98.カナタの側仕え
「髪お拭きしますねー」
「うん……」
クシャンティから話を聞き終わったカナタは寮の自室に戻っていた。
湯浴みから戻ったカナタの髪をルイが丁寧に、丁寧に乾かしている。
その様子はまるで上質な毛皮を撫でるかのようでもあり、どこか覇気の無いカナタを慰めているようでもあった。
「先生にお話は聞けましたか? あの噂の怪物って人の話は?」
「うん……何かね、精神干渉の術式が植え付けられちゃってるんだって……」
「二年前にセルドラ様が操られた時みたいなですか?」
「うん……」
シャンクティの話によると、学院を徘徊する大男は四年前、トラウリヒ神国から流れてきた違法魔道具の解析に失敗して今の状態になってしまったらしい。
当時十六歳だった彼の研究室はそのまま残されており、そこを拠点に四年間食事や睡眠など生きるために決まった行動と学院内の徘徊を繰り返すだけの人生を送っている。
最初は教師達の間で術を解除しようという動きもあったようだが、そうすると抵抗が激しいことと、とある理由がもう一つあって放置するしかないという結論に至ったという。
「へぇ、じゃあ制服着てるのは一応ちゃんとした生徒なんですね? あれ、でもニ十歳で授業も受けてないんだから退学なのでしょうか?」
「いや、正当な理由があれば五年まで休学できるんだって……だから、学院長が休学中にしてるんじゃないかってシャンクティ先生は言ってたよ」
「なるほど、そういう事情があったんですね……何も知らずに腰を抜かすなんて失礼をしてしまいました」
「すごいおっきい人だから驚いちゃうのは仕方ないんじゃない?」
ルイはカナタの髪を乾かすと今度は着替えに映る。
いつもならこの時間はルイにとっても至福なのだが、カナタは浮かない顔のままだ。
「そういえば、見た事ある気がするって仰っていましたね……誰か思い出せたんですか?」
「いや、初めて会う人だよ……なんだけど……」
「なんだけど……?」
「でも、知ってる顔なんだ。何回も見たことある」
「よくわかりませんが……カナタ様の中で心当たりはあるということですね」
カナタを寝間着に着替えさせたらソファに座らせて、ルイは事前に淹れておいた紅茶をカップに注ぐ。カナタによりリラックスしてもらうために今日の紅茶は香りで選んでいる。
紅茶を注いだカップをカナタに差し出すと、ルイはじっとカナタを凝視した。
噂の話じゃなくてなんだろう、などととぶつぶつ何か言いながら。
「な、なに?」
「いえ、カナタ様が何を考えているのか私も頭を悩ませようと思いまして」
「悩んでる、ように見える?」
「はい、思い切り。何か聞きたかった噂のお話とは別に、カナタ様を考えさせるようなお話を聞いてこられたのでしょう?」
ルイにずばりと言い当てられて、カナタは目をぱちぱちさせる。
「何でわかるの?」
「私はカナタ様をずっと見ていますから」
にこり、とルイは笑顔を見せる。
ここまで言われて、話さないわけにはいかないなとカナタは口を開いた。
「その、ね、俺……安心しちゃってたのかなって」
「安心、でしょうか?」
「……シャンクティ先生が言ってたんだ。特別扱いってのはただ優遇されるだけじゃない。特別に扱われるってことは、特別な扱いを受けてない人間よりもわかりやすい結果を出したり責務を果たさなければいけないって。
それってさ……俺が養子として引き取られた時と同じ状況だと思うんだ。養子っていう特別扱いをされるのに相応しい人間になれるように、色々と作法や勉強を頑張らなきゃいけなかったから」
あの時のカナタはカナタなりに必死だった。
傭兵団の皆に名前が届くような人間になるための第一歩。
自分を引き取ってくれた公爵家の側近の家系――ディーラスコ家に相応しい子供になるためにと毎日を過ごしていた。
「でも、同じ状況だっていうのに……俺は今何もしてないなって……。ルミナ様がいて、ルイがいて、コーレナさんがいて……寂しくなくて……それで、魔術学院に入るのが引き取られた時の目標だったから、入って目標を達成しちゃって、それで安心しちゃってるから……こんな風に立ち止まっちゃってるのかなって」
それは停滞しているということではないのだろうか。
傭兵団の皆に名前が届くような人間になる……そんな目的も忘れて、ルミナ達や同年代が集まる学院に入れることをただ楽しんでいるだけなんじゃないだろうか。
カナタの表情には影が落ちている。
しかしルイは何がいけないのだろうと言いたげに首を傾げた。
「いいことではないでしょうか?」
「え?」
「カナタ様は安心していらっしゃるんですよね? それっていいことではないでしょうか? 何か新しいことを始める時に毎回後が無い後が無いでは疲れてしまいますよ。ある程度の安心があるのなら、次動き出す時はもっと余裕を持って色々出来るようになるのでは?」
「で、でも……止まってていいのかな。何かをしないで……」
立ち止まって見ているだけでは何も変わらないと。カナタはもう知っている。
カナタがこうして心の内を吐き出したのは、前の自分に戻ってしまったんじゃないかという不安から。何もせずに大人しくしているだけだった自分に。
「止まってるのではなく休んでいるんですよ。次にやることのために」
そんなカナタの不安をルイはなんでもないことのように吹き飛ばす。
ルイはカナタを特別慰めようだとか考えているわけではなくて、いつもの調子でさらっと答えてくれるのが不安を抱いているカナタにとっては心強かった。
どれだけ異様な功績を残してもカナタはまだ子供……誰かに頼りたくなる時はある。
「それにこんなカナタ様にぴったりの場所、どうせ休み終わったらカナタ様はすぐにでも何かやり始めますよ」
「そう、かな?」
「はい、だってカナタ様って我が儘じゃないですか?」
「え?」
隙間を埋めてくれるようなルイの言葉の中、カナタはそれだけは断固として否定したい。
カナタは養子になってから我が儘などほとんど言ったことはない。
ルイにだって過剰な要求はしていないはずだ。世話係として最低限の範疇で接している。それだけは断言できた。
「いや、我が儘はちょっと違いますかね……えっと……そう! 欲深い!」
ルイが言い直してもカナタは納得できなかった。
まさかそんな風に思われてたなんてと少しショック。
「お、俺ってそんなイメージなの!?」
「はい、だってカナタ様って全部大切にしてしまいますでしょう?」
カナタはショックを受けているというのにルイは何故か嬉しそうだ。
「
ルイは嬉しそうに、見てきたことを数えながら指を折る。
最後に数えた自分の当時の事を思い出して、ルイは優しく微笑んだ。
それはルイにとって使用人としての転機。誰かに仕えるということを心の底から臨んだ瞬間のこと。
「カナタ様はぜーんぶ拾っちゃいますもんね。まるで自分の宝物みたいに。
そのためならやってないこともやれるわけないことも平気でやっちゃうんですもん……欲深いでしょう?」
「……そっか……いいんだ……」
ルイがどれだけ自分のことを見てくれているかがわかって、カナタは胸の奥がじわじわと温かくなっていくのを感じた。
いつの間にか今の自分に対する不安はどこかへ行っていて、自然とカナタの頬は解放されたかのように緩む。
あの時の自分に戻ってなんかないんだ、と安心して。
「やっぱり、ルイがいてくれてよかった」
「え……」
「ずっと一緒にいてくれてありがとうルイ。これからも、ね」
カナタは照れながらも、ルイに日頃の感謝を含めて言葉にする。
その言葉を受け取ったルイはまるで感情を閉じ込めたかのように真顔になりながら、カナタの正面に座った。
「ルイ? 何でエプロン脱ぐの?」
「そんな事言われて何もしないのは逆に女の恥というかそんなことないというか」
「ルイ? 何でリボンほどいたの?」
「…………」
「ルイ? それ以上は寒いよ? ルイ? ルイ! 鼻血!」
カナタの声でルイは何とか我に返り、鼻血で少し汚れた服を着直す。
――冗談に決まっているじゃないですか。まだ早いですよね。
そう言い残して自室に戻っていったルイの言葉の意味はまだカナタには早かった。
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