山女様 5

一歩目。玄関に入る。

二歩目。靴を履いたまま、フローリングを踏む。土足で床を汚すことに抵抗がなかったのは、既に泥の足跡がスタンプされていたからだ。僕より一回りは小さい裸足の痕跡を追うと、内股の歩容でリビングを歩き回っていた。

三歩、四歩、五歩と進んでいき、リビングの中央で呆然と立ち尽くした。

床一面が、足跡だらけだ。

入り口で一旦立ち止まったのか、泥の塊がいくつか落ちていた。それから入って左の棚を通り過ぎて、突き当りのベッドを手で撫でたようだ。シーツの上に指で引いた五本線が、生々しく残っていた。足跡は右折して、行き止まりのタンスで棒立ちになる。その場で何度か足分んだ後——バスルームへと入っていった。

閉じられたドアに、敷居を踏んだ跡が残っていた。薄い戸板一枚を隔てた向こう側から、シャワーの水音が微かに聞こえてくる。さすがの僕でも、水の出しっぱなしなんてポカはやらない。

肺が引きつって呼吸が乱れ、空気を啄むことしかできなくなる。

いるのか。

安心するためには、ドアを開けて確かめる勇気が必要だ。逃げ出すためには、暗闇を彷徨う勇気が必要だ。二つの異なる勇気は、心の天秤で釣り合ってしまい、身動きが取れなくなった。

 どうする。どうする。どうする。

 水がバスタブに跳ねる音を聞きながら、必死で自問自答にくれた。

 やがて。心の天秤は、ドアノブを捻る音と共に傾いた。

逃げ場なんてない。実家に避難しようと、こいつは憑いてくるに違いない。ならばこの場で踏みとどまった方がいいに決まっている。

ドアは軋んだ音を立ててゆっくりと開いていき、その内容を明らかにした。

狭苦しい三点ユニットバスでは電気は灯っておらず、うっすらと湯気が漂っていた。バスタブには栓がしてあるようで、シャワーから流れるぬるま湯で一杯になっていた。

足跡はバスタブの前でぷつりと途切れていた。恐る恐る中を覗き込んでみると、水面には枝葉が浮かんでいて、底には砂利が沈んでいた。山を徘徊していた獣が、身体を清めればこんな有様になるのではないか。僕はふとそう思った。

「は……はは……まさか……」

 僕は引きつった笑みを浮かべて後ずさった。不覚にもその際、シンクの上に掲げられた鏡を見てしまった。

 鏡面が映し出す仄暗い世界に、及び腰になった僕が佇んでいる。その背後、すぐ後ろに、山女様が立っていた。僕が渡したジャンパーを羽織り、その上に長い髪が流れている。汚れを洗い落としたおかげで、泥と苔の下に隠れていた青白い肌が露わになっていた。背筋はまっすぐに伸び、両手を恥部の前で合わせた、粛々とした出で立ちだった。

鏡越しに僕を注視する顔には、変わらず目と鼻がない。ただ口から覗く歯は、真っ黒に染まっていたのだった。

 憑いてきている。

 恐る恐る振り返ると、そこには誰もいない。しかし首筋に、生臭い息が吹きかけた。

 耐えられない。

 僕はアパートから飛び出すと、がむしゃらに夜の街を走り回った。とにかく人が多く、光で溢れている場所がいい。そこまで逃れれば、山女様もついてこれないのではないか。妖怪に抱いているイメージが、安全地帯として候補を上げていく。

 僕はとりあえず、駅前の商店街まで逃れることにした。時刻は夜の八時過ぎ。行きかう人は疎らであるが、住宅街に比べればずっとマシだ。

駅前のハンバーガーチェーン店内で、腰を落ち着けようと考えた矢先だった。店舗のショーウィンドウを鏡にして写る人々の中に、ジャンパーを羽織ったその姿があった。道路を一つ隔てた電柱の影に、山女様がひっそりと佇んでいるのだ。彼女は頭をこちらに向けて、瞳のない顔でじっとこちらを見つめていた。

もう、一刻の猶予もないように思えた。

スマホを取り出して、通話履歴の一番上を確認もせずタップした。待つこと数コール、明るい声が耳朶を打った。

『よう。どした?』

「一茶か!?」

『当たり前だろ。お前なんてアダナで、俺の番号を登録してんだよ』

「バイク貸してくれ! 絶対に事故らないから!」

『あん? どうした急に』

「いいから! 頼む! 一生に一度の頼みだ! 早く! 早く!」

『まぁまぁ……落ち着けよ』

 スマホからごそごそと物を漁り、ライターを着火する音が聞こえた。一茶は一服しているらしい。怒鳴りたい衝動を何とか抑え込み、足踏みしながら返答を待った。その頃にはショーウィンドウに写る山女様の姿は、忽然と消え失せていた。

 一茶は煙を吐く息を皮切りに、茶化すような口ぶりで言った。

『昼間に桐栄の話を聞いて、バイク愛が再燃したかぁ? いいぞぉいいぞぉ。お安い御用さ。つーか事故ったのも、どーせ動物が飛び出してきたとか、落石で道が塞がれてたとかそんなんだろ。じゃなきゃあ、お前が事故る訳ねぇもんな。そんなんで趣味を潰してたら、長い人生損する。いい判断だと思うぜ』

「そんな話はどうでもいい! 今すぐ持ってきてくれるか!」

『今ってぇ……え? 明日じゃないの? もう日も暮れてんぞ』

「いいから頼む! とにかくアシがいるんだ!」

『ッと——マジにヤバそうだな。OKどこにいる? すぐにお兄さんがデリバリーしてやるよ』

「駅前のバーガーショップの前だ! 早く——ひっ……」

 僕の手がスマホごと、何者かに掴まれた。肌越しに伝わる冷気が心胆を寒からしめ、そこから全身が凍り付いて身動きが取れなくなる。軽い金縛り状態に陥ると同時に、耳元に生暖かい息が吹きかかった。

『円ぁ? おい。円ぁ? 聞いてんのか? どうした?』

 スマホの向こうで、一茶がにわかに焦りだす。

僕の注意は、ショーウィンドウに写る山女様に釘付けになっていた。いつの間にか僕の背中に張り付き、口をいの字に広げて僕の手を握りしめていたのだ。赤い唇から黒い歯を剥き出しにする相貌は、電話をやめさせようと脅しているふうに見えた。

「は や く!」

 僕が金切り声を上げると、一茶は『待ってろ』とだけ叫んで通話を切った。

手から冷たい感触が消え、ショーウィンドウから山女様の姿が消えた。緊張と共に身動きを封じていた見えない糸が切れ、身体に籠っていた力が四肢を跳ね上げさせた。

 妖怪と言っても、まさか物理的に接触できるとは思わなかった。遠巻きに眺めているだけかと思ったら、とんだ大誤算だ。見えない汚れを落とすように、掴まれていた手の甲を必死でこすった。

 山女様の接近を許さないため、四方八方に視線を巡らせる。傍目には一人でタンゴを踊っているような有様だ。街行く人の奇異の視線が突き刺さるが、気にしている場合ではなかった。

 遠くからバイクのエンジン音が聞こえた。一茶が夜の闇をフロントライトで切り裂きつつ、こちらへと近づいてくる。彼は傍らでバイクを止めると、メットを取って困惑した顔を見せた。

「よぉ、円ぁ。なんかトラブったのか?」

 残念だが、説明している暇はない。納得させる自信もない。僕は一茶のバイクのハンドルにかじりつくと、その座席を奪おうと腰を押し付けた。

「悪いけど借りるよ! 明日返すから!」

 一茶はため息をつくと、僕の胸ぐらを掴んで目と鼻を突き合わせた。気さくな彼が、珍しく口元を歪めて怒っていた。

「おいっ! ダチだろ! 説明しろよ! 何があった!」

 僕は何て言えばいいかわからず、しばし一茶と見つめ合った。頭の中に様々な情報が駆け巡っていく。山女様。老人たち。身代わり人形。泥の浮いた湯舟。そして憑りついた存在。全てに説明をつけることは難しく、理解させるのはそれ以上の難問だった。

 僕にできることは要点をぼかして、バイクを使って何をするかを話すしかできなかった。

「僕にも……わからないんだよ……だけど……唯一助けてくれそうな人が……遠くにいるんだ……バイクは売っちゃったから……会いに行くため……貸して欲しいんだよ……」

 一茶は不機嫌そうに目をそらすと、頭を乱暴にかいた。

「俺じゃ無理か」

「それに……迷惑を掛けたくない」

「ならしゃあねぇ」

 一茶はあっさりバイクから降りると、ハンドルを僕に押し付けた。

「ありがとう!」

 僕は叫ぶとバイクに跨り、スロットルを一気に捻った。

「時間は気にしなくていいから、マジで事故んなよお前ェ!」

 一茶の激励と心配が、追い風となる。マシンは鋼鉄の咆哮をあげて、夜闇を切り裂きあの山へと突き進んでいった。

『もう来るな』と言われたが、事情が変わった。忌避すべき存在が、僕に憑りついているんだ。

「今度憑かれたら助けられないとか言っていたけど……何らかの対処法はあるはずだ……」

 二週間ぶりに乗ったバイクは、照明のないなだらかな山道を登っていった。夜の静寂にエンジン音がこだまし、ライトがか細く行き先を照らし出す。幸い今のところ、山女様の邪魔は入っていない。

 焦る心がスロットルをさらに押し込もうとするが、事故ってしまったら元も子もない。勇気と共に自制心を働かせて、黙々と夜道を走っていった。

 山道を進んでいくと寂れた看板が目に入り、村へと続く砂利道が見えた。僕は少しスロットルを緩めて、バイクから降りないまま村へと入っていった。

 開ける視界に、月明かりが降りそそぐ。照らし出されているのは、すっかり人気のなくなった集落だった。

「誰か……誰かいませんか」

 僕は弱々しい口調で、虚空に問いかけた。家々に一つたりとも、明かりの灯っている場所はない。静寂にただ、バイクの刻むビートが響き渡る。

「誰かぁ。誰かぁ」

僕はやや声を大きくしながら、一夜を過ごした民家へと向かっていった。

「もしもし!? 誰かいないのか! お願いです! 出てきてください!」

 僕の喉から、ついに絶叫が迸った。巨大な民家まで辿り着くと、エンジンを切らないままバイクから飛び降りた。挨拶もなしに戸板を開くと、スマホで屋内を照らし出した。

 がらんどうだ。何もない。柱にかけられた農具、壁に沿わせた箪笥、座敷に置かれた生活用品、全てがなくなっていた。民家は放置されて時間が経っているらしく、一歩踏み出すごとに舞い上がった埃が月光に煌めいた。

「嘘……だろ……」

 あの老人たちも、妖怪の類だったのか?

 僕はふらつく足取りで、屋内を探索した。土間には壊れた農具がいくつか投げ出され、柱にはボロの野良着が数枚かけられていた。座敷にはいくつかの衣服と、小物が放置されている。

僕は座敷に歩み寄り、捨てられている新聞を手に取った。日付を確認すると、僕が山女様に会った日から、わずか二日後に発刊されたものだった。

 つまりだ。あの老人たちは紛れもなく人間で、僕を見送った後に村を引き払ったことになる。

 何で? どうして?

僕は最後の希望を打ち砕かれて、呆然としたまま民家から出た。手掛かりを求めて村を徘徊するも、残っているのはゴミだけだ。人の生活の痕跡が見つかるだけで、酷く憂鬱になるだけだった。

さすがに気力が削がれた。今日は引き上げることにしよう。僕はバイクの元まで戻ると、押して村の出口へと向かった。

あぜ道に広がる、畑がふと視界に入った。まだ収穫の時期には遠いはずだが、農作物は一つ残らず回収されている。畑の真ん中には大きな穴が掘られていて、そこから微かに腐臭が漂っているのだった。

僕はバイクを立てると、何気なく大穴に近づいて中を覗き込んだ。

ギクリと、身体が強張った。大穴には身代わり人形が、大量に捨てられているのだ。つい最近まで祀られていたのか、一緒にお神酒と榊も入っていた。

 ひょっとすると。

僕は後ずさりしながら、思った。

 ある人は山女様を凶兆を知らせる存在だといい、ある人は災禍を引き寄せ人に憑りつく妖怪だという。その二つともが事実だとしたらどうだろう。山女様は自らが引き起こす災禍から、人を守るために姿を現すのだ。

 山女様は最初に出会った時、道路に落石が散らばっているのを教えてくれたのではないだろうか。故に僕は村を訪れ、災禍に見舞われる羽目になってしまったのかもしれない。

 思い返せば落石に突っ込む事故にあった時、山女様の妨害はなかった。そして明らかに身体の調子がおかしかった。老人が出したお茶には、変な薬が入っていた可能性もあるのだ。

村人はなぜ、僕に一服盛ったのか。それは奇妙な儀式を行い、僕を新たな山女様の管理者に仕立て上げるためではないだろうか。山女様はなぜ、帰ることを妨害したか。僕が去った後で、村人が退去の準備を始めたからではないだろうか。

 妄想に等しい推測だが、他に合理的な説明もつけられない。確かめようにも、当の村人はもういないのだ。

「これから……どうすればいいんだ……」

 僕はバイクを振り返って——さぁっと身体から血の気が引くのを感じた。

 僕とバイクの間に立ち塞がる形で、山女様が立っていた。彼女は右腕で、雑木林の方角を指しているのだった。

 バイクに乗って逃げたいが、生憎山女様が通せんぼをしている。そして僕の推測が当たっているのなら、彼女は凶兆を告げに現れたはずだ。熊か猪の害獣か、老人が戻って来たのかもしれない。後者なら願ったり叶ったりだが、不意打ちをされたら命に関わる。

 僕は山女様から視線を外さぬまま、小走りで指示された雑木林に向かうことにした。

都合のいい解釈で結構。あてが外れて草むらに災難が潜んでいたっていい。どうせもう山女様に憑りつかれているんだ。災禍に見舞われるのは、遅いか早いかの問題だ。

草むらで息を潜めつつ、何者かの到来をじっと待ち受ける。しばらくすると村の奥から、ひたひたと裸足で地面を踏む音と、奇妙な呟きが聞こえてきた。

「テン。ソウ。メツ。テン。ソウ。メツ」

 声は酷くしゃがくれていたが、遠くまでよく通った。足音と声が大きくなるにつれて、村の奥から一つの人影が姿を現した。

 いや……人じゃない。頭のない、一本足の、まぎれもない化け物だ。その容姿は妖怪に当てはめると、イッポンダタラによく似ていた。そいつは両手を、身体をめちゃくちゃに振り回し、けんけんをしながらバイクの元までまっすぐに跳ねてきた。

「テン。ソウ。メツ。テン。ソウ。メツ」

 化け物はバイクの近くで足を止めると、身体を捻って周囲を見渡した。どうやら僕を探しているらしい。山女様の姿はいつの間にか消えている。だが耳をくすぐる生暖かい息で、背後に移動していることは察しがついた。

 化け物は誰もいないと分かると、来た道を跳ねて引き返していった。

「テン。ソウ。メツ。テン。ソウ。メツ」

 しゃがくれた声が、森の騒めきに飲まれるまでじっと堪えた。声が絶え、耳元に吹き付ける息も消えた頃になって、僕はようやく草むらから這い出た。

 もはや化け物の正体が何だったのか、気にするゆとりはない。

 バイクの傍らに立ち、ぼんやりと真円を描く月を見上げる。

 災禍を……引き寄せる? ふざけるな。僕は病気や事故だと思っていたぞ。

 あんな災禍が、これから僕の身に降りかかるのか。

 口の端が、自嘲で吊り上がった。

 ああ……僕は——どうやらとんでもない存在を、押し付けられてしまったらしい。

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やまめさん 溥吾 悠 @hoshino_sora

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