山女様 2

「清さん。どうしたんだ」

 僕は不意にかかった声に、驚きと共に村の奥を見やった。年老いた男たちが三人、農具を片手にこちらへ歩み寄ってくるところだった。

 清と呼ばれた老婆は、笑って手を振り返した。

「大したことじゃないよ。この坊ちゃんが、山女様を見たってさ」

「ほう……それはそれは……」

 三人の老人は僕を取り囲むと、しげしげと好機の眼差しで全身を舐めまわしてきた。やがて深い口髭を蓄えた一人が、僕に問いかけてきた。

「それで。山女様はなんと?」

「え? 山女様って、喋るんですか? 何にも言わなかったですよ。ただ貸したジャンパーを、持っていかれただけです」

「ジャンパーを……ねェ……」

 口髭の男は独り言ちると、僕に向かって「そこで待て」と言った。彼は少し離れたところで、男三人で頭を寄せて何やら密談を始めた。

 妙なことになった。清さんに説明を求めても、何もわからないのか目を丸めている。ただ老人たちからこぼれ出る言葉を拾い集めると、「若い」だの「わしらは老いた」だの、「仕方ない」「運が悪かった」「ここで終わらせねば」など、ろくでもない事ばっかり言っていた。

 心地いい状況じゃないし、下手すると僕が襲われそうな雰囲気である。ひょっとしたら女性を襲ったのはこいつらで、知らぬふりをしているのかもしれない。

僕は逃げた方がいいと判断して、密談をする老人たちを置いて、こっそりとバイクへ足を忍ばせた。

 その時だ。ふと僕の視線は、村を取り囲む森に吸い寄せられたのだった。

一人の女性が、木立の影からこちらの様子を窺っていた。髪はぼさぼさで枝葉が刺さっていて、全身が泥と苔で汚れている。彼女は僕のジャンパーに袖を通して、道路の方角を指さしているのだった。

 山女様だ。山女様がいる。

 全身が凍り付き、肺が引きつって上手く呼吸ができない。止まってしまった時間の中で、僕は彼女から視線を外せなくなった。

 山女様は長い髪をしているが、前髪は垂れていなかった。ご尊顔を拝むことができるはずなのだが、どういう訳か目と鼻を知覚することができなかった。唯一見える口は紅を引いたように真っ赤で、半開きの口からは、遠くからでも真っ白な歯が並んでいるのが窺えたのだった。

「おいあんた。どうしたんだ」

 腕を掴まれ、グイと引っ張られた。突然のことに、みっともない悲鳴を上げて飛び上がってしまう。気が付くと、口髭の男が、僕の腕を掴んで揺すっていた。

口髭の男は深刻そうに眉根を寄せると、何かを察して聞いてきた。

「あんた今……山女様を見てたんかね」

「今……そこにいました。あれ?」

 森の木陰を指さすが、そこにはもう人影はなかった。

「少し大変なことになったな……」

 口髭の男は一層表情を険しくすると、僕を村の奥へと引っ張った。

「ついてきなさい。大事な話がある」

正直なところ老人たちは胡散臭く、考えなしに付いていくのは気が引けた。仮に老人たちが狡猾な犯罪者だった場合、命の危険に及ぶ可能性だってあるのだ。しかしながら山女様の存在と、その正体についての好奇心が、最終的に買ってしまった。

僕は促されるまま、老人たちの後についていった。

案内されたのは村で一番大きな民家で、どうやら老人たちの住まいのようだ。手入れが行き届いた屋内は昔ながらの造りをしていて、入ってすぐが土間と台所になっていた。奥には囲炉裏を備えた座敷があり、僕は客座に座らされたのだった。

三人の老人のうち、彫りの深い男はすぐに民家を出ていき、太眉の男はゆったりとした動作でお茶の準備を始めた、残りの一人——僕の腕を引いた口髭が対面に座り、煙草をふかしながら聞いてきたのだった。

「あんた。名前は」

「井之上円と言います……あの。一体どうしたんですか?」

 口髭の男は少し緊張しているようで、気を静めるために煙草に頼っているようだ。僕の問いに答えずに、一本を吸いきるまで紫煙をまき散らした。やがてため息を区切りにすると、ぽつりと話し始めた。

「お前が出くわしたのは山女様と言ってだな。昔っからこの山に住んでいる妖怪だ。厄災の化身みたいな御方でな、姿を現すと決まって悪いことが起こるんだ」

 僕は思わず、言葉を遮ってしまった。

「あの。清さんでしたっけ……おばあちゃんに聞いた話と違うんですが。悪いことを知らせるために、姿を見せてくださると窺ったのですが」

「それは事情を知らん村民に、先祖が広めた噂だ。わしら山女様に関わる一部の者だけが、本当のことを知っている」

 老人は慌ただしく、二本目の煙草に火をつけた。

「山女様はその昔だな、妖怪退治をしていた奴らに、生き地蔵として使われた娘の成れの果てだ。胎を容れ物に魑魅魍魎を封じ込めた結果、妖怪に身をやつしてしまい、災禍を引き付けるようになってしまったんだ。だから山女様を見ると、悪いことが起きるんだ」

「そんなのが……どうしてここに……」

「詳しいことはわしも知らん。山女様はどういう訳かこの村に封じられ、この土地を出ぬよう代々見張り続けているのだ。だから他の村々がこの土地を去っても、わしらだけは離れるわけにはいかんのだ」

 僕は話を聞いているうちに、疑念が鎌首をもたげるのを感じた。

「何で……僕にそんなこと教えてくださるんですか? その話からするに、一部の人しか知らない秘密なんでしょう」

 やや食い気味に問いかけると、脇からすっと湯飲みの載った盆が差し出された。脇に視線をやると、茶の支度をしていた太眉の男が、ゆったりと歩み去る後姿が見えた。

 口髭の男は、盆を顎でしゃくった。

「最近の子は、疑い深くっていけない。それでも飲んで落ち着き給え。この先の話は長くなる」

 僕としては長居するつもりはないのだが、口髭の男は茶を口にするまで話すつもりはないようだ。じっと僕と盆を交互に見やって、沈黙を守っている。僕はそっと湯飲みに口をつけ、茶を啜った。甘い、不思議な味がした。

 僕が茶を飲み干すと、ようやく口髭の男は口を開いた。

「何故君に教えるかだが、君が山女様に見初められたからだ。山女様は女の妖怪でな、独り身が寂しくて若い男に憑りつく。憑かれたら最後だ。死ぬまで離れない。男が不幸にあって死ぬまで、災禍に見舞われ続けることになる。だからわしらのような老人が、若人に憑りつけないように見張っとるんだ」

「では、僕の前に姿を現すのは……」

「ああ。お前に憑りつこうとしているんだ。このままだと大変なことになるぞ。わしらで何とかするから、今日は泊っていきなさい」

 僕はごくりと生唾を嚥下すると、話の流れを整理することにした。

 僕が出会った女性は災禍を呼び寄せる妖怪で、見初められてしまった。このままだと憑りつかれて、死ぬまで災禍に見舞われることになるらしい。

 改めて考えると、馬鹿らしい話だ。とても科学の発達した、二十一世紀の会話とは思えない。一笑に伏したいところだが、二度も拝んでしまった山女様の姿がそれを許さない。

 一歩進んで、山女様の存在を信じるとしよう。次の問題は、山女様は災禍を告げるため姿を現すのか、姿を現すから災禍が起こるのか、どっちが本当なのかだ。どちらを信じるかによって、僕の身の振り方は違ってくる。

口髭の男を信じるなら、山女様は災禍の化身だ。憑りつかれれば、死ぬまで不幸に会うことになる。口髭の男に従って、面倒を見てもらうのが最善だが、どうにも胡散臭くて信じることができなかった。

となると老婆の言った通り、災禍を免れるため警告をしてくれる存在となる。しかし災禍を告げる存在なら、なぜ山女様は姿を現し、この村に僕を導いたのだろうか。おかげで怪しげな村に足を踏み入れ、面倒ごとに巻き込まれてしまったではないか。まるで矛盾している。

僕は何を信じるべきか真剣に悩み、今までの出来事を次々に想起していた。そしてふと、山女様が二度目に姿を現したことを思い起こした。彼女は僕の方を向き、道路を指さしていた。さながら早くこの村を出るよう、示すかのようにだ。

僕は緊張に心臓を鷲掴みにされて、固まってしまった。そういえば残りの老人たちの姿が見えないが、一体何をしているのだろう。ひょっとしたら僕のバイクに細工をして、帰れないようにしているのではないか。

頭が回ってくるにつれて、現実的な思考も息を吹き返してくる。あの女性は妖怪なんかではなく、この村に人々に酷い目にあわされたのかもしれない。だから村に戻ると聞かされて、逃げてしまった可能性もあるのだ。彼女は僕の身を案じて、わざわざ警告に来てくれたとも考えられる。

いずれにしろ、長居はしない方がいい。

 僕は跳ねそうになる身体を気力で懸命に抑えつけ、さも自然に立ち上がって見せた。

「面白い話を聞かせて頂きました。事件でないのなら安心しました。僕はこれで失礼します」

 老人は唖然とした表情で、僕を見上げた。

「信じておらんのか」

「話半分に聞いておきます。それに山女様とは二回しか顔を合わせていませんし、今逃げれば大丈夫でしょう。明日は大学があるんです。帰らないとまずいです」

 口髭の男は鼻から大きく息を吐いて、肩を落として見せた。

「まぁ……帰るというのなら引き留めはせんがな。気を付けていくんだぞ」

 案外すんなりと帰してもらえた。僕は引っかかるものを覚えながらも、民家を後にした。

 村々を振り返ることなく、まっすぐバイクの元まで戻る。現場には僕のバイクが立てられて、畑では老婆が仕事を再開していた。

 老婆に脇目も触れず、真っ先にバイクのコンディションを確認する。ブレーキワイヤーに手を加えられた様子はないし、ガソリンタンクも無事だ。もしやと思ってスターターを蹴ってみたが、エンジンはご機嫌な咆哮をあげた。

 無事だ。ほっと胸を撫でおろすと、老婆がにこやかに歩み寄ってきた。

「心配せんでも、誰も触っとらんよ。いくら珍しいからって、人様のものに勝手に触ったりしないよ」

 杞憂だったか。怪しげな話をした老人たちが言うならまだしも、何も知らない老婆が言うなら大丈夫かもしれない。僕は急に気恥ずかしさを覚えて、体が熱くなるのを感じた。

女性の正体がはっきりしないのは気がかりだが、僕の手に負える範疇にないのだろう。僕自身に危険が及ぶ前に、さっさとお暇しよう。

 バイクに跨ると、老婆は小さく手を振って見送ってくれた。

「気を付けていくんだよ。山女様がせっかく忠告してくれたんだからね」

「はい。お騒がせしました」

 軽くスロットルをふかして、砂利道を駆け下りていく。僕は道路に出ると下りの勢いそのままに、ひび割れたアスファルトを突っ走った。

とりあえず圏内に復帰したら、警察に通報だけしておこう。熱に浮いた頭で考えていると、最初に山女様に出会った場所を通過した。僕は彼女がいた木陰をよそ見していたのだが、道路に視線を戻してぎくりとした。

 落石が——道路を——塞いでいる。決して小さくない石片が散乱しており、道路を覆っているのだった。慌ててブレーキを絞るが、真夏の日差しで茹でった頭はでは、判断を下すのに時間がかかった。減速しきれず、避けることができない。

 僕は悲鳴を上げながら、瓦礫の山に突っ込んでしまった。石に乗り上げた車体が軽く跳ねて、身体が車体から放り出される。僕は車体と横並びになって、道路の上を転がった。そしてバイクがアスファルトと擦れる耳障りな残響を聞きながら、道路に大の字になったのだった。

事故に逢った方が放心する光景は、テレビで何度も見た。僕もそのタイプだったようだ。大の字になったまま青空を見上げて、ぼんやりと脱力するしかできなかった。

 山女様は落石を警告して、姿をお見せになったのだろうか。それとも僕を逃がさないために、道路を石で塞いでしまったのか。

もう。何が何だかわからなかった。

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