やまめさん
溥吾 悠
山女様 1
運命という言葉がある。
ロマンチックな響きで耳によく、耽美なる情景を想起させるだろう。だが多くの人間は、この言葉には吉福だけでなく、凶禍も含まれていることを忘れてしまっているのだ。
この日僕が果たした運命の出会いは、間違いなく凶禍に類されるものだった。
心地よい風が、景色を乗せて後ろへと流れていく。更なる快感を求めてスロットルを捻ると、バイクは体の芯に残る咆哮をあげて、愉悦の世界へと僕を誘った。うだる真夏の熱気すらも、高速の世界では心地よい旋風に変わった。
ゼミの課題、将来の不安、煩わしい人間関係。
人生に影を落とす存在を全て振り切って、一陣の風となって山間を駆け抜ける。
週末のツーリングは、数少ない楽しみだった。田舎を走るのは最高だ。目に優しい緑が広がり、のんびりと風に意識を溶かすことができる。市街地では渋滞が多く、歩行者に気を遣う必要があるのでこうはいかないのだ。
今日流しているのは、群馬の山奥だ。勾配が強いのと、整備のされていないひび割れたアスファルトが少し気にはなった。だが逆に言えば下り坂の楽しみがあり、車体に加わる微妙な振動は程よい刺激と言えた。
何も考えずに山道を淡々と走り続けていたが、ふと行く手に異物を認めて我に返った。
道路の左手には、針葉樹の生い茂る林があるのだが、木陰に人の姿が見えたのだ。
現在地は結構な山奥だが、その人のアシらしき車両が見える範囲になかった。
僕は何か変だと思いつつ、スロットルを握る指から力を抜いて、徐々にスピードを落としていった。
人影が近づき全容がはっきりしてくるにつれ、不穏な空気に心臓が早鐘を打ちだした。
裸の女性だ。靴はおろか、下着すらはいていない。髪は腰まで垂れるほど豊かなのだが、手入れがされていなくぼさぼさで、枝葉が挟まっていた。身体も苔むした泥で汚れていて、全身が抹茶色に染まっているのだった。
女性は木立の影から顔を出して、こちらの様子を窺っていた。
事件の臭いがする。山に連れてこられて、乱暴されてしまったのだろうか。それとも近くで監禁されていたのだろうか。いずれにしろ、見捨てることはできなかった。
女性の前でバイクを止める頃には、緊張で跳ねる心臓が全身に沸騰した血を駆け巡らせていた。幾度となく繰り返したスタンドを下ろす足運びが、酷く覚束ないものになるほどだった。
「あの……大丈夫っスか?」
恐る恐る声をかけたが、女性は反応しない。ボーっと虚空の一点を見つめている。
いよいよ乱暴された説が、濃厚になってきた。放心状態で物が言えなくなっているに違いない。大変なことになった。
僕はジャケットを脱ぐと、そっと彼女に羽織らせた。
「これ……よかったら。今警察に連絡するんで」
女性はされるがままで、何の反応も示さない。ただ直立の姿勢のまま、自分を抱きしめるように、ジャケットの前裾を掴んだ。
一体どんな酷い事をされたら、こうなってしまうのだろうか。義憤が頭蓋を焼いて、スマホの110番をタップする指の動きを荒々しくした。
女性を気にしながらコール音を聞くこと十数秒。一向に繋がらないので画面に視線を落とすと、電波の表示に『圏外』と表示されていた。
「クソっ……これだから山は。確かここに来るまでに、小さな村を通り過ぎたよな。あの……犯人がまだ近くにいるかもしれないし、村まで非難しませんか?」
女性の同意を求めて顔を上げたところ、その姿が忽然と消え失せていることに気づいた。
「あれ……」
逃げてしまったのかと思いきや、森からは人の気配がしない。見通しのいい道路にも、それらしき姿が見えなかった。化かされた気分だが、女性は確かに存在した。消えたジャンパーが何よりの証拠だ。
面倒なことになったが、ここまで来たら乗り掛かった舟だ。最後までやり遂げないと、どうも気持ちが悪い。
僕はバイクを回頭させると、とりあえず近くの村まで引き返すことにした。
村は山間に位置していているらしく、入り口だけが道路に面していた。その存在を知らしめるのは古ぼけた立て看板と、軽トラが通れるだけの砂利道だけだ。僕が村の存在を知れたのは、まったくの偶然と言って良い。
全容は木々に隠され、外から窺い知ることはできない。ただ森の隙間から見える建物は、どれもが古い木造建築で、藁ぶきの屋根は苔むしているのだ。今のような非常事態でなければ、特に立ち寄ろうとも思わなかっただろう。
砂利道にバイクを押して入り、道なりに進んでいくと一気に視界が開けた。猫の額のような山間の盆地に、小さな村が広がっている。外から微かに見えた建物の他にも、軒身の低い民家がいくつかと、農作物が植えられた畑があるのだった。
僕は畑で草むしりをする老婆を見つけて、バイクを置いて駆け寄った。
「すいません。おばちゃん。大変なんです」
「あらま。どうしたんだい。そんなに慌てて」
老婆は曲がった身体をこちらに向けて、汚れた野良着を軽く払った。
「実はこの先の道路で、裸の女性と出くわしたんです。どうやら襲われたみたいでして。警察に連絡しようとしたら、どこかに行ってしまったんです」
「それは本当かい」
老婆はしわくちゃの顔を、険しくすることでよりくしゃくしゃにした。
「ここら辺、電波が届かないでしょ? だから村があるのを思い出して寄ったんですが、どうしたらいいでしょうか」
老婆は危うい足取りで、えっちらおっちらと歩み寄ってくる。時間がかかるのと、申し訳ない気持ちが湧いてきたので、僕は老婆に走り寄ってその手を取った。
「どんな子だい。村の男たちに、手配するよ」
「髪は腰まで伸びていてぼさぼさ。全身は苔むした泥で抹茶色になってます。顔は——よく覚えていません。ジャンパーをあげたので、多分白と赤の目立つ服装をしていると思います」
ピタリと、急に老婆が動きを止めた。何事かとその顔を覗き込むと、彼女は柔らかな笑みを浮かべているのだった。
「どうしたん……ですか?」
「なぁんだ。それなら気にしなくていいよ。山女様だ。珍しいねぇ。ここ最近はとんとでなくなったのに」
「山女様?」
老婆の放った聞きなれない単語を、愚直に反芻してしまう。
「山に住んでいる妖怪だよ。私が子供の頃からずっといる。ばあちゃんが子供の頃にも、すでに居たみたいだね。私も会ったことがあるよ。奇麗な娘さんだったろ」
「そこまで詳しくは見ていないんですが……」
老婆はすっかり落ち着いた様子で、畑の畔にゆっくりと腰を下ろした。こちらの焦りも知らずに、のんびりと休憩を始めてしまう。
「最近の子には、妖怪だの幽霊だの言っても、なんのこっちゃわからんだろうねぇ。ジャンパーは猿に持ってかれたと思って、諦めるんだね」
「事件性は……ないんですか?」
「ないない。悪い存在じゃないからね。むしろ悪い事が起きる前に、避難できるよう教えてくれるんだ。だからあんた。この先は用心した方が良いよ。山女様が出たってことは、あんたに悪い事が起こるってことだからさ」
「はぁ……いや、でも。しかし」
納得できるわけがない。確かに女性は存在したし、ジャンパーも持っていかれた。あの存在を妖怪で片付けるには無理がある。
僕が受け入れかねていると、老婆は苦笑した。
「それでも気になるんだったら、警察に連絡しなよ。ここなら電話も通じると思うよ。でも警察も同じ通報に、飽き飽きしているだろうさ。適当に見て回って終わりさね」
「そんなに……出るんですか……?」
「どうだろう。年に二回ぐらいだねぇ。警察も通報を受けたからには、何かしないといけないしだろ。だけども探したところで何も出てこないんだから、嫌になるわさ」
「そうなん……ですか……?」
「そうなんだよ。昔は村の人間にしか姿を見せないから、大した騒ぎにもならなかったんだがねぇ。だのにここ最近は、外の連中ばっかりに顔を見せるんだ。わしらが老い先短いから、見放されちまったのかねぇ」
老婆はそう言うと、どこか遠い目を虚空にさまよわせたのだった。
僕も次第に、深入りする気が失せてきた。山には不思議があって、人には理解の及ばない領域がある。僕ごときにできることはなく、割り切って立ち去るのが懸命に思えたのだ。
「はぁ……それだけ……なんですか」
「それだけなんだよ。さ。あんたも暗くなる前に帰った方がいい。山女様を見たからには、きっと悪いことが控えているからね」
老婆はそう言って、僕を支えにして立ち上がった。
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