第二節 第十五話 約束
「どっちがソラ?」
女はユミとソラを交互に見比べながら呟く。
ユミはソラの体を強く抱き締める。腕の中の彼女からは訳が分からないという様子が伺える。
「どっちもソラ?」
ユミはソラが震えているのを感じた。いや、震えているのはユミの腕の方だった。
ソラを抱き締めていると言うより、ソラにしがみついていると言った方が正確かもしれない。
「どっちでもいい」
女の顔からは徐々に恍惚とした笑みが浮かんでくる。
それを見たユミは吐き気を催した。
「どっちも欲しい」
――逃げよう。
そうは思ったものの震えが足にまで達している。ユミは最初の一歩を踏み出すことが出来ないでいた。
「どっちも元々私の物なんだから!」
女の眼がくわっと見開かれる。
勇気を振り絞り、ユミはソラを縛めていた腕を解いた。
「ソラ、逃げて! ウラヤまで走って!」
「え、え、えええええ?」
さすがに女の異常さは察知しているだろう。しかし、体験したものでなければ真の恐怖までは分からないはずだ。
知らないと言うのは救いだ。ユミとは違い、足が動くのだから。
「ほら、大事な物のことを思って! 私のお母さんはソラのお母さんでもあるんだから!」
「でも、その結果がここなわけで……」
ソラは戸惑いが隠せない。今ではどこかに導かれるような感覚がなくなっている。これ以上どこに行けば良いのだろう。
「ねえソラ。何をおかしなことを言っているの? ソラは私のソラなんだから、そっちのソラも私のソラなのは当然でしょう?」
女がユミとソラに近づきながら言葉を紡ぐ。
おかしなことを言っているのは女の方だ。何回ソラと言った? 一体誰のことを言っているんだ?
「アイ……」
ユミが女の名前を呟く。本人を前に、口に出したのはこれが初めてだった。
「ソラぁ、名前で呼んでくれるの!?」
アイは心から嬉しそうな表情を浮かべる。以前、操られるようにお母さんと呼んだ時も満足そうだったが、それをも上回る気味の悪さだ。
ハコは言っていた。ユミがクイのことを呼び捨てにしたから勘違いしたと。ユミがクイと子をなすような関係、すなわち
アイはユミと
では、なんと呼べば良いのだろう。当然お母さんとは呼びたくない。アイと呼んでも喜ばせてしまう。
むしろ喜ばせた方が良いのだろうか。以前はお母さんと呼び、ソラを騙ることで事なきを得た。しかし、同時に母とソラに対して罪悪感も覚えた。
――私のお母さんはお母さんだけだ!
「お母さんです。ごめんね弓。家の中じゃなくてびっくりしたでしょう。これがふらんの規則だそうです。
弓のことはこれから杭さんと闇さんに森へ運んでもらうところです。
改めてありがとう弓。お母さんを思ってくれて。とてもうれしいです。
でもね、弓。絶対に無理だけはしないで。
危ないと感じたらすぐに助けてと言いなさい。杭さんたちがウラヤまで連れて帰ってくれるそうです。
風呂敷には森の中で役に立ちそうなものを入れておきました。使い方は山先生から聞いているでしょう。
おにぎりも入っています。目が覚めるころには冷めてしまっているだろうけど心を込めて握りました。
昨晩は久しぶりに弓が甘えてきてくれて、お母さん本当はうれしかった。
必ず帰って来なさい。お母さんを空に取られたくなければね。
愛しています。お母さんより。」
「ユミ?」
隣でぶつぶつと唱えるユミを見て、ソラは目を丸くする。
「見たんでしょ! お母さんの文!」
ユミはアイに向かって捲し立てる。
ユミの孵卵が無事に終わることを願った母からの文。ラシノに行き倒れていたユミの手から、気づいた頃には失われていたものだ。
文面自体はユミの記憶に強く刻まれてはいたが、その存在がユミの懐を温めていた。
キリによるとアイが燃やしてしまったとのことだ。それはユミの心を踏みにじる暴挙と言える。何故そのユミから好かれようなどと思えるのだろう。
「お母さんの文? 確かにソラのことを思って、ずっと書いてきたけど?」
「しらばっくれないで! 文を無かったことにしたいから焼いたんでしょ!」
文には数多く「弓」と書かれている。ユミのことを
――必ず帰って来なさい。お母さんを空に取られたくなければね。
一方でこの一文を読んでどう判断したのだろうか。「お母さん」とは誰で「空」とは誰か。
文面を正しく理解したのであれば、その場にいたユミのことを「空」だと判断するのは無理がある。
それでも文を焼くという行動には明確な悪意を感じられる。
アイがハコの文面を読み解くことで、嫉妬や嫌悪感が喚起されたのではないだろうか。
それはつまり、手元にある少女がアイではない誰かと母子の関係を築き、幸せに暮らしていることを感じ取ったということだ。
その事実をなかったことにしたい、というのが文を燃やした動機だろう。
「私からお母さんを奪わないで!」
アイはその場で歩を止め、呆然とした表情を浮かべる。
「待ってたのに……、13年も……、私よりもその女がいいの……?」
やはり何を言っているのか、まるで理解できない。
アイの言動を一言で現すとすれば情緒不安定だろうか。初めて会った時もそうだった。
いきなりユミのことを抱き締めたり、怒り出したり、恍惚とした表情を浮かべたり……。
ならば、今が好機かもしれない。母の文を暗唱したことで足の震えも収まっていた。
「行こう、ソラ。私がウラヤまで案内する」
ソラは大事なものを思った結果、ここに辿り着いてしまったと言う。それが何を意味するのかは考えれば分かる。
ソラが森を恐れないのは鳩の素質を持っているからだろう。鳩に求められるのは帰巣本能を有することである。
ユミはクイから教わった帰巣本能の概念を一部誤解しているところはあるが、辿り着く答えは変わらない。
帰巣本能とは生まれた場所に導かれる力だ。
「ユミ、あの人のこと知っているの? さっきから私の名前呼んでるけど……」
「違うよ。あれはソラのことじゃないよ。だってあの人、私を初めて見た時もソラって言ってたんだもん。多分、誰彼構わずソラって呼んでるんだよ」
考えれば自ずと見えてくる真実を確定させないため、ユミは事実から眼を背ける。ついでにソラの肩を抱き、くるりとアイに背を向けた。
「ねえ、どうしてソラは約束を破るの? 去年だってそう。誰にも眼を見せちゃダメって言ったよね? その眼で誰を見てもダメって言ったよね?」
ユミはかつて偶然にもこのラシノの村に訪れ、アイに囚われた。目隠しをされ、眼を見せるなと
またその日、アイはソラが約束通り帰ってきたとも言っていた。この状況から判断する限り、
「そっか、キリが悪いんだね」
森に向かって一歩踏み出そうとしていた足がぴたりと止まる。その名前を出されては眼を背けたままではいられない。
「あの日もキリが勝手にソラを連れ出したんだ」
それは違う。ユミがキリの手を引いたのだ。
「のこのこ帰ってきたと思ったら、ソラなんて知らないなんて言うんだもの」
それはそうだ。キリはソラと会ったことがないのだから。
「ほんとにダメだねあの子は。私にばっかり似て……」
ユミも初めてキリを見た時、丸みを帯びた
アイは怖いがキリは大好きだ。アイに似ていることなんて何も問題ない。
「キリはどこ?」
ソラの肩を抱いていた腕を放し、アイへと振り返る。ソラと背中をぴたりと合わせ、そのままアイの眼を見つめる。
「ソラぁ、やっぱりその眼がいい! ねえ、キリのと交換しない?」
――
さすがのソラも何かを感じているはずだ。
背をつけたままのソラが呟く。
「ねえ、キリってミズくんが言ってた子じゃないの? 結局連れて来なかったけど……」
キリをラシノから連れ出したのは、ソラに引き合わせるためだった。
それはキリに、ソラと言う名の姉がいるらしいからだ。そして隣のソラは導かれるようにここへ来た。
ダメだ。この事実をソラに知られてはならない。
「ソラ、世界にはおかしな人がいるんだよ」
ソラの言葉を強引に遮る。
もう1つ、キリを連れ出した動機がある。初めてキリの顔を見た時、刻まれたあざが痛々しいと思った。それはアイに叩かれてできたものだ。
キリを魔の手から救い出したくてその手を引いた。
しかし、キリは自らの意志でアイの元へ戻った。アイとキリが仲良くすること、それが父親の願いだそうだ。
「アイ」
「なぁに、ソラ?」
アイはにちゃあっと気持ち悪い笑顔を浮かべる。
「キリとは仲良くやってるの?」
ユミは思う。私を裏切ったんだからせめてそうであって欲しいと。
「仲良く? そうねぇ、触れ合いは増えたかな?」
アイは自身の右手を顔の前に運び、てのひらをじっと見つめる。
「ソラが帰ってくるようにって願いを込めて……」
見つめていたてのひらを翻し、平手打ちの素振りをする。まずは往路。
「そしたらほんとに帰ってきた! 2人も!」
続いて復路。
「少しはご褒美を上げないといけないかな」
ご褒美とは何を意味するのか。それでキリへの折檻がなくなるというのなら喜んで良いのだろうか。
「むしろお仕置きが必要なのは……」
ユミは嫌な予感がする。
「ソラの方だね!」
――怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
昨年、初めて出会った時、ユミは監禁されそうにはなったが傷つけられることはなかった。今では明確な加虐心が見受けられる。
ソラの背中からも震えを感じ始める。今度は間違いなく彼女からの物らしい。
「ユミ、私あの人に悪いことしたのかな?」
こんなところにもソラの優しさが現れている。理不尽な状況にも関わらず、まず自分の非を見つけようとしているのだ。
「聞いちゃダメ。考えちゃダメ!」
キリはこんな人と一緒に居るのか。
助けて欲しい。いや、助けたい。
――キリ、キリ、キリ、キリ、キリ!
「キリいいいいいいいい!」
声に出ていた。その声はアイの耳を
――お願い、近くにいるなら返事して!
ユミは髪を結い上げている白い帯――キリのタスキに触れる。
孵卵に合格した日、母を選ぶと決めた。母は嬉しそうだった。ユミも安堵した。
しかし、やはり記憶の中にはキリが居た。記憶の影に手を伸ばしては、すっと空を切る。そして空しくなって、頭へと手を伸ばす。
キリから奪い取ったタスキは、2人で歩いた形だった。
「キリいいいいいいいいいいいいいいいいい!」
2人でつかみ取った物。諦めずに歩くこと。
それは過程でしかなかった。結果として2人は手を放すことになった。
それでも藻掻いた軌跡は脳裏に焼き付いている。
だから何度だって叫ぶ。
「キリいいいいいいいいいいいいい!」
しばらくひるんだ様子を見せていたアイだったが、ぶるぶると首を振り鬼の形相を見せた。
「あんな子のことばっかり! 私を見なさい!」
言葉を言い放つとずんずんと近づいてくる。
それでもユミは逃げない。キリの無事を確認するまではこの場を離れる訳にはいかないのだ。
ユミはソラを庇うため、体を大の字に開いた。
ユミまであと一歩、と言う距離にまで近づいたアイの手が、大きく振り上げられる。
ソラは守りたい、でも怖いものは怖い。ユミは顔を逸らし、瞼を固く閉じた。
――叩くのなら叩けばいい。キリでもソラでもなくこの私を。
覚悟を決め、その瞬間を待つ。
しかし、アイのてのひらがユミへ届くことは無かった。恐る恐る眼を開く。
そこにはアイの腕を掴み、動きを妨げる少年の姿があった。
「ダメだよ、母さん」
「キリ……?」
アイの腕へとぶら下がるような格好だ。
キリと別れてからはおよそ100日経つが、まだ背丈はあまり伸びていないのだろう。
「キリ!」
しかし、髪は確実に伸びていた。いずれユミの織物を結ぶためだろう。
そして顔にはあざが増えていた。
「キリ! 一緒に行こ! もう我慢しなくていいよ!」
キリは首を捻り、ユミに向かって申し訳なさそうな顔を作る。
「ユミ……」
再会を喜ぼうという気はないのだろうか。
「ごめん、ユミ」
キリは謝ってばかりだ。
「一緒には行けない」
そう言われる気がしていた。でなければあの日に別れていない。
キリはアイに絡ませていた腕を離すと、今度はアイの腰元へしがみつく。
「母さん。ユミを行かせてあげて」
ユミは思う。そんなことのためにキリを呼んだんじゃないと。逃げようと思えば既に逃げられたのだ。
「キリはアイといて幸せ?」
キリと
「……うん」
そしてその日も似たような返事を聞いた。
「父さんは生きてる」
「え?」
「どこにいるかまでは教えてくれなかったけど……」
――キリのお父さんが生きている?
それを誰かに教わったと言う。ユミにはそれが誰であるか心あたりがあった。
「もしかしてケ……」
「言わないで!」
キリは強く遮る。
「オレのことは誰にも言うなって……」
キリに余計なことまで吹き込んだのはケンだ。そのケンはナガレという流刑地に居た。そこに至るまでの経緯を考えれば、無闇に語っていい人物ではないのだろう。
また、キリの父と言えばアイの鴛でもある。アイは黙ったままだが、何か思うところはないのだろうか。
「アイはキリのお父さんが生きてるって知ってたの?」
「……興味ない」
どちらともとれる発言だ。鴛鴦の関係とはそんなものなのだろうか。
ユミは目の前いる鴛を見つめ、アイの反応を理解できなくなった。
「僕は母さんと仲良くなる」
キリは腰に回していた腕を解き、アイの手を掴む。間髪入れずアイは振り払う。
「大人になるまでには!」
再びアイの手を掴む。今度は強く。
「キリ……」
キリの意志を応援してあげるべきなのだろうか。
アイはキリの手を振り解こうとするが、簡単には離れない。
キリも覚えたのだろう。諦めずに藻掻くことを。
「だから待ってて、僕が大人になるのを! ユミも鳩になるんでしょ!」
ユミの母親は鴛鴦の関係についても教えてくれていた。本来、鴛と鴦ともに17歳になるまで契ることなど許されていないのだ。
ユミはそんなことすら知らなかった。まだまだ学ぶことが多くある。
明日にはトミサへ発つ。トミサでは新たな経験も増えるだろう。
クイは森に入るなと言っていた。入ればトミサへ連れて行くことが出来なくなると。
現時点でラシノにいること自体は仕方のない面はあるが、キリをウラヤに連れて帰るようなことをすれば、これまでの藻掻きも無駄になる。
ユミも大人になるべきなのだ。1つ息を吐き、決意の表情を向ける。
「約束する。キリが大人になったら必ず迎えに行く。その頃には立派な鳩になるから! それに……」
ユミに新たな目標ができた。
「素敵な鴦にもなってやるんだからね!」
言い放ったユミは覚悟を決め、アイとキリに背を向ける。そしてソラの手を取る。
「ユミ、そっちの人って……」
背後から聞こえるキリの声。真実を返してあげたいところだが、アイに聞かれてはまずい。
ユミはただ小さく頷くだけだった。
「またね!」
ユミはソラの手を引いて走り出した。
「待ちなさい! ソラ!」
森に吸い込まれていく2つの影に向かってアイは叫ぶ。足を前に出すが、キリがそれを許さない。
「ダメだよ。母さん」
キリの意志を手の先から伝えていく。
それに応える様にアイはキリの顔を見下ろす。
「……やっぱりおしおきね」
アイのもう一方の手が高く振り上げられた。
――――
手を繋いで森を歩く2人は、ユミの記憶に従ってウラヤを目指す。
「ねえユミ、一体なんだったの?」
「ごめんねソラ」
「謝らなくていいけど……」
ユミは多くを語れない。しかし、優しいソラはそれ以上深く尋ねてこない。
「帰ろうソラ。私たちのお母さんの元へ」
「うん。ちゃんとお母さんて呼んで別れたい。いいよね? ユミ」
「もちろん!」
ユミは誤解していた。ソラの母親は
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