5
その日の午後、館野に、病院へ呼び出された。いつものように原付で向かう。
退院が近いので、その前にお礼を言いたいとのことだった。
指定された入院患者の談話室というのは、高校の理科室ぐらいの広さがあった。テーブルが島になって四ケ所に点在している。症状の軽い患者が、見舞客と歓談していた。
秋人が部屋に入ると、窓際の席に座っていた大柄の女性が立ち上がった。くっきりとした二重とぽってりした唇が、館野と似ている。
「先日はありがとうございました」と深々と礼をされ、封筒を渡された。中を見ると一万円札が入っている。
館野の母親みたいだ。タクシー代と言われて、ずいぶん多いがもらっておくことにした。
奥に座っているのは父親だろうか。腕を組んで前を見ている。色白でやせ型、母親に比べて存在感がない。
父親の正面に館野が座っていて、頭を下げられた。
「今日はわざわざ出て来てもらって、ごめんね」
顔色は相変わらず悪い。促されて隣に座る。
「今回のことで両親が取り乱してしまって、事情を説明しろとうるさいんです。自分なりにまとめてみたのですが……」
秋人の方を見る。
「えっとM大の学生さんですよね。申し訳ありませんが一緒に話を聞いてもらえませんか。身内だけだとどうしてもバイアスがかかってしまい、客観的に見ることができなくなるんです」
わざわざ呼ばれてたのはそういう訳だったのか。やっぱり真面目な人だ。試験管一本の注文でも全然いやな顔することなく届けてくれた。それを口にすると、館野は顔をゆがめた。
「話を聞き終わったら、そんな風に思ってもらえないと思います」
そしてぽつぽつと館野は話し始めた。
できるだけ私情を交えず、事実だけを述べようとしているのか、館野はずっと敬語で、誰とも目を合わせようとしない。
館野が精神的に追い詰められていく様を聞いていると、秋人も辛くなった。仕事というのがこれほど過酷なら、就職するのが恐ろしい。洟をすするような声を聞いて顔を上げると、母親が声を殺して泣いていた。それに比べて父親は静かに耳を傾けている。
松永という上司と館野の隣人に対して腹が立った。精神的に追い込まれて、館野は自分が無能だと思い込んでいる。これはもしかすると、うつ病じゃないか。
館野が隣人の犬に関して行った行為を、当然だと思った。
でもそのせいで女の子が車に轢かれたと聞かされて、愕然とする。
自分が死ねばよかったと呟いた館野さんの言葉は、心の底からの声だったんだ。
館野が話し終えると、急に他の見舞客が気になり始めた。入院している高校生ぐらいの男子に群がる、同世代の男子学生たち。廊下側の席にぼんやり座るお年寄りに一方的に話しかけている中年のおばさん。ぴったりくっついて囁きあっているカップルらしき男女。
そんな中でここのテーブルだけがひっそりと息をひそめている。
「退院したら自首しようと思います」
「ちょっと待って」
〝自首〟という言葉の響きに、母親が驚いている。
「ああ、会社に辞表を出すのが先か」
「あのう。俺はそんなに館野さんが悪いことをしたとは思わないんですが……」
第三者である秋人の意見である。
「私もそう思うんです。でも結果は最悪でした。私は責任を取らないといけないんです」
ここでも責任か。
きっと多くの事故の加害者は、こんなことになるとは思わなかったって言うんだろう。
館野の父親が少し対策を考えたいと言うので、それまで今の話は他言しないと約束をした。
この事故で、館野はどの程度の責任があるんだろう。首輪に切り込みを入れただけなら器物破損だろう。でもその結果子どもが重傷を負ったのなら、殺人未遂になるのだろうか。
館野を助けたことを、梅原への罪滅ぼしと考えていたのに、これでは手に負えそうにない。
帰る途中でスーパーに寄った。喉が渇いたので麦茶を買う。コンビニより安いから秋人はスーパーを使うようにしている。原口の教えだ。
店内のベンチに座り、店内を見回した。売り場はあまり広くないが、客はそれなりに多い。カードを作ればポイントが付くらしい。
〝ポイント ポイント ポイントディー〟とポイント推奨ソングが、ひたすら流れている。
お年寄りがサービスコーナーに近づいて、店の人に話しかけた。贔屓にしている商品がないみたいで、店の人が在庫を調べている。このお客と店員の距離がスーパー繁盛の一因みたいだ。
一息つくと、館野が立ち尽くしていた交差点に行ってみた。
四つ角を通る車は多くない。曜日や時間が影響するのかもしれないが、ここを通ったときの記憶を思い返しても、混んでいなかったと思う。国道側の信号が赤になると、散歩中のお年寄りが、ゆっくり横断歩道を渡って行く。ぐるりと辺りを見回すと、和菓子店があった。地元の住人に愛されている感じの、団子やわらび餅という気取らない菓子を売っている。陳列棚が道路に面していた。
原付を店の前に止める。
「すみません」
誰か事故を目撃しているんじゃないかと考えたが、常時店員が店番をしている様子はない。壁掛け扇風機が回転しているだけの昔ながらの店だった。
「はいはい」
奥から、白いエプロンをした女性が出て来る。作りながら売っているみたいだ。
「あのう……」
どう切り出せばいいのだろう。
「豆大福と三色だんごを二つずつ下さい」
結局買ってしまう。でも波子さんにいいおみやげができた。
「1020円になります」
女性は慣れた手つきで、団子をプラスチックの容器につめた。
このまま何も聞き出せず終わってしまうことに焦る。
「あのう、犬、犬なんですけど……」
タクシー代としてもらった一万円で支払った。
「この辺りで犬を連れた女の子が事故に遭いましたよね」
一気に話し、不審に思われていないか相手を見ると、陳列棚越しにお釣りを差し出された。
「本当にねえ。私もいつか事故に遭うんじゃないかって注意したことがあるんだけどねえ」
女性が口元に笑みをたたえているのを見て確信しる。この人は話好きだ。
「何を注意したんですか?」
お釣りを受け取りながら訊く。
「だから犬よ。あの女の子、いつも犬を鎖に繋げてなかったのよ。それで注意したんだけど、犬嫌がるって言ったのよね」
秋人その答えに引っ掛かりを覚えた。わざとらしくため息をついている女性に、話の先を促す。
「それでもだめなものは駄目じゃない。いくら小さな犬でも、誰かに飛びかかったら危ないででしょう。そしたら女の子の親が出て来て、嫌がっているのに鎖に繋ぐなんて可哀想でしょうって、不審者見るような目つきされちゃってね。可哀想って言われたら、なんかこっちが酷いことを言ってるみたいじゃない。結局それ以上注意することはなかったんだけど、でもあんなことになるって思わなかったわ」
秋人の心臓は、うるさいぐらいに鳴っている。
「女の子はリールを持っていたって訊きましたけど」
館野さんが切り込みを入れたはずだ。
「あれはポーズよ。うちみたいに注意する人がいるからうるさいみたいで、首輪とリールは用意してたみたい。自分は用意しているけど犬が嫌がるってアピールなの」
そのとき小学生ぐらいの子どもを連れた母親が、店の前を通りかかった。
「ねえ、おまんじゅう買おうか」
母親が言うと、
「ケーキの方がいい」
子どもが無邪気に答えて、二人は過ぎて行く。
「もう、うちも長くはないと思ってるんだけどね」
それから店の人はひとしきり、うちのような古くからある和菓子屋は経営が難しいのだと愚痴をこぼし、途切れたところで秋人は店を離れた。
事故当時犬が首輪をしてなかったなら、館野の罪はただの器物損壊で、館野の気持ちも楽になるんじゃないか。
でも確証はない。
少女の怪我はひどくて、話を聞くことはできない。もちろん犬にも聞けない。ヨシムネだって犬語はわからないだろう。(以前カラスとネットワークが繋がっていると話していたけど、流石に犬とはないだろう)
それじゃあ、誰か、あの事故を目撃した人物はいないだろうか。犬が首輪をしていなかったことを知る人物がいれば、館野は救われる。
ここまで考えたとき、もっといいことを思いついた。リールを見つければいい。館野は切り込みを入れたと言っていた。そのリールが切れていなければ、館野のせいで少女が怪我をしたのではないことがわかる。
それにしても犬はどうなったんだろう。
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