第九節 第九話 見舞い

「先生!」

 ヤマの医院の戸がばっと開かれた。

 ユミの鼻に生薬の臭いがつんと通り抜ける。決して良い臭いではないが、懐かしい臭いだ。

 そして懐かしい人物も居た。ヤマは戸を開けてすぐの式台に腰を掛け、うまそうに茶をすすっていた。

 ところがユミの顔を見て噴き出した。

「ユミ!? おまえユミじゃないか! そんでそっちの子は誰だい?」

「先生これ!」

 ケンに託された封筒を右手でヤマに突きつける。左手にはミズがくっついたままだった。

「何だい、何だい。これを読めってか? いやユミ、他にも色々あるだろう!」

「えっとね、ナガレでね、ケンがキリをいじめて、アサはちょっと怖いけどミズがべたべたしてきて、ヤミの子が産まれそうなの!」

 実際ユミには色々あった。色々ありすぎて支離滅裂だった。

 しかし、ヤマには聞き捨てならない名前があった。

「ケン? ケンと言ったかい?」

「そう! でかくて、不潔で、とにかく不愉快な奴!」

「ふゆかいー!」

 本人が居ないとはいえ、散々な言いようである。

「確かにあの子は無駄にでかかったが……」

 ユミに突き出された封筒を手に取り、その封を切って中の便箋を取り出す。

「あのバカが……」

 文に眼を通しながらヤマが呟いた。

「ケンが先生から返事もらって来いって。バーカって伝えとけばいい?」

「ばーか、ばーか!」

 ミズは楽しそうにはやし立てる。

「まあ待ちなって、ゆっくり読んだ後でちゃんと書いてやるから」

 ヤマが文を眼から離し、それを傍らに置いた。

 

「お前、一体何をしていた?」

 ヤマはユミの顔をじっと見つめ、改めて問う。

「何って、孵卵だけど……」

「そうだよなぁ。……今日はお前が森に運ばれてから何日目だ?」

「……267日目」

「子も産まれちまうよ!」

 ヤマの張り上げた声に、思わずミズが両耳を塞ぐ。やっとのことでユミの左手が解放された。

「……お前、よく無事だったねぇ」

「うん。キリがいたからね」

「キリぃ?」

 呆れるヤマの声に対して、ユミは誇らしそうだ。

「ボクもいるよ!」

「ミズは今日会ったばかりでしょ!」

 ミズが再びユミの手を取ろうとしてきたので、とっさに手を上げた。


 ヤマは鳩の職務を終えた今でも、1人で森の中に長くは居たくないと思っている。

 孵卵の目安とされる10日間でさえ長いと感じるのだ。

 ユミは規格外すぎるが、誰か仲間がいればそれも成し得るのだろうか。

 そもそも一体どこでそのキリとやらに出会ったと言うのだろう。さらにはナガレに流れつき、ケンに会い、このミズを伴い、その日のうちにウラヤへ帰ってきたということだ。それができるならさっさと帰って来いと言うものだ。

 

 いずれにしてもウラヤに帰ってきたのならば、孵卵は終了となるはずだ。

「……で、試験は合格で良いのかい?」

「わかんない。クイに怒られちゃった」

「怒られた? クイって言えばお前の試験監督だったよな……。お前、また変なことしたんじゃないか?」

 このユミと言う少女、昔から悪知恵の働くところがある。本人に悪気の無いのが質の悪い。

「別に変じゃないよ! 確実にウラヤへ帰れる方法を取っただけ」

 やはりユミには悪気など無いようだ。


 兎の命をキリと分け合ってからというもの、ユミの中では目的を遂行するために明確な意志を持って行動しなくてはならない、という考えが根付いていた。

 あわよくばでは駄目なのだと。目の前の好機を活かさぬ手はないのだと。


 キリとともに250日間も森を歩いたのに、ウラヤに辿り着けなかったのだ。闇雲に歩いても孵卵には合格できないと気づいていた。

 なんなら、そのせいでナガレと言う魔物たちの巣窟に足を踏み入れてしまった。ならば確実にウラヤへ辿り着く方法を考えるべきなのだ。

 ケンがクイに文を手渡した時、これは使えると思った。クイにウラヤまで案内させれば良いのだと。


 母の文によると「助けて」と言った時点で試験が打ち切られるはずだ。ユミは「助けて」など一言も言っていない。ケンに捕らわれていたところをクイが出しゃばってきただけだ。

 あれが無ければ、程なくしてキリがケンをぶっ飛ばしてくれていたはずなのだ。それが鴛の役目なのだから。

 クイが勝手に割り込み、勝手にケンの依頼を受けた。そしてユミはあくまでもアサの指示でウラヤまで辿り着いた。不合格にされるいわれなどない。

「不合格とは言われなかったけど、クイはいじけて家に帰っちゃった」

 詳細は不明だが、ユミはクイに一杯食わせたのだろうとヤマは察した。

 

 ユミの言動に圧倒され、つい試験の合否など訊いてしまったがユミにはもっと大事なことがあるはずだ。

「……まあいい。お前、ハコに会ったのかい?」

「まだだけど……」

「早く行ってやりな。ソラに看てもらってるから」

「お母さん病気なの!?」

 ユミはやっとことの重大さに気が付いた。そして無意識の内に我が家を避けてしまっていたと思い知る。

 ケンの文を早くヤマに届けなくてはならない、という思いでいっぱいで、という言い訳を胸に。

 仕方のないことだったとはいえ、ユミにとっては罪悪感があった。267日間も母の元へ帰れていないのだから。

 悪いことをしたと思うのなら、真っ先に母の元へ帰るべきだった。

 ソラに看てもらっているとなれば具合が悪いのだろう。その原因は容易に察しが付く。


 ヤマは式台から立ち上がると、その場で固まっていたユミの両肩を掴み体ごとくるっと回す。ユミの視界には開いたままの戸から外の景色が映る。

「ハコが落ち着いたら戻ってきな。その間に返事を書いてやる」

 ユミはその声で我に返り、何も言わず駆け抜けた。

「まってぇ、ユミぃ」

 ミズもそれに続いた。


――――

 

「ソラぁ!」

 ユミの家の前にはソラがいた。手には水の入った桶を持っている。井戸から汲んできたところなのだろうか。

「ユミ!?」

 声を聞いて驚いたソラは振り向きざまに桶を取り落とす。足元に水がばしゃーっと広がった。

「ソラ!」

 ユミはソラに向かって飛びかかり、腕を体に絡ませる。ソラもそれに応じた。

 しかし、熱い抱擁を交わすのも束の間、体を離しソラが慌てたような口調で話し始める。

「ユミ、おかあさ……、ハコさんが大変なの!」

「お・か・あ・さんんん?」

 お母さんは私のお母さんなの、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。

 ユミがキリとのうのうと暮らしている間も、ソラは母のことを看てくれていたのだ。

 責められるべきはソラではなく、ユミの方だ。

「ごめんね、ユミ。私じゃユミの代わりになれなかった……」

 ユミを責めるどころか、謝ってくる。ユミの代わりにハコの娘になろうとしていたのだろう。

 それはユミに成り代わり、母の愛を奪おうなどと言うものではない。娘を失い、悲しみに暮れるハコのためを思ったせめてもの行動だったはずだ。

「ソラ、ありがとう」

「早くハコさんに会ってあげて」

 ハコから本当の娘だと思ってもらえなかったことは、ソラにとっても悲しいはずだ。

 それでも、目の前の母娘おやこの幸せをただ祈っていた。


「お姉ちゃんはソラって言うのー?」

 ユミに追いついたミズが叫び声を上げる。ソラは声の方を見やる。

「……この子は?」

「ミズって言うの、ずっと離れてくれなくて……」

 ソラにはもっと訊きたいことがあったが、ユミのうんざりとした声を耳にすると、腰を屈め柔らかな笑顔をミズに近づけた。

「ミズくんね。私はソラ。ユミのお友達」

 ソラはミズの頭を優しく撫でた。ソラがこれまで大人たちにそうされてきたように。

「ソラ!」

「あのね、ユミはこれから大事なことがあるの。それまで私と遊ぼ?」

 ミズはユミとソラの顔を交互に見た。そしてやがて口を開く。

「うん、ソラでもいい!」

「ふふ、ありがとう」

 ソラとミズ、歳もそう変わらないはずであるが、両者の言動には大きな差が伺える。

 ソラがお姉さん振るのは、ヤマの患者を散々相手してきたからだろう。弱った患者にとってソラの母性は何よりの癒しなのだ。

 一方でミズはアサにどのように育てられてきたのだろう。あのナガレの環境でここまで無邪気な性格が形成されたのだから、あながち育て方に問題があったとも言えないのかもしれない。


 ソラの手がミズの頭上から離されると、ミズはソラにぐっと近づき腰に手を回した。

 その様子を見て、ユミの心がちくりと痛んだ。ミズの距離感の近さをいい加減鬱陶しく思っていたものの、どこか優越感があった。

 キリには悪いが、嫉妬に燃える鴛の姿を見て可愛いと思ってしまったものだ。

 ミズは、生まれてから長くナガレで暮らしていたはずだ。女というものに触れることもなかったのだろう。

 ミズの行動はただの興味本位によるものなのかもしれない。

「ソラ、かわいい! ねぇ、ボクをソラのおしにして!」

おし? ……ミズくん、それは私たちにはちょっと早いよ?」

「でも……、ユミにも鴛がいるよ? ボクと同じぐらいの歳の」

「ユミに……、鴛?」

 怪訝な顔でユミを見つめる。

「じゃ、じゃあわたし、お母さんに顔見せてくるからー」

 ユミは照れたような顔になり、自宅へと入っていった。


 ソラは腰に回されていた手をそっと掴んで密着を解き、ミズに気を付けさせる。ソラの表情は真剣なものとなった。

「ミズくん、私のこと好き?」

「うん、ユミと同じくらい!」

「じゃあダメ」

「え?」

 ソラは諭すような口調で続ける。

「鴛と鴦はね、お互いに一人しか選んじゃいけないの。ユミに鴛がいると言うのなら、ミズくんは身を引かなくちゃいけないし、そうでなかったとしてもミズくんはユミと私を一緒に選んじゃいけないの」

「そうなの?」

「そう、それにミズくんはこれからもっと素敵な人に出会うかもしれない。それは私だって一緒。私だって素敵な鴛と出会いたいから、今のミズくんには応えてあげられないな」

「そっか」

 ミズの顔からはあまり残念そうな様子が伺えない。やはり軽い気持ちでの行動だったのだろう。

「そんなミズくんに私から1つだけ助言!」

「え、何?」

「女の子に気に入られたければ、いきなり抱きつかないこと!」

 急に声を張り上げたソラに、ミズは驚きの表情を浮かべる。

「……ごめんね」

 その言葉を聞き、ソラは優しい笑顔を見せた。

「ミズくんなら大丈夫。悪いところがあれば、こうやって謝れるんだから」

「ボク、ユミにも悪いことしちゃったかな?」

「そうかもしれないね。でも、ユミだって優しいんだから、ちゃんと後で謝ってあげてね?」

「うん!」

 ソラは満足げだ。

「よし、じゃあミズくん手伝って。また水……ええっとミズくんのことじゃなくて、お水ね。汲んでこなくちゃいけないから」

「任せて!」

 ミズは足元に転がっていた桶を拾い、頭上に掲げた。


――――


「お母さん?」

 ユミは家の中に入り、恐る恐る声をかけた。しかし、返事は返ってこなかった。

 覚悟を決めて履き物を脱ぎ、取次へ足をかける。そのまますたすたと歩き、奥の居間へと進む。

 そこには板の間で寝そべり、布団をかぶっている人物の姿があった。ユミはいそいそと駆け寄り耳元で声をかける。

「お母さん?」

「……」

 わずかに身をよじるのが分かった。

「お母さん! ユミだよ! 私帰って来たよ!」

「……ユミ?」

 ハコが眼を開け、大儀そうに首を持ち上げようとする。

「お母さん! 寝てていいよ!」

 ユミの制止を振り切り、ハコは腰から上をゆっくりと起こそうとする。

 今にもまた倒れてしまいそうなその挙動を見て、ユミは支えるように母へ抱きつき引き寄せた。その体はユミの力でもとても軽く感じた。

「お母さん!」

「……ユミ? ほんとにユミなの?」

「そうだよ!」

 ハコの両腕ががばっとユミの体を囲う。

「ユミ、ああ、私のユミ!」

「お母さん。ごめんね、ごめんね。遅くなっちゃってごめんね」

 ユミの眼から涙がばっと溢れ出した。

「ユミ……、ありがとう。ちゃんと帰ってきてくれたんだね……」

 ユミは帰ってから母に話したいことがたくさんあった。母親にすごいね、がんばったねと褒めてもらいたかった。

 でももうどうでも良くなった。ありがとうの一言で全てが許される気がした。あれだけの期間、母を一人にさせたのに。

「お母さん、大好き」

「ユミ……、愛してる」


――――


 一通りお互いの体温を感じ合った後、母娘おやこは同じ布団の中で横になった。

「思い出すわね、ユミが旅立つ前夜のこと」

 ユミの顔がぽっと熱くなる。

「もぉ、忘れてよぉ」

 ユミがはっきりと覚えているのは、茶の甘さに火照り、母と一緒に寝ることを縋ったところまでだ。ユミの記憶力を以てしても、その後の言動はほとんど夢の中だった。

 今は茶の力を借りなくても、母に甘えていいのだという気になっていた。

「あれから何日経ったのかしら……」

「267日だよ」

「そう……。ちゃんとご飯食べてた?」

「うん。先生に教わった通りやったよ。お母さんこそ食べてた?」

 やはり、ハコの体はやせ細ってしまったように感じる。ユミがいないせいで食事も喉を通らなかったのではないだろうか。

「ソラのおかげで何とかね」

「ソラは毎日来てくれたの?」

 もう嫉妬などではない。ちゃんとソラに感謝しなければという思いからの発言だ。

「ええでも、ソラには謝らないといけないわね……」

 ソラは先ほどユミの代わりにはなれなかったと言っていた。言葉を選ばずに言えばハコはソラを娘だとは思えなかったということだろう。

 それをソラが汲み取ってしまったのだから、多少なりとも態度に現れてしまったということか。

「大丈夫、ソラは優しい子だよ」

「ええ、そう。本当にそう」

 ハコの眼が潤み始める。それを見てユミは母の体をぎゅっと抱く。


 ――やっぱり、お母さんってこういうものだよな……。

 

 ユミが母親という立場に違和感を覚えたのは、言うまでも無くラシノでアイに出会った時だ。

 アイは娘でもないユミに異常な愛情を示し、息子であるはずのキリのことはなおざりにした。

 一方ハコは、娘ではないソラのことをやはり娘だとは思えず、娘であるユミを見て大いなる安堵を覚えた。

 全くの対極であると言って良いだろう。この違いは何なのだろう。ヤマなら分かるのだろうか。

 とにかく、ユミにはまだ分からないことがあるのだと改めて感じた。

 まだ孵卵を不合格になったわけじゃない。必ず鳩になり、まだまだ知らないことを学んでいこうとユミは思うのだった。


 しばらく密着を続けていたが、やがて規則正しく母の胸が動き始めるのを感じた。寝てしまったのだろう。

「お母さんごめんね。また戻ってくるから」

 ゆっくりと母に絡めていた腕を解き、もぞもぞと布団から這い出た。

 はだけてしまった布団を、丁寧にハコの体の上へとかけてやる。

 抜き足差し足で玄関へと向かい履物に足を通した。音を立てないようにゆっくりと戸を開くと、そこにはソラと桶を持ったミズが立っていた。

「うわっ」

 ミズが驚いて後ろへ転びそうになるのをとっさにソラが受け止め、ユミは桶の方を捕えた。

「ソラ、居たの?」

「ごめんね。邪魔しちゃ悪いかなと思って」

 ユミは黙って頷いた。ソラの気遣いに感謝を込めて。

「これから先生のところにもどらないといけないの」

「分かった。ハコさんのことは見てるから。ミズくんも一緒においで」

「うん!」

 ミズは元気に頷いてから、ユミが持っていた桶を受け取った。そしてユミに向かってぺこりと頭を下げた。

「ユミ、ごめんね」

「えっと……、何が?」

 ミズの殊勝な態度にユミはあっけに取られてしまう。

「ほら、ユミ。ミズくん、ユミにいろいろ迷惑かけたから謝りたいんだって」

「あ……、そう。いいよ、もう気にしてないから」

 ミズは嬉しそうに笑った。

「ありがとう、ユミ。これからも仲良くしてくれる? ……もちろん抱き着いたりしないから」

「……はい、はい。ミズ、仲良くしようね」

 ユミはひきつった笑顔を見せた。

 あんなに手を焼いていたはずのミズが、ほんの少し見ないうちに豹変してしまっている。

 ソラが何かしたのだろうか。ユミはソラのことを末恐ろしく感じてしまった。


――――

 

 ソラと別れた後、まっすぐヤマの医院へ向かった。そして数刻前と同じように戸を開く。

「先生!」

「おう、ユミ。ちょうど書き終わったところだ。持ってお行き」

「ありがとう!」

 ヤマから手渡された封筒を懐にしまい、じっとヤマの眼を見据える。

「先生」

「何だい? まだ何かようかい?」

「赤子の取り上げ方を教えて」

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