その角を、折り

一色姫凛

第1話

 針が、刺さった。

 珠のような血が浮かんで、つと垂れるのをただ黙ってみていた。

 じんわり痛み出した人差し指は、じきに小さく脈を打ちはじめる。

 八夜やよはふてぶてしく脈打つ己を嘲笑う。

 さくらは死んでしまったのに、なぜ自分はまだ生きているのだろう。

「八夜、明日は嫁入りだっていうのに、まだ針仕事をやってるのかい」

 目をこすりながら床から起き上がった母が顔をしかめる。

 少し前までは夜遅くまで針を刺していても、当然だと言わんばかりの顔をしていたのに。

 もうそんなことをする必要はなくなったからと、針を取りだしただけで嫌そうな顔をする。

「呉服屋さんに頼まれている分だけでも仕上げていかなくちゃ」

 婚姻といっても、妾ではないか。

 しかも望んで嫁ぐわけじゃない。

 八夜が妾になって幸せになるのは母だけだ。

 そう思ったら、ちくりと額に痛みが走った。

「恨むならさくらを恨みな。身の程を知らずに高貴なお方に恋慕するからいけないのさ。むしろさくらの代わりに見初めてもらえてよかったじゃないか。あたしがあの金を使わなければ、ぷっつり縁が切れていただろうさ」

 あの金、というのは菊之丞様がさくらを娶るために用意した結納金のことである。

 破綻となってしまえば、返さなくてならないお金だ。

 それなのに大金に浮かれた母は、早々に手をつけてしまった。

 八夜は悔しげに唇を噛みしめる。 

 あなたがお金を使わなければ、こうはならなかった。

 あなたが代わりに八夜はどうですか、などと言うから。

 全然似ていないのに、さくらとそっくりですよ、なんて言うから!

 口を開きかけたとき、また額に鋭い痛みが走った。

 


 さくらの遺体は六条大路に転がっていた。綺麗な着物は帯ごと裂けて、ぱっくりとひらいた背中に黒ずんだ血痕が斜めに伸びていた。青白い顔に浮かぶ真っ赤な紅。

 八夜の目にはそれが、やたらと鮮烈に焼き付いた。

 逢瀬の日、朝早くから何度も井戸水を汲みに行って念入りに体の汚れを落としたさくらは、知り合いから分けてもらったという白粉おしろいをはたいて紅を引き、大切にしまっていた桃色の着物に袖を通した。

 約束の時間は夜だというのに、ずいぶんと気が早い。

 笑いながら揶揄う八夜に、さくらは照れながらも嬉しそうに頬を染めた。

 菊之丞様から贈られたというその着物は、黄色や白の桜模様で彩られ、やわらかな印象を持つさくらにとてもよく似合っていた。

 きっとさくらのために、あつらえてくれたのだろう。

 菊之丞様のお気持ちが伝わってくるようで、八夜は嬉しかった。

 それなのに、なぜ、こんな。

 母は、その場に崩れ落ちたまま動かない。

 かける言葉も見つからず持ち寄った荷台に遺体を積んでゴザをかけ、朱雀大路を引いて歩いた。羅城門をくぐり、さらに南を目指す。

 畑も田んぼもない野原につくと、遺体を下ろした。

 ぼうぼうと草が生い茂る、ふきっさらしの山の麓である。

 葬式を執り行ってやれるほど裕福でない者たちは、こうして遺体を放置するしかない。

 あとは獣に食われ、土と還る。

 八夜は手を合わせ、嗚咽をもらし続けた。


 

「しっかりとさくらの代わりを務めるんだよ」 

 母からもらった見送りの言葉はそれだけだった。

 さくらのために用意されたお屋敷は、雅な衣装を纏った貴族が道を歩む、四条坊の一角に居を構える。

 寝殿造りのお屋敷で、門の奥には平たい屋根がいくつも連なってみえた。

 なんてバカでかい鳥籠なのだろう。

 これからはさくらに代わって、好いてもいない男をここで待ち続けるのだ。

 そう思えば道ゆく貴族も、壮観なこのお屋敷も何もかもが色褪せてみえる。

 平民の装いそのままに来た八夜に、すれ違う貴族たちが卑しいものをみる眼差しを向ける。

 つきりとした痛みが、また額を刺した。

 いつまでもここに立ち尽くしていたら、何を言われるか分かったものではない。

「待たれよ」

 視線から逃げるように門を押しひらく八夜の背中に声がかかった。

 振り返ってみれば、烏帽子に真っ白な唐衣を着た御仁である。

 男性のわりに線が細く、口もとを隠す扇の縁には涼しげな目があった。

「なにか」

「そなた、最近どこか体に異変はないか」

 八夜は眉をひそめる。突然なにを言いだすのだろうか。

「ございません」

「……そうか。ならばよい。失礼した」

 細められた目が、笑った気がした。

 いったいなんだったのか。それだけ言って男は飄々と去ってゆく。

 八夜は小首を傾げて、今度こそ門をくぐった。

 額の痛みは、嘘のように消えていた。



 季節は皐。

 小石でならされた庭には季節折々の樹木や花が咲き誇っていたが、いま時分はあまい藤の香りが漂っている。

「八夜様でございますね。お待ちしておりました。今宵は我らが身のまわりのお世話をさせていただきます」

 廊の上に、ひとえ姿の女人が数人並んで立っていた。

 女たちの案内で廊を歩み、通されたのはもくもくと湯気の立ちこめる湯殿だった。

 すぐそばの衣紋掛けにかけられていたのは、桃色の布地に白や薄紅の桜で彩られた着物。

 さくらが菊之丞様とお会いするときに必ず着ていたものだ。

 体を清められたあとは、当然のようにそれを着せられた。

「さすがさくら様の妹君であらせられます。まるで生き写しではありませんか」

「いいえ。さくら様よりお綺麗でいらっしゃいます。菊之丞様の驚くお顔が目に浮かぶようですわ」

 ころころと女たちが笑う。

 あのさくらより綺麗なはずがない。生き写しはずがない。

 しかし事実とはままならぬもの。

 この女たちは菊之丞から屋敷の管理を任せられた雑仕女ぞうしめであり、何度もさくらを目にしてきたのである。

 体の汚れを隅々まで落とした八夜は、見まがうことなく美しく、艶やかであった。

 おぼろ月が流れる雲に消えてゆく。

 褥の傍で座して待つ八夜は、ふと背後から近づく気配に固唾を飲んだ。

「そなたが八夜か」

「さようでございます」

おもてをみせよ」

 八夜はくるりとまわり、顔をあげた。

 初めてお会いする菊之丞様は、怜悧な瞳で値踏みするような眼差しを向ける。

「期待以上だな……そなたの母は運がよい」

 運がよい? では、わたしは?

 するりと菊之丞様の手が伸びた。

 頭を支えられながら褥の上に押し倒される。

 まばたきをする暇すらなく、唇をふさがれた。

 菊之丞様はさくらを失った憤りを八夜にぶつけた。その熱の荒々しいことといったらなかった。何度もさくらの名前を呼び、愛をわめく。想いを刻むように首筋に嚙みつかれ、八夜は唇をかたく結んで受け止めた。容赦なく蹂躙された体はぎしぎしと軋む。

 額が脈打つように痛い。目尻から涙がこぼれ落ち、欠けた月が滲んでみえた。

「さくら……!」

 八夜を抱きしめて、菊之丞様が叫ぶ。

「さくらっ」

 わたしはあんな風に笑えないのに。

「さくら……」

 わたしはあんな風に綺麗じゃないのに。

「さくら!」

 わたしは、さくらじゃ、ないのに。 

 


 月が厚い雲に覆われて姿を消してから、いくほど経っただろうか。

 雲が流れるさまをじっと眺めていた八夜の隣で、菊之丞様が身支度を整えている。

 八夜は身を起こし、指をそろえて首を垂れた。

 菊之丞様は八夜を一瞥し、顔を歪める。

「なぜおまえが生き残った」

 わからない。

 それは八夜がずっと抱いていた疑問だ。

「さくらの代わりに、おまえが死ねばよかったのに」

 それは誰の声だったのだろう。

 菊之丞様の声ではあった。

 そこに八夜の声が重なり、母の声が重なり、虚ろな目をしたさくらの声と重なる。

 なぜ望まれるものが死に、望まれないものが生きて、望まない人生を背負わなくてはならないのか。好きなだけもてあそんで、最後に吐きだす言葉がそれなのか。

 ならば、この時間はなんだったのだろう。

 あの耐え忍んだ痛みは、悔しさは、悲しみは。

 そのすべてを飲みこんで。

「わたしも……そう思います」

 喉の奥につっかえた小石を吐きだすように告げた。

 菊之丞様は侮蔑の眼差しで八夜を見下ろし、短く鼻を鳴らした。

「金はそのままくれてやる」

「ありがとう、ございます」

 何に対して礼を言っているのか。

 その金は八夜ではなく、母のものになる。

 なにも八夜の手には入らない。

 姉を失い、心を失い、操すら失った。

 いったい、何に、対して。

 額が割れそうなほど痛んだ。

 

 しばらく抜け殻のようになっていた八夜はふらりと立ち上がり、裸足のまま庭へ降り立った。乱れた衣も髪も気に留めない。

 毛先でかろうじて留まっていた元結もとゆいは小石の上を歩めば、するりと落ちた。ふらりふらりと屋敷の外にでる。

 たなびく雲の隙間から月の光が絹糸のように降り注いでいた。

 天と地の境は曖昧で、どちらも暗く、ほんのりと明るい。

 どこいくあてもなく歩んでいた八夜は、ふと足を止めた。

 真っ直ぐに伸びた路からひんやりとした空気が漂ってきている。暗闇のなかで何か蠢いているのが僅かに見てとれた。それもひとつふたつではない。大小様々な何かが一塊になって近づいてきていた。

 噂は本当であったかと、紅の滲んだ唇が小さく歪む。

 あれが昨今、都を脅かしているという鬼なのだろう。

 得体の知れない異形のものたちを目にしても、八夜には恐れなど微塵もなかった。

 これより恐ろしいものを知っている。

 それはひとだ。じつの母であり、さくらの恋人である。

 このままゆけば、あの鬼どもに食われてしまうのだろう。

 それでいい。

「待たれよ」

 足を踏みだした八夜を留めたのは、聞き覚えのある声だった。

 彼は立烏帽子に白の狩衣をまとい、檜扇の縁から青柳のように目を細めて、こちらをみていた。

 この目にも見覚えがある。お屋敷の前で声をかけてきたお方だ。

「あなた様は……」

「このままゆけば、百鬼夜行とまみえますぞ」

「知っています。それでよいのです」

「死ぬことがお望みか」

 八夜は目を伏せる。

「――ただ、何もかもを終わりにしたくて」

 もう疲れてしまった。嗚咽をもらすことも、非難を口にするのも煩わしいほどに。 

「その願い、叶えてやれるかもしれんぞ」

 下げたあたまに声が降る。反射的に顔をあげた八夜は、涼しげな目もとに確信めいた光をみた。そこにちらほらと愉快そうな色が混じっている。

 そのとき、遠くから声がした。

「さくら、どこに行ったのだ。さくらや、後生だから戻ってきておくれ」

 百鬼夜行とは逆の方角からこちらに向かって駆けてくる人影がある。

「あれは……菊之丞様?」

 なぜここに。もうお帰りになったはずでは。

 さくら、さくら、

 闇夜のなかを何度も呼びかけながら彷徨う影。

 さくらはもういないのに、まだわからないのだろうか。

 それとも認めたくないだけなのか。

 あなた様も気づかれたはずでは?

 八夜はさくらではない。さくらの代わりにはなれないのだと。

 ふらふらとよろめく影が迫るたび、恐怖が大きく音を立てる。

 あの方に連れ戻されてしまったら、また閨の相手をしなくてはならない。

 先刻の獸のようなまぐわいを思いだし、吐き気がした。

「お助けを……」

 青ざめた八夜は身を隠すようにして狩衣の貴人にすがりつく。

 あわや、鬼の手が八夜の肩に届こうとしていた。

 桃色の衣をかすめ、柔肌に爪を立てる――

 寸前、狩衣の男が胸のなかに八夜をかき抱き、扇の影で小さく何かを口ずさむ。

 すると鬼は伸ばした手を引っ込め、きょろきょろとあたりを見渡しはじめた。

 八夜の背後で、ぎゃあぎゃあと鬼の鳴き声がしていた。

 さくら、と呼ぶ声がすぐそこまで近づいてきている。

「静かに。音を立ててはならぬ」

 男が耳元でささやく。

 鬼を目前にとらえても微動だにしなかった心の臓が、どくんどくんと大きく脈を打つ。

 唇からもれる息が温かみを帯び、五感を取り戻していくようだった。

 男は裾で八夜の耳を覆い隠した。

 耳障りな鳴き声が小さくなる。そこに、ひときわ大きな悲鳴が響く。

 ぐしゃぐしゃと気味の悪い音がする。何かを食べている咀嚼音のようだった。

 八夜はかたく目をつぶる。

 ときおり、めきっ、ぼきっ、鈍くて硬い音がした。

 鶏の首を折るときに、これとよく似た音がする。

 さくら、と呼ぶ声はもうなかった。

 しばらくすると、男は八夜を腕の中から解放した。

 恐る恐る後ろを振り返ってみれば、路上にたっぷりと血だまりができていた。そこから二条大路に向かって太くかすれた血痕が筆を引いたように伸びている。

「どうなったのですか」

「鬼が連れていったのだよ」

 男は遠くをみている。血痕を筆で描いたその奥を。

 八夜もまた、視線の先を追いかける。

 闇夜を押しのけて顔をだしたお天道様が、地平線を明るく染めはじめていた。 

「ゆこう」

 まるで何ごともなかったように狩衣の男が言う。

 八夜は差しだされた手を取り、肩を並べて歩みだした。

 菊之丞様とお会いすることは二度とない。

 さくらの面影を重ねられることも、閨を共にすることも、もうないのだ。

 そう思えば安堵が胸に広がった。


 

 朝陽が路地の隅々まで照らしはじめると、唐衣をまとった貴人や袿姿の麗人が路を歩みだす。登庁の時間なのだろう。彼らの多くは御所へ向かっているようだった。

 悠然と流れだした時のなかを、二人は手をつなぎ貴族たちと逆行して歩む。

 いったいどこへ行くつもりなのか疑問に思ったものの、八夜が口にすることはなかった。

 戻るべき場所は、どこにもない。

 身も心もくたびれてしまい、こちらだと呼ぶ声があるのなら、何も考えずにすがっていたかった。

「やめとくれ! 離せっ、離せったら!」

 ぼんやりとするあたまを、がなり声が突き刺した。

 八夜は眠りから目覚めたようにハッとして周囲を見渡す。

 安普請の家屋が建ち並ぶ居住区の一角に人だかりができている。中央ではお縄にされた女が貴族らしい男達に引きずられ、路地を転がりながら必死の抵抗をみせていた。

「黙れ! おまえの娘は大罪を犯したのだ。責はおまえにある」

「あたしは何も知らないよ! あの子はもうウチの人間じゃないんだ。どこで何をしようとあたしとは関係ないね!」

 女は男達を睨めつけ、手綱をひく手に嚙みつこうとする。

「おっかさん……?」

 信じられない思いでこぼれた言葉を狩衣の男が掬いあげる。

「あれは貴族の護衛官だな」

「まさか菊之丞様の……」

「おおかた、そうだろうよ」

 八夜はようやくことの重大さに気がつく。

 返済代わりに嫁いだ八夜が一晩で姿を眩まし、菊之丞様は鬼に喰われた。遺体は鬼が持って行ってしまったのだから、消息不明となっているはず。

 はたからみれば、誰かが菊之丞様を連れ去ったように思うだろう。

 とうぜん犯人としてまっ先に名があがるのは、一緒に姿を消した八夜である。

「どうする?」

 男は試すような眼差しで八夜の横顔を覗きみる。

 八夜は即答できないでいた。

 八夜が姿を現し、菊之丞様は鬼に喰われたのだと証言すれば、母は助かるかもしれない。

 でも、そのあとはどうなるだろう。

 いくら証言しても証拠など、どこにもない。

 残されたのは、妾のもとに赴いた菊之丞様が本宅に戻らなかったという事実だけ。

 疑いが晴れぬ以上、奥方様は決して八夜を許さないだろう。

 母を庇えば八夜に待つのは死だ。

「あの子は菊之丞様と閨を共にしたんじゃないのかい? ああ、わかったよ。きっとご満足いただけなかったんだね。あの子はさくらと違って器量が悪かったから、それも仕方のないことだよ。それなら一度ウチに戻しとくれ。五人くらい男をあてがってやれば、イロハも学べるだろうさ。あはははっ」

 卑俗な物言いに、馬に跨がった護衛官たちがそろって顔を歪める。

 八夜の表情はそれ以上だった。

 慕ってもいない男へ返済の肩代わりとして売られ、亡き姉の面影を重ねられながら操を奪われた。これ以上生きることに意味などない。そう思わせるほど、胸の奥の一番やわらかな場所に入った裂け目は大きく口を広げ、心をいくつにも断ち割った。

 粉々となったものは今でも内側からささくれ立って八夜を蝕んでいるというのに。

 あの苦痛を、また与えるというの。

 悲嘆と憤怒が入り交じり、胸が締めつけられて息ができない。

 八夜はおもわず背を向けて口もとを両手で押さえ込む。

 すっぱいものが喉からこみあげ、目尻には涙が滲んだ。

「大丈夫か」

「……行きましょう。わたしにはもう関係ないですから」

 少しでも躊躇ったのがバカだった。

 八夜は男の手を引く。

 母を捕らえた綱を手に護衛官が馬の腹を蹴る。

 砂煙をあげて引きずられていく母の耳障りな悲鳴を背後に聞きながら、八夜は最後の別れを告げた。



 二人は無言のまま大路を歩む。

 菊之丞様がお亡くなりになり、母もじきにこの世を去るだろう。

 八夜はついに自分を苦しめるすべてから解放されたのだと悟った。

 それなのに嬉しいような悲しいような、よくわからない感情が八夜を満たし、最後に一塊の空虚さとなって胸の深いところに落ちた。

 なぜか顔をあげて歩む気になれない。

 足もとに視線を落とす八夜の目に揺れる草花がみえた。乾いた土とごつごつとした砂利のあいだから芽吹く黄色い花。密度を増す雑草が地面を覆い隠し、青々とした葉をつける大木がちらほらと行く手を阻みだしたころ、狩衣の男はよくやく足を止めた。

 そこでようやく八夜も顔をあげる。

「ここは?」

「おまえの墓場だよ」 

 男は澄んだ瞳を真っ直ぐ森の奥へ向けて、さらりと言い放った。

 八夜は目を丸くする。

「わたしを殺すのですか」

 とたんに石のように固まった命が、ドクドクと音を刻む。

 焦った八夜は助けを求めて周囲を見渡す。いつの間に羅生門を超えたのか、野原と密林が広がっているだけで、人っ子ひとり見当たらない。ここならば誰に咎められることもなく人を殺せる。恐怖が募り、怯えながら信じられない目で男をみた。

「なぜですか。わたしがいったい何をしたと……」

「あれをみればわかる」

 後ずさりながら距離を取った八夜に、男は片腕を伸ばして森の奥を指し示す。

 警戒しつつ不審げに視線を移した八夜は、木々のあいだを埋め尽くす雑草の中に何かが転がっているのをみつけた。

「あれは?」

「みればわかるといったではないか」

 狩衣の男は扇で口もとを隠し、可笑しそうに目を細める。

 その平然とした余裕が八夜を苛立たせた。

「わたしを殺すつもりなのでは?」

「いいや。私はあれをおまえにみせたかっただけだ」

「では、先ほどの言葉はどういう……」

 狩衣の男は愉しそうに目を細めるだけで、それ以上言葉を発しなかった。

 八夜は真意を確かめようと、じっと男の目の奥を覗きみる。睨めつけることしばし、無言の時間が二人のあいだに流れる。先に観念したと視線を外したのは八夜だった。

 男の目は澄んだ水のように美しいが、それ以上でも以下でもない。

 いくら穿ってみても、答えはみつけられそうになかった。

 八夜は鼻で短く息を吐き、不消化の苛立ちを言葉に乗せた。

「あなた様には命を助けられたご恩がありますから」

 そう義理立てなければ、みに行く気になれなかった。

 憤慨しながら八夜は密林へ足を踏みこむ。

 ぼうぼうと茂る雑草は奥へ進むほど丈を増し、ついには腰ほどの高さとなった。雑草に覆われた地面は、ところどころに木の根っこが浮き出ており、八夜は何度も転びそうになりながら歩みを進めなければならなかった。

 茂みに埋まる影はすぐそこだ。

 すぐ近くまできて、訝しげに眉を寄せる。草花の隙間に青ざめた足が放り出されていた。眉根に寄せた皺を一層険しくして足を止め、目を凝らす。

 死体、だろうか。

 乱れた着物は泥土で汚れていたが、桃色であることはみて取れた。

 さくらがそうだったように、平民の多くは死んだら野山に投げ捨てられるのが落ちだ。

 男の目的はなんなのだろう。死体をみせて、どうしたいのだろう。可哀想だと涙をこぼせばいいのか、それとも墓を掘って丁寧に埋葬してやれば気が済むのか。

 いくら思い悩んだところで、わかるものでもない。

 八夜は背後に男の気配を感じながら再び足を動かした。

 一歩、二歩、と踏み込み、ようやく遺体を眼下に捉える。

 雑草に埋もれていたのは女だった。

 無様に手足を放りだし、顔を横向きしにして伏せている。その上に白や薄紅の桜模様が散りばめられた着物が広がっていた。

 全貌を目にしたとたん、八夜は固まったように動かなくなった。

「思い出したか」

 男の声が遠くに聞こえる。

 甲高い音が鼓膜を揺らし、あたまが割れるほど痛んだ。

 八夜は目眩を覚え、額を抑えながらふらりとよろめく。

 伏せた女の横顔はさくらとよく似ていた。

 着物もさくらが菊之丞様からいただいたものと同じ。

 けれど何かが違う。

 唇から頬にかけて滲んだ紅の跡と、首筋についた小さな歯形。そして放りだされた右手の人差し指に、ぷつりとあいた小さな傷痕をみつけた。

「あ……ああっ」

 声にならない声をあげて八夜は首を振る。これは八夜だ。信じられない思いで理解する。理解して、走馬灯のように駆け抜ける記憶に没頭する。

 菊之丞様が背を向けたあの瞬間、八夜は衝動のままに床を蹴った。

 さくらと呼ばれながら体を蹂躙された悔しさと悲しみ。結納金を使いこみ、借金のカタに八夜を売った母への恨み。

 そもそも、さくらが菊之丞様と出会わなければこんなことにはならなかった!

 運命を呪い、姉を憎み。

 心にもない謝辞を述べた時、八夜のなかで必死に我慢していたそれらのものが、抑えきれずに破裂した。

 八夜は褥のそばにあった刀を握りしめると菊之丞様のもとへ駆け寄り、迷わず背後から切り捨てた。

 一度爆発した感情はなかなか抑えが効かず、二度三度、腕を振り抜くこととなった。

 乱れた息で事切れた菊之丞様を見下ろした八夜は、最後にスッキリとした表情で己の首に刀をあて自決したのである。

「あの時おまえは死んだのだ」

「なら……ならば、いまのわたしは……」

 男は正面にまわると、閉じた扇の端で八夜の額の真ん中あたりを軽く小突いてみせた。そこは、いつも痛みを覚える場所。八夜は促されるままに手を当てた。

 固く、先端の尖ったものがある。

「これは……」

つのだ」

 ふるえる声で角、と反芻する。

「おまえの恨みは相手を殺し、自害しても消化できなかった。肉体を離れた魂は鬼となり、この世に留まったのだ。私と手をつないでいなければ、何人かはおまえの姿に気がついただろうよ」

 言われてみれば、額に痛みを感じなくなったのは閨のあとからではなかったか。

「そんな。ではあの時追いかけてきた菊之丞様はいったい……」

「あれもまた死してなお、さくらという女子の面影を追い求め、彷徨っていた鬼よ」

「そう、だったのですか」

 八夜は愕然とした表情で膝をつき、悲しげに目を伏せる。

 現世で結ばれなかったとしても、そこまで想われればさくらはしあわせ者だ。

「わたしも……しあわせになりたかったです」

 素直に羨ましいと思った。

 同じ母を持ち同じ平民に生まれ、似たような顔かたちであったのに、なぜこうも違ってしまったのか。

「なればよい」

「死んでしまったのに、どうやって」

 苦笑をもらしながら顔をあげた八夜に、男は微笑を浮かべる。

 初めてみた男の容貌は、この世のものとは思えないほど美しかった。

「耳にしたことがあるか。都には鬼を飼う陰陽師がいるらしい」

 突拍子もない言葉に、八夜は呆気に取られて瞬きを繰り返す。

「え、ええ。たしか……安倍晴明様と仰る方です」

「私のことさ」

 微笑を深めた晴明様に二の句が繋げない。

 目を丸くして立ち尽くす八夜に手が差し伸ばされる。

「おいで。おまえを式神にしてやろう。さすれば悪鬼にならずに済む。式神になれば、心穏やかな生活を送れると約束しよう。代わりにおまえがやるべきことはひとつ。わたしと共にあることだけだ」

 八夜には式神が何かまったく分からない。

 しかし悪鬼というのは菊之丞様を喰らった鬼のことを指すのだろうとは予想がついた。

 このままいれば、いずれは人を喰らう鬼になるということだろうか。

 あんな悍ましい化け物に成り果てたいとは死んでも思わない。

「……閨は共にしませんよ」

 警戒を含む声でつぶやくと、晴明様は皮肉げに唇の端をひきあげた。

「いくら陰陽師でも鬼と閨を共にする趣味はない」

 しかし、と付け足す。

「おまえが望むなら、契約に組み込んでおこう」

 その言葉を聞いた八夜は、花が綻んだように安堵した笑みを浮かべた。







 

 


 

 

 

 

 

 


 

 

 



 

 


 

 

 

 

 

  

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

  

 









 

 

 

 

 

 

 

 




 

 

 

 

 

  

 


 

 

  


 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 


 

 


  

 

 

  

   

 

 

 

 

  

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