山女様 3

 どれほどの時間、そうして過ごしていただろうか。アスファルトに微震が走り、村の方角から掠れたエンジン音が聞こえてきた。やがて錆びた軽トラがのろのろと走ってきたかと思うと、あの三人の老人たちが降りてきたのだった。

 しわくちゃの顔が二つ、倒れたままの僕を覗き込んできた。

 うち一人の口髭の男が、ため息交じりに零した。

「言わんこっちゃない……大丈夫か?」

「ええ……何とか……こけただけですので」

 もう一人——太眉の男が重苦しい口調で言った。

「山女様が逃がさんと仰っている。このままだと、あんた危ないぞ」

「そのよう……ですね」

 手痛い事故に合ったせいで、猜疑心などはぽっきり折れてしまった。神でも悪魔でも、怪しげな老人でもいい。僕に憑りついた山女様という不安を取り除いてくれるなら、縋りつきたい心持ちになったのだ。

 口髭の男が助け起こしてくれたかと思うと、御守りを手に握らせてきた。太眉の男は彫りの深い男と協力して、バイクを軽トラに積んでくれた。

僕は助手席に乗せられて、村へと引き返したのだった。

 村ではすでに話が広まっているらしく、村人が寄り集まって僕を出迎えた。どこにこの人数が隠れていたのか。十人を超えるご老人が、複雑そうな眼差しをこちらに注いでいた。

 僕は何か言おうとしたが、口髭の男が背中を押して先を急かした。

「何も言わんでいい。ついてこい」

 僕はされるがまま老人に導かれ、村人の視線を浴びながら大きな民家へと戻った。囲炉裏の客座に座らされ、対面には口髭の男が腰を下ろした。ほんの数刻前の状況に、時を遡ったようだった。

 口髭の男は煙草をくゆらせて、またもや一本を灰にするまで時間をかけた。老人が覚悟を決めて芯の通った目つきになる頃には、僕も事故で鈍った頭がはっきりしていたのだった。

「いいか。これからお前を、山女様から逃がしてやる。これから言うことを、しっかりと聞くんだぞ」

 僕が弱々しく首肯すると、老人は話を続けた。

「お前が災難にあったからには、時間はそう残されておらん。恐らく今夜憑りつきに現れるだろう。一度憑りつかれたら、もう引き離せん。そこでだ——」

 老人は背後から人形を取り出し、炉端に置いた。藁で作られたおり、赤いちゃんちゃんこを羽織っている。両手両足を前に伸ばしているので、支えずとも自分でしっかりと座れるようだ。見た目はかの有名な、『さるぼぼ』に似ていた。

「身代わり人形だ。これをお前だと誤認させて、山女様に憑りつかせるんだ。そうすればお前は助かるだろう。そのためこの人形に、お前の臭いを移す必要がある。今日一日、この家で人形と過ごしなさい」

 見知らぬ土地で、知らない民家で一夜を過ごすなんて、現代っ子の僕には抵抗があった。だが四の五の言っていられる状況じゃない。僕はこの人に頼る他、助かる術がないのだ。

 僕は頷いて返事にすると、口髭の男はさらに続けた。

「問題は夜だ。山女様は憑りつく相手を、外に連れ出そうとする。昔は祭りの最中なんかに、男を連れ出して憑り殺すことがあったらしい。だから今日は何があっても、この家を出てはいけないよ。いいかい。私らが君を呼ぶことはないし、この村に君の知り合いがくるなんてこともあり得ない。何を言われても、絶対に外に出るんじゃない」

「今日一日引きこもっていれば……助かるんですか?」

 口髭の男は苦虫を噛み潰したように、唇をきつくすぼめた。

「いや。まだだ。山女様は男が出てこないと、直接連れ出そうと家に入ってくる」

 僕は心臓が、びくりと跳ね上がるのを感じた。脳裏をよぎったのは、眼と鼻が見えないのっぺらとした顔と、真っ赤な口、そして異様に白い歯をした、山女様の恐ろしい様相だった。

「入って——くる?」

「ああ。強引に外へ連れ出そうとする。だから何を見ても、聞いても、声を上げるな。動いてもいけない。山女様に、人形が偽物だとばれてしまう。山女様が人形を連れていくまで、じっと耐えるんだ。人形が消えたらもう大丈夫だ。君は帰れる。分かったかね?」

 老人が僕の顔を覗きこんで、確認してきた。話は終わりのようだが、大事なことを聞けていない。僕の声は、自ずと震えたのだった。

「山女様は一体……家に入って何をしてくるんですか」

 老人は深いため息をつくと、どこか自嘲気な笑みを浮かべた。

「あんた。それは憑りつかれたモンにしかわからんよ……」

「山女様に連れていかれたら……どうなるんですか?」

「知らんな。どっか行っちまうんだから」

 大変なことになったんだと、改めて思い知らされたのだった。

 夜を待つまでの時間を、民家で過ごすことになった。トイレは自由に行かせてもらえたが、民家の外へは一歩も出ることを許されなかった。そしてどこに行くにしても、人形を肌身離さず持たされた。

日が暮れると食事も出た。山魚の刺身に、キュウリの酢の物、冷ややっこと言った、質素ながらも舌に楽しい内容だった。一度は自分の置かれた境遇を忘れ、田舎の料理を味わおうとは思った。しかし人形の前にも同じ膳が用意されたのを見て、現実に引き戻された。身代わりとして、僕と同じものを食べさせているのだろうか。

夜も更けると、三人の老人は「頑張るんだよ」と言い残し、民家を去った。残されたのは僕と人形、そして何故か下げられなかった、人形の分の膳だけとなった。

普通こういうのは、四方に盛り塩をしたり、御札を張ったりするものではないのだろうか。普通が何なのか問われると、返答に困ってしまうところではあるが。恐らく山女様に身代わりを連れ出させるために、防護を張っていないのだろう。唯一渡されたお守りを、御利益を願って握りしめた。

古びた裸電球の明かりの下、僕は布団に胡坐をかいて自分に言い聞かせた。

「兎にも角にも、騒がなければいいんだ。大人しくしていれば、帰れるんだ」

 電気を消せとは言われていないし、闇夜で過ごす勇気もない。起きていようにも、今日は疲れた。何より眠っている間に、全てが終わってくれるとありがたい。布団に横になると、腕で目元を覆って身体を休めた。

 覚醒と睡眠の狭間に存在する、微睡みの泥に浸っていると——

「円ぁ~。いるんだろ。円ぁ~」

 不意に外から、僕を呼ぶ声が聞こえた。

「円ぁ。家の中にいるのはわかっているんだ。出て来いよ」

 この声、そして僕の名前を語尾を伸ばして呼ぶのは——学友の御仏一茶だ。一瞬で目が覚めて、布団から身を起こした。

 僕はここで、電気が消えていることに気づいた。窓から差し込む月光が、ほんのりと手元を照らすだけ。屋内には深い闇と、真夏の不快な湿気が充満しているのだった。僕は消した覚えはない。村人が消すはずもない。固唾が喉を滑っていく。

 今日のツーリングは、一茶には内緒で来た。あいつを呼ぶと、走ることより駄弁ることがメインになるからだ。だから一茶が僕の元に、それも道路から離れた、こんな村に来られるはずがないんだ。

 始まったのだ。皮膚が泡だち、じっとりした汗がにじむのを感じた。

「円ぁ。お前このままだとヤバいぞ。早く出てこい。ここから逃げようぜ」

 外からの呼びかけは、なおも続いた。僕は布団から半身を起こしたまま、声のする民家の玄関を睨みつけた。

「一茶君。円君見つかった?」

 しばらくすると、新たに女の声が加わった。この声は、同じ学友の春原桐栄だ。妖怪の為すことには、理解が及ばない。どうして僕が頼りにしている、二人の声、口調、そして思考を真似ることができるのか。僕の苛立ちを他所に、外では会話が進んでいく。

「桐栄。この家にいるんだがな。出てこないんだ」

「大変。円君。出ておいで。早くここから逃げよう。このまま残っていたら、大変なことになっちゃうよ。早く出ておいで」

 おまけに僕が村人に抱いている猜疑心を、うまく刺激して外に出るように促してくる。

「円ぁ。早く出てこい。これ以上留まるのはまずいって」

「円君。早くこの村を出よう。ここの人たちは、円君を騙しているんだよ」

 声はどんどん大きくなり、僕の心を掻き乱していった。

戸板をどんどんと叩く音まで、声に加わってきた。

「円ぁ。お前マジヤバいって。取り返しがつかなくなるぞ」

「円君。信じて。絶対悪いようにならないから」

頭がおかしくなりそうだ。顔を布団に押し付けて蹲り、頭にタオルケットを被った。口の中で念仏を唱えて、声が止むのを心底祈った。

願いが通じたのか、声がピタリとやんだ。気が緩んだのは一瞬だ。この後山女様が入ってきて、強引に連れ出そうとするのだ。うだるような暑さの中で、僕の身体は緊張で凍り付いた。

民家に入るなら、戸口なり窓なりが開く音がするはずだ。土間の砂利を踏み、敷居が軋む音がするはずなのだ。僕は布団に蹲ったまま、何一つ聞き逃すまいと耳をそばだてた。

命の灯を飲み込んでしまいそうなほどの無音の世界に、心臓が脈打つ音だけが嫌に大きく聞こえた。上がる心拍数が呼吸を加速させる。わずかな吐息の音すら漏らさせまいと、口に手を当てた。

どれくらいの時間を、タオルケットを被って構えていただろうか。籠った熱気が全身を汗まみれにして、意識が朦朧としてもなお、物音が聞こえることがなかった。

これはひょっとして……出てこないと知って山女様は帰ったか?

僕はそう考えると、タオルケットから顔を出して熱のこもった息を吐いた。

足があった。

目の前に、泥が張り付いた細い足が二本。布団を踏みしめて立っている。足先の向きから、こちらを向いているのは自明の理だった。

よせばいいのに——僕の視線は引き付けられるように、上へと持ち上がっていた。視線はジャンパーの裾に気づいた後、太腿を撫でて、臍を這い、胸を過ぎさり、俯いた顔を捉えたのだった。

山女様の相貌は、相も変わらず目と鼻を窺うことができなかった。真一文字に引き締められた口があるだけで、何一つ目に留まる物がない。のっぺらぼうだ。

 僕が声にならない悲鳴を上げると、山女様は頭を軽く傾げた。目をそらしたいが、恐怖が視線を釘付けにする。山女様はゆっくりと腕を持ち上げて、外へ続く戸口をさしたのだった。

 出るように、迫ってきている。これは……僕が本物だって、既に気づかれているんじゃないか。口を手で塞ぎ悲鳴を抑え込んだが、荒い鼻息が音を立てて噴き出た。

 山女様が屈みこんで、僕に目線を合わせた。鼻につく臭いが、鼻腔を蹂躙した。泥、苔、昆虫の、生々しい芳香だ。紛れるよう微かに、肉の腐った酸味が漂った。顔色はない。のっぺらぼうのまま。鏡に似た平面が、目前に迫ってくる。片手は持ち上げられ、ひたすら戸口を指さしていた。

 叶うことならタオルケットを跳ね除けて、戸口から飛び出してしまいたかった。僕のどこに、これほどの気力があったのか。ただ口を両手で抑えて、眼に涙を溜めながら必死で我慢した。早くどっかに行ってくれ、早く終わってくれ、早く過ぎ去ってくれ。付け焼刃の念仏すら忘れて、心の中で祈り続けた。

 山女様は僕を脅かす手を、緩めようとしなかった。目の前で相貌が音もたてず変容し、のっぺらぼうに隆起と二つの窪みが生まれた。やがてそれらは目と鼻に形を整えると、見慣れた面相となった。

 一茶だ。

「な。円ぁ。ここを出ようぜ。ここは危険だ」

 反応するなという方が無理だった。僕は反射的に首を横に振った。

 すると一茶の顔が腐るように崩れていき、渦を巻いて別の顔へとなり替わった。

今度は桐栄だ。見慣れた顔、聞きなれた声が、異臭のする吐息を吹きかけてきた。

「円君。ここから逃げよう。手遅れになる前に」

 首を素早く左右に振って返事にすると、桐栄の面相が——いや、山女様の肉体が崩れていった。腐り落ちる肉の下からは藁の束が現れて、容姿がどんどんと小さくなっていく。彼女は瞬く間に、身代わり人形の姿に変わっていったのだった。

 気が付くと、朝日が窓から差し込んでいた。僕はいつの間にか正座をしており、お膳を挟んで身代わり人形と相対していたのだった。

 山女様の姿は見当たらないが、鼻に据える異臭は残ったままだ。理由はすぐに察しがついた。身代わり人形は長年山奥に放置されたかのごとく、全身が苔むした泥で覆われていたのだ。膳にのった料理も、腐って酸っぱい臭いを辺りに撒き散らしていたのだった。

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