21.自室とは思えるはずもなく
こうして、ディーラスコ家でカナタの生活が始まった。
ロザリンドと二人きりで何もされなかったか、とシャトランからさりげなく問われたが恥ずかしいので言葉を濁し、明日からの予定を確認しながら案内された部屋で眠りについた。
とはいえ、眠りにつくのも簡単ではなかった。
初めて用意された一人部屋。本棚と机、ソファなどが用意されていてもカナタはあまりに自分が見てきた椅子や机と違っていて、触る事すら躊躇してしまう。
結局カナタが初日にまともに使えたのはベッドだけだった。
地面の上で寝袋にくるまって寝るのとは全く違う。乗ると自分の体が適度に沈むベッドに恐る恐る寝て、緊張と疲れからかそのまますぐに眠ってしまった。
「は、れ……?」
そんな様子だったので目を覚ましても自分の部屋だという実感など湧くはずもない。
カナタはまるで誘拐でもされたかのような警戒心で周囲を観察しながら、昨日ディーラスコ家の屋敷に着いた事を思い出す。
「そっか……昨日、ここに案内されたんだった……」
桃色のカーテンを開けて朝日を部屋に入れる。
カナタは朝早く起きているのは慣れている。どうやらベッドが気持ちいいからと昼まで熟睡……なんて事にはならなかったようだ。
今日から貴族としての勉強が始まるというのに最初から寝坊では印象も悪い。
「本にテーブル、ソファ……凄いな……」
改めて、自分の部屋を見渡す。
宿屋で戦場漁りの子供達全員で泊まっていた大部屋くらいの広さだ。クリーム色を基調とした柔らかい印象の部屋と高級そうな家具が置かれている。
かび臭くもなければ、埃っぽさも感じない。カナタはあまりにも違い過ぎる世界を感じて、自分の部屋に圧倒されてしまっていた。
むしろこの部屋は貴族にとっては質素なほうだという事をカナタはまだ知らない。
カナタが自分の部屋に口をぽかんと開けて圧倒されていると、小さくノックの音が鳴った。
びくっと一瞬肩を震わせて、カナタは扉のほうに視線をやる。
すると扉がゆっくりと静かに開き、白のエプロンと黒のスカートを着た女性が部屋を覗き込んできた。ディーラスコ家の使用人だ。
「おはようございます」
「え、あ、おはようございます……カナタ様」
その使用人はカナタを見て動揺した様子だったが、それどころではない。
カナタは脳内で今自分が何て呼ばれたのかを繰り返す。
……カナタ様。カナタ、様。カナタ……様……?
何度か繰り返しても自分にはあまりに似合わない呼ばれ方と思ったのか、カナタは苦い食べ物を食べたように顔を歪めた。
「ちっ……寝坊しないか……」
呼ばれ方が気になり過ぎて使用人がぼそっと呟いた事など気付いていない。
その使用人は白磁の深皿とタオルを持ってきていて、深皿にはお湯が張られているのかうっすらと湯気が立っていた。
「本日よりカナタ様の身の回りの世話をお手伝いさせて頂くルイと申します。どうぞよろしく願い致します」
使用人はカナタのほうに向きなおって自己紹介と共に小さく頭を下げる。
茶の髪と瞳で大人っぽさの中にまだ幼さがある。十六か七か……成人したばかりという年齢だろう。
「カナタです。こちらこそよろしくお願いします」
口にした後で、自分の言葉遣いに気付く。
貴族の養子となった以上、丁寧なのはいいが立場が下の者が勘違いしてしまうような言葉遣いはしてはいけないらしい。
「それでは朝の身支度をさせて頂きます」
「それは?」
ルイが動くよりも先にカナタが問う。
何のためにルイがお湯の入った深皿とタオルを持ってきたのか、カナタにはわからなかった。
「洗顔用の湯とタオルです」
「ああ、なるほど」
傭兵団での洗顔といえば出来ない事のほうが多く、近くの井戸や川があればそこに行くというのが当たり前だったので……部屋でやるという発想がカナタには無かった。
部屋でやれるんだ、と驚きながらも納得したカナタはルイに向かって手を伸ばした。
「……何を?」
一方、ルイは伸ばされた手を見て驚いているのか身を少し引いている。
何を躊躇われているのかわからず、カナタは自分が何か間違ったのか一瞬不安になった。
「洗顔用の水とタオルなんですよね……? 支度するので、ください」
「え……?」
ルイの表情がまるで異様なものを見るかのように変わる。
しかしすぐに薄い笑みを浮かべたかと思うと、カナタに深皿とタオルを差し出した。
「ええどうぞカナタ様。せっかく持ってきたのですから、こぼしたりはしないでくださいね」
「うん、ありがとう」
お湯の張られた深皿とタオルを受け取って、カナタはテーブルへと運ぶ。
朝の支度なのだから早くしなければと恐る恐るソファに座ってタオルを湯につけた。
湯を含んだタオルを絞り、顔を拭く。部屋でやる事こそカナタにとっては新鮮だったが洗顔の手順はさして変わらない。
「ふふ……」
「ん? どうかしたの?」
「いいえ、お上手ですね」
「……? ありがとう……?」
にやにやとこちらを見ながら笑っているルイを見てカナタは首を傾げる。
……人の洗顔を見て何が楽しいのだろう?
そんな疑問を抱きながらも洗顔と着替えを終えると、カナタはダイニングルームへと向かった。
貴族であるからと、何もかもが豪勢で贅沢、珍しい料理ばかりが並ぶわけではない。
とはいえ、平民のものよりは間違いなく豪華でカナタは驚きを表情に出さないようにするので精一杯だった。
パンにスープ、ジャムとクリームが添えられたスコーン、肉のソテーにサラダが並べられていて、ついがっつきたくなるのを我慢する。
なにせ同席しているシャトランとロザリンドの食事はとても静かで優美に尽きる。
カナタは二人の動きを見て、真似をするようにしながら朝食を食べた。
作法を覚えるという点でこれ以上のお手本はない。ナイフやフォークの使い方に多少苦戦しながらも、刃物の扱いは傭兵団の時に色々触っていたのもあって覚えは早いほうと言える。
しかし作法を覚えるほうに集中したせいで味がほとんどわからず、せっかくの豪華な朝食も最初に食べたパンの味くらいしかしっかり味わえたものはなかった。
「中々頑張りましたね」
食事を終えて、ロザリンドからのお褒めの言葉を貰ってようやくカナタは安堵した。
初日だからと甘い甘い採点ではあるが、何とか及第点は貰えたようである。
思うままに食べていたら恐らくまだ食事の時間は終わっていなかっただろう。
「ふん……」
カナタがそんな甘めな採点で貰った褒め言葉でさえ、兄のエイダンは気に食わないのかカナタを睨んだ。
そんな様子を気にする事無く、食後の紅茶を飲み終わったシャトランが話を切り出す。
「カナタ、部屋はどうかな?」
「素晴らしい部屋をありがとうございます。よく眠れました」
「それはよかった。早速今日から忙しくなるからな……寝不足では先が思いやられる」
基礎教育が遅れているカナタには一日の時間も惜しい。
特に文字が読めないのは致命的で、本を参考にできなければ一人で学ぶ事もできない。
三年以内に魔術学院に通う水準に達するにはかなりの詰め込みが必要だ。
「とはいえ、初日から窮屈な作法や基礎教育だけでは明日から意欲が削がれてしまう可能性もある。そこでだ、午後はカナタが唯一最初から興味を持っている魔術を教える先生を呼んである。存分に励みなさい」
「魔術……!」
一転して目を輝かせるカナタ。魔術はカナタにとって傭兵団を救えた自分が唯一持つ技術にしてここにいる理由そのきっかけ。何をするかわからない基礎教育よりは当然、興味も出る。
昨日から何度も緊張を繰り返しているカナタの心を少しは解せたようで、シャトランは穏やかに笑った。
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