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 次の日、館野の住んでいるマンションと部屋番号を、母親に電話をして教えてもらった。少女が事故に遭った横断歩道とそれほど離れていないから、やっぱり原付で向かう。

〝ホワイトコート〟という名のマンションは豆腐のようで、中庭はなかった。エレベータに乗ると、もわりと熱がこもっていて、館野が毎日階段を使っていたと話していたのを思い出した。話を聞いていたせいか犬の臭いがする気がする。  

 五階で降りると廊下を歩いた。館野の手前の部屋502号室が、犬の飼い主みたいだ。白壁に茶色いドア。傘立てに子どもの傘があるが、犬の散歩用の首輪やリールは見当たらない。

 意を決してインターホンを押してみたが、留守だった。耳をドアにくっつけても、犬の鳴き声はしない。

 隣が館野の部屋だ。玄関前には何もなく至ってシンプルだった。

 引き返して一階に下り、管理人室を覗いてみた。

 〝休憩中〟と書かれたプレートが、ガラス窓の前に置かれている。

 休憩中ってことはいるってことだよな。いやそれより、さっきから犬の声が気になる。

「すみません」

 迷わず受付の窓を開けると、むっとする獣臭に鼻が曲がりそうになった。

 狭い四畳半ぐらいの空間で、リクライニング式の椅子にだらりと寝そべっているおじさんがいる。口と鼻をタオルで巻いているのは、臭いに耐えられないからだろう。おじさんの横に小さなケージがあり、そこから盛んに犬の声がした。

「苦情?」

 おじさんは面倒そうに首だけ持ち上げた。その拍子に口に巻いたタオルが落ちそうになり、慌てて巻き直している。

「いえ、あの、その犬なんですけど」

「ああ、うるさい? ごめんね。ちょっと預かってるんだ。もうすぐ保健所送りになるから、我慢して」

 おじさんは手元にあった孫の手を掴むと、ケージを叩いた。すると犬は、鼻をすするように鳴いた。

「そうじゃなくて、その犬はどうしたんですか?」

 管理人のおじさんは、秋人をここの住人と勘違いしている。あえて正すことなく会話を続けた。

「どうもこうもないよ。うちはペット禁止だって言うのに飼っている住人がいて、押し付けられたんだ。子どもが事故に遭ったからしばらく預かってくれって。その住人、隠れて飼ってたみたいでさあ」

 館野から聞いていた話とは随分違う。

「でも可哀想だから、三日だけって約束して預かってやってるんだ。三日しても引き取りに来なかったら好きにしてくださいって言われてる」

 管理人はそう言いながら、テーブルにある時計を見た。

「あと六時間で三日、七十二時間経つことになるな」

「その犬の首輪とかリードとかありませんか?」

 ケージの中だからよく見えない。

「はあ、そんなの知るかよ」

 どうやらずっとケージに入れっぱなしにしているみたいだ。

「ちょっといいですか」

 管理人室のドアを開け、臭いで頭痛がしそうになるのを我慢して、ゲージの中を覗いた。

「げっ」

 自然と声が出る。ここにきてから一度も外に出してもらってないんじゃないか。ゲージの中で糞尿を垂れ流している。鮭缶が置かれているから餌なのかを思って見ると、水が入っていた。

 ゲージの隙間から、犬は脅えるように尖った歯をむき出しにして吠えた。首輪らしいものはしていない。



「あのなあ、それでどうしてその犬がここにいるんだよ」

 卓袱台のある和室でぐったりしていると、全身の毛を逆立てたヨシムネに、責められた。縁側の窓は開け放たれていて、丸くなった茶色い毛玉が庭の端にある。

 波子さんと502号室の住人に了解を得てから、犬を連れ帰ったのだ。途中で庭に繋げる鎖と散歩用のリール、そして首輪を買った。

 犬は洗われることも鎖に繋がれることもひどく嫌がったため、格闘することになったが、波子さん買って来てくれたドックフードと水を飲むと疲れたみたいで、ぺったり腹を地面につけて眠ってしまった。

 体全体が茶色くて耳がピンと立っていたから柴犬に見えるが、雑種が多いと聞くから断定はできない。一、二才ぐらいだろうか。波子さんの庭を守るためには、どうしても鎖に繋がなくてはいけなかった。少しずつ慣れてくれるのを待つしかない。

「だから、保健所に連れていかれるところだったんだって」

 ヨシムネが口をチョンと鳴らす。ちょっと驚いたが舌打ちに聞こえた。

「そのお人好し、いい加減にしろよ。そんなになんでも首を突っ込んでたら、お前早死にするぞ」

「そうかなあ」

 猫に心配されるって情けない。

「結局、何がしたいわけ?」

「リールを探してる。館野さんが切り込みを入れたんだ。その切り込みが切れずに残っていたら、事故は館野さんの責任じゃないって証明できる」

「リールか……」

 ヨシムネは顔が洗うように前足で掻いている。

「事故に遭ったときに、どこかに落としたんじゃないか。それとも飼い主が持ってるか」

「飼い主は知らないそうだ」


 管理人と話をした後、犬を連れて帰る許可を得るために、飼い主が戻るのを部屋の前で待っていた。

 一時間ぐらいで、疲れた感じの中年女性が現れた。目の下に隈があって、数日風呂に入っていないみたいなゴミの臭いがした。大切な人が突然の事故に遭って、やつれているのだと思った。

 秋人が犬のことを訊くと、厄介払いをするみたいに押し付けられた。犬のリールについてはどこにいったのか見当たらないとのことだった。本当は娘さんの容態についても訊きたかったが、酷く憔悴していて憚られた。

「じゃあ、事故現場に落としたってことだな」

 ヨシムネの尻尾がぴしりと畳を叩く。

「どこへ行くんだ?」

 ヨシムネが部屋を出て行こうとする。

「捜すんだ。こういうものは時間が経てば経つほど、どこにいったかわからなくなる」

「いや、でもこんな時間だぞ」

 そういえば猫は夜行性だった。

「俺も一緒に行くよ」

 厄介払いをしたいからだとしても、たいがいヨシムネもお人好しだ。いやお猫好しか? 

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