第5話 クリストフ
それから時間は過ぎていく。
その日はネヴィルのせいでまったく集中できない、
食堂でお昼を取る時も機械的に手を動かすだけでぜんぜん食べた気にならなかった。
――しっかりしないと……。
昼食休憩を挟んだ午後の授業は、体育の時間である。
シャツにハーフパンツという運動着に着替えた生徒たちが、体育館に集合する。
今のロザミアにはちょうど良かった。
頭を使うのではなく、体を動かして余計なことを考えたくなかった。
しかしロザミアの前に現れた教官を見るなり、みるみる感謝の念は萎んでいった。
クラスメートたちがざわめく。
なぜなら、ロザミアたちの前に現れた教官は、長兄のクリストフだったから。
彼は白いシャツに黒いパンツス姿。
鍛えられた逆三角形の体躯をこれでもかと露わにして、一部の女子がキャアキャアと黄色い声をあげる。
「黙れ!」
重々しい一喝で、黄色い声はたちまちやんだ。
「これから準備体操から入る。たるんだ動きを見せたら、全員共同責任で腕立て伏せをさせるからそのつもりでいろ!」
準備体操をしてよく体をほぐす。
ロザミアは極力、義兄を見ないようにしているのだが、鋭い眼光を感じずにはいられない。
――どうしてそんな見してくるの!?
準備体操を終えると、訓練用の模擬剣が配られる。
「魔法のみに頼ろうとするから足下を見られる。魔法はあくまで魔法であり、それにいくら熟達したとしても、所詮は人の身。限度がある。どんな状況にも対応できなければ、王国を背負う騎士とは言えないぞ!」
クリストフが口にすると、その言葉には重みがある。
彼は魔法を使えないという立場ながら士官学校の首席に輝き、優れた使役者が当たり前に存在する近衛騎士団の副総長をも務めていた。
つまり魔法の強弱が騎士の資質を決めるものではないと、この世界の貴族の価値観を根底から覆すことを成し遂げた人間なのだ。
使役者のことを人々は畏怖をこめ、人外とひそかに蔑む人間もいるが、クリストフはその人外を越える人外というべき存在と言える。
男子生徒の一人がおずおずと手をあげる。
「何だ」
「先生の仰ることは分かるのですが、人相手ならまだしも、魔獣相手ならば魔法を使わなければ倒せないのではないですか?」
そう、この世界には魔獣が存在する。
どうして魔獣が生まれるのかは分かってはいないが、一説によるとマナの影響を受けた動物の突然変異であると言われている。
他にも幻獣というものも存在すると呼ばれている。
幻獣というのはこの世界が誕生した時より世界に存在する、知能の高い怪物(たとえばドラゴンやキマイラなど)だ。
幻獣はほとんど伝説上の存在。
「お前はどれほどの魔獣を倒したことがある?」
「……あ、ありません」
「倒したこともないくせに倒せない、となぜ言える?」
「でもなぁ、閣下は特別だから……」
誰かがぼそっと呟く。
クリストフの眼光が鋭さを増す。
「俺のようになれと言っていない。だが、やりもせずに決めてかかるのは奢り以外の何ものでもない。ロザミア」
いきなり名前を呼ばれ、ドキッとする。
「は、はい……?」
「魔法を使わねば、魔獣は倒せないか?」
「……た、倒せます」
ざわめきが大きくなる。
「お前は何匹倒した?」
「……さ、三匹ほど」
「種類は?」
「グリフィン、ゴブリンです」
これはある意味、ネヴィルからの詰め込み教育以上に思い出したくない。
勉強同様、公爵家の人間として恥ずかしくないように、と剣術を学ばさせられた。
剣術のいろはを全身が生傷だらけになるまで体に叩き込まれ、そうかと思えば、山ごもり。その時、ロザミアはわずか十二歳。
そして山ごもりの集大成が、まさに魔法を使わずに魔物を倒せ、だった。
死ぬかと思った。
一応、勉強として魔物の動きやどう対処すれば良いかは事前に教えられてはいたが、机上で教わるのと、実戦は全くの別物。
教本通りに魔獣は動いてはくれない。
義兄からのアドバイスは『背後と死角を取られるな。人間は顔にしか目がついていない』だった。半ばやけっぱちになって襲いかかり、勝利を果たした。
今でもあれは奇跡だと思っている。
ロザミアは、剣一本でオーガを一刀両断にしてしまうクリストフとはぜんぜん違うのだから。
「――ということだ。言っておくが、ロザミアは特別じゃない。だから魔法でしか倒せぬ、などと下らんことは絶対に言うな!」
それから二人一組になり、剣技の稽古を行う。
当然、友だちのいないロザミアと好き好んでペアになってくれる奇特な人間がいるはずもないが、さすがに義兄の前では仲間はずれにするわけにもいかなかったようで、女子のクラスメートがぎこちなく相手をしてくれた。
「ありがとう」
「い、いいのよ……」
授業が終わると、クラスメートはそそくさと離れていく。
ロザミアは気持ちを取りなおし、シャワーを浴びようと体育館を出ようとする。
その時、背後に気配を感じ、全身の鳥肌が立つ。
「ロザミア」
「! な、なんですか、クリストフお義兄様……」
「人付き合いが苦手な俺が言えた義理じゃないが、大丈夫か?」
――大丈夫かって、そんな心配するような言葉をお義兄様が……?
天変地異が起こっても不思議ではない。ネヴィルもそうだが、一体どうしてしまったのか。まるで外見はそのまま、中身が別人に変わってしまったようだ。
「……と、申しますと?」
「ネヴィルから聞いた。お前を侮辱する連中を締め上げたことが気に入らず、余計なことをするな、と言ったらしいな」
――あいかわらず兄弟仲はすごくいいんですね! なんでも言い合える関係とかうらやましい!
自分の部屋で、庭先で話す二人の姿をどれだけ羨ましく思って見ていたことか。
「言いました。クリストフお義兄様も余計なことはなさらないで下さい。それから、気に入らなかった訳ではなく、子どものことに大人が首をつっこむとややこしくなるのでやめて欲しい、ということです」
「迷惑……ということか」
――ネヴィルお義兄様もそうだけど、どうしてそんな傷ついたような顔をするの!? いつものあの冷淡で素っ気なくて、私のことなんで路傍の石より少しはマシって、言わんばかりの表情をしてくれていればこんなに悩むこともないのに!!
「迷惑ではありませんが……元の職を放り出して教官になったり、私を心配するフリをしたりするのもすごく困るんです……。次の授業がありますので失礼します!」
クリストフに口を挟ませぬ勢いでまくしたてると、体育館を後にした。
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