3
毎日二時間?
なんだか寒気がして、秋人はぶるりと震えた。自分なら、そんなに誰かと会話ができるだろうか。毎回話題に苦労したかもしれない。そもそも毎日と決められると負担だ。
でも梅原は続けていたのだから、楽しかったのだろうと思いたい。
「その二時間って、時間は決まっていたんですか?」
原口が口を挟んだ。
「六時からです」
「それって午後ですよね」
「当たり前じゃないですか。私の仕事が五時に終わるんです。それで家に帰って、お母さんと夕食の準備をしたり、食べたりしているとき、話をしてました。ああ、いつもスピーカーにしてたからうちのお母さんともよく話してました。休日は時間がずれることがあったけど、絶対毎日です」
宇崎は自宅暮らしらしい。
「それって電話はどっちから?」
「翔太からです。それだけ彼は私のことを大切に思っていてくれたんです」
宇崎とつき合うようになって三ヵ月、毎日梅原は、午後六時から八時までずっと電話をしていたのか。
「本当なら、わたしたち、今頃旅行に行っていたはずなんです。彼が今回の実験が終わったらまとまって時間が取れるから、旅行しようって誘ってくれて……。あんなことが起こる直前まで、私たち、旅行のことを話していたんですよ」
宇崎は亡くなった梅原の恋人で、突然のことに悲しんでいる。でも秋人は、真実に気づいてしまった。宇崎は、愛しているなら当然だと思っているようだが、梅原もそうだったのか。
一度梅原は、彼女の束縛が厳しいのだと話したことがあった。スマホを勝手に見たり、会えない時間の予定をすべて把握しようとしたのだとか。そのときの梅原はにやにや笑って自慢げだったから、のろけなのかと聞き流したが、本当は疲れていたのかもしれない。
宇崎の顔を正面から見据えた。この人は、自分の価値観でしか物を見れない人なんだ。
「宇崎さん……」
なぜ培養室の温度が上がったのか。なぜ梅崎が液体窒素を使ったのか。話してもいいのか。
参ったな。残酷だ。
「梅原君は……」
原口も当然解ったんだ。口を開こうとしている。
横目で見ると、原口の目に決意がある。
秋人は目で訴えた。宇崎さんを傷つけるからやめて欲しい。
「それはできないよ」と原口は声に出して返した。「梅原君に関係のある人なら、事情を知りたいと思うのは当然のことだろう。俺なら傷ついても知りたい」
「何か気がついたことがあるんですよね。教えてください」
涼子に言われると逆らえない。彼女は梅原の姉で、事実を知りたがっている。それに本当に宇崎が訴えるようなことがあれば、すべてが詳らかになるだろう。
原口はお茶を一口飲むと、おもむろに口を開いた。。
「宇崎さんは梅原君がやっていた低温酵素実験のあらましをご存じですか?」
「実験ですか? そちらはあまり知りません。一度話しをされたんですけど、解らないから止めて欲しいって、こちらから断りました」
「それじゃあ、低温を保って行う実験だということだけは理解してください」
原口は、教壇に立つ教師の顔になった。
「梅原君は五度に保った培養室に何種類もの酵素を入れ、反応速度を一時間ごとに記録をしていたんです。五度といえば冷蔵庫ぐらいです。梅原君は記録をするときは必ず培養室にいなければなりません。でも彼は毎日六時に電話をすると、彼女と約束をしていた」
宇崎は不安そうに瞬きをした。
「記録は機械を使うから手間ではありません。でも問題は、うちの培養棟はWi-Fiが届きにくいんです」
「そうなの? 大学でしょう?」
都内で働く宇崎にとって、そんな場所があるなんて想像できないみたいだ。
「そんな彼が毎日あなたに電話するためにはどうしたと思いですか?」
宇崎は長い首を折るように傾げた。
「Wi-Fiのある所まで移動する?」
「そうです。培養室を離れないといけない。きっと梅原君は、実験時間を調節して、あなたと電話をする時間を確保していたんですね。電話が六時からなら、六時前と電話が終わってからと、記録をしていたんでしょう。それ自体は正直に時間を記入したらいいんだから問題ではありません。夜通し実験する場合、寝過ごすこともありますから。でも梅原君が亡くなった日は、いつもと違うことが起こったんです」
「停電ですか?」
おそるおそる涼子が訊く。
「そうです」
「もしかして、その培養室を五度に保つことができなかったとか?」
「はい。彼は二、三時間停電になったぐらいで、培養室の温度が上がるなんて思わなかったんでしょう。私が大学から停電になったと連絡を受け、梅原君に電話をしたのは六時前でした。電話は難なく通じましたから、そのとき梅原君は彼女と電話をするために、Wi-Fiの通じる場所にいたんでしょう。彼はすぐ非常用の電源に切り替えると返事をしてくれましたが、あなたに電話をすることを優先させた」
「そんな……。彼はそんなこと一言も言わなかったわ。雷の話しはしたけど普通だったもの」
「そうです。普通だったんです。まさか培養室の温度が上がっているとは思わなかったから。でも実際、培養室に戻ってみたら温度は上がっていた。あの日は夕立があったとはいえ、外は三十五度を超す猛暑日でした。パニックになった彼は液体窒素を使って培養室の温度を下げようとしたんです」
「液体窒素?」
初めて聞くというように、宇崎は繰り返した。
「液体窒素はマイナス二百度の低温です。工業的には冷却材として使われています。タンクのような容器に入っていて、使用時は充分に換気をしないと酸欠になるから注意するように、学生に指導しています」
「それで翔太が酸欠になったって言うんですか」
「はい。警察からは、梅原君が液体窒素の使用中に窒息死したと聞きました。ですが梅原君の実験に液体窒素を使う予定はありませんでした。なぜ彼が液体窒素を使ったか疑問だったんです。私が停電だと電話をしたとき、彼がすぐに補助電源に切り替えたならそんな必要はなかった。電機が切れたのは五分から十分ぐらいのことでしたから。でも二時間もほっておかれたのなら話は違います。彼はこのままでは自分の実験がだめになると焦り、液体窒素を使って培養室を冷やそうとしたんじゃないでしょうか。やり直すことになったら、彼女と旅行へ行けませんから」
あれほど攻撃的だった宇崎の肩が下がり、目の光が消えてしまった。
息をするのもはばかれる沈黙が流れ、いつの間にか読経が止んだことを知る。
凍ってしまった空気を打ち破ったのは、涼子の深いため息だった。
「あの子、女性とお付き合いをしたの多分初めてだったんじゃないかしら。きっと浮かれていたのね」
それから悲しそうな眼をした。
「そんなの、知らなかったわ」
宇崎が駄々をこねる子どものように首を振った。
「実験を抜け出して来たんなら、そう言えばよかったのよ」
「言えばどうしましたか? 毎日電話するのが愛情のしるしだって、宇崎さんはおっしゃってましたよね。愛情が足りないって彼を責めたんじゃないですか」
「それは……それは……」
「もうやめましょうよ」
動揺している宇崎を見て、原口を止めようとした。
「あの子、言えなかったのね。宇崎さんに嫌われたくなくて」
ぽつりと涼子が呟く。
「なによ。あなたたちがいけないんでしょう。翔太にちゃんと液体窒素の使い方を指導していなかったんじゃないの。そもそも、そんな長時間実験に拘束されるなんておかしいわ。労働基準法に違反する」
宇崎はなおも原口を責めた。
「梅原君には本当に申し訳ないことをしました。そもそも電話で彼に、自動電源に切り替えるように頼んだりせず、私が直接大学まで行けばよかったんです。液体窒素や他の危険物に関して、きっちり使い方を指導をしているつもりでした。でもそれでは足りないことを痛感しました。今後は保管場所にも気をつけ、二度とこのようなことは起こらないように配慮します」
「これからのことなんてどうでもいいの。だって翔太は帰ってこないじゃない。どう責任取るつもりなのよ」
「教授は今月いっぱいで退官します。准教授はうちの大学を去ることになるでしょう。私も大学を辞めます。うちの研究室は無くなり、残った学生は別の研究室に移ります」
「えっ?」
今、原口さんは大学を辞めるって言ったのか。まさか。あんなに頑張ってやっと正規採用されたのに、たった三が月で辞めてしまうのか。
「辞めるんですか? 嘘ですよね」
信じられずに聞くと、原口は悔しそうに座卓を睨みつけていた。その怒りを内蔵した輝きは、研究者になることを諦めきれないと言っている。
「大学内で学生が亡くなると言うことは、指導教官に全責任あるんだ」
それでも原口は言った。
「そんなことで償えると思ってるの? 翔太は死んだのよ」
「ではあなたは、私も同様に死ねというのですか」
凄みを帯びた原口の言葉に、宇崎は黙ってしまった。。
「宇崎さん」
涼子の声は、大切なものをそっと抱きしめるようだった。
「最後にあの子の顔を見てやってもらえませんか。あの子とても穏やかな顔をしてるんですよ」
涼子が宇崎の肩に手を置くと、ふらりと宇崎が立ち上がった。二人は寄り添うように部屋を出て行く。
「さっきの話、本当ですか?」
確かめずにはいられない。
「当然だろう」
原口は両手を強く握りしめている。
悔しいのだろう。自分の指導が行き届かなかったせいで、梅原が亡くなったと思っているのだ。でも毎日同じ時間に電話をかけてくいることで愛の重さを量ろうとした宇崎にだって、責任があるんじゃないか。さらに言うなら彼女と電話をすることを優先させて、実験が失敗することに焦った梅原が液体窒素を使ったこと自体、いけなかったはずだ。実験が失敗したら彼女と旅行へ行けなくなるという思いがあったのだろうか、そもそも梅原は、誰かに自分のミスを告白したり、ましてや指摘されるのを嫌がる人だった。
「原口さんだけの責任じゃないですよ」
「それはわかっている。でも、もし俺が梅原に頼んだりせずに、自分で大学まで行っていたらって考えずにはいられないんだ。大学から停電の連絡がきたとき、俺は心美の作った夕食を食べようとしていた。もし結婚しておらず一人だったら、夕食を後回しにして大学まで行っていた。だからさっき、結婚して冷たくなったと梅原が話していたと聞いて、はっとしたよ。結婚して俺は、責任感がなくなっていたんだ」
「じゃあ俺にも責任ありますね。俺がもっと頼りになる後輩だったら、梅原さんは俺に電話して自動電源に切り替えるように頼んでくれたかもしれなかった。でも俺が頼りないから……。俺がいつもバイトばかりしてるダメな後輩だから、頼ってもらえなかったんだ」
「違う。それは違うぞ藤。お前は学生で、俺は教員なんだ。停電になったとき、自動電源に切り替えるのは、俺の仕事だったんだ。それを学生だった梅原に頼んだんだ」
原口は学生である秋人には責任がないのだと言う。
でも、教員と学生でぱしりと責任の在処を切ってしまわれると怖い。これから自分も就職することになる。そしたら、原口のように、潔く責任を取れるだろうか。
「俺たちも行こうか」
原口に促され、秋人もお焼香をあげるために部屋を出た。
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