパーに向けて怒鳴るような安部は、変わらずの笑顔を返すリッパーを左で睨んでいる。ここまで追い込まれた人間をかくまう組織などチンピラレベルでももうない。安部にはそういった判断も出来ないのか、自分には強大な力があるように言う。しかし実際は手にした拳銃、ウィルディ・マグが一挺、これくらいだった。

 パパン! 神和の、MP5から持ち替えたガバメントが安部の右手、拳銃を持つ腕を撃った。肘と手首を抜かれた安部は拳銃を落とし、神和は照準を続ける。

「トリガー指が動いたから撃ったぞ? 警告はしてたしな。そんなゲテモノ大口径を至近距離で女性に向けるな。撃たれたら吹っ飛ぶだろうが」

「サンキュー、オフィサーサージェント」

 囁くようなリッパーの声はガバメントの残響で掻き消される。どうにか聴き取った神和は笑顔で返し、そのまま背中を向けるリッパーは無視した。パンプスにチノパンのリッパーは隣のロイヤルスイートに繋がる穴のある壁へ数歩歩いてから止まり、振り返って赤いフレームの眼鏡を久作に向けた。

「ハイ、ボーイ、ミスター・ハヤカワ。アナタはもしかすると、私にとってもボギーワンかしら?」

「まあ、そんなところでしょう。でも、不明勢力だから全てなぎ倒すなんて真似は、賢くないでしょう? たまたまIFF(敵味方識別装置)が故障しているだけ、なんてことも、まあ現実ではあるでしょうしね」

 同じく笑顔で久作は返し、リッパーはそれを聞いて確かめるように眼を閉じ、再び背を向けて隣のロイヤルスイートに続く壁の穴へと消えた。またどこかで会う、そんな予感を抱きつつ久作は彼女を見送った。


 これでようやく終わり、そう思った久作だが、加速したままの脳はまだ警報を鳴らしている。

 銃弾を受けた安部祐次は具体的な障害ではないだろうが、頭の中にビービーと警報が響いている。終わりに近いが、まだだと頭が言っている。阿久津零次、西洋史教師は露草によって戦闘不能になっていて、ウルフシャギーで国籍不明の女性も消えた。須賀が戻り用心棒らしき黒人の一人は倒されて、もう一人はリーが相手をしているのなら問題ない。

 と、ここでずっと安部祐次の隣で沈黙していた初老の男性と目が合った。薄い頭と対照的な髭は黒く、こちらはアジア系、中国人か日本人かだが、眼光が尋常ではない。ナイフのように鋭くて大砲のような威圧感だ。神和彌子と変わらない小柄だが全身から覇気が満ちている。見た限りで武器はないが、両手両足が武器なのだろうと一目で解る。先刻までは気配を消していたので無視だったが、安部が腕を撃たれた直後から指向性の怒気を久作に向けている。神和はまだ気付いていないようだが、須賀がそれを察知したらしい。

「速河、かのご老人はどうやら安部氏の最後の切り札らしい。外にいた二人も大したものだったが、こちらはどうも格が違うようだ。お前にこんな言葉は無意味だろうが、いちおう、侮るなよ」

 乾警部補のようにボソボソと呟く須賀。それに呼応するように安部が半笑いで叫んだ。

「は! ははは! 俺は手札を全て晒すような間抜けじゃあないのさ! そしてだ! 俺は負ける戦はしないのが流儀だ!」

「やれやれ。阿部氏は自信たっぷりで切り札を出すつもりのようだ。これは阿久津零次、そこに転がっている彼に言おうと思っていたんだが、アナタ方の計画は六部殺しというあれそのものだ」

 安部の叫びと噛み合わない須賀の科白は、久作が構えなりを取れる時間を稼ぐものだった。久作の使う我流の格闘技にそういう間が必要なことを、何度か一緒に戦った須賀や方城は知っている。

「ロクブコロシ? ネゴシエイターの須賀くん? 俺を混乱させようとかそういう算段かい?」

「これは、驚いた」

 言葉通りにゼスチャーして須賀が返し、続ける。

「日本国籍で自衛官でもあった成人男性が、六部殺し、この有名な民話を知らないとは。もう半分、夢十夜、持田の百姓と亜種が多用で、落語の演目になったり文豪がネタにまでするほどの民話なんだが?」

 語尾はリカに向けているらしいが、リカも、隣の前村歩もぽかんとしていた。須賀はやれやれ、と溜息半分だった。

「六部、正確には六十六部、これは六十六箇所を巡礼する僧のことで、この僧に一拍の宿を提供した百姓夫婦が僧の金を奪って殺し、以後、裕福を続ける。夫婦の間に出来た子供が先天性の障害だったり奇行を繰り返したりで、ある晩、この子供がこう言うんだ。お前らに殺されたのもこんな夜だったよな? とな。つまり、この子供というのは六部の生まれ変わりであった、という話だ。その一言で夫婦が死んだり、途端に貧しくなるなどバリエーションは豊富だが、詳細は省いたがこんな具合さ、理解したか?」

 須賀が問うが、安部は笑顔を止めたまま無言だった。

「まったく面倒な奴だな。日本語が解らないのか? この六部殺しという民話はな、生まれ変わりからの復讐の怪談、ではない。因果応報とも少し違う。悪銭身に付かず、というあれさ。まっとうでない方法で得た金はいずれ失い、相応の報いを伴うという教訓だ。阿久津零次と結託した女子高生誘拐による身代金要求などな、たとえ成功したとしてもいずれ全てを失い、とんでもないしっぺ返しに会うということさ。実際、阿久津零次はご覧の通りだし、軍曹殿も似たようなものだ。安部祐次、アナタと阿久津はまさしく六部殺しの百姓夫婦そのものだ」

 須賀が言い終わると、安部は苦虫を潰したような表情で左目で睨み返してきた。下がったままの右目が何を見ているのかは定かではない。

「そうかい。ご丁寧な演説に感謝するよ。しかしな、阿久津ではないが、まっとうではない、という判断を誰がする? その六部だかの百姓が明日に困るほどに貧しいのなら、その話の前半はあっても不思議でないだろう?」

「だから貴様は間抜けなんだ。格言や教訓というのはそのメッセージが重要であって、筋書きに文句を言うなんてのは小学生だ。そんな頭脳でよくもまあ今日まで生き残れたものだ。その点には拍手だが、黒幕らしき彼女が消えたのは案外、そんな間抜けと肩を並べる馬鹿馬鹿しさに気付いたからかもな」

 モノでも見るような須賀の視線は、もはや安部をテロリストや犯罪者、元軍人とすら思っていないようだった。

「須賀くんがインテリなのは解ったが、俺はどんな状況からでも巻き返す、それくらいの準備は常にしてあるさ。ミスター・チェン! エクスターミネイション!」

 安部の指示で初老、ミスター・チェンと呼ばれた小柄な男性が足音もなく迫ってくる。須賀が用意した時間で準備を整えていた久作の思考は加速を続ける。警報が鳴り、安部の科白をリピートする。エクスターミネイション……皆殺し。

 神和がガバメントを構えて警告する、よりも早く、初老から黒い蹴りが出た。回し蹴りの軌道だがとんでもない速さだ。ラピッドファイヤーことリー捜査官に匹敵するその蹴りで神和のガバメントはいとも簡単に手を離れた。神和はバックステップしつつ腰から警棒を抜く。が、伸縮警棒を伸ばす動作を続く蹴りで弾かれて、警棒はくるくると回転しつつ応接セットにあるモニターに突き刺さった。

 小柄な体躯を回転させた連続の回し蹴り、弾丸のようなそれは神和の頭を狙って飛び、神和は右腕でそれをどうにか止める。ドンと鈍い音がした。骨がやられたのは確実だ。右腕でガードしたが体はそのまま左に吹き飛び、応接ソファの一つに衝突する。神和はカリの使い手らしいが、それを披露する暇もないほどの回し蹴りをチェンという初老は繰り出した。ガード出来たのは神和の動体視力が故だろうが蹴りの威力がとんでもなく、反撃する隙もなくガードごと吹き飛ばされた。

 リカと前村歩は後方、ベッド側に退避していて、露草は阿久津零次の横で煙草を吹かしている。安部が何かを叫んでいるが久作の加速した、限界速度に達した脳には届いていない。ミスター・チェン、おそらくマーシャルアーツ、中国拳法使いであろう初老が自分を狙っているのか須賀を狙っているのかは不明だが、二人を睨む位置からどんどん距離を詰めてくる。足音はなく、姿勢は低く、体重を腰に乗せている。どの姿勢からでもあの猛速度の蹴りを出せるのだろう。

 迫ったチェンはローキック位置から足を振り上げた。円軌道のそれは久作の頭を狙っている。逮捕術やフィリピン武術のカリを使う神和彌子をガードごと一撃で吹き飛ばした左足は、オーバーコンセントレイション状態であってもブレていて、頭を狙っていることしか解らない。かわせる距離でもない。ならば防御だが、神和を吹き飛ばすほどの重い蹴りはマトモに貰うとそれだけでダメージだ。ここで自分がダメージで動けなくなると、凶暴なチェンと負傷した、大口径の銃を持つ安部祐次に須賀一人で対処しなくてはならない。神和は応接ソファに埋まるようで回復に時間がかかるだろうし、リカと前村歩、露草が危険になる。大柄なキックボクサーを相手にした須賀を更に酷使するのは得策ではなく、須賀にはロビーで待機している方城と一緒に撤退時のルート確保と護衛をやってもらいたい。そのために戦力になる方城がテールガン、しんがりに配置、温存されてもいる。

 チェンの左足の重たい蹴りを防御ではなく、打撃で迎撃する。軌道は早くて見えないが着弾位置は解る。ここに左掌を、化勁(かけい)を撃ち込む。気を練った勁(けい)、これが自分の最大の、そして唯一の特技だ。八極拳に限らず勁を防御として使うのが化勁で、チェンの重たくて早い蹴りの軌道を打撃で変える。撃ち出した掌に感触があったが恐ろしく重たい蹴りは殆ど軌道が変わらず、しかしどうにか鼻を掠める程度まで捻じ曲げた。

 バン! 瞬間的な超集中力が弾けて、久作の目の前がスパークした。運動量は少ないが勁、全身の気を左掌に集めたので体力の消耗が半端ではなく、また、オーバーコンセントレイションを更に加速させたので脳処理が全く追い付かない。焼き付きのような視界、一発の掌底(しょうてい)で何もかもを殆ど使い果たした。

 ミスター・チェンの表情が見えた。変わらず怒気を放っているが、困惑している様子もある。それは当然だろう。自慢の蹴り、武装した警官でカリ使いの神和すら一撃の蹴りを、ただの高校生が打撃でかわしたのだ。だが、その戸惑いの時間は気を練る隙をこちらに与える。方城でもあるまいし、こんな真似は体が追い付かない。一度の防御でこれだ。また防御すればその場で気絶しても不思議ではない。だが、ここで気を失うわけにはいかない。須賀が控えてるとはいえ、このミスター・チェンはこちらで対処しておく必要がある。安部や阿久津は神和や乾警部補に任せればいいが、こんな凶暴な相手に拳銃は無意味だ。方城が、リー捜査官は拳銃弾をかわしたといっていたが、眼前の初老もそれくらいの真似はするだろう。

「加速!」

 次で決める!

 重心を落として左前に構える。人気3D格闘ゲーム「ミラージュファイト」のキャラクター、八極拳使いのカラミティ・ジェーンの構えだ。アヤはミラージュ2をやり込んで続編の3、夏休みと同時発売のそれを待ち遠しいらしいが、ミラージュ1を堪能して2は少しだけなので、カラミティ・ジェーンの追加技は知らない。知らないがそもそもが二十以上の技を持つので、とりあえずこの局面には対応出来るだろう。

 ミスター・チェンの右足が床から浮く、と同時に更に加速! こんな時だ、脳が焼き切れるくらいは覚悟だ。

 思考の限界速度、光速に達した瞬間、チェンの右足がくっきりと見えた。体格差で下から蹴り上げる格好のチェンは、蹴り足でこちらの顎を狙っている。空手の蹴りとはモーションが全く違う。体重移動はあるが上体が殆ど動いていない。蹴り上げた後に拳の打撃を入れる、そんな姿勢だ。重心を落としたまま左足を一歩、絨毯のフロアに渾身で落とす。震脚(しんきゃく)は八極拳の基本で、このエネルギーを全て左半身に集める。同時に気を更に練る。勁による攻撃が、八極拳の真髄である発勁(はっけい)だ。

 チェンの右蹴りに大して左構え。左の脚震からもう一歩、右の震脚。構えが右に変わり、チェンの蹴りが迫る。右構えになって二度の脚震と勁の練りを右拳に集める。空手やボクシングのように拳を鍛えるでもないので、掌底。右足から腰、右肩から腕を伝わって体重の全てと勁が右の掌底に集中する。左から右に構えた勢いのまま、チェンの蹴りよりも速い右掌底を突き出す。狙いは顎。チェンの右手が邪魔だが光速思考でチェンの顎がくっきりと見える。丁度、拳一つ分の隙間がある。ここに全体重と勁を練った掌底を突き刺す。

 ゴリッ、と鈍い感触はチェンの顎を真正面から砕いた音だ。顎が外れてそのまま喉を撃ち、顎関節が砕ける感触と喉の奥の脊髄を打つ感触があった。まず顎が外れて顎関節が壊れる音がして、喉を打ち抜いた。全身の勁と脚震からの加重移動の全てを顎と喉に喰らった初老の小柄、ミスター・チェンは、神和彌子よろしく後ろに吹き飛び、応接ソファの上を飛び抜けてオーディオの一部に埋まった。


 バン!


 光速に達したオーバーコンセントレイションが解除される音は目の前のスパークと同時で、手や足に痛みはないが強烈な頭痛で視界が奪われる。続く虚脱感は今度こそ体力全部が抜けたようで、遅れて腰の後ろ辺りに痛みを感じた。これが背骨を伝って脳天まで貫き、背面に激痛が走る。ゲーム中では猛虎(もうこ)とネーミングされた一撃必殺の右の掌底は、コントローラのコマンド入力とボタン押しで出る技だが、実際にやると一発で体力がなくなり、リバウンドのように背中に痛みが広がる。

 須賀や方城は普段からトレーニングをしているが自分はそうではない。ただ、愛車である原付バイク、古いオフロードのXL50S、これの運転に普通より少しだけ体力が必要なので、どうにか八極拳の技の一つが出せた。ミッションで、両手レバーと両足を使い、ニーグリップで体重移動させて運転するバイクなので、スクータよりも体力が必要なのだ。通学の往復と週末、まだ三ヵ月ほどだがその期間にXLに乗っていたので中等部時代よりはマシな体力だが、バス通学なら最初の防御、化勁で失神していただろう。

 視界はずっと白く、耳鳴りも酷い。頭痛に続いて吐き気。背中の痛みはどんどん増加して、立っているだけで精一杯だ。だが、ミスター・チェンという初老のマーシャルアーツ使いは倒した。はっきりと手応えがある。大袈裟なオーディオセットに埋まるのも見届けた。あれでまだ動くのなら、それこそ神和の拳銃か須賀の警棒でトドメだろうが、かろうじて見えたチェンは動く気配もない。当然だ。顎を砕いてそのまま急所である喉に渾身の一撃を放ったのだ。必殺の猛虎を喰らって立ち上がれる人間など、まずはいない。軍人だろうが警察官だろうが、格闘家だろうが不可能だ。それくらいに自信のある一撃だ。

 だが、このリバウンド状態は尋常ではない。

 以前、奈々岡鈴を苦しめた悪徳教師に似たような真似をしたが、あの時は直後に意識が飛んだ。相手を倒したのを確認した後に気絶しつつレイコと奈々岡に抱えられて、露草葵の城、桜桃の保健室に運ばれた。あの時は確か、瞬間に勁の打撃のコンビネーションを叩き込んだ。当然、体力などは今と変わらない。そんな無茶をするから気絶した。今回はそれを一撃でやってみた。元が柔道から合気道の基礎なので打撃バリエーションは少ないが、かといってサブミッションや寝技に持ち込めるような相手でもない。

 それに、八極拳は打撃がメインの格闘技で、知る範囲にサブミッションも寝技も組み技もない。ゲームではそんな技も使えるが他のキャラクターに比べれば種類は少ない。何より一撃必殺が八極拳の基本概念だ。トレーニングしていなくてもこれは同じで、勁、気を練る、これが使えるからこそ八極拳が成立する。それを訓練ナシで可能にしているのが桁外れの集中力、オーバーコンセトレイションで、つまり、またまた方城ではないが気力だけで成立しているのが、アヤがネーミングした速河流八極拳である。

 頭痛と吐き気が限界に達する。警棒で左右から殴られているような頭痛と、胃に下水道でもぶち込まれているような吐き気。脊髄はミキサーで攪拌(かくはん)されるような激痛で、特に腰が酷い。そのまま気絶できないのは頭痛が激しいからだ。意識が飛び飛びなのに消えないのも強烈な頭痛によるもので、眼球の奥がじんじんと痛む。何度か咳が出て一緒に吐き気で胃液も出そうだが、どうにか堪える。だが、閉じた両目から涙がにじむ。全く散々だが、敵を倒せたのだから良しとしよう。

 そう、敵。リカが味方なのか敵なのか、そう尋ねた。それに敵だと応えて、敵だから倒した。やたらと強そうだったのであえて短期決戦、一撃で仕留めた。あんな重たい蹴りをそう何度も防御は出来ない。ミスター・チェンだかが何者なのかは知らない。アジア系で安部祐次と一緒なら、おそらくリー捜査官が内偵している蛇尾、スネークテイルからの用心棒だか連絡役だかだろう。どちらにしろ敵には違いない。リーが、蛇尾は人身売買をやっていると言っていた。そんな連中の一味ならオーディオセットに埋めてしまってもいいだろう。

「速河?」

 耳鳴りの隙間から声が聞こえた。須賀だと解るが視界が自由にならない。いちおう返事をするが声が出ているかどうか自信はない。

「久作くん!」

 リカの声が聞こえた。リカさん、艶のあるロングヘアと大人びた風貌が魅力的な委員長は、リカちゃん軍団のリーダーでもある。


 久作、そう、それがぼくの名前だ。速河久作。

 自由と平和と平凡を愛する、私立桜桃学園高等部の一年。ほんの少しの正義、手の届く範囲の、偽善と紙一重の正義を、遠くない将来まで抱き続けようと決めた、いずれはスーパーヒーローになる、つもりの、バイクが好きな高校生。今は何とも情けない姿だが、これだって悪党を倒した結果だ。まだ変身は出来ないし、必殺技だって地味なものだが、前村歩、アヤと同じくらい小柄で割とチャーミングな彼女を誘拐犯一味から救い出すくらいの力はある。

 ぼくの正義は小さな欠片だけど、いつも両脇に須賀と方城がいるし、リカ、アヤ、レイコのトリオ、リカちゃん軍団もいる。リンさん、奈々岡鈴もいるし、露草葵先生もいる。今回は他に県警本部で知り合った鳳蘭子という監察医や、学園理事の天海真実。その執事の月詠という男性もいる。県警三課のメンバーとも少ないながら会話をしたし、露草葵というとんでもない変わり者と結婚という冒険をした男性も見た。露草は確かに女性としては魅力的だが、中身は須賀に劣らぬ変人だ。そんな人と結婚とは、全く、とんだ変わり者だ。

 膝が落ちた。体力はほぼゼロ。

 背中の激痛で体は上手く動かないし、とにかく頭痛が半端ではない。目が閉じたまま開かない。本当に火花でも散っているような視界に、内側からの頭痛。もう何分も持たないだろうが、確認しておく必要がある。安部祐次だ。阿久津教師のほうは露草が既に始末しているが、軍人崩れの安部は片腕を撃たれたくらいではまだ動けるだろう。しかし視界が利かない。耳もおかしい。安部祐次は? そう尋ねた。声が出ているかは疑問だが、吐き気の合間にねじ込んでどうにか発したつもりだ。

「安部は逃げたよ」

 どうしてそんなに優しくなのかは解らないが、神和が返した。彼女はチェンの一撃でダメージを負っているはずだが、聞こえた声色にダメージも疲労も、無力感も感じなかった。神和にとって安部は、警察官である自分のプライドを一度砕いた凶悪な犯罪者のはずだが、逃げた、そう言う科白は柔らかい。ひょっとして、あの大柄の無頼漢、乾警部補か表情も黒い公安のサミー山田という彼が確保したのか。きっとそうなのだろう。公安は警視庁なので管轄が違うが、そもそも安部祐次をマークしていたのは公安とICPOらしいので、県警の神和ではなく公安のサミー山田巡査部長が確保しても問題はない。

 神和のプライドに対する反撃は、神和が矛先を収めれば済む話だろうし、彼女はそういった切り替えが自在なようにも見えた。だから、逃げたよ、というのは仲間の誰かがカヴァーしたか、いずれじっくり追い込む、そういった意味なのだろう。


 リッパー、不思議な響きのあの女性は先に退散した。言動から安部祐次のバックボーン、諜報機関の工作員といった印象だが、少なくとも敵ではないようだった。逆に好意さえ見えた。神和が彼女を追わず、逆に彼女を助けたことからこの辺りは間違いないだろう。安部がラングレー、CIAだろうと尋ねていたがリッパーを名乗る彼女はそれも含む、といったニュアンスで返していた。彼女こそが今回の作戦の切り札だった。直前までその存在すら感知していなかった彼女が安部や阿久津を動かしていた、いや、動きを支えていたのだ。だが彼女や彼女の組織は二人の動き、手を離れた独断を良しとはせず、全てを県警九課の神和彌子巡査部長の裁量に委ねた、そう思える。

 NSAなりが安部を切り捨てるというのはこちらの想像からだが、それがCIAでも同じだろう。映画や小説のフィクションは現実の要素を少なからず含む。そう思っている。全くのフィクションは存在せず、脚本家なりのイマジネーションはリアルを反映したものだ。だからCIAの陰謀説というのはネットが当たり前の現代以前から存在するし、そういった映画も多い。そうやってフィクションとして情報を流すことで真実を隠すという手段は常套だ。MIB、宇宙人相手のメン・イン・ブラックもコメディとして映画になっているが、アメリカ政府が宇宙人と結託しているという話は七十年代からある。地球侵略を画策する宇宙人に比べれば、NSA工作員の元自衛官のテロリスト、こちらのほうがよほど現実的だ。NSAとCIAの確執があるにしろないにしろ、そういう名称の組織が存在するのは事実で、どちらも諜報に特化した組織である以上、縄張りが重なることも、政府内部での派閥争いやら権力闘争やらもあって不思議ではない。

 中東の紛争や麻薬王の暗躍とそれらが重なれば、安部祐次のような人間が出来上がるし、NSAがバックボーンだと信じていた彼が日本政府を巻き込んだ動機は、天海グループと在日米軍の事情を考慮すれば、まだ宇宙人侵略よりも説明が容易い。阿久津零次、西洋史の彼の動機に至っては単純だ。ビジネス、金儲けの手段として御法に手を出した、それだけだ。マンホールの蓋、そう露草が表現していたが、きっと阿久津零次には世界が錆色に見えていたのだろう。アルマーニのスーツやエバだかの車は彼の虚栄心であって、本来、阿久津は安部の後ろで虎視眈々と金を狙っていればよかったのだ。阿久津零次、彼の唯一のミスは露草葵のラベルダを突いた、これだ。

 赴任して日の浅い教師でも保健室の主、露草葵の扱いは承知している。彼女は桜桃学園の守護天使、アークエンジェルなのだ。これを教師も生徒も承知している。魅力的だが呑気な若い理事長、学園運営には一切口を出さない天海真実でも露草の扱いは承知している。県警九課の巡査部長、さ迷える紅い弾丸こと神和彌子や監察医の鳳蘭子もだ。桜桃学園のアークエンジェルにちょっかいを出した阿久津零次は、手下を残らず蜂の巣にされた挙句に、デコピンと蹴りを喰らったが、当然だろう。桜桃学園で発生した小さくはない事件二つを解決に導いたのは自分やリカちゃん軍団だが、幕を引いたのは守護天使、露草葵だった。つまり露草は、アークエンジェルであり、同時に、メチャクチャになった舞台劇を強引にフィナーレに導く機械仕掛けの神、デウス・エクス・マキナでもあるのだ。

 葉月巧美のトラブルと前村歩の誘拐、NSAをバックのテロリストや悪徳企業の御曹司、世界規模の諜報戦に中東紛争まで絡んだとんでもなくややこしい舞台劇を、半ば強引にフィナーレにしたデウス・エクス・マキナ、それが露草葵だ。彼女の逆鱗に触れた者の末路は悲惨で、それを阿久津零次という西洋史教師は理解していなかった。安部祐次も同じく。ひょっとして、と蘇るのは黒髪のウルフシャギーと赤いフレームの眼鏡、リッパーと名乗った、ジョーカーだった彼女だ。ひょっとして彼女も露草葵と同じ役回りなのかもしれない。滅茶苦茶になった舞台の幕を引く機械仕掛けの神、デウス・エクス・マキナ。だとすると安部祐次と阿久津零次は、二人の女神の下で行動していたという意味だ。その画策だかが達成できるはずもない。


 気がつけば座っていた。

 背中をさする手がリカだと気付くのにかなり時間が掛かった。背中が痛いとずっと唸っていたらしい。頭痛は続くが吐き気はマシになった。視界はまだ白いが耳鳴りも小さくなってきた。ミスター・チェンという用心棒は倒して、阿久津零次は露草か神和が確保しているだろう。安部祐次はとりあえず神和からは逃げた。正直、彼はもうどうでもいい。

 安部の言動が全て実態のないブラフの類だということはリッパーという彼女が保障していたので、結果的に大規模な報復という話も霧散した。取り逃がしても警察機構以外の様々な組織から狙われる安部の末路など、もう関心の外だ。おそらく顛末と安部の末路は報道されないだろうし、ネットのアングラサイトにも情報は載らないだろう。それこそ直接NSAにでも問い合わせる以外に方法はない。応えてくれるかどうかは知らないし、実際、そんなつもりもない。

 麻痺していた五感が戻ってきた。背中の鈍痛と頭痛は相変わらずだが、痺れた手足と耳の感覚は戻ってきた。猛虎、八極拳の一撃を放ってどれくらい経過しただろうか。浅い呼吸が続いて酸欠気味だ。大きく深呼吸しようとすると背中の痛みが増すので、浅くて短い呼吸を繰り返すのがやっとだ。安部祐次の末路を含めて、ややこしい話の全てがこれでお仕舞いだ。毎度ながらのアヤの情報戦と須賀の活躍。自覚はないようだがリカの存在と二人の女神、このホテルに突撃した、方城を除く全員の活躍で大袈裟で深刻な事態は収束した。方城の活躍がないのはアヤの無事とイコールなので、本人は不満でも良い結果だ。方城は葉月巧美の一件で大活躍したのだから、それで足りるだろう。

 思えば、事件の規模もさることながら、関わった人数の多さ、これがとんでもない。つまりそれだけの事件だったのだろうが、お陰で新しい知り合いも出来た。天海真実と鳳蘭子、この二人は特に面白い。天海真実、桜桃学園理事長の彼女は須賀の前に座らせると愉快で、見物していて飽きない。鳳蘭子は露草葵と並べるとこちらも面白い。監察医と精神科医という違いが意見の違いとなって、経営学漬けの天海真実と並べてもなかなかだ。科学捜査研究所の二人は須賀恭介の興味の対象だろう。相模京子という行動心理学者と部下らしい加納勇。桜桃二年のギタリスト、加納勇介の姉は楽器ではなく犯罪者心理学を扱っていて、揃ってインテリの須賀姉弟とは少し違う印象だった。

 二人の女神以外にこれだけの個性派が集結すれば、安部祐次がどんな経歴だろうと謀略が達成される道理はない。阿久津零次の浅ましい考えなど露草葵のデコピンで撃破される程度で、天海姉妹にかかればアクツエージェンスという企業も大したことは出来ない。


 監察医、鳳蘭子との会話を思い出す。


 犯罪は究極の、一方的な暴力であり、対抗出来るのは同じく暴力である力しかない。

 正義のスーパーヒーローを誓って、それを力だと信じて振るった結果、初老のマーシャルアーツ使いがオーディオ機器に埋もれた。自分にある唯一の、しばらくはただ一つの正義は八極となって悪漢を打ち倒した。これが欺瞞や偽善であっても、仲間に対する暴力が行使されなかった、それでいい。手の届く範囲でのちっぽけな正義は、しばらくはその範囲でのみ使える唯一の力で、それで足りることこそ退屈と隣り合わせの平和な日常なのだ。

 つまり、自分の信じる正義というのは、酷く退屈なのだろう。

 だからこそ、変身ヒーローは普段は退屈を持て余す凡人、そんな姿なのか。この辺りはもう一度、鳳蘭子にでも尋ねてみよう。徹底した現実主義の彼女がどう返すのか、それはそれで楽しみだ。

 さて、そろそろ潮時だ。事件の幕は引いた。露草とリッパーが引いたそれを自分も握った、そんな具合だ。後は本業、警察官の神和らに任せて大丈夫だろう。アヤのことだ。増援と救急車を手配しているだろう。露草の保健室でも鳳の医務室でも県警の仮眠室でもどこでもいい。とりあえず眠りたい。頭痛と背中の鈍痛、吐き気を治める薬を処方してくれれば、後は寝るだけで事態は収束する。

 自分一人で抱えずに他人を頼る、そう決めたのは高等部に上がってからだが、それが良さそうだ。体が自在ではなく視界もおぼつかない状態では何も出来ない。こんなときにまで自分で、と考えるのは無意味だろう。頼った分頼られる、それでいい、そう須賀が言っていた。その通りだろう。

 残った気力で事件を整理してみた。幾らか疑問はあるが、まあこんなところ。


 じゃあ、おやすみなさい……。

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