館野 5
マンションを出ることになった。四国で旅館を営んでいる親戚が、人手が足りないというので、応援に行くことになったのだ。隣の少女も無事回復し、館野より一足先に引っ越して行った。館野自身、心も体も回復しており、これ以上ここに止まる理由はない。
引っ越しには、両親と藤が手伝いに来てくれた。
自分には取り柄がない。誰の目にも止まらないつまらない存在だ。ずっとそう思っていたのに、最大の窮地を藤が助けてくれた。
彼は営業で回っていた大学の三年生で、特に親しくなかった。いや、女にもてると聞いていたから、嫌な奴だと敵視していたぐらいだ。それなのに彼は、少女の事故が館野の責任でないことを証明するために駆けずり回り、切り目が入っているけど切れていないリールを捜し出してくれた。
話によると、彼はののどの渇きを潤すために、近くにあったスーパーに行ったそうだ。
そのスーパーには館野も何度か行ったことがあるが、店のイメージソングがうるさくてあまり好きじゃなかった。ついコンビニを利用していた。
だからレジの横にサービスコーナーがあり、タバコや進物用の菓子が売っているなんて知らなかった。ましてカウンターの上に忘れ物入れの籠があり、店の中や外の駐車場付近で拾われた物が入っているなんてことも。
ベンチに座って休んでいるとき、藤はその籠に気がついた。そこで犬のリールを見つけて、病院まで持って来てくれた。
確かにそれは自分が切り込みを入れたリールだった。普段少女は、犬が可哀想だという理由で、リールをしていなかったらしい。
それを知って、館野は救われた。
両親も隣で泣いていた。
まさに地獄に仏、もちろん仏は藤だ。どれだけ感謝してもし足りない。リールを捜すために必死になってくれたに違いない。でも藤はひょうひょうとしていて、こちらがお礼を言うと、それほどではないと、かえって恐縮した。もてると聞いて羨ましかったけど、これは納得だ。大して親しくないのに、下心なく力になってくれた。藤と連絡先を交換した館野は、もし藤に何かあったら、全力で力になろうと思った。それぐらいしか今の館野には藤の親切に報いる方法が思いつかない。だからそのために、次の仕事を精一杯頑張ろうと思っている。
捨てる物と持って行く物の分別をしていると、電話がかかってきた。知らない番号だから少し警戒する。
クビを言い渡された後も、何度か松永から電話があって、言いがかりのような叱咤を受けた。今はブロックをしたので収まったが、入院中に母親が出てしまい、嫌な思いをさせてしまった。
二度目にかかってきたとき出てみると、元同僚の新開だった。
「いろいろお世話になりました」
結局あれから会社には行かず、辞表だけを郵送した。そういえば誰にも最後の挨拶をしていない。
〝いえ、こちらこそ、松永さんがあんなに酷いことを言っていたのに何もできなくて、すみませんでした〟
今となっては、松永という名が懐かしい。
毎日嫌味を言われ、自分は無能だと、追い詰められた。今でも横断歩道を渡るとき、自分みたいな無能がこの世に存在していてもいいのかと、ネガティブな思いが頭をかすめ、足がすくんでしまうことがある。
でも今新開から松永と聞いても、実体がなく何の感慨も湧かない。自分が恐いのは松永ではなく、自分に何の価値もないと認めることだったのかもしれない。
〝今日はお礼を言いたくて、電話しました。辞める前に館野さん、松永さんの所業を上司に訴えてくれたでしょう。あれで松永さんに処分が下ることになりました。このごろ気持ちが悪いぐらいに大人しいんです〟
「いや、あれは親父がしたことです。それに、新開さんが証拠の音声を録音してたからですよ」
館野の話を聞いた父さんが今後の対策を立てていると、新開が見舞いに来てくれた。新開は、館野に暴力を受けた証拠の診断書があり、初期のうつ病と診断されて療養中であることを知ると、松永の怒声を録音していると言い出した。
父さんは新開の録音記録と、息子の診断書を持って弁護士に相談へ行ったのだ。父さんは農業しか知らず、会社勤めの息子の心労など想像できないと勝手に思っていた。でも実際は、父さんの方が余程世情に明るく行動的だった。
その後、松永の行為はパワハラと認定された。
〝それでなんですけど、戻って来てもらえませんか。館野さんがいなくなって、困ってるんです。色々わからないことがあるし、とにかく人手不足で〟
父さんと母さんはこちらの様子をちらちらと、伺っている。
「そんな風に言ってもらえるのは嬉しいんですけど、四国へ行くことが決まったんです。親戚の旅館を手伝おうと思って」
前職や東京に、もう未練はない。
〝そうですか。残念です〟
口ではそう言いながら、あっさり新開は引き下がった。
電話を終えて息を付くと、藤が引っ越し業者からもらった段ボールを組み立てていた。
「これ、全部、箱に詰めていいんですか?」
押し入れの衣類を、指さしている。
館野に遭う前に、毎回シャワーを浴びてから来るから、藤の髪は濡れていた。犬アレルギーの館野を、自宅に猫がいる藤は気遣ってくれる。少し前までは、例の犬も預かっていたらしい。
少女が意識を取り戻したとの連絡を受けた館野は、病院へ見舞いに行った。そこで犬のリールを切ったことを謝まると、少女はあっさり許してくれた。そんなことより早くキナコ(犬の名前)に会いたいと笑顔で話し、リハビリに励んでいた。
少女は退院すると、藤の元に母親と一緒に尋ねて来て、犬を引き取って行ったそうだ。その後、犬を本格的に飼うために母親の実家に帰ることを決めて、マンションを出て行った。詳しい事情は知らないが、元々実家と折り合いが悪かったのが、少女が怪我をしたことで関係が改善したのだとか。
「本当に色々ありがとうね」
てきぱきと働く藤を、母さんが顔を赤らめて見ている。
それを見て、背中にぞわりと鳥肌が立った。もてるのはわかるけど、これはいけないんじゃないか。母さんは今年で五十五歳、藤は二十一歳。歳の差があり過ぎる……っていうより、父さんがいるだろう。
「そうだ。今日は門出なんだし、お寿司でも食べに行きましょうか。ねえお父さん。藤君も一緒に。いいでしょう。ねえ、藤君」
母さんの目が乙女みたいにきらきら輝いている。
息子のピンチを救ってくれた学生を頼のもしく思うのはわかる……わかるけど……。
「ああ、すみません。俺、この後バイトがあるんです」
藤の返事に、母さんは目に見えてがっかりした。
「そうなの……どんなバイトをされてるの?」
「中華料理屋の厨房です。はじめは皿洗いだったんですけど、この頃炒め物を任されるようになったんですよ」
「まあそうなの。中華料理屋さんで炒め物ってすごいじゃない。じゃあ、そちらにお邪魔しましょうか」
「これ、止めなさい。迷惑だろう」
父さんが困惑してたしなめている。
「いえ、迷惑じゃないですけど、汚いお店なんです。館野さんのお母さんみたいにきっちりした人が来るところじゃないですよ」
「いやだわ。そんなにきれいじゃないわよ。お父さん、行ってみましょうよ」
〝きっちり〟を〝きれい〟と聞き違えてるし。母さん、耳大丈夫か。
「そうだな。お邪魔じゃなかったら行ってみようか」
父さんは強引な母さんに引きずられている。
そうだった。うちっていつも母さんが底抜けに明るくて、それに父さんが引きづられている感じなんだ。息子のために弁護士を訪ねる父さんなんて非常事態は今までなかった。
水風船が割れるようにはっとした。夢から覚めた気がする。
不眠やアレルギーやパワハラで、苦しんだ悪夢。
どうして悪夢の最中に、これは異常なんだと気がつかなかったんだろう。
一歩立ち止まって客観的に眺めることができたら、もっと早く解決したのに。誰かに助けを求めればよかったんだ。自分にはこんなに頼りになる人が傍にいるんだから。
「すみませんねえ、藤君」
父さんが申し訳なさそうに頭を下げた。見た目はひょろりとしていて気が弱そうに見えるけど、毎日畑で農作業に勤しんでいるせいで、脱げばがっちり、実用的な筋肉が付いてる。こんな人が身近にいることに心強く思うと同時に、自分も頼りにされる存在になりたいと思う。
「いえ、こちらこそすみません。せっかくのお寿司が、うちの中華になんかなっちゃって」
藤と父さんが頭を下げ合っている。
藤の働く中華料理屋さんって、いつも近所の人が食べに来て、中華鍋を揺する音がお客まで届く、賑やかなお店に違いない。
そんな中で藤の作る焼き飯を食べる自分を想像した。
きっとご飯はパラパラで卵はふっくら、炒め過ぎずごま油が香る。そんな焼き飯をあふあふ冷ましながら食べるのだろう。
「ああ、ものすごく腹減って来た」
つばを飲み込んで館野は言った。
藤の作る焼き飯こそ、自分の門出に相応しい気がする。
蛇行しながらまっすぐ歩く 森野湧水 @kotetu1
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