山女様 4

「おい。お前さん」

 何者かに肩を叩かれて、ついに悲鳴を上げてしまった。振り返ると、口髭の男が僕の顔を覗きこんでいた。

「よく頑張ったな。もう大丈夫だ」

 僕は全身に張り詰めた緊張が抜けて、身体が萎んでいくのを感じたのだった。

 老人はゆっくりと屋内を見渡すと、腐り果てた食事をまじまじと観察した。やがて泥まみれになった人形に視線を移して、泥を崩さないよう慎重に取り上げた。

「疲れているだろうが、締めを誤ると元の木阿弥だ。もうちょっと頑張るんだぞ」

「まだ……終わっていないんですか」

「あと少しだ。あまり話しかけるな。臭いが移る」

 辟易しながらも、老人の手を借りて立ち上がった。

「いいか。これが最後だ。わしらが見送るから、何をされても立ち止まるな。バイクに乗って、まっすぐ家に帰れ。だが——」僕の胸元に、身代わり人形が押し付けられた。「道中でこいつを山の中に捨てるんだ。間違っても持って帰るな。なるたけ崖の上から投げ捨てるんだ。道端に捨てるのは避けろ。ひょっとしたら……追いかけてくるかもしれんからな」

 手の内の身代わり人形から、むせかえるほどの緑の臭いがした。僕は吐き気を堪えながら、老人の先導に従って民家を出た。

 外に出ると真正面に、バイクが準備してあった。車体にはアスファルトに擦った生々しい傷が残っていて、昨日の出来事が現実だったと改めて実感させる。僕はバイクに対する愛着や執着をかなぐり捨てて、戻れたらすぐに売ってしまおうと考えた。

民家からバイクまでは少し距離があったのだが、村人たちが整列して道を形作っている。昨日の野良着とは違って、全員が小奇麗な和服を纏っていた。手にはズタ袋を持っており、重い顔つきで僕を注視しているのだった。

「いけ」

 老人に背中を押されて、僕は村人たちの並木道を一歩踏み出した。すかさず村人がズタ袋に手を突っ込み、何かを投げつけてきた。驚きで足が止まりそうになったが、老人が背中を押し続ける。

「止まるな。いくんだ」

 僕は戸惑いながらも、バイクへと近づいていった。どうやら投げつけられているのは、米粒らしい。脱穀されていない実が、いくつか抱える人形にへばりついた。

 歩を進めていくうちに、村人の列に見知った顔を見つけた。僕が村の入り口で出会った、野良仕事をしていた老婆だ。顔を合わせた時の愛想の良さはすっかり消え失せ、暗い視線を足元に落として、機械的な動作で米を投げていた。彼女もこんな大事になるとは、露にも思っていなかったのだろう。

 話しかけると、臭いが移るという。迷惑を掛けたくないので、素知らぬ顔で目の前を通り過ぎた。

「ごめんね」「シッ。話しかけるな」

 老婆の小さな呟きと、それを諫めるしゃがくれた声が微かに聞こえた。

 僕はバイクに辿り着くと、とりあえずリアシートバッグに身代わり人形を入れた。この時、戻れたらバイクを売ろうという考えは、明確な決意へと変わっていた。

 老人が僕の肩をさすると、ぼそりと耳打ちした。

「もう二度とこの山には立ち入るんじゃないぞ。次に山女様に魅入られたら、わしらではもう助けられんからな。気を付けてな」

僕は村人たちを気にしながらバイクに跨った。見送りは既に米を投げるのをやめており、視線で早く去るよう急き立てている。何か裏寒いものを感じて、背筋に悪寒が走った。

スターターを蹴る。一回、二回、三回目でエンジンが唸りを上げ、鋼の心臓が脈動を始めた。僕はスロットルを押し込むと、振り返ることなく村を横切り、砂利の坂を下って道路に合流した。

早く市街地に逃げたい気持ちと、このまま帰ることの不安が、スロットルを半端な位置で遊ばせている。不安の正体がわからぬまま、その正体を暴くのに何を考えていいのかすらわからず、ただひたすら続くひび割れたアスファルトを走っていった。

山女様と初めて会った場所を過ぎ去り、瓦礫が奇麗に除かれた落石現場を抜けた。その頃になると、僕の関心はどこで身代わり人形を捨てるかに集中していた。

できればすぐにでも手放したいが、下手を打つと追いかけられる恐れがあるらしい。場所は慎重に選ばないといけない。

 バイクが勾配を登り切るとなだらかな下り坂が始まったが、山頂には平面が広がっていて急峻な崖なんて見当たらない。

適当に流しながら、崖を見つけて捨てればいいか。僕はそう決めてスロットルを握りしめた。

 山を下りながら、稜線が生み出す天然の芸術に目を走らせる。景色を楽しむわけではなく、投棄場所を探しているのだから気が滅入る。しかし標高の高くない山なだけに、格好のポイントはそう見つからなかった。

 一本道を彷徨って進むうちに、ふと鼻腔を異臭が付いた。

 あの。泥と苔の。緑の臭い。微かに混じった。腐肉の臭いだ。

 そして気付く。リアシートに、何者かが乗っていることに。

 恐慌がハンドルを明後日の方向に切ろうとするが、辛うじて正面にキープした。落ち着く間もなく背後から緑の腕が伸びてきて、手首を反転させて背後を指さしたのだった。

 いる。すぐ後ろに。それも背中に張り付くようにして。

 僕は声にならない悲鳴を上げることしかできなかった。怖さが止まることを許さない。恐れが進むことを拒否する。二つの同じ感情に板挟みにされて、操るバイクはふらふらと危うい軌跡を描いた。

「はぁ~」っと、耳元に生暖かい吐息がかかる。全身を駆け巡った電流が背筋をピンと張らせ、足をステップから離させた。バイクの制御が、どんどん難しくなっていく。山を出る前に、憑り殺そうとしているのか。

 運悪く——いや、山女様は狙っていたのか、道路は急なカーブに差し掛かった。ガードレールの向こうに山肌は見えず、青空が広がっている。きっと急峻な崖があるに違いない。このままだと突っ込んで、バイクごと投げ出されてしまう。

 僕は半狂乱になりながら、バイクの命運を右腕に一任し、左腕をリアシートに伸ばした。車体が一層暴れる中、左腕でリアシートバッグを固定するロープを解こうとする。きつく縛ったとはいえ、蝶結びをしている。上手く先端を掴めれば、後は引くだけでバッグを落とせるんだ。

 カーブが刻々と迫る中、左手は虚空をかいで、バッグを掴み、車体を引っかいた。

 ガードレールが近づいてくるにつれて、喉から絶叫が迸った。確認できたのだ。

 ふと。僕は山女様の腕が、視界から消えていることを知った。同時に左手は、風に遊ぶロープの先端を握りしめていた。力いっぱい引っ張ると、リアシートで荷が解ける手ごたえがあった。強烈な緑の臭いが薄れて、背後の気配が霧散した。

やった。これで帰れる。込み上げてきた生への執着が、身体を支配する恐怖に打ち勝った。ステップを踏みつけ、ハンドルを両手で握り締める。バイクは目が覚めたようにコントロールを取り戻し、奇麗な流線を描いてカーブを曲がっていった。

僕はスロットルを限界まで捻ると、山道を疾走して都市部を目指した。

 うまく崖に落せたか、追ってきていないか、背後を確かめる余裕なんて残っていない。

 帰り道、一度たりとも振り返ることはなかった。



「円君さ。私もバイクかったんだァ。今度ツーリング行くとき連れてってよ」

 校内の食堂でボーっとしていると、向かいに座る春原桐栄がそんなことを言った。僕は箸で手つかずの野菜炒めをつつくのをやめると、どう返事したものかと冷めきった料理に視線を落とした。

 あれから二週間が経った。山女様は現れることなく、日常に異変も起きていない。まぁ……一茶と桐栄の顔を見るたびに、ビクつく体質にはなってはしまったが、平和な毎日を過ごせていた。きっと身代わり人形が、僕を助けてくれたのだろう。

 せっかく助かった命を、無駄に使い潰すつもりはない。

「あ……その……もうバイクは売っちゃったんだ」

 桐栄は目を丸くして驚くと、テーブルに身を乗り出した。その所作が山女様に襲われた夜を思い出させて、僕は思わず腰を引いたのだった。

「えぇ~? 何でェ? どうしてェ?」

「どうしてって……」

 妖怪に魅入られて死ぬ思いをしたから、バイクも遠出も嫌になったなんて、口が裂けても言えるものか。僕が心理学を修めているからなおさらだ。研究する側から、される側になってしまう。

 僕が答えあぐねていると、助け舟は隣の席から出た。

「それがさ、こいつ事故ったんだよ。な。円ぁ」

 一茶が僕の肩を抱いて、馴れ馴れしく顔を寄せてきた。

「ああ……」

 僕が首肯すると、桐栄の表情が曇った。

「え……大丈夫だったの?」

「車体に大きな傷ができただけだよ。身体は全然平気。だけど酷く怖い思いをしたからね。バイクは当分見たくないし、遠出もしたくないかな。だから売ったんだ」

「そぅ……」

 桐栄は残念そうにため息をつくと、椅子に力なく座りなおした。

 食卓に気まずい空気が流れだし、重い沈黙が箸を持つ手を鈍らせた。

 一茶はわざとらしく、明るい声で笑った。

「いや。俺もびっくりしたよ。久々にツーリングに誘おうとしたら、バイクを売ったとか言うんだもんな。確か崖に落ちそうになったんだっけか?」

「まぁ……そんな感じかな」

「そんな目にあったら、バイクなんてしばらく見たくもなくなるわな。桐栄も残念だったな。せっかくバイク買ったのに。ま、今度俺が連れてってやるから勘弁してやれよ」

「えぇ~? 前に後ろに座らせてもらったけど、一茶君は走るのがメインじゃないじゃん。市街地を転がして、あっちの喫茶店で一服、こっちのゲーセンでひと遊び。知っているところグルグルするだけでさ。私は自然を楽しみたいんだよ」

 桐栄は唇を尖らせると、未練がましくこちらを横目で見た。

 一茶も思うところがあるようで、意味ありげな視線を送ってくる。

「なぁに。しばらくすれば、また走りたくなるさ。お前サークルに入っていないもんな。どうせ暇に耐えかねて、安物の単車買うに決まってる。そん時に三人で、適当に流そうや」

 一茶の肘が、こつんと僕の脇腹をつついた。僕のバイク愛を揺り動かそうとしているみたいだが、生憎湧きあがったのは山女様への恐怖だった。

「いや——」

 あんなのは、二度と御免だ。



 バイクを手放したせいで、通学が大変になった。単車で飛ばせば二十分足らずの通学路だったのに、今では自転車と電車を併用して四十分と、時間と手間が倍になってしまった。

 月明かりの下、閑散とした住宅地を自転車で走り抜ける。文明の利器に甘やかされた太腿は、慣れない運動の連続でパンパンに張っていた。

 現在の苦労の重さに比べると、過去の災難なんて軽くとらえてしまうものだ。僕の脳裏には、今日の食堂でのやり取りが浮かんでいた。

「帰ってすぐにバイクを売ったのは、間違いだったのかもな」

 当時はとにかく、山女様に関係するものを捨て去ってしまいたかった。バイクはもちろん、リアバッグも、来ていた服も、靴も全部処分した。山女様との接点を、完全に断ってしまいたかったのだ。

「桐栄も……バイクを買ったって言ってたな……どんなの買ったんだろ……また走りたいなぁ」

そして二週間、何事もなく生活できた。山女様も諦めたと見て、安心してもいいはずだ。それにいつまでも怯えて暮らしていたら、助かった意味がないじゃないか。もちろんあの山には、今生の限り近づかない。

問題ない。新たな一歩を、踏み出してもいいはずだ。

「こりゃ一茶の言う通り、買い直す羽目になるかも……」

 帰ったらネットで、中古のバイクでも調べてみるか。僕はどこか吹っ切れた心持ちになって、アパートの面する道路へ入った。

 僕が住んでいるのは二階建てのアパートで、郊外の住宅街に埋もれるように建っていた。築四十年と年季は入っているし、近くにスーパーなどもない。だが手入れが行き届いている割に、家賃が安かったのだ。バイクの行動範囲を勘案してここに入居したのだが、今では交通に酷く難儀する有様だった。

契約の駐車スペースに自転車を止めると、無駄なスペースがあまりに目立つ。同じアパートに住む人がこれを見ていると思うと、妙な情けなさが込み上げてきた。

やっぱりバイクを買いなおそう。調子に乗らずに、排気量が少ないやつを。後はアクセルをふかせば、風が全て洗い流してくれるだろう。

僕は安堵の滲む笑みを浮かべつつ、視線をアパートに向けたところで、「あっ」と声を漏らした。

僕の部屋に、電気が点いていたのだ。

「またやっちゃったか……」

 山女様と出会ってから、夜も電灯をつけて寝る習慣がついた。さらに自転車通学で登校時間が増え、遅刻寸前の毎日である。時間に追われて家を飛び出す回数が増え、消し忘れが多くなったのだ。

 頭をかきむしりつつ、アパートの階段を昇っていく。

「週末の電気料金……憂鬱だな」

 僕はぼやきながら、鍵を開けてドアを開け放った。

 ムワっと室内から、昼間に蓄積した夏の熱気が溢れ出てくる。

同時に鼻を衝く異臭。泥と、苔の、緑の臭い。微かに混じる、腐肉の酸味。

忘れかけていた、恐怖の芳香。

背筋を冷や汗が伝っていき、緊張が生唾となって喉を滑っていく。

まさか。

踵を返して、逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。しかし外はすでに、夜が支配する闇の世界だ。妖怪の姿を電柱や草葉の陰に探して怯え惑うより、部屋に入って確認する方が気の楽な仕事だった。

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