7

 次の朝、犬の鳴き声で目を覚ました。

 誰かにいじめられたみたいに高い声で鳴いたかと思うと、オオカミの遠吠えみたいな声を出す。

 前日は遅くまでヨシムネとリールを捜して、横断歩道付近を歩き回った。交番へ行き、落とし物の問い合わせまでしたけど見つからなかった。いつもヨシムネの神通力に頼ってけど、今回はそれも通じないようだった。

 くたくたになって深夜に帰り、やっと眠りについたところなのに犬がうるさい。

「秋人さん」

 ふすまの隙間から波子さんの声がする。

「はい、今行きます」

 犬を連れて来た責任を取らなければいけない。

 でも体が重い。プールの中を歩くような足取りで縁側まで赴くと、繋がれた犬が、鎖を引っ張って暴れていた。

 傍に立つ波子さんは、いつもの麻のパジャマにカーディガンを羽織っている。

 朝夕は涼しくなってきていることに気づき、ほっとすると同時に寂しくなった。後期課程が始まると、新しい研究室へ行くことになる。

「散歩に行きますね」

 そんな思いを吹っ切るように顔を洗い、簡単に着替えた。犬を外用のリールに付け替え、まだ人の少ない早朝の町に出る。

「ちょっと、待って」

 一つ目の角を曲がろうとすると、上下淡いピンクのスポーツウエアを着た波子さんが追いかけて来た。

「私もご一緒させてください」

「はい……いいですよ。もちろん。こちらからお願いしたいくらいです」

 犬が勢いよく走ろうとするのでリールを引っ張って押さえると、渋々という体で早足にとどめている。小さい割には引っ張る力が強い。こんな犬を、小学生の女の子が一人で散歩に連れて行くのは大変だったんじゃないか。

「元気がいいわね」

 波子さんは、自分のペースでゆっくりと歩きながら、茶色と黒の塊を見ている。立ち上がるとわかるが、その犬は前足が黒っぽい。

「ちょっと走って来ますね。この先の河原で待ってます」

 波子さんに断ってから、嬉しそうにしている犬と一緒に走り出す。

 犬より秋人の方が先にへばった。当然か。大学に入ってから、ろくな運動をしていない。

 遠回りをして河原に着くと、波子さんはもう来ていた。同じ歳くらいの御婦人と話をしている。

「やっぱり朝の散歩は気持ちがいいですね。しばらく続けようかしら」

 波子さんと話をしていた御夫人は、軽く会釈をして去って行く。

「そのスポーツウェア、似合ってますよ」

 楚々としてお茶をたしなんでいるイメージが強い波子さんだから、ピンクが新鮮だ。

「いえね……」

 波子さんは恥ずかしそうに俯いた。

「娘がたまには運動したらと言って、随分前に送ってくれたんです。その時は恥ずかしくて着なかったんですよ。でも朝早いから誰にも見られないと思って、着てみましたの。そしたら案外人が多くて、驚きましたわ」

 口調とは反対に満更でもなさそうだ。多分さっき話していた御夫人にも褒められたのだろう。

 秋人が持って来たペットボトルの水をたらすと、犬は下で受けるように舌を出して飲んだ。用を足したのでビニール袋で拾う。

 充分走り、生理的欲求も満たされたのか、帰りの犬の足取りは穏やかだった。

「朝からうるさかったのは、散歩へ行きたかったんですね」

 尻尾をぶんぶん振っている犬は機嫌がよさそうだ。昨日あれほど抵抗したことなんて、けろりと忘れている。たった一回の散歩で情が湧いた。このまま保健所に連れていかれて殺処分されるのは何としてでも避けたい。でも学生の身で犬を飼うのは難しい。

 さてどうするか。

「きっちりトレーニングをされれば、人間の言うことを聞くようになるんですけどね」

 波子さんも同じこと考えている。

 飼い主に進めてみようか。でも、あんまり時間もお金も余裕がありそうには見えなかった。

 家に戻ると本格的に水を飲ませ、ドッグフードを食べさせた。家用の鎖に繋ぐと鼻を鳴らしたが、取り合わなかったら諦めたみたいだ。夏草の生える土を少し掘ったもののつまらなくなったのか、伏せて目をつぶってしまった。庭の自然な変化は、波子さんの楽しみの一つだ。今は朝顔のつるが枯れたヤマモモに巻き付き(朝顔のために、枯れても残してあるそうだ)、緑色のアジサイの隣でホオズキが色づいている。

「すみません。ちょっと出て来ます」

 波子さんに告げると、秋人はもう一度少女が事故に遭った横断歩道まで、原付で走った。昨日は夜だったけど、今日は明るいから見つかるかもしれない。

 自分は今まで、誰かや何かを捜してばかりいた。ありえないほどの偶然でそれ等を見つけることができたのは、トキさんの思いをまとっていたり、ヨシムネが助けしてくれたりしたからだ。

 でもたった一人で犬のリールを捜すとなると、見つけられない。実力のなさに挫けそうになる。

 何度も横断歩道を原付で横断した。交差する生活道路も往復した。通行人を見つけると手当たり次第に話しかけて、事故を目撃していなか訊ねた。

 自分が事故に遭ったと仮定したら、手にしていたリールや鎖は落とすはずだ。

 それを見た人はどうするか。

 99パーセントは無視をするだろう。だからどこかに落ちている……はずなんだ。

 でもそれを拾った親切な人が、ごみとして処分していたらどうなんだ。これだけ捜しても見つからないなら、もうこの世に無いんじゃないか。

 何時間も同じ場所をぐるぐる回った。原付で走るからいけないのかと思い、スーパーの駐車場に入れさせてもらって歩いた。スーパーには後で寄って水でも買わせてもらと、心の中で謝っておく。

 思い出してみると朝から何も食べていない。犬と一緒に水を飲んだぐらいだ。そのせいか気温が高いからか、頭がくらくらしてきて、立っているのが辛くなってきた。

 どうして見つからないんだろう。館野はあんなに苦しんでいるのに、自分は何の手助けもできないんだろうか。

 自分が無力で悔しい。なんとしてでもリールを見つけたい。

 強い日差しを浴びながら、秋人は唇をかみしめた。

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