第11話~前村歩と全世界の支配者なる運命の女神(前編) ―ブランツィフロールとヘレナ―

 久作が発案してアヤが指揮を執った作戦、オペレーション・オーマイガッ! 最優先目標である前村歩、小柄な高等部同級生は無事に保護した。

 ホテル一階ロビーからロイヤルスイートまでで相当数の武装した敵を行動不能にもして、最上階のここには県警九課の巡査部長、MP5サブマシンガン二挺を持った神和彌子もいる。テロリストとして国際指名手配されてICPOと日本の警視庁公安もマークしていた安部祐次は、紺スーツにサングラスでソファに腰掛けている。隣には桜桃学園高等部の西洋史教師、阿久津零次。こちらは県警九課・組織犯罪対策室がノワールの幹部としてマークしていた。三十代の女性と初老の男性が他にいるが見た限りでは武器の類はなく、また仕掛けてくる様子もない。部屋の入り口外で須賀恭介とリーが黒人二人を相手にしているが時間の問題だろう。

 つまり、リーダーであろう安部祐次は手詰まり、アヤの言う通りに状況はチェックメイトの筈だが、肝心の安部は笑っている。隣の阿久津零次も口元を緩めている。つまり、と久作は内心で繰り返す。サミー山田巡査部長と乾警部補が屋上と階下への両ルートを寸断しているこの状況にあって安部はまだ、手札を残してるらしい。挟撃、ホテル入り口か屋上からの増援を警戒するが、ロビーのアヤからも、屋上に待機しているらしいレイコからもそれらしい連絡はない。ならば、その切り札というのは安部祐次の手の内にあって、それは神和の向けるサブマシンガン以上の威力があり、ルートを寸断している人員配置を突破できるだけのものなのか。

「世界は想像よりもシンプルなんだよ」

 口を開いたのは阿久津零次だった。この教師の授業での印象は悪くない。見栄えもいいし話の内容も高校教員にしては面白くて理知的だ。まっとうな教師に見えるその阿久津が、神部市リトルトーキョーを拠点にする犯罪グループ、ノワールの幹部で、今はテロリスト安部の隣にいるというのは、桜桃学園理事長である天海真実の作成したマナミレポートがなければ違和感どころではない。

「金と力、これが全てさ。歴史を見れば明白だろう? ぼくが金を、利益を追求するのは企業の一員だからで、企業というのは大小違えど利益を追い求めるもので、それ以外に存在意義なんてないのさ。モノを作る、それを売る、金を払ってモノを買う。これが世界の全てだよ。そこには理念も主義もない。浪費することそれ自体が目的で、自販機が賢くなれば自販機同士がケンカでも始めて、これが戦争さ。速河くん? きみのクラスでは授業はまだ一度だったかな? 高校生と言ったってそれくらいは解るだろう? 金で買えないものはない。力の全ては金で支えられていて、きみの着る服、食べるもの、全てが力の代価さ」

 阿久津零次の口調はまるで西洋史の授業のようだ。喋るのが得意らしく詰まったり淀んだりもなく、舞台俳優さながらだ。だが、言っていることは……。

「阿久津先生。アナタは――」

「速河、止め」

 遮ったのは煙草を咥えた露草葵だった。普段の白衣ではなくジーンズとライダースジャケットで久作の隣に立ち、口から白い煙をゆっくりと吹いている。

「このボンボンはアレや。地図から世界を見とるとか、そういう人種や。視点が高すぎて細かいことが見えん、アホの典型やわ」

 肺の奥から紫煙を吐いた露草は、ケータイ灰皿に煙草を押し付けて次を咥えた。

「露草先生? アナタがどうしてここにいるのかは知りませんが、アナタとは一度、ゆっくりとお話をしたいと思っていたんです。ぼくは頭のいい美人というのは嫌いじゃあないんで」

「既婚者を口説こうとすんな、アホが。お金が大事言うんはまあ解るけどや、それしか見えんアンタは企業家としてもセンセとしてもダメやわ」

 マルボロマイルドの煙をわっかにして浮かばせ、露草はナイフのような眼光を阿久津零次に向けている。阿久津零次のほうはそれを笑顔で流している。

「金しか見えないんじゃあなく、金しか見てないんですよ。それを使う人間の表情だの感情だのは商売にはさほど影響しない。精々がマーケティングで嗜好を探ってそこに商品を流す、その程度で、世界規模の商売になればいちいち個人を観ている暇なんてありませんし、その必要もない。消費者は永遠に消費者で、そこに商品を流す人間だってぼくから見れば消費者だ。これを国や世界規模で管理するのに個人の考えなんて無意味ですよ。世界を地図の上から見ている、そう、まさしくそうです。大きな会社に勤めていれば自然とそういう視点になるし、この視点でなければ世界規模での商売なんて出来ませんよ」

 阿久津零次の言い分は一見すると正論だが、何かがおかしい。監察医の鳳蘭子の科白に似たようなものがあったが、どこか違う。まだ高校生の自分だって親から小遣いを貰っている。そうして得た金は娯楽だったりに使う。つまり、久作も阿久津の言う消費者だ。自販機のジュースを作っているメーカーが久作個人の嗜好を考慮している筈もなく、だから自販機にはずらりと、久作が選ばない各種飲料がならんでいるのだ。コンビニや書店に並ぶ商材にしても大半は久作には不要なものだが、それを必要としている人間がいる。自販機やコンビニに商品提供側として参加している人間が、速河久作という個人を想定しているとは到底考えられない。つまり、阿久津零次の科白に間違いはない。

「アホがアホな理屈で動くんは、それこそ歴史の教科書通りやわ。アンタが観てるんは世界地図やのうて、マンホールの蓋や。あの丸っこい鉄板とずっと喋っとったらええねん、けったくそ悪い」

 ふっ、と強く煙を吹き、露草が吐き捨てた。

「アンタがアホの理屈やろうとテロリストと一緒やろうと、どうでもええねん。前村歩も怪我ないからまあええ。でもや、四駆のエバでウチのラベルダちゃん、ど突いた。これ、どないしてくれんねん? ラベルダちゃん、入院やで?」

 阿久津零次の理屈をどう露草が論破するのかを期待していたのだが、露草はどうでもいいと切り捨て、露草がここにいる理由、本題に入った。

「ああ、あれはまあ、ちょっとしたお遊びですよ」

 小さく吹き出して阿久津は続ける。

「蘆野山には走りの知り合いがいてですね、そこを我が物顔で走る派手なバイクというのは何と言うのか、うっとおしかったんですよ。殺すつもりなんてありませんでしたし、実際、大した怪我でもないでしょう? その程度で済むように調整しましたしね」

「……うっとお、しい?」

 露草葵、桜桃学園スクールカウンセラーにして医師免許と臨床心理士の資格を持つ彼女は、久作ではないが普段はポーカーフェイス。鋭いクールな美人が呆けてどうでもいい雑談を煙草の煙と一緒に吐き出すのが毎日だ。その露草から明らかな感情が吹き出している。白衣ならその裾がなびくような、そんな感情は明確な怒気だった。

「それと、エバと言うのはひょっとして、ぼくのランサーですか? だったらエバじゃあなくてエボ、ランサーエボリュー――」

「やかましいねん」

 口調も音量も普段通りなのに、露草の声はまるで突き刺さるように阿久津零次に飛んだ。

「エバはエバやろ。四駆やか五駆やか六駆やか知らんけど、エバがどんだけ偉いねん」

 口から煙と弾丸のような科白を吐きつつ、露草がずんずんと歩く。怒気を放ったままでミドルブーツが前後している。突然の露草の豹変に神和彌子もリカも前村も、安部祐次も声が出ないようだった。久作は絨毯を踏みしめるように歩く露草を目で追って、その先、阿久津零次がアルマーニのスーツに手を入れて、大型のリボルバーを抜く仕草に声を出そうとしたが、上手く声にならなかった。

「言ったでしょう? 金と力が全てだと。ぼくのランサーは力で、この拳銃も同じく。アナタのような美人を傷付けるような真似はしたくないんですが……」

 阿久津零次が構えたリボルバーはオールステンのヘビーバレル、ちょっとした珍品のコルトM29だった。ハンターやコレクターが持ち、自意識の強いチンピラが持つこともある大口径の大型リボルバーだ。

「タイヤ四個もないと走れんマンホール風情の鉄砲なんぞ、なんぼのもんやねん」

 阿久津からの警告を無視して距離を詰めた露草が、再び吐き捨てた。

 バン! 鈍い音は予想したよりも小さく、しかし、どうしてか阿久津零次がのけぞっている。リボルバーの反動によるもの、ではない。

「な! 何だ!」

「何や? その陳腐な科白は。アンタのこれな、ここんところを握ったら撃てんて、アホの神和に前に教えてもらったんや。バイク乗りの握力ナメとったら、もう一発、ウチの必殺や」

 バン! 二度目の打撃音で阿久津零次はリボルバーを露草に奪われて、ペルシャ絨毯に後頭部を衝突させた。

「あ、葵?」

 神和が振り絞るように尋ねている。神和の位置からでは露草の背中で阿久津零次の様子が見えないらしい。

「アホの神和やー。こいつ、引き金引こうとしよった。これってや、銃刀法違反とか殺人未遂とかそないやろ?」

「……は? 葵、そのリボルバー、M29? それのシリンダー掴んで止めたの?」

 MP5サブマシンガンを両手に片膝を突いている神和が、頭のてっぺんから声を出した。呆れて驚いている、そんな風だ。

「おう。リボルバーてこれ、ここんところが回転するんやろ? それ止めたら撃てんて言うてたやん。せやからそうして、ウチの必殺のデコピンや。バイク乗りのデコピンは強烈やで?」

 これには久作も驚いた、いや、呆れた。

 確かに構造上、リボルバーはシリンダーの回転を止めれば撃てない。犯人や敵と至近距離ではそういう弊害があるからこそオートマチックが有利なのだが、リボルバーでもシングルアクション、つまりハンマーを浮かしてトリガーを引けばシリンダーの回転は二発目以降で、初弾は出る。対して阿久津零次のM29はダブルアクション。トリガーを引くとハンマーが起きて落ち、シリンダーも回転する。トリガーとハンマーとシリンダーがそういう構造で繋がっているのでどれかを指なりで動かないようにすれば撃てない。ヘビーバレルの大型リボルバーだろうがスナッブノーズ・護身用短銃身だろうが同じだ。拳銃を撃ちなれているが警察や軍人でない人間からすれば、シリンダーを掴られるというのは想像さえしていないだろう。阿久津零次にすればどうして弾丸が出ないのか、どうしてトリガーを押し込めないのか不明なまま、露草の必殺、らしい、デコピンを二発も喰らった。鈍い音は拳銃の発砲音にしては小さいが、打撃音にしてはかなり大きく、相当な威力だったようで、阿久津は額を両手で押さえたままペルシャ絨毯でもがいている。

「速河、世界がマンホールの蓋にしか見えん阿久津センセの理屈はな――」

 中指、爪をさすりつつ露草が煙草の煙を吹いた。阿久津零次が吹き飛ぶほどのデコピンは、露草の爪にもダメージだったらしい。

「――統計学なんかと同じ理屈やねん。末端の消費者の好みとかをデータとして蓄積して分類して、そこにレッテル貼るて、そんだけや。コイツがアホなのはな? 自分かてその末端の消費者や、いうことを忘れとることや。己の好みとか無視して統計とかやれるかい。企業やらがマジョリティ、多数に向けて商品売るんは当たり前やけど、少数派のマイノリティの好みとかもきっちり網羅するんがまっとうな経営者や。世界は地図やのうて丸いんや。それも平べったいマンホールの蓋やのうて、ボールみたいな地球や。このアホはな? めっちゃ性能のええ望遠鏡あったらここからハワイが見えるて勘違いしとるどアホウやねん。お金で全部片付くとか、現代科学を真正面からナメとるわ。雨一つ自在に操れん最先端でお金で全部片付くか、アホが」

 文字通り吐き捨てて、露草は煙草の煙でわっかを作って、絨毯でもがく阿久津零次を見下した。鋭利なナイフのような眼光は、まるで害虫でも見るようだった。

「真実の報告書にあった麻薬王との絡みかて、こいつには単なるビジネスなんやろ。ノエルとかマイヤーとかも同じ人種やろうな。んで、前村を誘拐もこいつ風に言えばビジネスなんやろうけど、所詮はマンホールの蓋にしか世界が見えん奴や。前村歩とその親、速河みたいな同級生やらアホの神和みたいな警察がそれをどう思うかなんぞ、全く考えとらんのやろな。誘拐された側からすればビジネスなんぞ無視して前村を保護しようとすんのは当たり前や。神和のアホが鉄砲撃ちまくるんも当然で、ここまではひょっとしたら想像してたかもしれんけどや、己がデコピン喰らうとまでは思うとらんかったやろ。そらそや。ウチの頭ん中はマーケティングでは覗かれへん。ガッコでスクールカウンセラーやっとったら、生徒は全員ウチの患者や。患者を危ない目に晒す医者がどこにおんねん。それにや……」

 煙草の灰を阿久津零次に落として、露草は大きく煙を吸い込んだ。

「バイク乗りをナメんなや。パチキかまそうと思うとったけど、こないな小悪党、デコピンでお釣りが来るわ」

 左、シフトチェンジの足を大きく振って、ドン! 露草のミドルブーツが阿久津零次のみぞおちに突き刺さった。相当な音で阿久津が青い顔で口をパクパクさせ、涎(よだれ)を撒いている。あばらがイったのは確実だ。

「アホの神和のお仕事をちょちょいと手伝うとするとな、こいつ、阿久津センセはアクツ・ボリビアからアフリカ市場を開拓して、北アフリカ、真実のお姉さんの真琴はん、顔は知らんけど、こん人のところから更に北、ヨーロッパ市場に食い込むとか、そんな算段やろ。でや、北アフリカ手前の東に紅海。これ越えたらアラビア半島や。アラビア半島を黒海に向けて北上すると地中海手前に物騒な場所があるやろ? テルアビブ、ベイルート、ダマスカス、ずーっと民族紛争やっとるところや。紛争とか戦争いうんはな、マトモではやれへん。それこそ頭がプッツンする薬の出番で、大麻、ヘロイン、コカインなんかが路上で買えるようなキナ臭い場所や。アクツエージェンスが鉱物資源やらでたっぷり資金持ってて、アホの理屈でまた儲けよう思うたらここは魅力的やろな」

 煙草片手で露草が言い、神和は目をぱちくりさせていた。露草に応えたのは通信のサミー山田巡査部長、警視庁公安一課の彼だった。

「なるほど。阿久津零次の市場と安部の市場、ルチルアーノ、ノエル・ギャラガーやマイヤー・フランスキーとはそれで重なるか。大きいとはいえ民間のいち企業であるアクツエージェンスが闇市場、麻薬や武器に手を出すならアラビア半島北部は格好のマーケットだ。セルビアのレッドスターにしても、テロに必要な爆弾以外にも最低源の武装は必要だが、紛争地帯とのパイプがあれば後は金だけか。しかし、ミス露草?」

「あー、誰か知らんけど、ウチ、既婚者やで?」

「失礼、ミセス露草。ヨルダン辺りの紛争地帯は国家紛争で民族・思想戦争でもある。武器を流すにしても金だけでは済まないだろう。レッドスターとは思想的バックボーンの繋がりがあるにしても、ルチルアーノはロシア、ノエル・ギャラガーはフランス人だ。マイヤー・フランスキーに至ってはニューヨーク、つまり、アメリカ合衆国の人間で、対立こそしても取り引きは成立しない。安部祐次、日本人の彼が仲介をするには組織として大きすぎる、双方ともに」

 サミー山田巡査部長、久作は殆ど会話をしていない彼が通信の向こうで唸っている。

 仮に阿久津零次を中心に構図を見ると、まず彼は鉱物資源売買のアクツエージェンスという巨大な資金源がある。阿久津零次の独断で南米ボリビアからアフリカに手を出し、ヨーロッパへの足がかりとして北アフリカを手中にしたい。だがそこは天海グループ日本支部が持っている。ここを天海から奪ってヨーロッパへ進出するというのが今回の前村歩、高等部女子の誘拐に繋がる。前村歩という個人ではなく、彼女が通っている学校が天海グループ日本支部傘下の私立学園だからであり、それでも適当に選んだのではなく、二億だかを用意出来る資産家の娘という条件があったのだろう。

 前村歩を仔細に調査して家族やその周囲も同じくなら、久作からも温厚に見える前村は、その両親も血縁も温厚だろうと容易に想像出来る。最愛の娘を金で取り戻せるならそうするだろう。警察に知らせるなと言えばきっとその通りにしたであろう。しかしノワールは、阿久津零次と安部祐次はあえて警察を、県警を巻き込んだ。この線は一旦ここまでだ。


 露草のデコピン二発と蹴りでペルシャ絨毯に涎を振り撒いて呻いている阿久津零次は、天海ジャパンの北アフリカとは別にアラビア半島に目を向けた。

 紅海と地中海、黒海に囲まれたここは有史以来、紛争が絶えない。日本の報道には殆ど乗らないが今でも銃弾が飛び交い、地雷や攻撃ヘリコプターで溢れている。その原因は絨毯に転がっている阿久津零次が授業で久作らに教えるはずの民族紛争だ。もしくは宗教戦争とも。中でも聖地エルサレム。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教が一キロ圏内でひしめき合っているここで争いが起きない道理はない。ユダヤ教もイスラム教も分派が多数なので実際はもっと混乱している。軍事政権が樹立しては打ち倒されるここはアジアの火薬庫でもある。軍事政権やそれに反抗するレジスタンス、別組織が持つ武器はロシアと中国から流れているというのが通説だが、どちらにしろ地上の西側のそういう事情は武器売買マーケットとしては巨大で、密売や流通には複数の組織が絡む。

 中国からの流通に中国公安リーが内偵している蛇尾、スネークテイルが噛むとすれば、そこに人身売買も入る。ロシア圏からはルチルアーノ・ファミリー、ユーロ圏から麻薬王ノエル・ギャラガー。麻薬ルートに武器を乗せるというのはそう難しい話でもないだろう。阿久津零次はこれに手を出そうとしたと露草は予想し、公安サミーも同じくだが、問題はこれらの仲介斡旋が可能な人間だ。この線も一旦ここまで。


 レッドスターという爆弾テロ組織はセルビア、アラビア半島出身のセルゲイ・ナジッチというリーダーが率いていたが、そこからイスタンブール、アンカラと陸路で地中海と黒海の間を南下すれば、ダマスカス経由でエルサレムに達する。セルゲイ・ナジッチの逮捕はベルギーのアメリカ大使館爆破未遂テロ以前のことで、フランスのアメリカ大使館爆破テロ、こちらも未遂のそれだったはずだ。その後釜に納まったとされるのが安部祐次。紺色のシンプルなスーツにレイバンタイプのサングラスで短髪の、眼前のソファに座る男だ。阿久津零次は北アフリカから紛争地帯エルサレム辺りのブラックマーケットに手を出そうとして、レッドスターと行動していた安部祐次とは同じくエルサレムで重なる。

 ただ、レッドスターや安部祐次がアラビア半島で活動したという記録はない。レッドスターはもっと北の、黒海沿岸を拠点に主に西側にあるアメリカ大使館を狙っている。だから安部祐次と阿久津零次、ルチルアーノ・ファミリーやノエル・ギャラガー、レッドスターは重ならないのだが、エルサレムを中心とした紛争地帯に全員が目を向けていればいちおうは説明がつく。武器、麻薬、売春、人身売買から食料、車両に雑貨とあらゆるマーケットがここにはある。そうマナミレポートにもあったし、神和彌子が言っていた巡航ミサイルという話も、ここならば驚くでもない。


 しかし、だ。

 どの組織も巨大で統率が取れていて、オマケに思想的バックボーンと豊富な資金がある。中東が魅力的なマーケットならそこで行動すればよく、前村歩誘拐、警察を巻き込んだこの騒動の説明にはならない。それこそ軍事政権の要人をターゲットにすれば……いや、違う。

「……誘拐という犯罪は、組織として完成された警察や錬度の高い兵士を持った軍隊のある国では難しい?」

「その通りだ。さすがだな、ボギーワン、速河久作くん」

 オーバーコンセントレイション、超集中力状態で自分の世界に入っていた久作の呟きに、安部祐次が応えた。

「首都圏なら警視庁で、ここは日本では相当にレベルの高い組織でSATやSITなんてものもある。だが、地方都市なら扱うのは地元犯罪で、神部市がいくら国際都市と言っても、所詮は短期的な犯罪レベルで、ブラックマーケットなんてのも金額としては小さい。日本警察が縦割り官僚主義で事務的といっても地元で現場慣れした捜査官にすれば、そんな組織を潰すのはそう難しい話でもない。でもだ」

 くくく、と含んで笑うのはサングラスの安部だった。

「でも、そう、でもだ。誘拐というデリケートな犯罪に地方警察は慣れていない。衝動的な立て篭もり、これが精一杯だろう。日本警察は日本人の扱いには慣れていても、それ以外はてんでダメだからな。セルゲイ・ナジッチの解放、これだけで県警はパニックだったろう? 俺の話し相手をしてくれた須賀恭介くんは、そういった意味で大した人材だ。だのに、県警はとうとうSATの出動要請を出した。対テロを想定としたSATを誘拐事件に投入だとさ。それもこれも、俺の経歴に弱腰な証拠だ。セルゲイ、レッドスター、麻薬王ノエル、中国公安がマークしている蛇尾、NYのマイヤー・フランスキー、ルチルアーノ・ファミリー。これだけの大物を相手に出来ないという、立派な白旗さ」

 ははは、と安部は大声で笑った。

「それでもボギーワンこと速河くんが俺の目の前に、サブマシンガンを両手の巡査部長と一緒に並んでいるというのは、なかなかどうして大したものさ。だが、同時にもう気付いているはずだ。きみや巡査部長が扱うには、俺は大物に過ぎるとな。逮捕は簡単だ、この状況ならな。しかし、いくら高校生といったってその後の報復、俺の意志とは無関係に発生するそれがどれだけの規模になるのか、想像は簡単だろう? キュートな巡査部長が刑事らしく俺を逮捕した翌日に、同僚ごと県警ビルが吹っ飛ぶなんてことも、まあ、あるかもな。

 きみらは善戦した。前村嬢も救い出した。それでいいのさ。妙に欲を出すととんでもないしっぺ返しに合う。どうしても逮捕したいのなら、そこに転がっている誰かをアベ・ユウジにしてしまえばいいのさ。あいつらは単なる兵隊で俺や俺の知り合いにとっては何の価値もないが、警察の面子を保つくらいの役回りは出来るさ」

 安部祐次、この男から感じる違和感、正体不明のそれの片鱗が見えた。

 この男は自分の立ち位置に対して絶対的な自信を持っているのだ。神和、巡査部長の警察官や彼女が所属する県警九課、それを統括する影山めぐみ警視監。更に上、警察庁の管理官から果ては警視総監に至るまで、安部は敵として下に見ている。おそらく幕僚長、自衛隊が出てきても同じ態度だろう。自衛隊が単体で海外活動できないことをここで一番理解しているのは他でもない、安部祐次だ。二度のPKOとその前のアメリカ主導の紛争鎮圧作戦、デザートストームで安部は、自衛隊の限界を熟知しているのだ。防衛省、警察庁、警視庁、そして内閣行政府、日本に存在する全ての組織を自分は上回る、そう安部は確信している。久作は自分の思考が加速する音を聴く。タービンジェットのように甲高い爆音で、久作の周囲の時間の流れが減速していく。

 安部に対する違和感はまだ消えない。

 セルビアだのフランスだのにバックボーンとなる組織があるにしても、ここまで強気に出られるだろうか? 巡査部長とはいえ神和はれっきとした警察官であり、所轄ではなく県警本部の、刑事部の人間だが、逆を言えば警察官でしかない。彼女が逮捕して聴取し、送検した後に検察庁に圧力が掛かって不起訴となることは想像に容易い。安部ほどの犯罪者となれば日本の裁判の手前にICPO・国際刑事警察機構が割り込んで裁判はそちらになるかもしれない。警察庁にすれば面子が潰れるが、下手に手を出して家族が闇討ちされることを警戒しない官僚もまた少ないだろう。ならばICPOにでも引き渡すほうが得策だ。これは行政府、政治家も同じだろう。だが、安部の持つバックボーンはそれほどだろうか?

 仮にICPOで国際裁判となるなら、そこで安部は懲役刑だろう。ここを覆す、安部に自由を保障できる組織があるだろうか。セルビアで爆弾テロをやっているレッドスター、エルサレムにまで手を出しているかもしれない中東組織にはまず無理だ。麻薬王ノエル・ギャラガーはフランスを中心のユーロ圏のみ。蛇尾、スネークテイルは中国で組織としてはかなり大きいらしいが、政治家や軍隊まで抱え込んでいるのなら逆にICPOと表でやりあうのは無理だろう。ニューヨークの麻薬王マイヤー・フランスキーにしても所詮は麻薬マーケットのギャング王であって、蛇尾と同じく表に出てくることはない。ICPOに安部の息のかかった人物なり部署なりがあるなら、そもそも国際指名手配になどならないし、警視庁公安の一課、重要事件を扱うサミー山田巡査部長の出番もない。

 この違和感は一体なんだ? 久作の思考は更に加速する。

 犯罪者として大物なのは間違いないが、ならばナチスのヒトラーほどかと言われるとそうでもない。各国米大使館に爆弾テロを仕掛けたセルゲイ・ナジッチ、この男のほうがよほど大物だが、こちらはアメリカ連邦刑務所に収監中だ。そのセルゲイよりも上、安部の態度はそう見える。エルサレム、露草葵がそう言っていた。公安のサミー山田も。ユダヤとイスラムと、キリスト。異なる神に仕え、聖地エルサレルを奪還しようとする、聖戦。

 ……何だ?

 ふと、奇妙な単語が浮かんだ。それは橘綾、アヤがネット関連であれこれ喋るときに出す単語で、ハッキングや防壁といった言葉と並ぶ。パソコン、ネットが苦手な方城には文字通り暗号の……暗号?

「……エシュロン?」

 加速した思考のまま、久作は単語を口にした。アヤが雑談で時折出す、方城やリカ、須賀にさえ意味不明な、久作がかろうじて解る単語。発してから十秒ほど経過して、安部祐次が口元をにやり、と挙げた。

「ボギーワン、凄いなきみは。そろそろヒントでもやろうかと思っていたが、まさか自力でそこまで辿り着くとはな。正解だよ。俺はNSAの非正規部隊所属なのさ。もう説明不要だろう? 巡査部長、お前の努力はここまでだ。ハエのような公安もな」

 ははは、と安部の笑い声がロイヤルスイートに響いた。「それ」が安部の絶対的な自信の裏付けだと久作はようやく気付いた。

「NSAって、アメリカ国家安全保障局の、あのエヌ・エス・エーか?」

 笑う安部に応えたのは通信、一階ロビーにいるアヤだった。そう、アヤがハッキング対象として「最も手強い」と毎回説明する組織がNSAなのだ。アメリカ国防総省、通称ペンタゴンに匹敵する機密組織で、膨大な情報を持っているアメリカの諜報機関である。アヤが続ける。

「NSAはあくまで諜報機関だけど、ペンタゴン直系の独自部隊を持ってて軍事行動することもある、ってこれはもう都市伝説クラスの噂だけど、本業はエシュロン、世界規模のシギントシステムの運営管理だろ?」

「ははは、キュートなミス・ホークアイはさすがは電子戦機だ。シギント、通信傍受なんて単語が当たり前のように出てくるな。そうさ。そもそもNSAはシギントシステム、通称エシュロンを運用する機関だ、承知だろうがな。冷戦以後、大した紛争がなくなってお役御免になりそうになったんだが、奴らはこう考えた……」

 レイバングラスのブリッジをくいと上げて、安部祐次は続ける。声色に自信が溢れているようだ。

「対テロ、こういう名目でならエシュロン、世界規模の通信傍受システムの運用は有意義だ、とな。当然、中東の紛争地域に対するエシュロン運用も然りだ。要するに、NSAにとってはテロだ紛争だはなくなっては困るんだよ。反吐が出るだろう? だが、それが実際だ」

「エシュロンのシギントシステム運用なんて、アメリカが独断でやれるかよ! NSAってのは覗き趣味の集まりだ!」

 今は日本にいる、アメリカ国籍のアヤが天井スピーカから叫ぶ。

「そうさ。覗き、盗聴、情報と名が付く全てを世界規模でかき集めて分類するのがNSAの通信傍受システム、エシュロンだ。こいつは構築するまでにべらぼうな金と時間が掛かるが、お陰であらゆる通信は全てNSAの監視下だ。これを戦争がなくなったから廃棄しろってのは勿体無いし、NSA局員にすれば是が非でも運用を続けたい。メシのタネでもあるしな。そこでステイツのテロアレルギー、これを利用だ。世界規模での通信傍受盗聴システムはテロ抑止になる、そうNSAが言い出せば、ホワイトイーグル(合衆国大統領)だってノーとは言えないさ」

「アメリカ国内でアメリカ人を盗聴監視するのは違法だぞ!」

「建前はな。しかし相互監視、なんていう言い訳で通じるのさ。結果としてNSAは、自国を含む世界全ての国に対して諜報活動が可能となり、手元には膨大な情報、個人を含む全てが集まる。これを対テロとして運用してやるには、抑する対象、つまりテロが必要なんだよ。対テロと言っておいてテロが発生しなければ、いずれエシュロンは廃棄されNSAは存在価値がなくなるからな」

「……NSA存続のためにテロ? メチャクチャだ!」

 アヤが通信で怒鳴るが、安部は表情を変えずずっと笑ったままだった。

「大規模組織の実情なんてどこもそんなものさ。だが、ミス・ホークアイと同じように思う連中もいる。意図的に紛争地帯への武器ルートを温存し、発生するであろうテロを寸前まで傍観する、こういう態度がけしからん、とまあ、ステイツらしく考える組織だ」

「ラングレー?」

 今度は久作が呟いた。安部はゆっくりと頷く。

「そうだ、ボギーワン。バージニア州ラングレーにある、クーデターメーカー。アメリカ中央情報局、通称CIAさ。こいつらはイーグルサム直轄でDIAなんて下部組織も持っていて、ステイツの中ではペンタゴンに並ぶ組織だ。自前で軍隊を持っていて、工作員は世界各地。隠密が信条の奴らの実態は公表はされないが、要人暗殺なんて話も聞くだろう? 中東諸国からは逆にテロ組織と認定されてる、クソの集まりだ。こいつらCIAからすると、NSAの活動というのはうっとおしいんだとさ。で、どうなるかと言うと、NSAとCIAの場所争いだ。こいつは傑作だ! ステイツがステイツ同士で撃ち合うんだからな。大した正義の国さ」

 ははは、とひときわ強く笑う阿部に、久作も、通信の向こうのアヤも呆然だった。

 CIAは映画などでフィクションとして登場するので日本人でもイメージが容易いだろうが、詳しくなければFBIと同じ程度だろう。実際は大統領直下の情報機関、実働するだけの人員と武装を持つ組織のCIAと、連邦警察であるFBIで全く違うものだが、暴露記事などでCIAという単語が登場することもある。徹底した秘密主義で、安部の言うクーデターメーカー、意図的にクーデターをでっち上げてそれを自分達で処理する、といったこともまことしやかに囁かれている。

 それとは別で二度の大戦以後に勢力を拡大していった組織、アメリカ国家安全保障局、通称NSA。盗聴を目的として誕生して、シギントシステム、通信傍受設備の構築のために人工衛星インテルサットを使った情報収集、海底の通信ケーブルから情報を吸い出すことまでやり、アヤが指摘したように自国民に対する盗聴監視も行っているとされる。このシステム全体をエシュロンと呼ぶ。ちなみにエシュロンはフランス語で梯子の階段。冷戦以後、大規模な諜報活動がCIAだけで足りる状況に対して、対テロを名目として現在まで存在する。ここまではアングラサイトでも巡っていれば民間人でも容易い。実際、アヤはこの辺りの情報に精通している。日本の三沢基地にエシュロン施設があり、廃棄されたが以前は稼動していた、といった情報もすぐに入手可能だ。

 だが、そんなNSAとCIAの内紛、これはもうフィクションの世界だ。

 なのだが、両組織の体質、誕生経緯などを知っていれば両者の確執や対立というのはそれほど違和感はない。CIAが権力拡大を裏で行っていることは今では公然で、それとは別で権力を拡大しているNSAが面白くないとCIA上層部が判断するといったことも、なくはない。そして、ここで繋がるのがレッドスターと安部の行っていた、未遂で終わった幾つかのテロと、聖地エルサレムの長い紛争。武器、麻薬と売春、人身売買ルート。

 仮に、エルサレムのキリスト教武装一派にCIAが加担していたとして、対抗するユダヤ教などにNSAが助力することは、表面上は宗教戦争だが実情はCIAとNSAの争いだ。それも、どちらも勝たず負けない永遠に続く紛争。元自衛官でセルビアに渡った安部祐次をNSAが現地スカウトして、NSA工作員としてテロ組織のレッドスターに潜入させるとする。レッドスターのテロが全て未遂なのは安部がNSAに情報を流していたからで、これでNSAの存在意義は保たれる。武力拡大したNSAにCIAが対抗するにしてもそれはあくまで裏でなければならず、その舞台を聖地エルサレムに移して現地兵士の持つ武器をCIAが流していれば、それがイスラムだろうがユダヤだろうがCIAはここを監視するという名目で動ける。そのCIA活動に対抗する形でNSAが、安部を筆頭とする実行部隊を現地に送り込む。NSAからすれば中東紛争の監視という名目で、裏ではCIAの活動範囲を具体的に狭める。中東という場所柄から日本人、アジア人である安部は重宝されるだろう。元自衛隊という裏付けもある。

 ここに元KGB、現ロシアやフランスの諜報機関が絡むのも当然で、それは裏側の麻薬ルート、ルチルアーノ・ファミリーやノエル・ギャラガーを通じた監視となり、中国軍上層部は蛇尾、スネークテイルに工作員でも仕込めば監視体制は可能だ。つまり、現在のエルサレムを中心にした宗教紛争は、アメリカのNSA、CIA、ロシアとフランスの諜報機関、中国軍部の厳重な管理下にある、統制された紛争であると、そういうことだ。

 前村歩誘拐は日本国内に対抗出来る組織がないという事情と、天海グループとアクツエージェンスの企業間競争の結果だが、これもNSAの作戦の一部であろうことは、安部祐次が加担していることから想像出来る。これがアメリカの、いや、NSAの日本政府に対する軍事的活動で、在日米軍の存在意義や予算・権力拡大、つまりアメリカ国防総省、ペンタゴンの思惑が絡むと想像すると、要人解放と六億五千万円を要求する女子高生誘拐事件は全く別の顔を見せる。

 だが、と久作は自分にクエスチョンを出した。仮に安部祐次がNSA工作員だとすれば、彼を拾い上げた人物がいるはずだ。それも非正規部隊の隊員もしくは工作員として。表面上は武力を持たないNSAの兵士に志願など不可能で、この人物が仮にNSAの人間であれば、安部と阿久津を、ノエルやスネークテイルらと結んだと考えると辻褄が合う。つまりだ。安部祐次には……。

「黒幕が、いる?」

 思考からこぼれた科白が久作の口から出る。

「それはそうだろう。元自衛隊とはいえ、アジアの個人がこんな大袈裟な舞台に上がれるはずもないさ。CIAであれNSAであれ、アメリカ国籍で各種訓練と試験を通過した人間だけが所属を許される。だから俺は非正規なのさ。しかし、公式ではないにしろ俺の行動はステイツの厳重な監視下にあって、日本警察如きが手を出せる代物じゃあないと、そういうことさ。折角だ、紹介しておこう。俺をこんな大舞台に上げた張本人は、こちらの彼女だ」

 安部が示したのは隣に立つ女性だった。三十代で日本人キャリアウーマンに見える、赤いフレームの眼鏡の女性で、まだ一言も発していない。外見からの印象が恐ろしく希薄で、容姿はOL風だが安部の隣に立つともう正体不明だ。アジア系には違いないが日本人と断言出来ないのはNSAだCIAだと聞かされたからで、セミロング、ウルフシャギーの黒髪で笑いもせず無表情だった。

「彼女はリッパー。本名かどうかは知らんし、NSA局員だと名乗ったがそれが本当かどうかも知らない。俺を拾ってNSA工作員としてレッドスターに潜り込ませて、ノワールの阿久津というそこのお坊ちゃんに俺を紹介したのも彼女さ」

 リッパー、そう紹介された女性の視線が久作と合った。一瞬だったがそこに敵意のようなものは感じられず、逆に柔らかい印象だった。中国公安リーの相手がチェーカー、元KGBだとアヤが推測していたのでその同類のようにも見えるが、見た目から何もイメージ出来ない。ただの民間人、OLにしか見えない。元陸自の安部とチンピラ集団ノワールの幹部である、デコピンと蹴りで絨毯に倒れている阿久津を繋ぎ、麻薬王ノエルやルチルアーノ、マイヤー・フランスキー、蛇尾、レッドスターを全て繋いだ彼女。リッパーと紹介されたがそれが本名な筈はない。偽名というより、そもそも誰かの名前には向かない単語である。

「ジャック・ザ・リッパー?」

 世界的に有名で映画や小説にもなっているシリアルキラー、千八百八十八年イギリスで発生した未解決連続猟奇殺人事件、その犯人の通称が、切り裂き魔ジャック、ジャック・ザ・リッパーだ。返答に期待せず久作が女性に尋ねると、かすかな笑みが返答と同時に返ってきた。

「RじゃなくてLよ」

 LIP、リップ、唇。久作は思わず女性の唇を見る。ふっくらとした、レイコに似た印象の唇はキラキラと光るピンクのルージュで、L、I、P、P、E、R、とゆっくりと発音した。リッパーと名乗る彼女が前村歩誘拐から米大使館テロ未遂をお膳立てして、中東紛争にも一枚絡んでいる、そう安部は言っていた。その規模なら元KGBやフランス、イギリス、中国政府も登場するだろうし、米国NSAとCIAの代理戦争も、彼女がそういった組織の一員なら安部と阿久津、アクツエージェンスを交えて可能だ。つまり、首謀者である安部と阿久津、その黒幕であろうリッパーという女性が目の前に並んでいると、そういう状態だ。

 安部祐次がこの局面で嘘やハッタリを使う必要はないだろうから、その言葉の殆どは真実なのだろう。安部が言った、警察では対処出来ないという科白も頷ける。NSAを筆頭にしたアメリカ合衆国に真正面から挑む人間など世界中を探してもいない。闇討ちどころか家ごと爆破されても全く不思議ではない相手なのだが……。

「ヘイ、ミスター・クソエクスミリタリー。さっきお前、警察ごとき、そんな科白を吐いたか?」

 MP5サブマシンガンを両手で構えた神和が、膝を突いたまま呟いた。

「そうだが、巡査部長、どうしたね? 癪に障ったのなら、それが事実だ。たかが県警の刑事が、まさかNSAに対して牙を剥くか? 明日の朝刊は、県警本部爆破、こんな見出しになるぞ?」

 レイバングラスの奥で微笑む安部に対して、神和彌子が露草に負けないほどの眼光を向ける。大きくて、普段は猫のような愛嬌だが、今はチーターの如くである。

「たかが? たかが県警? ヤーヤーヤー、クソ軍曹殿? お前がNSAだろうがCIAだろうが、CNNだろうがABCだろうが、ここは日本なんだよ。意味解るか? お前如きがどういう理屈で動いてるのかは、あたしにはどーでもいいんだよ」

 両手のサブマシンガンを安部のサングラスに向けて、神和は立ち上がった。SWATロゴのベースボールキャプが吹き飛びそうなほどの覇気を撒き散らして、ちっ、と舌を鳴らす。

「仮にだ。仮にお前のご高説が全部本当だとして、致命的なミスが一つある」

「巡査部長? NSAやCIAにミスはない。死とミスがイコールな世界で動いているのが俺らだ」

「だったらお前は舌噛んで死ね。お前のミスはな、あたしの管轄内で犯罪を犯した、これだ。このホテルは県警の管轄で、ノワールは刑事部九課の管轄で、あたしはノワールの専従捜査員だ。NSAだ? だったら何だ? こちとら県警九課。法と秩序の番人で、市民の味方のお巡りさんだコラ」

 覇気を科白に乗せた神和に対して、安部祐次は笑いで返した。

「法と秩序か。それはまた大層な肩書きだが、その法がお前の国でしか通用しないこと、俺はこの国とは違う法律で動いていること、これを理解していないようだ?」

「だーかーら、それがテメーのミスだってんだ、チキン野郎。テメーは国籍上は日本人で、ここは日本。つまり、日本の法律が適用されるんだよ。たかがお巡りさんとかナメてたら、そのスカしたグラサンに9ミリ撃ち込むぞ?」

「やれるのか? 巡査部長? 俺を逮捕、もしくは射殺するのは簡単だろうが、その後はどうなる? たかが巡査部長如きの状況判断で県警本部から警察庁、果ては行政府まで巻き込んだ大騒動だ。NSAにすれば、自分の持ち駒をどうこうされたら、その後始末はするだろう。必死に保護した前村歩。隣のボギーワン。阿久津の同僚らしい女性医師。後ろの女子高生。外にいる須賀恭介くんと中国公安。ミス・ホークアイにハエのような公安。他にも数人だが、確実に消されるぞ? お前はあえて生かされてな。それでも撃つ度胸がお前にあるか? こういうのはどうだ?」

 ソファに座ったまま安部は、紺スーツの懐から拳銃を抜いた。オートマグに似ているが細部が違う。久作はじっと観察して、それがウィルディ45W.Mag、45ウインチェスターマグナム・オート、だと解った。専門雑誌で一度だけ見たことがある珍品だ。四十五口径オートでシルエットは44マグナムことオートマグに似ている。

 安部がウィルディを構えたことで神和は発砲可能になった。安部の、どうだ? はつまり神和彌子に発砲する理由を与えて、かつ、それが出来ないバックボーンを論破してみせろ、ということでもある。接して短いが、久作は神和彌子がどういう性格なのか把握していたので、その光景に一瞬、思考が止まった。

「神和さん? ダメですよ?」

「神和ぃ、ちょいと頭冷やせや」

 聞こえているか不明だが久作は言い、天井スピーカから乾警部補らしき声も続いた。久作から見た神和彌子は非常に好戦的で、ガバメント、MP5からブレンガン、スタングレネードまでを躊躇なく使う、銃火器のエキスパートでもあった。県警本部で彼女がトリガーバカ、などと呼ばれている原因をこのホテルで目の当たりにもした。犯罪者相手なら頼もしいことこの上ないが、この場面では逆に危険だ。それは彼女が照準を誤る、などではなく、銃を向けている相手、安部祐次が非常に危険な相手だからだ。

「乾さんとサイクロップスくんが言いたいことは解るけど、こいつ、あたしを、如き、とか言いやがった。県警九課のこのあたしにだぞ? あー、もう。脳内回路がどんどんショートしていく音が聞こえるよ、ブッツン、ブッツンってな。あたしはな、頭脳労働は苦手なんだよ」

「速河ー。アホの神和は言うだけ無駄やで?」

 露草が微妙な相槌を入れるが状況は全く好転しない。神和の握る二挺のMP5がカタカタと震えている。対する安部のウィルディ・マグナムは神和の胸を狙って固定されてある。これを九課対誘拐犯と見るか、日本対アメリカ合衆国と見るか、警察官対犯罪者と見るか、トリガーバカ対テロリストと見るか、この判断を誤ると誇張ではなくとんでもない事態になる。

「ははは! お巡りさんは正義の味方か? しかしな、NSAにもステイツにも正義はある。元KGBにだってフランス政府にだって、麻薬王にだってそれはあるのさ。しかしだ、巡査部長。お前の正義は代償を伴う、犠牲の上に成り立つ傲慢な正義だ。俺は自分を正義だとは言わんが、俺を飼っている連中は自分らを正義と呼ぶ。欺瞞なのはお互い様だが、代償である犠牲の上に成り立つ、ここは同じだ。警察官としての正義と言うのもアリだろうが、個人として、いち国民として、女性としての正義、そちらのほうが犠牲は圧倒的に少ない。別に難しい話でもないぞ? 俺らを見なかったことにして、適当な奴を逮捕すれば巡査部長? お前の仕事は成立する。無論、法による正義という大義名分でな」

 安部の科白に驚いたのは久作だった。理由は明白。その科白はトリガーバカこと神和彌子の沸点を突破させるに充分だからだ。県警九課ではなく交番勤務の巡査でも同じリアクションだろうが。

「テ、テメーは……あたしの、け、警察官としての、プ、プライドを……犠牲の上の欺瞞の正義とか、そう言ったか?」

 カタカタと震えるサブマシンガン。トリガーに掛かった二本の指が、握るグリップと一緒に震えている。大きな瞳は見開かれて、眼光はジャックナイフか日本刀か、そんな鋭さで安部祐次のレイバングラスとウィルディ・マグに突き刺さっている。神和の黒いキャップは今にも燃え出しそうだ。彼女と長い露草なら収められるかもしれないが、露草本人にはその気はないようで、こちらは倒れた阿久津零次の横でひたすらに煙草を吸っている。久作は加速した思考に様々な感情が渦巻いて状況判断がかろうじてで、とてもではないが客観的に二人を見れない。安部が次々に出した単語の意味を最も正確に知っているアヤも同じくで、唯一、この場で冷静な、的確な判断が出来そうな人物は……。

「リカさん!」

 リカ、橋井利佳子。神和の武装を運んだグレイハウンド、荷物運搬役の彼女がこの場で唯一、的確な、冷静な判断が下せるのでは、そう思った。前村歩と並んで抱き合って座っているリカは、このロイヤルスイートに突入してから阿久津零次と安部祐次が語り出すまでずっと無言だった。リカは久作の問い掛けにすぐには反応してこない。安部の語ったこと、その前の阿久津零次と露草との会話から自分なりに判断しようとして、パニックを通り越してエンストしている、そんな様子だった。

「久作、くん? あの、私、難しいことは全然解らないんだけど……その安部さん? その人は、あの、つまり、敵? それとも味方?」

「ダメだ」

 リカに続いたのは天井スピーカとイヤーピース、通信のサミー山田だった。

「神和巡査部長、私だ、サミー山田だ。安部祐次を撃ってはダメだ。巡査部長は不本意だろうが安部は私が、公安一課が引き継ぐ。巡査部長、逮捕せずともアナタは警察官として正しい――」

「シャラーップ!」

 パパン! 神和の両手のMP5が天井に向けて火を噴いた。アールヌーヴォー内装の天井に小さな穴が二つ空いた。

「こいつは! 日本の警察官全員をバカにしてやがる! 何がNSAだ! エシュロンだ? だからどうした! こちとら全国三十万警察官の代表だコラ! 世界でも優秀な日本のお巡りさんをナメやがって! 報復が怖くて警察なんてやってられっか! あたしには善良な市民を危険な犯罪から守るっていう使命があるんだよ! 犯罪者が怖くてお巡りさんなんぞやれっか! 県警九課をナメんな! あたしは……」

 ふっ、と息継ぎして、神和は怒鳴った。

「あたしは! さ迷える紅い弾丸! 県警九課の神和彌子様だ! NSAだろうがCNNだろうが、束になってかかってこいよ! あたしのプライドはポリスバッヂよりも硬いんだ! クソチキン野郎! テメーこそ撃てるか? あたしにそのチンケなオートを一発でも撃ち込んでみやがれ! その瞬間からテメーはICPOも裸足で逃げ出すジャパニーズポリス全員の標的でダックハントだ! フォーティーファイブ一発程度でこのあたしを黙らせようとか思うなよ? んなもん、気合で跳ね返してやっぞ!」

「神和ぃ、気持ちは解らんでもないがよ、ノリだ勢いだで勤まるほど単純な仕事でもないだろう? 俺たちは」

 怒鳴り散らす神和に対して、通信の乾警部補の口調はのんびりしたものだった。サミー山田巡査部長を一喝した神和だったが、どうやら乾警部補の科白はきっちり耳に届いているらしく、表情こそ鬼の形相だが叫びは一旦止まり、荒い息遣いだけが残った。

「乾さん? あー! くっそ! 頭が真っ白になってきやがった! 逮捕? もー面倒だからこいつ、射殺すっか? いやいや、あたしは警察官だから、えーっと、何だ?」

「神和ぃ、それと速河の久作くんもだが、そこの安部の言葉が全部事実だとしてもだ、なーんか俺にゃ引っかかるんだ。根拠はない、単なる勘なんだがな。何、簡単な話さ。NSAってのは諜報機関みたいなモンだろう? そいつらがよぅ、要人でもない民間人を誘拐なんぞするか? するにしたってそれだけの理由なんぞあるか?」

「乾さん? うん、うん?」

 怒気を撒き散らしていた神和は、乾の言葉で唐突に収まった。久作の思考も停止する。手を出せば各種報復が予想されるNSA所属のテロリスト安部。しかし乾の言うように、NSAが民間人を誘拐するなどという話は聞いたこともないし、その必要さえない。安部の言葉が全て真実だと仮定すると、そもそもこの状況がおかしいという結論に達する。先刻とは違う違和感は神和も感じているらしく、MP5を構えてはいるが首を捻ってもいる。

「毎回と言えば毎回だがしかし、厄介な話だな? 速河」

 左からの声に遅れて反応した久作は、両手に銀色の警棒を握った須賀の、普段通りの澄まし顔を見詰めた。

「須賀?」

 須賀はあの大柄の黒人、キックボクサーらしき相手と戦っていたはずだが、汗の一つもない。桜桃ブレザーは相変わらずしわくちゃだが、両手に警棒を持つ以外は普段通りだった。

「一人倒すのにあれだけの時間とは、俺もまだまだだな。しかし、きっちりと仕留めたさ。二時間は目覚めないだろう。唐竹割りを脳天に二発入れてやったからな。二刀で上段というのは面倒なんだが、まあ倒した。リーさん、あちらもそろそろ片付きそうだ。ところが、こちらはどうにも面倒で厄介なようだな。話は通信で聞いていたが、全く、気が滅入る内容だ。ついでに反吐が出る」

 やれやれ、と肩をすくめて、須賀はロイヤルスイート入り口から一同を眺めている。漂った視線が絨毯の阿久津零次に止まり、そこから安部、リッパーを名乗る女性、そして神和彌子と流れて、久作に戻る。

「速河、リカくんの質問に答えていないだろう?」

 当たり前、そんな調子で須賀は言った。促されてリカを見るが、質問した以降、また沈黙している。須賀以外に口を開く者がなく、ロイヤルスイートは須賀の傍で呻く兵隊だけで静かだった。

「リカさんからの質問? この、安部祐次が敵か味方……か?」

 若干エンスト気味だが聞かれるまでもない。テロリスト、誘拐犯、元自衛官の安部、サングラスのこの男は、リカちゃん軍団の久作から見れば敵だ。ついでに犯罪者で、悪党でもある。だが同時に、NSA工作員、合衆国の諜報組織の一員でもある。しかし、合衆国は久作の敵ではない。少なくとも久作はある他国に対する悪意を抱いてはいない。愛国心とも無縁だがつまり、久作には思想的な縛りが一切ない。神和のように職務としての肩書きやそこから発生する使命もない、ただの高校生だ。

 リカの質問。安部祐次は敵か味方か。方城の試合でもあるまいし、味方ではないから全て敵とは思わないが、安部祐次が誘拐の犯罪者であることは間違いなく、前村歩、リカの隣に座る彼女が同級生で女性であることも間違いない。別にフェミニストでもないが女性には普通以上に接する久作なので、そんな前村歩に対する犯罪者はつまり、久作には……。

「敵だ。安部祐次、アナタはぼくの敵だ。随分と考えたがこれしか出ない」

「ボギーワン、速河くん? きみのその判断は、関係者全員を巻き込むかもしれんな?」

 武器を構えて黙っている神和から久作にマズルを向けた安部が涼しそうな声色で尋ねるが、久作はウィルディ・マグの銃口とレイバングラスを睨み返す。

「考えろ! 速河久作! この頭は飾りじゃあない! そのための脳みそだろうが!」

 あえて声に出した。頭だけで考えているよりも思考がぐんと加速する。音速を突破した思考がずっと続き、神和ではないがあちこちショートしているようでもあったが、加速はまだまだ続く。そして、その速度だからこそ見えるものがあった。

「そうか……安部さん。アナタは一見すると手出しをするとこちらが危ない、そんな相手なんですけど、ぼくの考えは別です。判断材料は目の前に揃っていたんだ。ホークアイからのチェックメイトは、やっぱりアナタに対してだ。いいですか? 安部祐次さん、アナタに対してだ。隣の女性、リッパーという彼女に対してではない。これは重要だ。誰に? アナタにだ」

 サングラスの安部ではなく、隣に立つ無言、赤いフレーム眼鏡のウルフシャギーの女性に向ける。澄ました顔は相変わらずで、感情は読み取れない。見た限りでは武器もなく、格闘技くらいは出来るだろうがスタイルはモデルのようで筋肉は殆どない。随分とスリムで露草葵のように脚がスラリと長い。レイコに似たふっくらとした唇と、こちらは方城のような鋭い目が特徴的だが、笑うでもないので印象が極端に薄い。Lのリッパー、唇という名前は本名ではないようだが、その響きから連想される鋭利さも薄い。

 そんな正体不明の彼女、リッパーが目の前にいる、そのことが全ての答えだったのだが、ギリギリ間一髪、かろうじて間に合うというタイミングでそれに気付けた。でなければ前村歩の安否を含めて全く違ったフィナーレになっていただろう。


 安部祐次の切り札は、同時に久作にとっての切り札、ジョーカーだったのだ。

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