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 梅原の親族に挨拶をして葬儀場を出た。

 上着を手に持ち、ネクタイを外す。いつもの原付ではなく徒歩だった。これから駅まで十分ぐらいかかる。

 知っている人が亡くなる体験は初めてで、衝撃だった。前の日に普通に話していた人がいなくなる。そのことが怖ろしい。

 でも梅原の方がもっと怖ろしいのかもしれない。他の人間には普通に訪れる明日がこないのだ。いや、亡くなった人はなにも感じないのだろうか。

 そんなことを考えながら歩いていたから、横断歩道の真ん中で立ち尽くしている男を見たとき、とっさに体が動いた。

「大丈夫ですか。気分が悪いんですか?」

 駆け寄ると「俺が死ねばよかったんだ」と男が呟いたので、秋人は梅原の遺影を思い出した。梅原は、自分が死ぬなんて全然思っていなかったのに突然死んでしまった。それなにこの男は、まるで死にたいと口にする。

 行き交う車に轢かれないように手を挙げながら、横断歩道から男を救出すると、男は意識を失うように足元から崩れた。男を支えるために、秋人はその場に片膝を付いた。

 梅原の葬儀の後で、死にたがっている男に出会うなんて、因縁めいたものを感じた。梅原にできなかったことをこの人にしたいと、使命感に囚われる。

 顔の真ん中が青く腫れているけど、なにか関係しているんだろうか。

「しっかりしてください。どうしたんですか」

 よく見ると、知っている人だった。研究室に医療用の機器を届けてくれる業者さん。新人みたいで、毎日きっちりメモを取り注文を復唱した。真面目な人という印象がある。

 えっと、名前は……、そうだ、館野さんだ。

 素性がわかったことに安堵する。病院へ行った方がいいと判断した秋人は、スマホで探した。電話をすると土曜の午後でも診察していると言うのでお願いしておく。

 通りかかったタクシーを止め、運転手と一緒に、館野を後部座席に寝かせた。秋人は助手席に座る。

 運転手は秋人の父親ぐらいの年齢で、館野を病院へ連れて行きたいと話すと眉をひそめた。

「兄ちゃん、その人の知り合い?」

「あんまり親しくないんですが、横断歩道の真ん中に立ち尽くしていたから」

「兄ちゃんが優しいのはわかるけど、後で後悔しても知らないよ。どんな病気を持ってるかわかんないだろう。関わらない方がいいんじゃないか」

 運転手の言うことは正しい。相手にどんな事情や病気があるのを知らずに、むやみに助けるべきではない。

「そうですよね……」

 勝手な使命感に突き動かされた自分が、急に恥ずかしくなった。

 無言で座っていると、後ろでスマホが鳴った。運転手がちらりとこちらを見る。他人のスマホに勝手に出るわけにもいかずそのままにしておいたら、鳴り止んだ。

 しばらくするとまた電話が鳴った。

 後ろで動く気配があり、「はい」と館野が取ったのがわかる。

 車内は静かでつい耳を傾けてしまう。スマホ越しの声はよく聞こえないが、相手は何か怒鳴っているみたいだ。対して館野は「すみません」「すみません」「すみません」と謝ってばかりいる。運転手も聞いているのだろう。目元が上がっている。

 館野が謝罪をし尽くしたところで、電話は切れた。

「……あのう、この車は?」

 状況が飲み込めないみたいで訊かれた。

「館野さんですよね。M大の藤です」

 後ろを振り返り声を掛けたが、館野はぼんやりと秋人の顔を見ているだけで反応がない。

 そうしているうちに病院に到着した。

 ついさっきまで事情がわからない人を病院に連れて行くことを反対していた運転手が、一旦病院の中に入って、車いすを持って来てくれた。でも館野は「歩けるから」抵抗し、一歩踏み出そうとして、その場に崩れた。

 結局秋人が車いすを押して、病院に入ることになる。

「兄ちゃん、がんばれよ」

 最後に運転手は、手を振って見送ってくれた。

 受付で名前を言うと、電話をしてあったのですぐに診察してもらえることになった。

 つき添うことになったけど、自分は知っているのはこの人の苗字と勤め先だけだ。

 さてどうしたものか。

 勤め先に尋ねるのが一番だと思うが、さっきかかってきた電話は、いい感じじゃなかった。上司らしい人にずっと叱られていた。タクシーの運転手さんが急に優しくなったのも、あれを聞いたからだろう。

 どこへも連絡することなく、廊下の椅子に座って待っていると、看護師が先に診察室から出て来た。

「館野さんの付き添いの方ですね」

 確認される。

「館野さんは意識がはっきりしいて、実家に連絡を入れておられました。改めてお礼がしたいので連絡先を教えて欲しいとのことです」

 お役御免ということらしい。

「あのう、それで館野さんはどんな状態なんですか?」

 看護師に差し出されたメモ用紙に、名前と電話番号を記入する。

「栄養失調と睡眠不足。要するに過労です。少し入院して、様子を看ることになりました」

 顔の打撲が気になったが、入院するなら心強い。

 その日はそのまま帰った。

 

 後期から始まる講義の準備があって、大学へ行く日が多くなった。秋人の所属している研究室は無くなるから、移動することになる。秋人はまだ三年生だから傷は浅いが、四年生の向井は今更研究内容を変えるわけにもいかずに苦労していた。

「原口さんは、これからどうするんですか?」

 梅原の私物を段ボールに詰めている原口に話しかけた。今日は久保准教授も出て来ていて、パソコンと格闘している。

 夏休みなのに出席率が高い。思わず、あと梅原さんがいたら全員集合ですねと、言いそうになる。

「俺は妻とベーカリーをする」

 未練を打ち切るように、原口はきっぱりと言った。

「原口君ね、私が一緒に行かないかって誘ったのに断ったんだよ」

 久保准教授がパソコンから視線を外さずに言った。

「自分のせいで学生が亡くなったんだからって。真面目なのよね」

 元いた女子大へ戻ることになった久保准教授だが、手ぶらでは受け入れてもらえないのだろう。論文を書いている。

「女子大にですか。俺が代わりに行ってもいいですか」

 向井が前のめりになった。

「いや、向井さんは無理ですよ。学生なんだから」

 秋人が突っ込む。いつもならこういう役割をするのは梅原だった。

「もったいないですよ。原口さん」

 原口は研究が好きだった。根っからの研究者タイプだ。それに正規採用になったばかりだ。

 でも原口がぐっと口元を引き締めたのを見て、しまったと思った。そんなこと原口の方が何度も考えたはずで、自分が軽々しく言うべきではなかった。

「俺はこのまま大学にいても大した成果は上げられないと思う。研究者に必要な閃きに欠けているんだ。でも計画された実験は完璧にこなすことができる」

 随分辛口な自己評価である。

「妻がパン屋を一緒にしないかと言ってくれた。妻の作るパンはどれも平均してうまいんだが、特徴がないそうだ。なにか、これこそうちのパンだっていう目玉商品が欲しいらしい」

 何かをやっつけたように、原口は豪快に手を叩いた。

「調べてみたら、パン作りって奥が深いんだ。パンに使っているイーストを妻は取り寄せているんだが、俺は天然酵母でパンを作ろうと思ってる」

「天然酵母って、自然界に存在するイーストですよね」

「そうだ。果物とか穀類とかあらゆる場所に存在する。俺はそれを採取して培養するつもりだ」

 原口の得意分野だ。普段から培養実験をしていたのだから、ノウハウはばっちりある。

「うまくいけばベーカリーココミを、別の店と差別化ができると思うんだ」

 原口は研究者になるという夢を手放し、パン作りで一歩前に踏み出そうとしている。夢に全然手が届かない人より、一度掴んだ夢を手放した人の方が強いのかもしれない。

「それを聞いたら、私も頑張らないとね」

 久保准教授の声も明るい。

 別れが湿っぽくならなくてよかった。梅原のことは悲しいけど、残された者はそれぞれ前を向いている。ああ、種田教授は知らないけど。

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