ヘブンズ・クック

哲学温度

Heaven's Cook

 鉄道の女性専用車両に乗り込んできた男は、パンティを帽子のように被っていたが、それ以外には何も身に付けておらず、彼の天然の形と色が世界に対して剥き出しになっていた。女性たちは男から逃げようとした。けれども皆が一斉に自分勝手をして動けば、渋滞的な混雑が発生する。

「兎追いし、かの山」

 男は歌いながら、思うように逃げられない女性たちとの間隔を縮める。彼女たちがカオスに貢献しようと無我夢中になっているうちに、その中で後れを取った女子高生のすぐそばまで、もう彼は来ていた。

「小鮒釣りし、かの川」

 男は女子高生を抱き締めた。制服の質感を男の素肌が確かめる。女子高生は悲鳴を上げて、じたばたした。その他の女性たちは依然として圧し合いながら、男から遠ざかる努力を続けている。彼に殴り掛かる者はいない。

「夢は今も、めぐりて」

 女子高生を抱いたまま、男は腰を振る。彼の勃起が、彼女の柔らかさを覆うスカートと擦れる。そこで、ようやく駅員が駆け付けてきた。三人掛かりで、女子高生を引き離して男を押さえ付ける。男は素直に制圧された。しかし、それでも歌は続いた。

「忘れがたき故郷」

 その男は逮捕され、警察署に連行された。取り調べ室で椅子に座る彼の前に、億劫そうな刑事が立つ。ズボンのポケットに手を入れている。

「あんた、名前は」

「躑躅森晃誠です」

「被っていたのは、誰の下着だ」

「恋人の雲類鷲由佳のパンティです」

 その頃、何も知らない雲類鷲由佳は家にいて、兄の裕也と談笑しながらボードゲームで遊んでいた。由佳にとって裕也は憧れの対象だった。頭が良くて、頼りになる。それに精神が健やかなのか、いつも上機嫌で、他人の気分を害したり、場の雰囲気を悪くしたりすることがない。由佳は、こんな人間になりたいと思っていた。

「つらいことがあったら、いつでも言って。俺は由佳の味方だから」

「うん、ありがとう」

「それで彼氏とは最近どう」

「おかげさまで、いい感じに続いてるよ」

「それなら、よかった」と裕也は微笑んだ。

 母の真里子が出来上がった夕食を台所から運んでくる。優しい口調で兄妹に声を掛けた。人柄は穏やかだが、時に駄目なことは駄目と躊躇なく言える強い女性でもあって、彼女もまた由佳にとって憧れの対象だった。

 由佳は母と兄が好きだった。三人で和やかに食卓を囲む。心地好い時間だったが、そこで由佳のスマホの着信音が鳴る。電話に出れば、相手は警察だった。急いで家を出る。

 警察署で由佳は恋人が起こした騒動の話を気怠そうな刑事から聞かせられた。呆然として焦点の合わない目で刑事の顔を見つめる。刑事は、さらに女子トイレを盗撮した映像が晃誠のスマホに保存されていたことを由佳に伝えた。映像にはカメラを仕掛ける時の晃誠自身の姿も収められていた。

「私は何も知りません」と由佳は答えた。

「そうか。あんたも災難だったな」

「これから私どうすればいいんですか」

「あんたを連れて行きたい場所があるんだが、来てくれるか」

 刑事に続いて警察署を出ると、黒い車に乗せられた。夜の繁華街を走り抜ける。由佳も刑事も喋らなかった。けばけばしい、窓の外の明かりも慰めにはならない。ぼんやりしてしまう。いつの間にか、暗く閑散とした古い住宅地まで運ばれていた。刑事が車を止めて由佳に声を掛ける。

「着いた。降りてくれ」

 言われた通りに車を降りる。刑事は、しばらく由佳の顔を見つめてから、何も言わずに夜道を歩き出した。変だと思いながらも由佳は跡を追う。

 二人は路地に入り込んだ。その狭い道の途中にある風変わりなドアの前で、刑事が足を止めて振り返る。

「ここだ」

 よく見れば、レストラン、ヘブン、と書かれている。刑事がドアを開けた。由佳は光に誘われるように店内へ入る。いくつかの机と椅子が置かれていた。その中に白い服を着た男が立っている。

「お待ちしておりました」

「彼は神宮寺、料理の天才だ」と刑事が男を紹介する。

「刑事さん、褒めても何も出ませんよ」

「じゃあ俺は車で待ってる」

 刑事が店を出て、由佳は神宮寺と二人きりになる。勧められて、そのまま席に着いたが、神宮寺も由佳を置き去りにして、店の奥の厨房に姿を隠してしまう。一人で取り残されて内心は落ち着かなかったが、何らかの料理を食べさせてもらえるのだろうと思って、とにかく大人しく待っていた。

 しばらくして厨房から出てきた神宮寺は、丼を手にしていた。由佳の目の前の机の上に置かれる。丼には見慣れない感じの肉が盛られていた。

「お召し上がりください」

「いただきます」

 由佳は、その丼物を食べ始めた。肉と白飯を口へ運ぶ。しかし変な感じがする。やはり食べ慣れない肉だった。何の肉なのかすら、わからなかった。

「これ、何ですか」

「親子丼です」と神宮寺は答えた。

「私の知ってる親子丼とは違う気がするんですけど」

「詳しく申し上げれば、あなたの」

「私の」

「お母様の女性器と、お兄様の男性器を使用した、母子相姦丼です」

「え、何を言ってるんですか」

「少々お待ちください」

 神宮寺は厨房に戻る。再び姿を現した時、彼は二人の切り首を携えていた。紛れもなく、真里子と裕也だった。神宮寺は由佳の前で、母の唇と息子の唇を触れ合わせた。

「ちゅ、ちゅ、ちゅう」と、うっとりした顔で高い声を出す。

『ママ、入れていいかな。もう我慢できない』と彼は裕也を演じ始めた。

『いいわよ。裕也、来て』と今度は真里子を演じる。

『ああ、ママの中、柔らかくて気持ちいい』

『ママも気持ちいい』

『いくよ。ママ』

『ママもいく』

『一緒にいこう』

『裕也』

『ママ』

「ビュルルル、プシャア」

 由佳は涙を流しながら母子相姦丼を食べ続けていた。止まらなかった。遂に完食すると、神宮寺に向かって、こう言った。

「私を弟子にしてください」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ヘブンズ・クック 哲学温度 @tetsugakuondo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ