静かに我慢しているひと

篠月黎 / 神楽圭

第1話

「万由子はいいなあ、胸が大きくて」


 そう言った友達が着ているTシャツは、ストンと、床に向けてまっすぐに落ちていた。着る服によっては多少の凹凸はあれど、彼女の胸元は概ね平らだった。


「そうかな」

「そうだよ。水着とかもさあ、何も入れなくていいんでしょ」


 なんなら、水着売り場で試着したとき「お客さんはパッドがないほうがすっきり見えていいかもしれませんね」と言われたことさえあった。


 女性の象徴といえばそうなので、胸がないほうが羨ましいとまでは思わない。


 今時、胸がなくてもいくらでも誤魔化しはきくから、なくてもいいんじゃないかと思ったことも、なくはなかった。ただ、漫画だのSNSだので、胸が小さくて悩んでいる、ひいては彼氏に捨てられる話まで見ると、やっぱり、ないよりはあるほうがいいかなとも思った。実際、胸の小さい子にはこぞって羨ましがられるから、まあ、ないよりはいいのか、くらいに思っていた。


「でも、胸があると、代わりにネタにされるし、からかわれるよ。男にも、女にも」


 ただ、極端に大きいというのは、やはり困りもののような気がした。


「私は、そういうふうにからかわれてもいいから、胸がほしい」


 それでも、友達は首を横に振った。




 最初に気持ちが悪いと思ったのは、ゼミの飲み会だった。


「万由子、Fカップなんだよー」


 デリカシーのない友達の一人が、同じゼミの男達に向かってそう暴露した。


 そもそも、ゼミ旅行の温泉で、彼女の押しの強さに負けて、胸のサイズを教えてしまったのが間違いだったとは思う。それは私のミスだった。


 だからって、よりによってゼミの男達の前で、人の胸のサイズを公言することはないじゃないか。


 その場にいる全員に私の胸のサイズは知れ渡り、それどころか「彼女よりデカいからDより上だとは思ってた」「Eとどっちかなーとは思ってたよね」「服でわりと違うくない?」とこぞって今までの視線に含んでいたいやらしさが露見する。私の胸のサイズを率先して口にした彼女は「Dはまあまあ、服も崩れないしいいよ」と自分の胸を指さしながら意見した。彼女は、相手が男だろうが女だろうが、胸のサイズを明らかにすることに抵抗がないらしい。それどころか「万由子くらいあると邪魔そうだなーとは思うから、Fはいらないかなー」と私を辱めた。


 そう、辱めだと思った。別に、この胸の大きさを忌んだことがあるとまではいわないし、なんならないよりはいいかなとさえ思っていたこともあった。胸の大きさを誤魔化そうとするとスタイルが悪く見えることを知り、胸の大きさを強調しかねないデザインの服を選ぶこともあった。


 でも、だからって、こんな扱いを受けなければならないのだろうか?


「どうやったらそんな大きくなんの?」

「そりゃやっぱり、彼氏の愛ですよ」

「てか、万由子、そんなこっち睨まないでよー。本当、ノリ悪いってか、空気読めないんだから」


 ああ、気持ち悪い。


 その飲み会の帰り「次は、終点、梅田です」というアナウンスが聞こえて、ほんの少しだけ目を開ける。飲み会で疲れ切ったせいか、電車内のボックス席で窓に寄りかかって爆睡していたらしい。深い眠りの最中に突然起こされたせいで、目蓋はとんでもなく重たかった。意識も朦朧としていて、降りなきゃ、なんて思うことさえなかった。


 胸に触れる妙に温かい感触に気が付いたのは、そのときだ。朦朧とした意識の中で、胸の左側だけが、妙に生温かかった。その正体は分からず、ボックス席の中で、目の前の空っぽの席を見つめていた。


 ああ、そうだ、終点だ。起きないと。電車が駅のホームに入り始めて、ようやくそのことに気が付いた。ゆっくりと頭を動かし、窓に預けていた体を起こして、その場でちょっとだけ腕を伸ばして、気持ちだけ寝起きのストレッチをした。胸の左側にあった感触はなくなっていた。


 それから十秒と経たずに電車は駅のホームに到着した。途端、隣に座っていた人が大急ぎで電車を降りて行った。まだ寝ぼけ半分の私は、ゆっくりと降りる準備をする。


 そして、自分の座っていたボックス席の前二席は空っぽだったこと、それなのに隣には人が座っていたこと、その人が座っている側の胸に妙な感触があったこと、私が起きた瞬間にその人は慌ただしく電車を降りたこと、──朦朧とした意識の中、目を開けたとき、その人が腕を組んでいる様子が見えていたことの持つ意味を知って。


 あ、痴漢だったのかも。そう思った。




 その経験を思い出したのは、いま、電車の中で、隣の男性の肘が胸に当たっているからだ。


 満員電車というほど混雑はしていないけれど、満席で、座席の前にまばらに人が立っている状態なので、その人は、不自然に近くに立っているというわけではなかった。しかも、左手でソーシャルゲームか何かをしているので、熱中するあまり、自分の腕が何かに触れていることに気が付かないのだとも思えた。


 ちょうど友達と別れてLINEをしていたので「なんか隣のひとの肘がずっと胸に当たってるー。やだー」と冗談じみた連絡をした。


 友達からはすぐに「え! それ痴漢だよ!」と返事がきた。「でも偶然じゃない?」「いや、アイツらは偶然を装ってやってくる」「経験者のように語るじゃん」「偶然を装い、やってくるのだ!」とやはり冗談じみた、でも真剣に「でも本当にそうだと思うよ! 普通に気持ち悪いし、せめて次の駅で降りて車両変えよ!」とアドバイスがきた。


 たまたま、もう一人の友達から別のメッセージがきていたので、返事をしつつ「てか電車で隣のひとの肘がずっと胸に当たっててやだ」と同じ連絡をした。その子は当初のメッセージの話題を続けつつ「マジ? 痴漢?」と即レスした。ついで「まあ、万由子は胸大きいから仕方ないよな」とも。


 その遣り取りをしている間も、ゲームに夢中そうな隣の人の肘は、やはり私の胸に触れていた。


 結局、一駅過ぎたところで車両を変えた。当初の友達とは「いま車両変えた」「マジ、正解。てか言ってもよかったよ、それ」「まあ、偶然だったかもしれないし」「や、まともな男はね、痴漢に疑われたらオワリって分かってるから、怪しい行動とらないんだよ! てか痴漢に間違われないように細心の注意を払ってるから! 彼氏談!」と話した。その子は、私の胸が大きいから仕方がないなどとは言わなかった。


 出勤時、ブラウスのボタンを留めながら鏡を見る。今にも外れそうなブラウスのボタンは、わざわざ一度糸を切り、つけ直したものだった。


 この、女性らしい丸みを帯びた体は、一定数にとっては煽情的な道具にしか見えないのだろうか。これを持っている女性にとっては、その視線は甘受しなければならないものなんだろうか。よく揶揄されるように、巨乳税なのだろうか。メリットにはデメリットがつきものであるように、パッドを入れなくて済むんだからそれくらい我慢しろという話なのだろうか。


 私にはどうにも分からないし、割り切れもしない。ただ、時々、そういう視線を感じたり、経験をするときに、ああ、気持ち悪いな、と静かに思っている。

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静かに我慢しているひと 篠月黎 / 神楽圭 @Anecdote810

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